漫画家まどの一哉ブログ
- 2013.02.26 「アサイラム・ピース」
- 2013.02.22 「快楽の館」
- 2013.02.17 「第四間氷期」
- 2013.02.08 「幻の下宿人」
- 2013.02.04 「こころ」
- 2013.01.26 「奇跡の脳」
- 2013.01.21 「犬神博士」
- 2012.12.28 「怪異考/化物の進化」
- 2012.12.24 「午後の曳航」
- 2012.12.15 「走れトマホーク」
読書
「アサイラム・ピース」 アンナ・カヴァン 作
作者の日常をもとに描かれた短編集。具体的に日々の暮らしがどうだからという話ではなく、精神的に孤独と絶望でもういっぱいいっぱいの状態だ。どうして誰も救いの手を差しのべてくれないのか。這い上がろうとしても更にどうしょうもない状況へと追い落とされる。その悲嘆と喘ぎがくりかえし描かれるが、具体的にはまるではっきりしなくて闇の中を行くようだ。
自分を連行しにくる敵とは誰なのか?なぜ当局に召還されるのか?突如現れたメッセンジャーに渡された錠剤とは?なぜ人生を終わらせるための判決が届くのか?非常に不条理な出来事ばかりだが、輪郭が茫漠として抽象的で悪夢を見ているとしか思えない。幻想文学と言えば言えるが幻想を楽しむ余裕はなく、私小説だと言ってもいいが生活感がない。せっぱつまった精神状態なのに架空の設定が仕組まれている不思議な作風で、幻想的でありながら迫真的な魂の叫びに心うたれる。
表題作「アサイラム・ピース」は8編の掌編から成る短編で、湖のほとりの精神病棟で暮らす人々の病んだ魂を、正確に客観的に描いて慄然とする。逃れよう逃れようとして逃れられない患者たちの悲しい日常が、まったく他人事とは感じられかった。
読書
「快楽の館」 アラン・ロブ=グリエ 作
いわゆるヌーヴォー・ロマンの先頭を走ったロブ=グリエの作品。物語が時間の流れとともに一本の線となって進む通常の小説のかたちをとらない。まるで渦巻のように螺旋状に同じところをぐるぐると回ってくりかえしくりかえし進む。
エピソードはある。なんといっても殺人事件がある。香港の庭園を舞台にストリップまがいのショーが開かれている。娼婦を身請けするために金策に奔走する。黒犬をつれて歩く侍女。失恋して自死する青年。殺人事件もナイフで刺されたような、黒犬に噛み付かれたような、毒を盛られたような、はっきりしない様子だ。あるエピソードが実際のことだと思っていると、それが実は劇中の話だったり、かと思っているとまた実際の出来事にすりかわっている。
作者おなじみの極めて客観的なカメラ目線の描写が連続していると、いつのまにか一人称に変わっていて、この一人称は誰のことなのかも不明だ。
そんなふうにめまいがする感じで一つの世界を構成しているが、はたしてこれが通常のストーリー展開で書かれたものとはまた違った面白さがあるかというと個人的には疑問だった。
読書
「第四間氷期」 安部公房 作
未来予言機が登場し、その予言される未来が「第四間氷期」で、地表水没対策としてなんともグロテスクな人類水棲化計画が実行されていく。ところがその人類改造方法は胎児の段階で人為的に系統発生から飛躍させるもので、遺伝子操作的な発想がまったくみられないのが、時代を感じさせておもしろい。遺伝子のイの字も出てこない。1959年の作品だ。
なかなかにストーリー性が濃くミステリアスな展開で読ませるが、やはり単なる謎解きではない。SFとしてもかなりムチャなあり得ない設定なので、要するにしらじらしいウソなのだが、それでもしらけないように出来ている。もともと安部公房はよく比較されるカフカとは違って、非常に作為的な、アイロニーの意図がよく見える、悪く言えば底割れのしている作風なのだが、この作品もいかにもアイロニカルな内容に徹していて、そこがぶれないために納得して読めるというものだ。
あとがきによると作者は肯定的な未来も否定的な未来もあえて決定しなかった。とのことだが、どちらにしても未来について熱いのが、やはりこの1960年ころの時代を感じさせる。個人的な感覚ではそんなこと考えてもしょうがない。という気分だが、これってやっぱりしらけてる?
