漫画家まどの一哉ブログ
カテゴリー「読書日記」の記事一覧
- 2011.11.23 「どん底」
- 2011.11.19 「自由の彼方で」
- 2011.11.07 「従妹ベット」
- 2011.11.03 林京子を読む
- 2011.10.29 「職業欄はエスパー」
- 2011.10.22 「ペール・ゴリオ」
- 2011.10.17 第2の江原は見つかったのか?
- 2011.10.04 「斜陽」
- 2011.10.01 「レ・ミゼラブル」読了
- 2011.09.27 「予告された殺人の記録」
読書
「どん底」
ゴーリキー 作
社会主義リアリズム劇の古典を文庫本で読んだ。社会主義リアリズムであるからといって、直接的にプロレタリア解放が訴えられるわけではなく、社会の底辺で蠢く貧しい人々が直接的な描写で描かれているというものだ。そりゃそうでなければ面白くないだろうと予断を持って臨んだ。
このリアリズムは単に社会派のそれというだけでなく、会話に細やかなリアルがあった。例えば「なに?だれがいるって?おい……お前なんとか言ったね?」「なんだって?お前_おれに言ってるのか?」「お前、今なんとか言ったじゃねえか?」「あれか、ありゃなんでもねえ……ひとり言よ……」と、このようなやり
取りは説明的な作品なら使わないものだ。それが省かれていないところが良い。
登場人物はみんな心のすさんだ者ばかりで、誰が誰だかちゃんと追わなくても気にならないが、ひとりルカという名前の流れ者の爺さんが個性的で、この爺さんだけが温厚な人の路をとく。これが基本民衆レベルでのキリスト教を根っこにしているのがまたリアル。それはそうで、ここで爺さんが労働者解放を説いてもおかしいだろう。
大きなストーリーは無く、泣いたり喧嘩したり病気したりして、酒を飲んではぶつぶついうというものだが、もしこれがコメディであっても大衆が主人公の集団劇となるとそうなるかもしれない。また階層がどん底でなくてもインテリが出てこなければ、この方法はある種基本形なのかも。
「どん底」
ゴーリキー 作
社会主義リアリズム劇の古典を文庫本で読んだ。社会主義リアリズムであるからといって、直接的にプロレタリア解放が訴えられるわけではなく、社会の底辺で蠢く貧しい人々が直接的な描写で描かれているというものだ。そりゃそうでなければ面白くないだろうと予断を持って臨んだ。
このリアリズムは単に社会派のそれというだけでなく、会話に細やかなリアルがあった。例えば「なに?だれがいるって?おい……お前なんとか言ったね?」「なんだって?お前_おれに言ってるのか?」「お前、今なんとか言ったじゃねえか?」「あれか、ありゃなんでもねえ……ひとり言よ……」と、このようなやり
取りは説明的な作品なら使わないものだ。それが省かれていないところが良い。
登場人物はみんな心のすさんだ者ばかりで、誰が誰だかちゃんと追わなくても気にならないが、ひとりルカという名前の流れ者の爺さんが個性的で、この爺さんだけが温厚な人の路をとく。これが基本民衆レベルでのキリスト教を根っこにしているのがまたリアル。それはそうで、ここで爺さんが労働者解放を説いてもおかしいだろう。
大きなストーリーは無く、泣いたり喧嘩したり病気したりして、酒を飲んではぶつぶついうというものだが、もしこれがコメディであっても大衆が主人公の集団劇となるとそうなるかもしれない。また階層がどん底でなくてもインテリが出てこなければ、この方法はある種基本形なのかも。
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読書
「自由の彼方で」
椎名麟三 作
現在でも格差社会で底辺の生活は厳しいものがあろうが、この自伝的小説に書かれた戦時中の作者の境遇たるや、あまりに悲惨で驚いた。いや金銭的には食えている時期もあるのだが、なにせ人格が浮世離れしているからなあ。
主人公が未成年の頃、コックの見習いとして厨房に入っているところから話は始まる。ここに登場するのが人品卑しい若者たちばかりで、水商売の世界で生き抜いていくあれこれが面白く、主人公にも哲学的・観念的な思索は一切無い。ときどき夜空の星を見上げては、自然と涙をながすばかりだ。
そのリアルな世界にひきこまれて読み進んでいくと、主人公はいつのまにやら神戸ー姫路間の鉄道で車掌をやっているのだ。これがなかなかに過重労働で、やがて自らの意志で共産党員になってしまう。戦前だからもちろん非合法。秘密裏に連絡を取りながら、職場でビラを配ったりして労働運動を画策する。
しかしコックをやっても車掌をやっても共産党員をやっても、どこかなぜやっているのかわからない、自分がまるで幽霊としてこの世に生きているような感覚。死に操られて生きている男。主人公は精神性が過剰なあまり、現実に対して本気になれないのではないだろうか?精神デッカチの畸形ではないのか?
