漫画家まどの一哉ブログ
- 2012.10.05 「ニセ札使いの手記」
- 2012.09.26 「二百十日」
- 2012.09.22 「新アラビア夜話」
- 2012.09.09 「ジーキル博士とハイド氏」
- 2012.09.01 「坑夫」
- 2012.08.24 「青梅雨」
- 2012.08.20 「埋火」(うずみび)
- 2012.08.16 「鉄の時代」
- 2012.07.31 「死霊解脱物語聞書」
- 2012.07.27 「神を見た犬」
読書
「ニセ札使いの手記」 武田泰淳 作(中公文庫)
武田泰淳異色短編集ということだが、なにが異色なものか王道を行く面白さだ。いわゆる深いテーマを抱えた重厚な作品のみを名作の条件としてしまうと、奇譚・幻想譚の類いはみな傍流に置かれてしまうが、これはセンスのないマジメな評者の限界ではないのか? 武田泰淳は名作「富士」で舞台となる精神病院をいろんな狂者の蠢く幻視空間に仕立ててしまったが、その溢れる想像力がこんな手を変え品を変えの短編群を生むのだろう。 どの作品も人物がいきいきとしていて会話が実にたのしい。「富士」の観念的な会話とはまるで違う庶民のリアリティ溢れる会話。戦後を生きる人間のどうしょうもなさが逆にたくましさに見えるようだ。
「ニセ札使いの手記」:ごく平凡な印刷屋の親父さんが、売れない芸人の私にときどきニセ札を渡してくれて、それを使うのが私の役目。たくさんのオツリをもらうような買い物をすればOKというわけ。こんな犯罪が警戒心もなく行われていて登場人物はのんきに飲み屋で貨幣論など闘わせている。親父さんとその娘たちといっしょに遊園地をめぐったりして、とてもニセ札使いという危機感がない。この落差がなんとも奇妙で、そのせいか会話も現実感がなく夢見てるようなおもしろさ。
「「ゴジラ」の来る夜」:とうとう首都圏に映画でおなじみの怪物がやってくることになって、住民が避難する中、決死の特攻隊が組織される。それは宗教家や脱獄囚や映画女優らたった6人で、ビルの上階で体制を整えていると、はたしてやって来た怪物は姿が見えない透明怪獣だった。
「空間の犯罪」:少年時全くの偶然の事故で片足が不自由になった主人公は、ある日町のヤクザの親分からいじめられ、ののしられる。「くやしかったらガスタンクにでも登ってみろ!」これが心のなかでしこりとなって残り、とうとう不自由な足でガスタンクに登り始めた。
読書
「二百十日」 夏目漱石 作
碌さんは学はありそうだが体力はない。圭さんは豆腐屋出身で体に自身はある。この二人が阿蘇山の麓の旅館に陣取って、明日にでも火口へ登ろうかという計画である。圭さんは温泉につかりながらも口をついて出るのは、華族や華族にとりいって出世を図ろうとする資本家どもの悪口である。自身の境涯を省みるにつけても支配層への恨みがつのる。いつかはこの連中を倒し世の中を変えないではおくべきかと悲憤慷慨だ。
この旅館、ビールはないがエビスはあるのが面白い。
さて翌日阿蘇山へ登ろうとするもあいにくの荒天。それでもかまわず登っていくが、あたりは霧か煙かで視界は閉ざされ、火口あたりを右往左往するうち雨はだんだんと強くなり、とうとう溶岩が通った後の深い溝へ落ちてしまうのであった。というさんざんな観光の顛末。
漱石の時代、まだまだ正義感が純粋だなと思う。併読した「野分」という作品ではカネや出世に拘泥する生き方を軽蔑し、高潔なる理想を追い求めて教職を棒にふってなんとも思わない白井道也なる人物が登場するが、これも道というものについて純粋な人間である。近代化が始まって立ち回りのうまい資本家ばかりが肥え太り、平民が苦労にあえぐ社会を見たとき、これは間違っている。いつかこの方向を変えて、平民が恵まれるほんとうの世の中にしなければウソだ。と漱石も感じたのだろう。
それも社会主義革命ではなく、道徳的に正しい社会を追い求めているところがあると思う。労働運動も始まっていないし、社会主義運動の挫折も経験していない時代だ。作品の登場人物たちも資本と国家権力の恐ろしさが身にしみていないようだ。リヴァイアサンを知らず、高徳なる人士を育てることによって社会をよく出来ると信じるところ、やはり国家資本主義がまだまだ身にしみていないのだなあという気がした。
