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漫画家まどの一哉ブログ

   

「100語でわかるフロイト」
ジャック・アンドレ 著
(白水社文庫クセジュ・堀川聡司/河野一紀 訳)

フロイトの残した主要な業績を100の単語からその人生を含めて振り返る。クセジュ100語シリーズ。

五十音順に辞典形式で項目が並んでいるが、けっして単なる用語辞典ではなく、著者ジャック・アンドレの研究的著作のようなもの。フロイトの人生と思想の変転をも追っていて、フロイトをよく知らない自分のような者でも面白く読めた。しかしフロイトの精神分析の基本である幼少期の性的な発達理論はなぜそう言えるのか納得できるわけではない。

その点は研究者でなければどうこう言えるものでもないだろう。
ただ性的エネルギー(リビドー)から始まる人生は感覚的に頷けるものだ。性欲動は完全に満足させることは不可能で、埋め難い隔たり、欠如として現れる。欲動の要請を満足させるものは何もない。欲動は身体的なものと心的なものの境界にあり、空想が肉体に組み込まれていることの証である。

この欲動に関する理論は体験として理解できる気がする。
子供が母親を相手にする最初の体験を性的なものとして理解することは少しおくとしても、これはもちろん受動的なものである。この受動性が根本的な始まりで、これも不思議に思っていたマゾヒズム(サディズム)の由来につながることもなんとなくわかる。しかし違っているかもしれない。奥が深い…。

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「意識の正体」
櫻井 武 著
(幻冬舎新書)

意識とは何か。記憶の種類や無意識の働きから発達するAIの問題まで。意識の本質をトータルに俯瞰する。

睡眠中意識は途絶えているが、その間に脳は情報を整理していて、たとえばノンレム睡眠中海馬の活動はリプレイされて不要な情報はカットされる。もともと生物は睡眠状態こそが基本であり覚醒があとから加えられた戦術である。記憶は睡眠中に海馬から大脳皮質へ転送され、目覚めた後も私という意識が継続される。

記憶は4種類ある。ごく短期的な作業記憶、物語を覚える陳述記憶、体で覚える手続き記憶、感情に紐づいた情動記憶。それぞれ異なる脳の仕組みによって支えられこのネットワークによって意識は育まれ一体のものとなるのだ。そしてこの主観的世界はやはり肉体からの絶え間ない情報と感情の再現あってこそのもので、機械の中に全てコピーされても意識とはならないであろう。

臨死体験中に脳は覚醒時よりも活動的な脳波のパターンを示すらしい。
死によって自分の脳が編み上げてきた世界は消滅。私が観測していた世界と私が感じていた時間の感覚(時間と思っていたもの)も消えてしまう。人類が滅んだあと観測者のいない世界は世界であろうか?
などなど興味深かった。AIを含むテクノロジーの発達により様々な事態が予測されるが、人工脳の自己同一性についてもっと読みたかった。

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「仙境異聞・勝五郎再生記聞」
平田篤胤
 著
(岩波文庫・子安宣邦 校注)

山人に連れられて宙を飛び、仙境異界を体験してきた寅吉少年。平田篤胤を中心に当時最高の知識人が少年の超常体験を詳しく検証。また前世の記憶を持つ勝五郎少年の再生期。



文政三年(1820)、寅吉少年は謎の老翁とともに小さな壺の中に入ると、壺はそのまま飛翔してあっという間に筑波山中の天狗が住む異世界へ。それだけなら妄想で終わる愉快な話だが、江戸の町に帰ってきた後の彼の知識量が膨大で、佐藤信淵、国友能当、伴信友など当時最高の知性が集まっても舌を巻く内容だ。

鉄砲や反射望遠鏡などで技術の先端をゆく国友能当に伍して空気銃の構造を語る。また空を飛べば宇宙に達し惑星の中心を突き抜ける話など、天文学の泰斗佐藤信淵は惑星はすべて地球型の岩石惑星だと思っていてガス惑星の存在を知らないので混乱してしまうのだ。その他読み方はわからぬ謎の文字や幽界の日用品など図版多数。