このあたり自分の共感するところで、自分もひととおり学校も出て会社勤めもしたが、未だにどこか密着した感じになれず、社会人としてはどこか宙に浮いたような気持ちで過ごしているのだ。
ついに警察にとらえらえた主人公。彼は留置場でシラミと格闘する無為な毎日を送り、ついに非人間的な一個の抽象物へ成り果ててしまった。することといえば、ダイヤモンドの製造法を考案して金持ちになるなど、非現実的な妄想をふくらませるばかりである。
このあたりの現実離れ感もまったく若いころの自分と共通するものがある。
やがて出獄した主人公は、土間に畳を二枚敷いただけの物置のような部屋を借り、マッチ工場で三人分の雑役を一人でやらされて、疲労困憊しながらも自身の境遇に付いて考え直す気力も無く、ぼろぞうきんのように働く。それでも蚊を叩き潰したときなど、ふと最低限の意志に気がつくこともあり、そんな時久しぶりに彼は人間へと帰ってくるのである。そしてそんな彼でも物語の最後には、まるで輝かしい未来があるかのごとく夢中になって東京へ向かうのであった。
「自由の彼方で」
椎名麟三 作
現在でも格差社会で底辺の生活は厳しいものがあろうが、この自伝的小説に書かれた戦時中の作者の境遇たるや、あまりに悲惨で驚いた。いや金銭的には食えている時期もあるのだが、なにせ人格が浮世離れしているからなあ。
主人公が未成年の頃、コックの見習いとして厨房に入っているところから話は始まる。ここに登場するのが人品卑しい若者たちばかりで、水商売の世界で生き抜いていくあれこれが面白く、主人公にも哲学的・観念的な思索は一切無い。ときどき夜空の星を見上げては、自然と涙をながすばかりだ。
そのリアルな世界にひきこまれて読み進んでいくと、主人公はいつのまにやら神戸ー姫路間の鉄道で車掌をやっているのだ。これがなかなかに過重労働で、やがて自らの意志で共産党員になってしまう。戦前だからもちろん非合法。秘密裏に連絡を取りながら、職場でビラを配ったりして労働運動を画策する。
しかしコックをやっても車掌をやっても共産党員をやっても、どこかなぜやっているのかわからない、自分がまるで幽霊としてこの世に生きているような感覚。死に操られて生きている男。主人公は精神性が過剰なあまり、現実に対して本気になれないのではないだろうか?精神デッカチの畸形ではないのか?
このあたり自分の共感するところで、自分もひととおり学校も出て会社勤めもしたが、未だにどこか密着した感じになれず、社会人としてはどこか宙に浮いたような気持ちで過ごしているのだ。
ついに警察にとらえらえた主人公。彼は留置場でシラミと格闘する無為な毎日を送り、ついに非人間的な一個の抽象物へ成り果ててしまった。することといえば、ダイヤモンドの製造法を考案して金持ちになるなど、非現実的な妄想をふくらませるばかりである。
このあたりの現実離れ感もまったく若いころの自分と共通するものがある。
やがて出獄した主人公は、土間に畳を二枚敷いただけの物置のような部屋を借り、マッチ工場で三人分の雑役を一人でやらされて、疲労困憊しながらも自身の境遇に付いて考え直す気力も無く、ぼろぞうきんのように働く。それでも蚊を叩き潰したときなど、ふと最低限の意志に気がつくこともあり、そんな時久しぶりに彼は人間へと帰ってくるのである。そしてそんな彼でも物語の最後には、まるで輝かしい未来があるかのごとく夢中になって東京へ向かうのであった。
読書
「従妹ベット」
バルザック 作
文豪バルザックの長編小説。主人公のリスベットは、従妹のアドリーヌと同じアルザス地方の村の生まれ。アドリーヌが絶世の美女であるのに比べ、リスベット(ベット)は不器量で、ゴツゴツした感じの女だ。子供の頃からなにかにつけ美しいアドリーヌばかりがちやほやされておもしろくない。ユロ男爵にみそめられ、パリで裕福に暮らす従妹アドリーヌ。かたわらリスベット(ベット)はパリで生計を立てながら、男爵夫人アドリーヌとその一族たちをなんとか不幸にするべく画策する。という珍しく不器量な女を主人公にした復讐劇である。
とはいっても物語の大半はもう一人の主人公というべきアドリーヌの夫、ユロ男爵のあくなき女道楽の行く末が描かれている。ベットと手を取って計画を練り、男たちを翻弄し大金を手中に収めようとする悪女マルネフ婦人。そしてマルネフ婦人に群がるユロ男爵はじめ、成金の実業家クルヴェル、大富豪の貴族モンテス、芸術家のヴェンセスラスなど、懲りない男たち。そんな中でユロ男爵は女のために公金まで横領し、しだいに落ちぶれてゆくのだった。
この小説は新聞連載だったそうで、話がどんどん進んで読みやすいが、そのぶん進展が解りにくい面もあって、というのは物語の後半になってけっこう重要な人物が登場するし、終わりごろに謎の必殺仕事人婆さんが出てくるなど、娯楽本意だが全体の構成としては妙な気がした。
また金の話が頻繁に出て、どの男がどれだけの年金を女に与えられるかが、やりとりの枢要をなしている。さすがにややわかりにくいが、大金だなと思って読めばさしつかえない。
