漫画家まどの一哉ブログ
- 2012.12.11 「グッド・バイ」
- 2012.12.07 芥川龍之介全集6
- 2012.11.29 魯迅と「阿Q」その他
- 2012.11.20 「無限の網」草間彌生自伝
- 2012.11.16 「風媒花」
- 2012.11.07 「宝島」
- 2012.11.02 「幻滅」メディア戦記
- 2012.10.28 「アポロンの眼」
- 2012.10.15 「夢宮殿」
- 2012.10.09 「「死ぬ瞬間」と死後の生」
読書
「グッド・バイ」 太宰治 作(新潮文庫)
太宰の小説は名人の落語を聞いているように心地よく読める。「人間失格」によれば太宰は少年の頃より道化を演じることで社会をくぐり抜けてきたそうだが、自分の読後感ではどれを読んでもその本質は変わっていない。悲惨な内容でもユーモラスな語り口で楽しい。もちろん根本的に太宰が苦悩を背負った人間だとは理解するが、人前に出すものは必ず道化的技術によって加工されていて、ここが苦悩を苦悩らしく出されるよりも自分の趣味に合う。そもそも葛西善蔵や嘉村礒多のような苦闘する私小説にしても、それが作品足り得ているのは必ず料理人としての技術があるからで、苦悩だけではちっとも面白くないはずだ。
たとえば「饗応夫人」など、主人公の未亡人は来客を断ることができず、常にもてなしに奔走して病に伏してしまうのだが、この主人公を憐れむよりもその極端な気弱な人格が愉快でコントを観るようだ。太宰はダメな自分のしでかすことや、身の回りで起きる困難をつぎつぎと繰り出してくるが、必ず第三者の目で見て茶化している。それがドタバタ劇を見るようで、あれあれこんなにダメなことを繰り返すよ!といったおかしさがあるのだ。
ところでスラスラと読まされてしまうのはおそらく会話やセリフの妙だね。「冬の花火」「春の枯葉」など、あまり笑いもない戯曲で、しかも敗戦後日本の相変わらずの前近代的な問題点を登場人物がべらべらと喋るのだが、まったく鼻につかず、しかも真実味を帯びているのはここにこそ技術があるというもんだ。
読書
芥川龍之介全集6
読んだことのある名作も含めて、筑摩文庫の一巻を読む。
自分は芥川ファンだが感想は世間一般に言われているもの以上の言葉をもたない。おもしろさの理由を寓意や風刺や狂気といってしまうと作品の外周をぐるぐる回っているに過ぎない気がするが、多くは他に方法を持たない。そうやって評価しても追いつかないのが名作の名作たる所以か。
ここで漫画界のことを持ち出してすまないが、大枠でしか語らない文化論的な漫画評論がつまらないのと同じ気がする。
芥川は古典に材をとった技巧を凝らした寓意溢れる短編もあれば、身辺雑記的に日常を描いた私小説的なものも多くある。この身辺雑記的なものは、なにが面白いのか分からないままスラスラと読まされてしまって退屈しない。おそらく文章にその秘密があるのかと推測するが、小説家でない自分にはわからない。
それでも晩年の「歯車」「暗中問答」「或る阿呆の一生」などは単なる身辺雑記を遥かに越えた鬼気迫る内容でぞくぞくとする。私小説という枠でみれば自己批判や自己憐憫はつきものだが、そんな余裕を感じさせない脳神経の疲弊が描かれていて恐ろしい。精神性云々よりこの病的な感じが、たとえば死の直前のゴッホの作品をみるようなザワザワとした印象だ。この精神状態で作品が成立していることが希有な事例で、じっさいこのあとは死か発狂しかないといったところだったのだろう。もし芥川がこのあとも書き続けたとしたら、破綻したものになってしまっている可能性もある。ここで終わったのが良かったのか悪かったのか…、考えてもしかたがない。
読書(mixi過去日記)
魯迅と「阿Q」その他
魯迅というと「阿正伝」が有名だが、他にも種類の違った短篇を書いていて、けっこうおもしろい。たとえば「孔乙己」という作品に出てくる落ちぶれたインテリや、「故郷」に登場する困窮した農民の友人などは、ボクの好きな人物だ。まったく偉くなくて、おとなしい人間。細々と情けなく生きている。
「阿Q正伝」にしても、主人公阿Qは負ける一方だがケンカもする、けっこうアッパーな男だが、思慮は浅く、その日暮らしでいいかげんな人間だ。また和を持って尊しとしないトラブルメイカーでもある。こんな人間はいつの時代にもいるのが愉快だ。
魯迅を評するに当時の中国の時代背景や、魯迅の民族に対する問題提議をもってするのは、まあ常だろうが、小説自体はそんな状況とは無縁にとても楽しく読めるもので、阿Qの住む街にも金持ちや貧乏人がうようよと、それこそリアルに描かれていて痛快だった。