この寅吉をただ賢しらなホラ吹き少年と批判したり、仏教の知識を持って立ち向かおうとする坊主もすぐさま退散。もっとも平田篤胤自身がふだん世間から山師扱いされているので仕方がないかも。それにしても当然国学系の著作なので、仏教を全否定することは凄まじく容赦がない。寅吉の家族間でも宗教間の対立が激しい有様だ。

併録の「勝五郎再生記聞」は幼くて死んだ自分が今の家に生まれ変わった経緯を記憶している少年の実録。以前生きていた村の様子をことごとく知っているというから不思議だ。これも平田篤胤の大好物。水木しげるも漫画にしています。

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「生きることと考えること」
森 有正 著
(講談社現代新書)

著者がどのように自身の哲学を作り上げてきたか。人生をふりかえり借り物でない自分のことばで考える生き方を綴る。

「感覚」や「経験」、「ことば」や「もの」について、徹底した肉体的スタンスがある。「経験」というものを常に自分が今現在関わって動いているもの。反対にその経験がまとめられて既に静止した状態になっているものを「体験」と呼ぶ。この今まさに経験している状態において、はじめて「ことば」も「もの」も実在化する。

我々が使っている「ことば」も「もの」も多くは既に語られて出来上がった概念を利用しているだけっであって、いちばん大切なのはそれぞれが自分の出来事として立ち上がる瞬間である。この瞬間(時間)は生きている自分の中でしか現れない。常にそこに立ち返っていなければ自分を見失う。これを自分に課して日々生きていくのはなかなか大変かもしれない。

それだけ世の中は既成の「ことば」と「体験」でできあがっているのであり、知らず知らずのうちに全て借り物を使って生きていることも簡単なのである。もともと主語のあいまいな日本は現在極めて危機的な状態にあり、すべてひとの考えで済ますことも可能。考えることは「ことば」を選び出すこととは違う。しかし「よく生きる」ことは「よく考える」ことである。

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「知性の罠」なぜインテリが愚行を犯すのか
デビット・ロブソン 著
(日経ビジネス文庫・土方奈美 訳)

ノーベル賞クラスの知性を持つ人物が占星術や非科学的な陰謀論を信じ込む。高IQの人間のたどる平凡な人生。卓越した技能者ばかり集めたチームが結果を出さない。など知性の陥る罠を明かす。

知能の高さと合理的思考力との相関はないみたいで、かのコナン・ドイルが合理性障害で、心霊現象や妖精まで信じ込んで熱心に触れまわっていたのが面白い。ダークマターやグルーオンの研究で先端をいく物理学者がロマンス詐欺に引っかかって麻薬を運ばされてしまうが、これはよくある超エリート学者の世間知らずではないかな。

サンクコストバイアス(埋没費用効果)で、間違ってていても絶対軌道修正しない。アインシュタインの統一理論やエジソンの直流送電網などもそんなところがあったと言えるようだ。強靭な意志と情熱が自説を曲げないだけのために使われる。この対局としてベンジャミン・フランクリンなどの知的謙虚さや心の広さが優れたリーダーとして挙げられる。

天才ばかりのチームはかえって生産性が下がることを、天才のいないアイスランドのサッカーチームの例をあげておもしろかった。ヨーロッパ選手権でイングランドを撃破。人の意見を聞かないエリートチームに比べて、誰もが平等にに発言できるチームが結果を出す。また誰も逆らえない有名なトップリーダーの指示にしたがって、引き返せないゆえの災難や事故を招く。

さすがに日経ビジネス文庫だけあって、具体的に社会でチームが結果を出すことを基本に書かれている。
自分などは失敗を恐れる硬直マインドセットをおおいに持っているが、知的好奇心はあるのでなんとか成長できるかもしれない。