ベットの復讐劇も中途半端で、復讐が挫折することよりも、女たらしのユロ男爵がよぼよぼの爺さんになっても、若い娘に手を出そうとするところを描きたかったようだ。和訳副題「好色一代記」。
「従妹ベット」
バルザック 作
文豪バルザックの長編小説。主人公のリスベットは、従妹のアドリーヌと同じアルザス地方の村の生まれ。アドリーヌが絶世の美女であるのに比べ、リスベット(ベット)は不器量で、ゴツゴツした感じの女だ。子供の頃からなにかにつけ美しいアドリーヌばかりがちやほやされておもしろくない。ユロ男爵にみそめられ、パリで裕福に暮らす従妹アドリーヌ。かたわらリスベット(ベット)はパリで生計を立てながら、男爵夫人アドリーヌとその一族たちをなんとか不幸にするべく画策する。という珍しく不器量な女を主人公にした復讐劇である。
とはいっても物語の大半はもう一人の主人公というべきアドリーヌの夫、ユロ男爵のあくなき女道楽の行く末が描かれている。ベットと手を取って計画を練り、男たちを翻弄し大金を手中に収めようとする悪女マルネフ婦人。そしてマルネフ婦人に群がるユロ男爵はじめ、成金の実業家クルヴェル、大富豪の貴族モンテス、芸術家のヴェンセスラスなど、懲りない男たち。そんな中でユロ男爵は女のために公金まで横領し、しだいに落ちぶれてゆくのだった。
この小説は新聞連載だったそうで、話がどんどん進んで読みやすいが、そのぶん進展が解りにくい面もあって、というのは物語の後半になってけっこう重要な人物が登場するし、終わりごろに謎の必殺仕事人婆さんが出てくるなど、娯楽本意だが全体の構成としては妙な気がした。
また金の話が頻繁に出て、どの男がどれだけの年金を女に与えられるかが、やりとりの枢要をなしている。さすがにややわかりにくいが、大金だなと思って読めばさしつかえない。
ベットの復讐劇も中途半端で、復讐が挫折することよりも、女たらしのユロ男爵がよぼよぼの爺さんになっても、若い娘に手を出そうとするところを描きたかったようだ。和訳副題「好色一代記」。
読書(mixi過去日記より)
「祭りの場」「ギヤマンビードロ」
林京子 作
林京子という小説家は、以前短編をちらっと読んでイイカンジだったので、あらためて文庫本一冊読んでみた。これがメチャメチャおもしろい!
上海での子供時代と、長崎での被爆体験をベースに書かれた短編集。
作者は父親の仕事の関係で、中国上海の雑然とした町中で、中国人の子供達と遊んで育つ。やがて日中戦争が緊迫化したため帰国。長崎県の長崎高等女学校に編入となり、三菱兵器工場に学徒動員中被爆。爆心地から1.4キロの場所で被爆しながら、奇跡的に外傷もなく生き残った。
作品は被爆の瞬間から、がれきからの脱出、焼け野原を彷徨、実家にたどり着くまでや、その後の放射能障害の不安、死んでいった街の多くの人々、そして何年も生き延びた後やはり放射能障害で死んでいく知人達。後年長崎の地を訪れ、あらためて想いをはせることなどが、モザイク的に混じり合いながら語られていく。
とにかく描かれる事実がしっかりしているのがいいんでしょうか。いくら考えを巡らしても追いつかないだけのれっきとした現実。現実>観念という不等式が快適だ。生と死がすぐ目の前に迫る内容で、読みだすとひきこまれる。ワクワクする。こんなの大好き。
「祭りの場」「ギヤマンビードロ」
林京子 作
林京子という小説家は、以前短編をちらっと読んでイイカンジだったので、あらためて文庫本一冊読んでみた。これがメチャメチャおもしろい!
上海での子供時代と、長崎での被爆体験をベースに書かれた短編集。
作者は父親の仕事の関係で、中国上海の雑然とした町中で、中国人の子供達と遊んで育つ。やがて日中戦争が緊迫化したため帰国。長崎県の長崎高等女学校に編入となり、三菱兵器工場に学徒動員中被爆。爆心地から1.4キロの場所で被爆しながら、奇跡的に外傷もなく生き残った。
作品は被爆の瞬間から、がれきからの脱出、焼け野原を彷徨、実家にたどり着くまでや、その後の放射能障害の不安、死んでいった街の多くの人々、そして何年も生き延びた後やはり放射能障害で死んでいく知人達。後年長崎の地を訪れ、あらためて想いをはせることなどが、モザイク的に混じり合いながら語られていく。
とにかく描かれる事実がしっかりしているのがいいんでしょうか。いくら考えを巡らしても追いつかないだけのれっきとした現実。現実>観念という不等式が快適だ。生と死がすぐ目の前に迫る内容で、読みだすとひきこまれる。ワクワクする。こんなの大好き。
読書(mixi過去日記より)
「職業欄はエスパー」
森達也 著
日本を代表する(世間を騒がせた?)3人の超能力者たち。その日常を追ってテレビドキュメンタリーを仕上げるまでの、数年間を描いたルポルタージュ。
筆者森達也は、超能力を信じる信じないについては、あくまでニュートラルな立場で、超常現象そのものを持ち上げる姿勢はとらない。社会派ルポであり、筆者の視点は孤立する超能力者達の悲哀と、かれらをめぐる世間とマスコミの硬直した姿勢への疑問にある。それは、オカルトと称する詐欺まがいの社会悪を糾弾せねばならないという、あまりにも単純な正義の側に立った二分法であり、オウム事件以降のメディアが牽引する、過剰な正義感への嫌悪である。