読書
「新アラビア夜話」 スティーヴンスン 作
かつて「自殺クラブ」というタイトルで講談社文庫から出たものを持っているが、今回新訳で読み返してみた。19世紀のロンドンを舞台にしたアラビアンナイト。
あるときは変装までしてその身分を隠し、市井にまぎれて悪人を退治するその人、実はボヘミヤの王子フロリゼルを中心とした物語である。まるで暴れん坊将軍のような設定だ。「自殺クラブ」と「ラージャのダイヤモンド」の2編で構成されている。
「自殺クラブ」:クリームタルトを配り歩き、断られたら自分で食べて、もう27個も食べている奇妙な青年に案内されて王子フロリゼルと家臣ジェラルディーンがたどりついたのは、自殺志願者の集まり「自殺クラブ」だった。自身も自殺志願者を装ってクラブに参加した王子とジェラルディーン。トランプの引き札によって、その夜の自殺者と幇助者が決定される仕組み。後戻りできない状況に追いやられた二人は、クラブの主催者を退治するべく立ち上がる。
「ラージャのダイヤモンド」:インド由来の極めて大粒の宝石「ラージャのダイヤモンド」。ヴァンデラー将軍の夫人は家中の宝石類をこっそり持ち出そうと使用人に托し、その結果とある庭先で宝石はばらまかれてしまう。その中の「ラージャのダイヤモンド」に目がくらんだ聖職者ロールズは神を裏切って宝石を盗み取るが、さらなる悪人もからんで結局宝石はフロリゼル王子の手に渡るが…。
しっかりと設定されてシリーズ化されていたわけではないのが残念で、王子が活躍するのは「自殺クラブ」のほう。もう少し王子とジェラルディーンのコンビの話を読んでみたかった。古典ながらストーリー中心主義を楽しみたい自分としては、昔のイギリス文学はもってこいだ。
読書
「ジーキル博士とハイド氏」 スティーヴンスン 作
あまりにも有名なこのお話。自分はもともとスティーヴンスンの怪奇短編は好きだったがこれは未読のままだった。話の大筋は誰もが知っているから、ここはその語り口を楽しみたいところ。
善人でいることには、どうしても多少の無理が生じる。心の奥底に眠る野性的で暴力的でエゴイスティックな衝動を、そのままに解放して生きていけたらなんとラクであろうか。主人公は悪人ハイド氏となってその裏表無き人格におおいに満足を得るのだが、このあたりは品行方正な人であればあるほど実はうなずける部分も多いのではないか。なにせ転んだ少女を踏みつけてなんとも思わないのだから徹底している。
人間の二面性を描くのは面白い作業で、普段温厚な人物があるときふと冷酷な一面を見せるなど、よくありそうなシーンだが、それを薬物の力を借りて極端な設定にまで持っていったスティーヴンスンの力技がよい。とびきりエンターテインメントな着想なのに、古くならない味わいがあって、作家でない自分にはその秘密は分からないながらやはり一流は違うのかもしれないと思った。
読書
「坑夫」 夏目漱石 作
鏡花や鴎外に親しんだ自分も、なんとなく漱石だけは手が出せずにいたが直感で選んで、たいへん面白かった。
主人公は裕福な家庭で育った青年ながら、ある日なにがあったか出奔し、二度と家には戻らない覚悟で歩いているところへ銅山へ誘われる。それから周旋屋の男に連れられて遥か山中へと向かうのだが、主要駅を出てからだんだんと人里を離れ、青く暗い山へ向かって寂しい山道を行くところなどまことに不安な道程だ。さすがに銅山は山奥である。
また初めて潜る地底の様が考えられないくらい恐ろしい労働環境であって、なにしろ狭い狭い穴の中をカンテラ一つ下げて、何段も何段もハシゴを降り、どこをどう通ったか分からなくなるその果てで孤独な掘削作業が行われている。ちょっと信じられない。とにかくこの街中で誘われてから地中のどんづまりまで行く過程が、珍しいこともあって興奮してしまった。もちろん飯場の様子も描かれるが。