これが当時列強の支配下に置かれようとしていた中華民族特有の社会であるとはとても思えない。おそらくいずれの世の中だって、強い者と弱い者がいて欲望に正直に生きているかぎり、こんなものだろう。ボクはそれがおもしろい。
「眉間尺」という一編は、首が飛んで喰らい合う復讐劇で、圧倒的な幻想文学だ。こんな作品も書くのか。菅野修の「剣」という作品と似ていた。
読書
「無限の網」草間彌生自伝
初期草間彌生はドットばかりではなく、網状に広がる描線で画面を埋め尽くしていた。これが「無限の網」だ。おどろいたことに画家として走り出した当初から、中心のない水玉の反復と増殖という作風で、これは作者の不安・恐怖を解消するためのほかに置き換えられない行為であるようだ。いくら天性の才能と言っても非常に特異な資質だ。
またニューヨークではパフォーマンス集団の先頭に立ち、ミュージカルやファッションの企画を進めるなど、社会的には充分適合して渡り合ってゆける人物である。芸術家は創作衝動を作品自体に解消させてしまえば、ほかに人格面で破綻している必要はまったくない。このへんがおおいに勘違いされてはならないところで、創作衝動はたとえそれが狂気を含んだものであろうと、作者にとっては自然と持っているもので、あとはそれを出すだけ。出し切るまではいくらでも描けるし、それ以外の面ではふつうに社会人であって何ら問題はない。
結局芸術は自分の都合であり、全ては自己流でやるしかない。つまり草間彌生の自伝を読んで、本人がああしたこうしたと言っていることに他人はまったく口を挟めないのであって、草間彌生本人がそうなんだから仕方がない。嫌いな人は作品を見なければいいだけのことで、気に入る人がどれだけいるかも計算してもしょうがないことである。
もし芸術が努力や練習で到達できる世界に過ぎなければものすごくつまらないものとなるであろう。また仮にマーケティングの観点から企画されたとしても、それだけでしかなかったらやはりつまらない。こんなことを思うのも当然自分の属する漫画の世界を少々省みてのことであって、草間彌生の作品内容に誰も口出しできないように、漫画も他人のアドバイスが不可能な個性のほうがうんと面白いよ。
読書
「風媒花」 武田泰淳 作
産声を上げたばかりの社会主義中国。戦後占領期の日本で中国文化研究会の面々を中心に描かれる群像劇。今となっては当時の政治的運動や研究者の苦悩など思い図るすべもないが、小説作品にそういったインテリ層のサークル活動が描かれるのはよくあることで自然ではある。
この作品の場合支配者として大陸に君臨した立場から一転敗者として引き上げる身となり、日本帰国後は社会主義中国に理想を追い求める当時の親中インテリ層の複雑な心情を理解することも出来よう。ただしそれをもって作品の第一義的意義とされるのでは作品はだいなしだ。もはや作中人物たちと想いを共有することは不可能な現在、それらのくだりはたいして面白くなく、作品の魅力はもっぱら登場する女性たちの政治性などに無縁な自由さにある。奥さんの武田百合子がモデルとして面白い人なので、パチンコや万引きのシーンなどが抜群に面白い。武田泰淳はとうぜんインテリだが、人間のたわいもない日常を描いたときがてんでインテリ臭くなく、リアルな会話が絶妙であってそれが楽しくて読んでしまう。
戦後文学を読んで政治思想史を研究するのもアリだとは思うが、それは19世紀フランス文学を読むとき王党派か自由派かどっちでもいいのと同じで、作中人物がいきいきと動いていればそれでよい。自分は作品を大きな枠組みでは読まずに、仕上がりの細かな技術を味わう趣味なので、視野狭く楽しんでゆきたい。
読書
「宝島」 スティーヴンスン 作
少年文学として子供の頃接することも多いこの作品。実は良く知らないでいたが、大人になって読んでもすこぶる面白い冒険小説の傑作だ。ただ、りんご樽の中に隠れて海賊たちのわるだくみを知るシーンなどところどころ知ってはいた。
冒頭から出てくる海賊の一味は、その下劣な人格がよく書けていて実に興をそそる。もちろん自分がしらないだけで、現代のエンターテイメント小説・ピカレスクロマンでも魅力的な悪人はたくさん登場するのだろうが、ここに出てくる海賊の多くはまったく卑しい乱暴者でそれがわくわくする。
唯一ジョン・シルバーだけが海賊の中でも頭のキレる人物で、頭はキレるが平気で人を裏切る卑怯者なのだ。この小説はジョン・シルバーの魅力でほとんど成り立っていると言っても過言ではない。