はじめから超能力自体をまったくの詐欺行為とするなら別だが、ボク自身はそういう社会正義とは切り離して、事実ならば現時点で科学的説明がつかなくても、事実として肯定する。人間の意志(イメージ)だけで、スプーンが折れ曲がってちぎれたとしても、そこにトリックの余地がないならばそれが現実だ。
否定派の教授などは、超能力が科学を全否定しているようにいうが、これは否定のためのレトリックだと思う。森達也も書いているように、スプーンが曲がることがどうしてニュートン力学や相対性理論を排除することにつながるのだろう?あらたな科学的課題ととらえればよいではないか。科学で解明できていないことだってゴマンとあるのだから。
ボクの偏見だが、一般に学者という者は専門領域のみに詳しい人種であって、自分の専門でもって全ての現象にコメントしているように思う。精神医学や脳科学で幻覚を説明できれば、全ての心霊現象はそれだということになり、物理学で否定できれば全ての超能力はトリックだということにされる。
これは乱暴なハナシで、個々の事例にあたってみて、この場合はこういう脳内現象、こういうトリックと完璧に証明していかなければ解明したことにならない。超常現象の95%は錯覚・あるいは意図的なインチキだったとしても、5%なんとも言えない現象が残れば、素直に今後の研究を待てばよいと思う。これはオカルト商法を糾弾することとは別のことだから。
残念ながら超能力者は、社会の正義感により存在をゆるされていないようで、読んでいて途中、殺伐とした気持ちになった。森達也の描きたかったことも、そのナマの姿にあるのだから仕方がない。それでも読了すると社会の一端に触れた満足感は得られた。
「職業欄はエスパー」
森達也 著
日本を代表する(世間を騒がせた?)3人の超能力者たち。その日常を追ってテレビドキュメンタリーを仕上げるまでの、数年間を描いたルポルタージュ。
筆者森達也は、超能力を信じる信じないについては、あくまでニュートラルな立場で、超常現象そのものを持ち上げる姿勢はとらない。社会派ルポであり、筆者の視点は孤立する超能力者達の悲哀と、かれらをめぐる世間とマスコミの硬直した姿勢への疑問にある。それは、オカルトと称する詐欺まがいの社会悪を糾弾せねばならないという、あまりにも単純な正義の側に立った二分法であり、オウム事件以降のメディアが牽引する、過剰な正義感への嫌悪である。
はじめから超能力自体をまったくの詐欺行為とするなら別だが、ボク自身はそういう社会正義とは切り離して、事実ならば現時点で科学的説明がつかなくても、事実として肯定する。人間の意志(イメージ)だけで、スプーンが折れ曲がってちぎれたとしても、そこにトリックの余地がないならばそれが現実だ。
否定派の教授などは、超能力が科学を全否定しているようにいうが、これは否定のためのレトリックだと思う。森達也も書いているように、スプーンが曲がることがどうしてニュートン力学や相対性理論を排除することにつながるのだろう?あらたな科学的課題ととらえればよいではないか。科学で解明できていないことだってゴマンとあるのだから。
ボクの偏見だが、一般に学者という者は専門領域のみに詳しい人種であって、自分の専門でもって全ての現象にコメントしているように思う。精神医学や脳科学で幻覚を説明できれば、全ての心霊現象はそれだということになり、物理学で否定できれば全ての超能力はトリックだということにされる。
これは乱暴なハナシで、個々の事例にあたってみて、この場合はこういう脳内現象、こういうトリックと完璧に証明していかなければ解明したことにならない。超常現象の95%は錯覚・あるいは意図的なインチキだったとしても、5%なんとも言えない現象が残れば、素直に今後の研究を待てばよいと思う。これはオカルト商法を糾弾することとは別のことだから。
残念ながら超能力者は、社会の正義感により存在をゆるされていないようで、読んでいて途中、殺伐とした気持ちになった。森達也の描きたかったことも、そのナマの姿にあるのだから仕方がない。それでも読了すると社会の一端に触れた満足感は得られた。
読書(mixi過去日記より)
「ペール・ゴリオ」パリ物語
バルザック作
「ゴリオ爺さん」という邦訳タイトルでおなじみの、バルザック人間喜劇シリーズ。
19世紀前半のパリの安下宿(宿付き食堂)に暮らす老若男女。貧乏書生の若きラスティニャックは、唯一の手っ取り早い出世の方法として、貴婦人とねんごろになって社交界デビューを志す。これも婚期の迫った妹達に、持参金を持たせてやるためだ。当時のパリ社交界にとって、結婚とはまったく政略的なもので、金と金とを繋ぎ合わせて、よりふくらませるだけのためにあったようだ。結婚はいわゆる事業だから、結婚後の自由恋愛はいくらでもアリという世界。
ゴリオ爺さん(挿し絵参照)も、かつて製麺業で儲けた資産を、すべて二人の娘を社交界に送り出すために使ってしまい、自分はラスティニャックと同じ安下宿で年金生活をおくる身分。そしてラスティニャックが愛人となるのに成功したのが、ゴリオ爺さんの娘デルフィーヌ・ニュシンゲン公爵夫人という設定。