漱石はこんな労働事情を体験者から又聞きして、ルポの如きタッチで小説にしあげているが、当然社会派小説ではなく心理小説であって、主人公の心理に多くの行数が割かれている。たとえば蠅のたかるまんじゅうに手を出す心理もあれば、地中で疲れてふと死を思う心理もある。それが分析的で乾いた感触があり、けっして主情的でないところが気持ちよかった。漱石の他の作品もこうなのだろうか。それならけっこう自分は気に入るかもしれない。
読書
「青梅雨」 永井龍男 作
再読。この作品集は短編小説の見本のようなものなのだけれど、自分はここに収録されている「私の眼」「快晴」という連作が好きで読み返してみた。
「私の眼」は葬式に参列する男の一人称で書かれた小説なのだけれど、読み進むうちになにやらヘンだと思っていると、この男は狂人なのである。なにしろ香典袋にワケあって靴べらを入れているのだ。この主人公にすれば靴べらは、死者が家を脱出するための欠かせない道具なのである。そんな狂気を狂気の側からじわりじわりと書いてあって、ちょっと背筋が寒くなる好短編だ。
「快晴」はその葬式の次の骨上げの日、昨日気違いがまぎれ込んでおどろいたという噂話をしている参列者が、またしてもその狂人を発見するという、今度は第三者の目線で描かれた狂人の行動。これもおそろしい。
だいたいにおいて自分は、人生や生活の一断片を切り取ってしみじみとさせてもらうより、狂気や幻想に触れていたい。しかもこちらが安心して読んでいられるようではちっとも面白くない。そんなわけでこの2編をとくに好む。
「一個」は電車の中で隣席の男に話しかけたようで実は話しかけていず、隣に人がいると思っていると実は誰もいない。家に戻ると寝室の柱時計は妻の声になったり、電報の呼び声になったりして、結局男は死んでしまうようだが、これは死の前にみた夢の中にいるような不気味さ。
「狐」という話はまるで無能で働きもせず、妻や子どもに苦労をかける情けない男の暮らしぶりが描かれているが、ふつう私小説にありがちなこの設定は、作者が自分の体たらくを描き綴るのが多くあって、それしか書かない。ところがこの作者はまったく私小説でなく人物を創作して、まんまと一編書いてしまう。してみるとこの種の話も体験に頼ることなく、技術でもって書けてしまうものらしい。
読書
「埋火」(うずみび) 立原正秋 作
再読。立原正秋といえばかつて自分が安部慎一に会ったときに、立原作品を漫画化する企画を聞いた。まことに短編とは風味だというアベシンに通じる味わいがある。しかし内容が男女の性愛にしぼられると、個人的には興味が薄いので読んでいてどうでもいい気になってしまう。中間小説という分野が今あるのかどうかわからないが、いかにも中間小説らしく思える。それはたとえば女が着物を着ている。旅に出る。旅館で男と過ごす。といった伝統的な設定があるとそれだけである種の雰囲気といったものを感じてしまい、そうなると性愛以外に書くことないんじゃないかと思ってしまう。
「山居記」:わずか50代にして一線を退き、公園の管理・清掃人として小屋に暮らす男。新しい恋愛も別れた妻との再会も、どちらも深入りせずに世捨人として生きる様が心に残った。つげ義春的なスタンスだ。
「水仙」:これも知識階級を去りタクシー運転手として生きて癌で死んでしまった友人の、ある種世捨人的な生き方を省みる話。かといってその心理に切り込むことはなく、あくまで日常の中での風味を味わうもの。
「吾亦紅」:肋骨を折ってしばらく入院した時の日々を描く。こういったフツーのことを書いて一編の作品に仕上げるのに、季節とともにある動植物の観察はかかせないアイテムだ。吾亦紅(われもこう)。
読書(mixi過去日記)
「鉄の時代」 J・M・クッツェー著
アパルトヘイト廃止直前、騒乱の南アフリカ。癌を抱えて死を目の前にしながら、一人留まり続ける白人老婦人のモノローグ。はるかアメリカに移住した愛娘への手紙という体裁で語られる。
永年にわたって気付かれた白人による支配を恥じることによって矜持を保つ老婦人カレン。しかし現実は彼女の思惑を越えて、強烈なしっぺがえしを与え続ける。反アパルトヘイト闘争のなかで、政府・警察によって追われ、殺される黒人少年たち。彼らは戦いの絆の中で死をも厭わないが、それは人間としての感受性を全て放棄した悲しい鉄の心だった。