主人公ジム・ホーキンス少年も小舟で島をめぐって大冒険を繰り広げるが、ふつうの勇敢な少年である。また船長、ドクター、孤島の住人ベン・ガンなど味方の人物はみな理性的で誠実な信用のおける人間でそれだけにつまらない。
翻って海賊はシルバーでさえも計画性のない欲にまみれた乱暴者で、こいつらをリアルに描いたところがこの小説の魅力だろう。なにしろ島での生活を考えれば大切な食料や酒を無計画にどんどん飲み食いしてしまうのだから。こいつらまったく信用おけない。
考えてみれば街の利権に絡むヤクザ者vs住人の戦いみたいな話で、宝探しというロマン溢れる設定になっているから子どもでも読めるだけのことかも。現代でも一攫千金の宝をめぐって大人たちはうごめいているのである。
読書
「幻滅」メディア戦記 バルザック 作
バルザックの人間喜劇シリーズの中核となる長編。「メディア戦記」の副題からも分かるとおり、19世紀パリの新聞・出版界を舞台にその腐敗した構造を暴きだす傑作である。主人公はフランスのアングレーム地方に暮らす青年詩人のリュシアン。そして友人のダヴィット。
リュシアンの類い稀な文学的才能を理解するのは、田舎では地方貴族のバルジュトン夫人ばかり。これはぜひ夫人の愛人となってパリへ打って出て貴族社会の仲間入りを果たし、作品を上梓して中央文壇へ躍りでないではおくものか。と、この二人が愛情を育んでパリへ打って出るまでのシーンが思いのほか長くてやや退屈したが、もともと独立した作品だったようだ。
ところがパリへ出てみると自分たちはしょせん田舎者で、バルジュトン夫人は一応貴族ではあるものの都会のきらびやかな女性たちと比べてあまりにみすぼらしかった。一方天才詩人のはずのリュシアンも一応その文才を認められはするが、ジャーナリズムに使い捨てにされて終わる。
このあたり作者バルザックの若き苦闘の日々が忍ばれる。文学者とジャーナリストでは資質がかなり違うと思うが、同じ文筆という畑で今日でも両者を兼ねて仕事している人は多いかもしれない。
リュシアンはカネ次第で舞台や書評を持ち上げたりこき下ろしたり、自由派についたり王党派についたりと、ジャーナリズムの世界に翻弄されて結果失敗するわけだが、このあたりの駆け引きも読んでいて分かりにくい。それは新聞社を経営する権利や、出版のいろんな形のマージンの取り方などがからむせいで、そのリアルさがバルザックのオモシロさでもあるわけだけれども…。
つまりがこの作品はバルザックの得意な経済小説なんである。物語後半はアングレーム地方でのリュシアンの友人ダヴィットとその妻が小さな印刷屋を営む苦労話だが、ダヴィットもリュシアンと同じく商売にはてんで向いていない夢想家で、経営はそっちのけで新しい安価な印刷用紙の開発研究に没頭している。この研究成果と印刷屋の権利を奪うべく、ライバル会社や代訴人などが権謀術数をくりひろげるが、お人好しのダヴィットはたわいもなく引っかかってしまうのだ。このあたりも手形のやりとりなどが頻発して一読では理解できない。自分もこのダヴィットと同じく商売にはてんで向いていないことがわかる。
結局バルザックの世界では、人間は欲望のためならなんでもやるし、それは世間の裏側で巻き起こることで、これこそが人類の本当の歴史だということだ。バルザックのオモシロさはここにあります。
読書
「アポロンの眼」 G・K・チェスタトン 作
推理ファンでなくともなんとなく聞いたことがあるブラウン神父シリーズ。推理小説の古典として今も愛され続けているようだ。このチェスタトンは怪奇幻想文学の類いとしてしばしば登場するので、ミステリーに疎い自分でもこれは読んでみなくてはと挑戦したしだい。なるほどカトリックの立場で書かれているせいか、なんとなく神秘的で古風な味わいはあるが、ポーほどの溢れ出るイメージや狂気はない。少し読んだだけだが、どれも着想はおもしろかった。
「奇妙な足音」:小さいながらも特定の客しか入れない高級ホテル。そのレストランに集う12人の客と15人の給仕は、皆おなじような正装をしていて区別がつかない。給仕が一人殺され銀の食器が盗まれた当日、個室にいたブラウン神父は廊下を連続するゆっくりした足音と急いだ足音を聞いたが、これがなりすましを解く鍵となった。