物語の前半は公爵夫人と貧乏青年の自由恋愛のなりゆきが、上がったり下がったりしている話でやや退屈だったが、後半は捕り物もあって、破綻をきたす二人の娘の結婚生活と、娘を助けようとするゴリオ爺さんの苦闘がおもしろい。バルザックはいつも金(手形)の話。
とにかくゴリオ爺さんの二人の娘に対する溺愛ぶりがすさまじく、ぜんぜん子離れできていないです。死の間際まで娘たちへの執心ぶりを見せてくれるわけだが、娘の旦那(レストー伯爵)に「あの父親の性格のせいで、私の妻はあんなふうになり、我々の生活は全て破綻した」といわれる始末です。
ゴリオ爺さんの零落した最期を看取ったラスティニャックは、あらためて社交界への挑戦を誓うのであった。というわけで、ラスティニャックの活躍はまた別の機会に。バルザックの人間喜劇シリーズは、登場人物や背景がみな繋がっているというしかけです。
「ペール・ゴリオ」パリ物語
バルザック作
「ゴリオ爺さん」という邦訳タイトルでおなじみの、バルザック人間喜劇シリーズ。
19世紀前半のパリの安下宿(宿付き食堂)に暮らす老若男女。貧乏書生の若きラスティニャックは、唯一の手っ取り早い出世の方法として、貴婦人とねんごろになって社交界デビューを志す。これも婚期の迫った妹達に、持参金を持たせてやるためだ。当時のパリ社交界にとって、結婚とはまったく政略的なもので、金と金とを繋ぎ合わせて、よりふくらませるだけのためにあったようだ。結婚はいわゆる事業だから、結婚後の自由恋愛はいくらでもアリという世界。
ゴリオ爺さん(挿し絵参照)も、かつて製麺業で儲けた資産を、すべて二人の娘を社交界に送り出すために使ってしまい、自分はラスティニャックと同じ安下宿で年金生活をおくる身分。そしてラスティニャックが愛人となるのに成功したのが、ゴリオ爺さんの娘デルフィーヌ・ニュシンゲン公爵夫人という設定。
物語の前半は公爵夫人と貧乏青年の自由恋愛のなりゆきが、上がったり下がったりしている話でやや退屈だったが、後半は捕り物もあって、破綻をきたす二人の娘の結婚生活と、娘を助けようとするゴリオ爺さんの苦闘がおもしろい。バルザックはいつも金(手形)の話。
とにかくゴリオ爺さんの二人の娘に対する溺愛ぶりがすさまじく、ぜんぜん子離れできていないです。死の間際まで娘たちへの執心ぶりを見せてくれるわけだが、娘の旦那(レストー伯爵)に「あの父親の性格のせいで、私の妻はあんなふうになり、我々の生活は全て破綻した」といわれる始末です。
ゴリオ爺さんの零落した最期を看取ったラスティニャックは、あらためて社交界への挑戦を誓うのであった。というわけで、ラスティニャックの活躍はまた別の機会に。バルザックの人間喜劇シリーズは、登場人物や背景がみな繋がっているというしかけです。
読書(mixi過去日記より)
「第2の江原を探せ!」
(扶桑社)
根付いた感のあるスピリチュアルブーム。江原啓之を信じる人も、頭から全否定する人も、そろそろちゃんと検証する時期に来ているのではないか?
というわけで、気鋭のジャーナリスト5名が、身分を秘してスピリチュアルカウンセリングを体験。16人のスピリチュアリストはホンモノだったのか?
果たして守護霊はいるのか?
このジャーナリストの中に自分の知人がいることもあり、興味津々で買ってみた。
カウンセリングの予約を入れた時点で、住所や職業などを聞かれる場合、あきらかに事前リサーチに活用しているので、先ずインチキ。カウンセリング当日、こちらから与えた情報から、さも霊界からのメッセージのようにこしらえて話す例も多数。また、誰にでも当てはまる「あなたは迷っている」「転換期である」などの常套句で、その気にさせる人もいる。霊視しているようにいいながら、自説・自慢・説教の押しつけで、客をケムに巻くタイプの霊能者もやはりいるようだ。これらはみな格付けが最低点。
ところが相談者(各ジャーナリスト)個人しか知らない事を、こちらから何も言わないのに、当ててしまう人がいてビックリ!名前を聞いただけで、友人の性格までズバリと当てる。明らかに常人ではうかがい知れない特殊な能力を持った人間がいる!
ただしそれが、守護霊がいて霊界からのメッセージかどうかは検証できない。同一であるはずの直近の前世や、守護霊がまるで一致しない。遠い過去の人物の様子ばかり詳細に語られても、思いつきで言ってる風にしかみえない。
自分が思うに、世の中には意識では気付かないほどの小さな相手の様子。呼吸・発汗・体臭・体内電位・脳波状態などを、無意識に感じ取って相手が何者かわかってしまう能力の持ち主がいるのではないか?その延長で過去の出来事まで認識できるかどうかは、なんとも言えないが、即座に霊界を見ているからとは考えられない。
この愉快な企画は今後も継続されるようだから楽しみだ。
書店で社会派ルポのコーナーを探していたが、なんと占いコーナーにあった。やっぱそうか。
「第2の江原を探せ!」
(扶桑社)
根付いた感のあるスピリチュアルブーム。江原啓之を信じる人も、頭から全否定する人も、そろそろちゃんと検証する時期に来ているのではないか?