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「キリスト教入門の系譜」
岡本亮輔 著
(中公新書)
近代日本においてキリスト教はどう解釈され広められてきたか。内村鑑三から現代まで、先頭となって切り開いてきた人々の生涯を追う。

私の大好きな内容で、期待どおりの面白さ。
明治期、なんといっても内村鑑三の無教会主義の影響が大きく、そこに連なる人もみな一高~東大の秀才ばかり。彼らの能力をもってすれば個人が直接聖なるものに繋がるありかたがいちばん納得のいくものであろう。聖書を読んで考えて研究し文章にするインテリゲンチャの集まりである。

キリスト者の中でも、イエスの奇跡など現代の科学ではとうてい信じられない内容に疑義を挟む見解もある。そんななかで科学など無視してまるごと全部信じ込む矢内原忠雄が自分の中では正解だ。超越者はすべてを超越した存在であり、己を捨ててまるごと信じるところにしか宗教の意義はない。しかしこれは社会に原理主義的害悪をもたらすかもしれない。

そうやって内村と無教会派などプロテスタントの観念的な活動とくらべて、少数だったカトリックの指導者たちのなんと具体的なことよ。聖書は自己解釈するものではなく、教会の伝統と秩序を信頼するもの。岩下壮一や戸塚文卿は医師としての活動もあり、良きサマリア人たるべく地に足のついた活動には大いに納得がいく。

私の好きなキリスト教文学者のうち、遠藤周作の「沈黙」は圧倒的な名作だが、カトリック会からは全否定されていたのか。
遠藤はイエスを何一つ奇跡を起こせず、民衆も自分をも救えず、それでもただただ病者や貧者や弱き人々にに寄り添おうとした人間と見いだす。これこそ伝説を省いたほんとうのイエスの姿だと思う。

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「ナショナリズムとは何か」帰属、愛国、排外主義の正体
中井 遼 著
(中公新書)

ナショナリズムはいつどのようにして現れるのか。ネーション(国民/民族)を維持・強化するシステム、右派ポピュリズムの由来を考察する。

帰属意識、愛国心とプライド、排外主義と優越感情など、その成り立つ原因については一見簡単に納得してしまいそうだが、実はエビデンスの問題がある。著者はさすがに学者だけあって(あたりまえだが…)必ず統計学的手法を駆使してその成り立つ理由を裏付ける。それだけに読み物のとしてのノリは失われるがこれが良書というもの。

たとえば自国を身近に感じるか、自国を他国より優れていると思うか、外国人が近所に住んでいても良いか、などの感情は必ずしも相関せず、けっこう国によって正反対(自国を誇りに思うが外国人が住んでいても気にしないなど)である。また愛国心に対する肯定と否定も多くの国に案外同じだけある。

近代化の過程でどうやって旧来の地域社会のネーションが、大きな国家意識へとまとまっていくか。教育、出版、鉄道の普及や国際的スポーツ大会、国家・国旗、軍隊などが部族間の壁を越える政策がとられたか。また内戦も他民族国家であることより経済的貧困が原因であることが明らかにされる。

経済的に苦しい労働者が排外主義になっていると思われがちだが、失業者や生活の不満がある者がむしろ外国人に寛容。ホワイトカラーもブルーカラーも低学歴・低スキル移民を嫌う福祉排外主義になっている。などなど具体的にデータをとってみれば、単純な思い込みでは気づかないナショナリズムの正体が現れてくる。

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「本当の話」
モンテスキュー 
(岩波文庫・田口卓臣 訳)

数千年の時代をさまざまな人間に転生しながら生きてきた、不思議な人々の回顧談。あいも変わらぬ人間社会をアイロニカルに描いた奇想文学。

「法の精神」(未読)のモンテスキューが、まさかこんな空想的で愉快な小説を書いているとは意外だった。百科全書派おそるべし。5人の語り手は輪廻転生を繰り返し、いろんな男や女は言うに及ばず、虫や動物の姿で暮らした時代もある。本来の自意識は男でありながら女として生まれ変わることの多かったタイプや、家畜の目から見た人間どもの有様など面白かった。