物語は、ある日主人公カレンの家にふらりと現れたホームレスの男との、奇妙な同居生活を中心に進む。彼にとってはこの騒乱も存在しないかのごとく、ただだらしない日常がつづくのみである。
こう書くとまるで社会派小説のようだが、主人公の語り口はあまりにも個人的で、詩的言語の連続であり、人生そのものに対する深い洞察が、イメージのまま語られるので、まったく社会派小説ではない。でないと自分は読まない。
ところでそもそも自分は、例えば2時間自由時間があれば、映画を観るより本を読むタイプであるが、実はそれほど言葉というものを信用していない。
言語を積み重ねて認識を深めるというやりかたは、その言葉数がある一定量を越えると、たちまち効率が悪くなって、どうどうめぐりになる気がする。
言葉は認識の最終形体ではない。
それならむしろ、イメージをもてあそんで、絢爛たる言語空間を築いたほうが楽しい。そこに小説という分野の醍醐味あり。てなことをあらためて考えさせる作品でした。すんません、直接の感想でなくて。
読書
「死霊解脱物語聞書」
累(かさね)といえば、江戸時代の幽霊物語の代表選手の一人であるが、この聞書では累(かさね)の霊は人間世界にその姿を現しておどろかすのではなく、いたいけな農家の少女に取り憑くのである。その憑依のありさまが実にリアルで、やはりこれはノンフィクションだなと思う。
あるときは少女は累(かさね)に成りきって地獄の様子を語り、あるときは自意識は保ったまま、人には見えないすぐ傍らの累(かさね)の挙動を解説する。これは現代の我々から見ると多重人格などの精神障害の一種ではないかと疑われるが、除霊してもなんどもなんども取り付くところなど、病状の悪化ではなかろうか。
ところでこの話で大活躍するのは祐天上人という浄土宗の僧侶で、念仏の効力をもってして累(かさね)を解脱に導くべく苦闘するが、後に浄土宗の高僧となった人だけあって村人に説く仏教理論が精密である。この浄土宗の念仏思想がこの聞書の本旨らしい。それでもこの祐天上人の知恵と行動力はまさにヒーローであり、悪霊に取り憑かれて暴れ苦しむ少女や、大慌ての村人の対策などがきちんと描かれていて、物語としてたいへんおもしろく読めてしまうのである。
読書
「神を見た犬」 ブッツァーティ 作
現代イタリアの作家。短編小説の醍醐味ここにあり。
「七階」:その病院は7階の患者が一番病状が軽く、階を下りるに従って重篤となり、1階の患者たちはただ死を待つばかりであった。すぐにでも退院出来るくらいの症状で7階に入院したはずの主人公は、病院の都合やスタッフの手違いなどで、だんだんと下の階に移動させられていく。実は病状は深刻なのであろうか?不安がつのる。
「神を見た犬」:廃墟となった礼拝堂に一匹の犬と暮らす修道士。彼が死を迎える数日前に、不思議な大いなる白光が天から降り注いだ。それは神が尋ねてきたとの村中の噂だった。やがて修道士が死に、修道士とともに神を見たはずの犬だけが村に残る。神を見た犬にじっとに見つめられた村人たちは、けっして悪事を働けないのであった。
「護送大隊襲撃」:入獄中に病を患い、ようやく出獄してきた山賊のボスに昔日の面影はなかった。山に陣取るかつての仲間達も、もう彼を迎え入れることはできない。ひとり山中の仮小屋に暮らす彼のもとに若い山賊志望者が弟子入りする。若者の前で無謀とも思える護送大隊襲撃を企てた彼が最後に見たものは、今は亡きかつての仲間達だった。
いかにも短編小説といった味わいがある。それも手を替え品を替えの不思議な話ばかり。
たとえばかつての米ソ冷戦を題材にした、秘密兵器説得ガスの話など、星新一を彷彿させる愉快さだ。ワケのわからない個人的な内情を、突然やってきて途切れることなく喋り続け、カネを渡すまで帰らない男の話も爆笑。既に敗色濃厚なドイツ軍の最終兵器としての巨大戦艦「死」に乗り込んだ隊員たちの最後は悲しい。面白かったという感想しか言えないが、この種の短編は他に多言はいらないということで…。