というわけで、気鋭のジャーナリスト5名が、身分を秘してスピリチュアルカウンセリングを体験。16人のスピリチュアリストはホンモノだったのか?
果たして守護霊はいるのか?
このジャーナリストの中に自分の知人がいることもあり、興味津々で買ってみた。
カウンセリングの予約を入れた時点で、住所や職業などを聞かれる場合、あきらかに事前リサーチに活用しているので、先ずインチキ。カウンセリング当日、こちらから与えた情報から、さも霊界からのメッセージのようにこしらえて話す例も多数。また、誰にでも当てはまる「あなたは迷っている」「転換期である」などの常套句で、その気にさせる人もいる。霊視しているようにいいながら、自説・自慢・説教の押しつけで、客をケムに巻くタイプの霊能者もやはりいるようだ。これらはみな格付けが最低点。
ところが相談者(各ジャーナリスト)個人しか知らない事を、こちらから何も言わないのに、当ててしまう人がいてビックリ!名前を聞いただけで、友人の性格までズバリと当てる。明らかに常人ではうかがい知れない特殊な能力を持った人間がいる!
ただしそれが、守護霊がいて霊界からのメッセージかどうかは検証できない。同一であるはずの直近の前世や、守護霊がまるで一致しない。遠い過去の人物の様子ばかり詳細に語られても、思いつきで言ってる風にしかみえない。
自分が思うに、世の中には意識では気付かないほどの小さな相手の様子。呼吸・発汗・体臭・体内電位・脳波状態などを、無意識に感じ取って相手が何者かわかってしまう能力の持ち主がいるのではないか?その延長で過去の出来事まで認識できるかどうかは、なんとも言えないが、即座に霊界を見ているからとは考えられない。
この愉快な企画は今後も継続されるようだから楽しみだ。
書店で社会派ルポのコーナーを探していたが、なんと占いコーナーにあった。やっぱそうか。
読書
「斜陽」
太宰治 作
学生の頃一度読んだきりだが、大人に成ってから読んだ方が良い。没落ということがよくわかる。没落貴族と言えば三島由紀夫の小説によくでてくるが、なかなか楽しい設定である。金もないのに上品であるところが自分の趣味に合うのかもしれない。
太宰自身は裕福な階層の出身で、けっきょく坊ちゃんで労働者にもなれないし、金持ちたちと付き合うことも出来ないという居場所のない人生だったようだが、作品の中に登場する小説家に「駄目です。何を書いても、ばかばかしくって、そうして、ただもう、悲しくって仕様が無いんだ。いのちの黄昏。芸術の黄昏。人類の黄昏。それも、キザだね」と言わせている。これが太宰の立場だろうか?この悲しみってなんだろう?太宰ファンなら肌で感じているものだろうか。
この悲しみが作品全体を流れる基調で、それはたぶん悲しみという言葉で表現するのがいちばん適っているものなのだ。人生全般を表現するのに悲しみという言葉を使うのが、太宰ならではのあり方でそうやって死んでしまったようだ。たしかにこの作品を読み進むにつれ、心の底に動かしがたく感じる感情。それは朽ちてゆくものとしての暮らしが、没落貴族のみならずわれわれ平凡な人間の生き死にもしょせん朽ちてゆくものであり、はかなく果てるものであり、そのなかで日々を繋いでいることを思わざるを得ない感情だ。
この小説では母が死に弟が死んでゆくなかで、ひとり主人公の姉だけが、意図して愛人の子を姙むという荒技に成功する。滅びゆくもののなかで、この特異な展開がまさに没落の中の斜陽だった。
「この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかって来ました。あなたは、ご存じないでしょう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ。女がよい子を生むためです」
「斜陽」
太宰治 作
学生の頃一度読んだきりだが、大人に成ってから読んだ方が良い。没落ということがよくわかる。没落貴族と言えば三島由紀夫の小説によくでてくるが、なかなか楽しい設定である。金もないのに上品であるところが自分の趣味に合うのかもしれない。
太宰自身は裕福な階層の出身で、けっきょく坊ちゃんで労働者にもなれないし、金持ちたちと付き合うことも出来ないという居場所のない人生だったようだが、作品の中に登場する小説家に「駄目です。何を書いても、ばかばかしくって、そうして、ただもう、悲しくって仕様が無いんだ。いのちの黄昏。芸術の黄昏。人類の黄昏。それも、キザだね」と言わせている。これが太宰の立場だろうか?この悲しみってなんだろう?太宰ファンなら肌で感じているものだろうか。
この悲しみが作品全体を流れる基調で、それはたぶん悲しみという言葉で表現するのがいちばん適っているものなのだ。人生全般を表現するのに悲しみという言葉を使うのが、太宰ならではのあり方でそうやって死んでしまったようだ。たしかにこの作品を読み進むにつれ、心の底に動かしがたく感じる感情。それは朽ちてゆくものとしての暮らしが、没落貴族のみならずわれわれ平凡な人間の生き死にもしょせん朽ちてゆくものであり、はかなく果てるものであり、そのなかで日々を繋いでいることを思わざるを得ない感情だ。