しかしモンテスキューが知識人であるせいか、語り手の生活範囲はどうしても上流階級であり、描かれる人間には限界がある。もっと庶民や農民を見たかった。しかも語り手が4人目5人目と進むに従って風刺もユーモアが消えてしまってしだいに真面目なものとなり、説教くさい仕上がりとなってしまったのは残念だ。

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「自我の起原」愛とエゴイズムの動物社会学
真木悠介 著
(岩波現代文庫)

利己的な遺伝子に支配される動物の中で、この桎梏を乗り越えた人間の自由な自我(自己意識)はどこからきたのか。「かけがいのない私」を探る。

比較社会学の権威である著者真木悠介(見田宗介)が、遺伝子(生成子)の話から語り始めるとは思っていなかった。原核細胞から真核細胞システムへの創発。そして多細胞「個体」システムへの創発。ここから始まって人間の精神の誕生までをたどっていくダイナミックな哲学的論考。寡聞にして私だけが知らず。

真核細胞は原始の微生物たちの共生連合であり、複雑化していく遺伝情報の集積体である。「私」と言う現象はこの複合体だ。ここが基本。
脊椎動物の性は雌雄2つの源から遺伝子が組み変わるので同じ遺伝子の個体を残さない。つまり個体は完全に死すべき存在であり、我々の生は真に一回限りの生であるのだ。

さて本論。遺伝子の戦略に逆らってでも、「かけがいのない私」を優先する自己意識(自我)はどこからくるのだろうか?
意識というのはインプットした世界の脳へのアウトプット(シミュレーション)であり、生き残るための対他関係を起源とするらしい。ポパーとエクルスの考察は結局大脳へたどりついたところで止まってしまったが、その過程は面白かった。

つまり社会関係に敏感な動物ほど脳は明晰化する。
なんとサルとヒヒの脳には左右で非対称性はなく、人間のみが左脳と右脳の違いを持っているらしい。左脳の言語野が過去の全ての記憶を司っている。チンパンジーやゴリラはある程度の自己意識を持っているようだが、はるかに進化した人間だけが「かけがいのない私」という強い意志を持った個体識別的な動物となった。

高度化した「個体」というシステムは自らを超えたものに向かって開かれた存在である。と同時に非決定な存在である。人間はさまよい出た存在であり、どんな目的ももつことができる(まるでサルトルのようだ)。子孫を残すことを放擲しても芸術や宗教に生きることができるのだ。
私の生半可以下の理解ではとても追いつかない内容ながら面白かった。こんなレベルの読書日記でご寛恕を乞う。

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「20世紀ラテンアメリカ短篇選」
(岩波文庫・野谷文昭 編訳)

マジックレアリスムと豊かな物語性で、20世紀世界文学に躍り出たラテンアメリカ文学。16作品を性格別に4つに分類して編纂。

「決闘」(マリオ・バルガス=リョサ):対立する若者グループの間でついに代表者による決闘が行われる。片手にナイフ1本のみを持って切り掛かり、体をかわし、傷つきながらの消耗戦が続く。つい最近「街と犬たち」を読んだところなので、リョサの描く男たちの世界にまた出会った感覚。リョサにはこういう世界があるのか。

「リナーレス夫妻に会うまで」(アルフレード・ブライス=エチェニケ):診察室を断り喫茶店で精神科医のカウンセリングを受ける男。明るい内容の夢や旅先での出来事を語るが、あまりに偏執狂的で考えすぎ。この男の語り口が面白く、彼にとっては困難事であるが我々読者にとっては愉快という仕掛け。

「水の底で」(アドルフォ・ビオイ=カサーレス):半魚人を描いた怪奇小説のような話だが怪奇感はまるでなく、かといって幻想的な味わいもない。なにしろサルモン(鮭)医師による鮭の内分泌腺を利用する若返り術という、医者の名前からしてふざけた設定。かといってSFでもないキテレツな作品。

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