読書
「幻の下宿人」 R・トポール 作
漫画家としてのトポールは大好きで、めったに開かないが分厚い画集を持っている。ざらざらひりひりとした生理的に痛いとろを付いてくるブラックな作風。そんなトポールの小説作品。
前住人の女性シモーヌが窓から飛び降り自殺をしたアパートの部屋。その後にまんまとその部屋を借りることに成功した主人公トレルコフスキーは、なるべく近隣の住人の迷惑にならないように音も立てず、ゴミ出しのマナーも守って暮らし始める。しかしどうにも管理人はじめ、回りの住人は異常に神経質なようで、身に覚えのない苦情が連続して持ち込まれるのだ。しかもだんだんと身の回りで、いやがらせのような不快なことが連続し犯人は分からない。ここまではなかなかにミステリアス。
謎めいたまま話は進んでいくが、トレルコフスキーがいつのまにか女装して倒れているなどするうち、どうやら不快ないやがらせなどは全て幻覚で、おかしいのは主人公の方ではないかと気付いてくる。アパートの住人全員による彼の抹殺が企まれているとの判断に至って、ついにこれは本人の被害妄想だと分かる。狂人となったトレルコフスキー。そしてアパートの中庭に次々と現れる奇妙な幻視が、まるでボッシュ(ボス)の絵を見ているようで、くらくらと愉快だ。
結局前の住人シモーヌと同じように、だが無意識のうちに窓から飛び降りて自殺を図った彼は、助かって病院で最後にシモーヌになっているのだが、この辺りは何が現実で何が妄想かわからないまま幕を閉じるという、幻想文学の王道を行く収束である。
読書
「こころ」 夏目漱石 作
漱石は当初短編連作として構想していたらしい。どうりでこの作品は構成がヘンだ。話は大きく「先生と私」「両親と先生」「先生と遺書」の3つに分かれているが、キモは3つ目の「先生と遺書」であってそれまでは前フリ。はたしてこの先生の謎めいた生活の理由は?死者となった友人とのあいだで過去になにがあったのか?などミステリアスに興味は引かれていくが、それ以外はこれといって書く程のことは起きない。語り手の私はまだ学生で、田舎の両親のことや進路のことで思い悩むが平凡なことである。それにしては長い。全体の構成の2/3が私と先生の不思議な交流で、なんということはないが文章が読みやすいので読んでしまう。もちろん読みやすいとは平易という意味でなく、うまいという意味である。
ところでこの作品は中学生からの文学入門書のごとく文庫化されているが何故だろうか。登場する友人Kが、明治期にはたくさんいたかもしれない求道的な人物で、それ故にさほど求道的でない私(先生)のエゴイズムが際立って見える。しかし繰り広げられる恋愛上のエゴイズムは誰にでもある人類共通のもので、そんなに後悔することもなかろうと思うが、友人Kがそのために死んでしまっているという図式によってテーマとして立ち現れてくる。つまりこの小説は自然主義リアリズムとは無縁のテーマ小説で、わかりやすい設定を使ってあるために教科書的に扱われるのかもしれない。
では何故、漱石はエゴイズムをそんなに問題としたのか?そんなことがこの時代の漱石の人生を省みて分かるだろうか。エゴイズム自体について考えるのは別にしても。他のものも読んで、なんとなく漱石とはこういう人間だったらしいと感じることにしよう。
読書
「奇跡の脳」 ジル・ボルト・テイラー 著
脳神経科学者である著者が脳内出血に襲われ、言語中枢など左脳の機能を部分的に失ってしまう。その失われる過程とその後の数年間のリハビリによる回復の様子を綴った希有のレポート。右脳と左脳の役割の実感など、プロによる自己分析がすばらしい。
先ず発病の朝、感覚の異常さから自身の左脳の役割がどんどん衰えていく描写が生々しい。どのニューロンが働かなくなって、自分の感覚がどう変化してゆくのかを如実に体験描写している。そのあと得られた境地が右脳による支配であって、実にこれが宇宙との一体感・ニルヴァーナというものだった。
左脳はそもそも世界と自分との境界を設定し、時間を与え、ものごとを分析し計画し、この世界でわれわれが行きていくための段取りをつけているのだが、この機能がなくなるということは、世界と自分の境界は消滅して自分は宇宙の一部となり、個体は消失して流体となり、宇宙の全てのエネルギーと結ばれた存在であるという至福の境地に浸ることができるのだ。
これは脳科学の間では回答とされていた、宗教的な涅槃の状態が、実は脳神経の特殊な作用によるものであることの実証である。だからといって著者はこの状態を異常なこととして退けるのではなく、人間のより幸福な生き方の手がかりとして意識して行きていくことを呼びかけるのである。左脳に支配され過ぎの現代人にとって、右脳の働きを呼び覚ますことは、これからの人類社会にとって実に大切なことなのだ。そしてそれは宗教的体験に頼らずとも、脳の働きを理解した上で意識的にたどりつける世界なのである。
和訳は竹内薫、文庫本の解説は養老孟司と茂木健一郎と、役者が揃ってる。
読書
「犬神博士」 夢野久作 作