この小説では母が死に弟が死んでゆくなかで、ひとり主人公の姉だけが、意図して愛人の子を姙むという荒技に成功する。滅びゆくもののなかで、この特異な展開がまさに没落の中の斜陽だった。
「この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかって来ました。あなたは、ご存じないでしょう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ。女がよい子を生むためです」
読書(mixi過去日記より)
「レ・ミゼラブル」読了
分厚い新潮文庫で5巻まである、ユゴー作「レ・ミゼラブル」
8ヵ月かかって、やっと読み終わりました。
波瀾万丈の人間ドラマ、善対悪の対決です。
●なんといっても面白いのは1・2部。主人公はジャン・ヴァルジャン。有名な銀の燭台を盗む話。良心への目覚め。
そして無実の罪で捕まった男を救うために、地位を捨て、自ら正体を明かして名乗り出る話。それまでの葛藤が読みどころ。ドキドキする。
また追われる身となったジャン・ヴァルジャンが、悪党テナルディエの宿屋でこき使われる孤児コゼットを救出するところも胸躍る。
●3部以降は青年マリユスが登場し、話の中心がマリユスとコゼットに移行し、悪人達の企みによる危機からの脱出や、愛し合う二人の逢瀬など、いってみればドラマの王道を行くが如しで、やはりジャン・ヴァルジャンの良心の葛藤といった面がないともの足らないね。またジャヴェール警部は心を見ないで法を見るといったイヤなやつなんだけど、ドラマには欠かせない塩味のようなもの。
そんなふうに登場人物は皆典型的な悪人、善人に描かれていて、わかりやすいのはいいが、それにしてもコゼットやマリユスがあまりにも善人すぎる。とくにコゼットはあまりにもピュアで美しい心の持ち主、汚れを知らぬ天使のような乙女であって、つまらなくなってしまった。
それにひきかえ、よかったのは悪人テナルディエの娘エポニーヌだ。貧困のどん底で生きる彼女は青年マリユスに恋をし、騒動のさなか、マリユスをかばって銃弾に倒れるのだった。
このエポニーヌがミュージカルで歌うのが有名な「ON MY OWN」で、島田歌穂や本田美奈子、新妻聖子などいちばん歌える人がやってる役みたいだ。そんなことも知らなかったよ。
当然声のきれいな人がやってるけど、エポニーヌは設定では、もっとヤンキーでしゃがれ声だからね。俺は木下優樹菜想定で読んでいた。
歌を聴いてるだけで泣きそうになるから、舞台は見んとこ。
●ジャン・ヴァルジャンは施しを与える人で、民主化運動に走る人物ではない。とはいえ作者ユゴーは、けっしてキリスト教の神を良心の前提とはしていない。ではなにが良心の所以かについて、深い考察をしているわけではなくて、それより実際目の前で貧困にあえぐ悲惨な境遇の人々を、社会が放っておいてはいけないという、すこぶる実際的な衝動からこの物語を書いたようだ。社会派小説と言えばそうかも。
したがって随所に作者ユゴーの、パリの歴史や文化についてのウンチク(説教)が挟まれ、またこれが長いから挫折する人も多いと思うが、基本的には飽きさせないストーリーです。
「レ・ミゼラブル」読了
分厚い新潮文庫で5巻まである、ユゴー作「レ・ミゼラブル」
8ヵ月かかって、やっと読み終わりました。
波瀾万丈の人間ドラマ、善対悪の対決です。
●なんといっても面白いのは1・2部。主人公はジャン・ヴァルジャン。有名な銀の燭台を盗む話。良心への目覚め。
そして無実の罪で捕まった男を救うために、地位を捨て、自ら正体を明かして名乗り出る話。それまでの葛藤が読みどころ。ドキドキする。
また追われる身となったジャン・ヴァルジャンが、悪党テナルディエの宿屋でこき使われる孤児コゼットを救出するところも胸躍る。
●3部以降は青年マリユスが登場し、話の中心がマリユスとコゼットに移行し、悪人達の企みによる危機からの脱出や、愛し合う二人の逢瀬など、いってみればドラマの王道を行くが如しで、やはりジャン・ヴァルジャンの良心の葛藤といった面がないともの足らないね。またジャヴェール警部は心を見ないで法を見るといったイヤなやつなんだけど、ドラマには欠かせない塩味のようなもの。
そんなふうに登場人物は皆典型的な悪人、善人に描かれていて、わかりやすいのはいいが、それにしてもコゼットやマリユスがあまりにも善人すぎる。とくにコゼットはあまりにもピュアで美しい心の持ち主、汚れを知らぬ天使のような乙女であって、つまらなくなってしまった。
それにひきかえ、よかったのは悪人テナルディエの娘エポニーヌだ。貧困のどん底で生きる彼女は青年マリユスに恋をし、騒動のさなか、マリユスをかばって銃弾に倒れるのだった。