「アポロンの眼」:太陽を信仰する新興宗教の教祖。その愛人である利発なタイピストの女性は莫大な財産を所有していたが、教祖がバルコニーから街頭演説している最中に、エレベーターから転落して死んでしまった。あるべきはずのエレベーターはなく、女性は開いたドアから奈落へと踏み込んだのだ。まんまと成功した犯人の罠だったが、肝心の遺言状は何故か文字が消えているのだった。
「イルシュ博士の決闘」:スパイ容疑で決闘を申し込まれたイルシュ博士。ところが相手の大佐は決闘を申し込んでおきながら直前に行方をくらます。姿形がまるで正反対のイルシュ博士と大佐。ブラウン神父たちは逃げ出した大佐の後をつけていくが、なんと大佐はイルシュ博士宅に裏庭から入り、鏡の前でその変装を解くと現れたのは…。
読書
「夢宮殿」 イスマイル・カダレ 作
馬車が走る時代のオスマン・トルコらしき国が舞台。そこでは夢に重きが置かれていて、国民が夜ごと見る夢を国家が収集し、選別・解釈して国の行く末にとって予兆となる重要な夢を探り出すのである。それが「夢宮殿」とよばれる巨大な役所の仕事である。叛乱など危険な兆しをはらむ夢を見た者は、長期間監禁されて尋問を受け、最後は死者となって宮殿を出ていくこともあるのだ。
主人公はアルバニア出自の名門一族に連なる身であるが「夢宮殿」に就職し、膨大な夢ファイルを繙く毎日をおくることとなった。ところが主人公が見逃した一つの夢の中に一族が皇帝への反逆を企てるという重大な意味を暗示する夢があり、一族は皇帝から弾圧を受けることとなるが…。
カフカを思わせる迷宮的な世界設定がおもしろいが、かといって観念小説ではなくシュールなイメージが横溢するというわけでもない。なにをやっているのか合理性が疑われる役職や、他の役人の不思議な理屈など出てくれば、カフカやベケットや安部公房なのだがそんなことはなく、この夢宮殿のシステムはガッチリ整合的に組まれている。ただこの役所がやたら広くて、主人公が路に迷ってばかりいるのがカフカ的といえばカフカ的だ。
国中の夢を集めて診断するというわりには、具体的な夢の内容描写はわずかしか出てこない。
主人公が役職を登っていくに連れてこの組織の仕組みが解き明かされて行き、また主人公一族の集まりが何やら不安げな様子を漂わして、国家とこの名門との間に事件が起きることが暗示される。という具合にけっこう話が直線的に進んで読みやすかった。これも幻想文学。
読書
「「死ぬ瞬間」と死後の生」 E・キューブラー・ロス 著
有名な「死ぬ瞬間」シリーズの一冊。
死に行く人々の臨床と精神的なケアの本かと予想していたが、はるかにスピリチュアルな内容だった。著者は精神科医だが主に死を前にした子どもたちに寄添って活動してきたので、具体例は子どもの話が多い。不治の病であと数日で死なざるをえない子どもたちは、皆直感的に自分の死を分かっていて、その態度は恐怖ではなくむしろ運命への悟りと安心である。大人は子どもたちに嘘をついて慰めるのでなく、子どもたちがやり残したことのないように願いを叶えてやらなければならない。
さて、死後の世界である。著者によれば人間は繭と蝶のようなもので、この人生は繭の状態であり死によって肉体を離れ、蝶の状態へと孵化するのだ(幼虫は蛹となって成虫へと変化する過程で、胚だけしか残らないのを思い出す)。
著者が集めた2万5千件以上の臨死体験は、我々がよく聞くものとやはり共通していて、死を迎えるにあたって意識は一度肉体を離れ、横たわる自分を見下ろしている。体外浮遊すると自分の近くに導いてくれる存在がいることがわかる。そして先に死んだ肉親たちが迎えにきてくれる。このとき生前会ったことのない人にも会える(親戚が嫌いで会いたくない人もいるだろうに…)。また、肉体を脱ぎ捨てると時間も空間もない場所に入り、思考と同じスピードでどこへでも行けるが、これは砂漠の真ん中や宇宙空間で死んでも同じだ。ケガや病気の状態で死んでも、このときには健常であるらしい。トンネル・川・門・花畑などといった象徴的な形で描写される場所を通って、光の源へ近づいていくが、それは「宇宙意識」と呼ばれるべき霊的エネルギーの世界である。
この「宇宙意識」を体験するのに、修行したりグルに従ったりインドへ行ったりする必要はなく、日常的にマイナスの感情を捨てればよいそうである。
こういった内容は一般的によく聞くものだが、著者は日常的に死に臨む人々に接し、様々な経験を積むとともに、自分でも遊体離脱を体験しているので非常に説得力がある。安易なトンデモ本とは格が違う。
この本にはより良く生きるための知恵がたくさん書かれているけれども、自分は死後の生への興味本位で読みました。