タイトルからしてマッドサイエンティックな話かと思いきや、筑豊は直方を舞台としたひじょうに土着的なスペクタクルだった。なにしろ主人公犬神博士がまだ7歳の頃の話で、この少年は女の子の着物を着せられ両親の太鼓と三味線にあわせて大道で踊りを踊っているのである。両親は大道芸とインチキ博打で世を渡っているのだが、この少年は踊りの天才であるだけでなく、ひじょうに利発であり行動力にも優れていて、物語の果ては玄洋社と官憲及び地元ヤクザとの大ゲンカのシーンにも活躍するのだからたまらない。まさにスーパーな少年で、痛快な思いで読んでいるとその後の人生を語らないまま未完で終わるのである。
そんなわけで不思議な事はなにも起きない。怪奇幻想文学ではないのだが、現代人である我々から見ると明治期の地方都市の風俗をこんなにも濃厚なイメージで描かれると、それだけで幻想味を帯びて感じられるというものだ。
文章に賑やかさがあって、一文の中に面白いことがたっぷり盛り込まれているので読み応えたっぷり。濃密であって難解でなく、通俗的であって下品でない。これぞ夢野ワールド!と自分が言うまでもない。
読書
「怪異考/化物の進化」 寺田寅彦 著
夏目漱石の弟子と言っても寺田寅彦は科学者であるから、これは物理学を基本としたエッセイである。極めて理知的で整然としていながら味わいのある文章で楽しい。もっと早く読んでみるべきだった。もっともちらちら顔を出す物理学の知見は自分のようなバカにはぼんやりとしか分からないが、それでも著者がなんとなくカオス理論的なことに触れているらしいことは気付く。例えば「偶然」ということについて繰り返し語られていて、ほんの少しの精子と卵子の出会いが違っただけでナポレオンは誕生せず、ヨーロッパの歴史は違っていただろうとか、宇宙から飛来する宇宙船が脳内を通過することによって偶然どんな影響を及ぼしているかも分からないなどなど。これこそ近年流行った非線形科学、バタフライ効果についての先駆的考察ではあるまいか。
そんなことは素人の私が深入りするまでもないが、人魂や鎌鼬(かまいたち)に関する科学的見解がおもしろい。なんでも高知県の海上には昔から不思議な地鳴りのようなものがあってジャンとよばれているのだが、これがこの地域の断層帯の運動によるもので、昔から何回かの大地震の頃頻発し、近年になって収まったのかその噂をきかないが、やがてまた活発化することもあるかも知れないなど、地震の情報に敏感になった現在読むとおおいに納得できるものである。
読書
「午後の曳航」 三島由紀夫 作
大人にとっての具体的現実とは経済的現実のことであるが、少年はこの経済的現実を肌身で知りようがないだけに、世界に対して観念的な全能感を持つ。そして中学・高校と進学していくにしたがって、自分の能力的限界を知ることになるのだが、三島文学で特徴的なのは主人公の少年が早熟な秀才であること。つまり周囲と比べても自分の限界を知ることがない。そして家庭が裕福でおそらくこの先人生で経済的限界を知る必要がない。これでは空想的全能感にブレーキがかかることがないわけで、逆の意味で世界をつかみ損ねる男になるだろう。
さてこの作品の少年たちは、海の男であることを捨て模範的な父親になるべく陸に上がった人物を、堕落した存在として処刑しようとする。ここでは少年は性的な意味ではまったく早熟でなく、理想とされる男性像は家庭を捨てて未知の世界へ挑む冒険家なのだ。主人公の少年が大人たちのセックスを覗き見るのは、男としての性的好奇心からではない。異性を省みない男性が理想としてあるのだ。
この理想的男性像が三島自身の理想的男性像であったということはなく、あくまで劇中の典型として設定されたものと思うが、なんとなく三島の好みそうなニュアンスは感じる。ここに三島の世界があって、こういった世界がヌメヌメ・テラテラした美文で絢爛豪華に展開されているので、読んでいると驚いたままくらくらとなってしまう。
読書
「走れトマホーク」 安岡章太郎 作
「海辺の光景」や「質屋の女房」など以前楽しく読んだので手に取ってみた後期短編集。
著者あとがきによると50歳前後から小説の書き方が自然と変わってきたそうで、往々にして作家は歳をとるにつけ物語性から遠のき、身辺雑記的な作風に変わってゆくのが前から自分は不満なのだが、この短編集もそんな気がした。もともと自身をモデルとした私小説的な作風は変わらないが、やはり若いころのほうが面白かったようにおもう。
それでも人生に対して張りつめない、どこか投げやりな感じは相変わらずあって心地が良い。その投げやりな感覚の原因は子供の頃からの引越しと落第で、「聊斎私異」は落第を「野の声」は就活失敗を扱った短編だが、たかが落第くらいが一生のテーマになっているところが愉快だ。
たとえば「テーブル・スピーチ」は結婚披露宴の現場で、新郎である友人とのかつての様々な出来事を回想しているが、やや冗漫な気がして読んでいると突然人が死んだり狂ったりして、平凡な家庭の幸福をうすっぺらく感じてしまうというお話。結局作者は人生で成さねばならない平凡な暮らし方にも、どこか本気になれない虚無感のようなものを抱いていたのかもしれない。(講談社文芸文庫)