このエポニーヌがミュージカルで歌うのが有名な「ON MY OWN」で、島田歌穂や本田美奈子、新妻聖子などいちばん歌える人がやってる役みたいだ。そんなことも知らなかったよ。
当然声のきれいな人がやってるけど、エポニーヌは設定では、もっとヤンキーでしゃがれ声だからね。俺は木下優樹菜想定で読んでいた。
歌を聴いてるだけで泣きそうになるから、舞台は見んとこ。
●ジャン・ヴァルジャンは施しを与える人で、民主化運動に走る人物ではない。とはいえ作者ユゴーは、けっしてキリスト教の神を良心の前提とはしていない。ではなにが良心の所以かについて、深い考察をしているわけではなくて、それより実際目の前で貧困にあえぐ悲惨な境遇の人々を、社会が放っておいてはいけないという、すこぶる実際的な衝動からこの物語を書いたようだ。社会派小説と言えばそうかも。
したがって随所に作者ユゴーの、パリの歴史や文化についてのウンチク(説教)が挟まれ、またこれが長いから挫折する人も多いと思うが、基本的には飽きさせないストーリーです。
読書
「予告された殺人の記録」
ガルシア・マルケス 作
近代化の波が少しずつ押し寄せる旧社会的な田舎町。世界中かつて今でもどこにでもあるこの設定は、現代社会のわれわれ日本人が読んでも十分納得できる。もちろん名誉のための殺人が実際許容される余地は今の日本にはないが。
物語は、厳格に育てられたはずの娘が資産家にみそめられて嫁いでみると既に処女ではなく、結婚したその日のうちに離縁されて実家に送り返されてくる。その妹の名誉を晴らすため二人の兄たちが妹の処女を奪った男を惨殺するというもの。その行われた殺人事件を遡るかたちで、時間をモザイク的に織り込みながら、なぜ予告されていたにもかかわらず殺人が実行されてしまったかを語る。
話は直線的にではなく行きつ戻りつしながらゆっくり進む。なぜなら二人の兄たちが屠殺用のナイフを見せびらかしながら街中に自らの殺人計画をふれまわったのは、誰かに止めてほしかったからであり、名誉を重んじるのが旧社会の侠気(おとこぎ)としても、いかにもやりたくない仕事だからだ。それに妹の処女を奪ったのがほんとうにその男なのか全く検証されていないし、的となっているのは平凡だがやや裕福なアラブ人である。ここにほんの少々階層差がある。
当日が、えらい司教が街にやってくるという祝祭の日で、街全体が浮かれだっているのがいかにも悲惨な事件が起きるのに、話としてはふさわしい。しかも婚礼の日でもある。ざわついているのだ。みんな朝まで飲んで酔いつぶれている。そんななかで屠殺用ナイフを持った男たちが殺人を計画しながらもおびえていて、徐々に徐々にターゲットの男を追いつめるはめになっていくところは現実的だった。実はこの小説は実際に起った事件を題材に描かれているのだ。
したがって社会派リアリズム小説でもあるのだが、なにせ全時間が祭りの日なのでいかにも非日常のふわふわした幻想性が味わえるというものである。
「予告された殺人の記録」
ガルシア・マルケス 作
近代化の波が少しずつ押し寄せる旧社会的な田舎町。世界中かつて今でもどこにでもあるこの設定は、現代社会のわれわれ日本人が読んでも十分納得できる。もちろん名誉のための殺人が実際許容される余地は今の日本にはないが。
物語は、厳格に育てられたはずの娘が資産家にみそめられて嫁いでみると既に処女ではなく、結婚したその日のうちに離縁されて実家に送り返されてくる。その妹の名誉を晴らすため二人の兄たちが妹の処女を奪った男を惨殺するというもの。その行われた殺人事件を遡るかたちで、時間をモザイク的に織り込みながら、なぜ予告されていたにもかかわらず殺人が実行されてしまったかを語る。
話は直線的にではなく行きつ戻りつしながらゆっくり進む。なぜなら二人の兄たちが屠殺用のナイフを見せびらかしながら街中に自らの殺人計画をふれまわったのは、誰かに止めてほしかったからであり、名誉を重んじるのが旧社会の侠気(おとこぎ)としても、いかにもやりたくない仕事だからだ。それに妹の処女を奪ったのがほんとうにその男なのか全く検証されていないし、的となっているのは平凡だがやや裕福なアラブ人である。ここにほんの少々階層差がある。
当日が、えらい司教が街にやってくるという祝祭の日で、街全体が浮かれだっているのがいかにも悲惨な事件が起きるのに、話としてはふさわしい。しかも婚礼の日でもある。ざわついているのだ。みんな朝まで飲んで酔いつぶれている。そんななかで屠殺用ナイフを持った男たちが殺人を計画しながらもおびえていて、徐々に徐々にターゲットの男を追いつめるはめになっていくところは現実的だった。実はこの小説は実際に起った事件を題材に描かれているのだ。
したがって社会派リアリズム小説でもあるのだが、なにせ全時間が祭りの日なのでいかにも非日常のふわふわした幻想性が味わえるというものである。