忍者ブログ

漫画家まどの一哉ブログ

   
カテゴリー「読書日記」の記事一覧

読書

「二十世紀旗手」太宰治 作

井伏鱒二のエッセイをいろいろと読むと、親交のあった太宰のことがよく出てくる。太宰が腹膜炎の治療のため使ったパビナールという薬の中毒(いわゆるヤクチュウ)となり、精神病院へ強制的に入院させられたという有名な逸話も井伏のエッセイにあった。そんな太宰の精神がもっとも激烈に揺れ動いていたころの作品群。

激情というものを如実に赤裸々に現そうとすれば、あたりまえの文章じゃだめだ。落ち着きすぎる。アクセル全開なんだから。かつて漫画家の鈴木翁二はその荒々しい描線のいわれを、たぎる心のスピードにペンが追いつかないからと言ったが、小説でそれをやったのがこれらの太宰作品か?

創生記:「われとわが作品へ、一言の説明、半句の弁解、作家にとっては致命の恥辱、文いたらず、人いたらぬこと、深く責めて、他意なし、人をうらまず独り、われ、厳酷の精進、これわが作家行動十数年来の金科玉条、苦しみの底に在りし一夜も、ひそかにわれを慰め、しずかに微笑ませたこと再三ならずございました。」

二十世紀旗手:「さいさきよいぞ。いま、壱唱、としたためて、まさしく、奇蹟あらわれました。ニッケル小型五銭だまくらいの豆スポット。朝日が、いまだあけ放たぬ雨戸の、釘穴をくぐって、ちょうど、この、「壱唱」の壱の字へ、さっと光を投入したのだ。奇蹟だ、奇蹟だ、ばんざい。ばからしく、あさまし、くだらぬ騒ぎやめて、神聖の仕事はじめよ。」

HUMAN LOST:「私は享楽のために、一本の注射打ちたることなし。心身ともにへたばって、なお、家の鞭の音を背後に聞き、ふるいたちて、強精ざい、すなわち用いて、愚妻よ、われ、どのような苦労の仕事をし了せたか、おまえにはわからなかった。食わぬ、しし、食ったふりして、しし食ったむくいを受ける。」

わたしはこれら助詞を省いて音速で駆け抜ける文体を読むと、現代前衛漫画表現の一種を思い出す。それは安部慎一や鈴木翁二ではなく、菅野修の初期作品から発展し、コマを時間にしばらず言葉とイメージを自由に氾濫させたそれである。それにしても太宰のこれら作品群は、轟音であるとともにじつに心地よいリズムに満ちあふれていた。

拍手[0回]

PR

読書

「ヴィヨンの妻」太宰治 作

しまった、新潮文庫の「ヴィヨンの妻」収録作は手持ちの岩波文庫「ヴィヨンの妻」と7割ほどかぶっていた。でも読み返した「ヴィヨンの妻」。やはり傑作である。

妻は夫が飲み屋にこしらえたツケとくすねた五千円を返済するために、その飲み屋で働き始めるが、そういった妻の明るいくよくよしない性格がダンナと対照的で、この小説が感じのいいものになっている。 夫の小説家はカネも払わないくせに、だらだらとこの店に編集者や連れ込んだ女たちと飲み続けるが、そのようすが彼女の目を通して、おもわず吹き出してしまう道化者に描いてあるのが愉快だ。 新聞に夫を批判して人非人などと書いてあるのを夫に聞かされ、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」と、さらりと言って終わるところが救われる。

私小説といっても作者自身がダラダラと自分の不品行を語るのではなく、健気な妻の語り口を通してネタにしてあるので、直接作者の内面や苦悩を聞かされずにすむのがたのしい。いまさら自分が褒めるのも恐縮だが、人に読ませるお話としての素材の扱い・調理方法が抜群にうまい。名人だ。私小説だからといって作者の生々しい心情をそのまま皿にのせて出されると、自分などはもう閉口してしまう。まあそんな閉口する作品がそれはそれとしてどんなふうに調理されているか、今後読んでいくつもり。

 

蛇足:太宰を尊敬して描き続けた安部慎一の漫画でいうと、「美代子阿佐ヶ谷気分」は調理されているが、「悲しみの世代」は素材そのままで、自分は「美代子〜」のほうが好きということです。

拍手[1回]

読書

 

「脂肪の塊」

モーパッサン 作

 

自分にとってモーパッサンとは、実体験を元に書いた怪奇幻想短編が非常におもしろい作家だが、これは違う。リアルなはなし。

 

「脂肪の塊」:ここで言う脂肪の塊(ブール・ド・スイフ)とは主人公の娼婦のあだ名で、それほどに肥満しているというわけ。

プロシアの侵略から逃れるため、馬車に乗り合わせた一行のなかにこのブール・ド・スイフがいて、職業柄皆からは蔑視されていた。行路が難渋して時間がかかり、全員腹が減ってかなわなかったときに、ただ一人大量の弁当を持ってきていた彼女が皆を助ける。宿で一泊した翌朝、プロシアの士官に出発を止められたのは、その士官がブール・ド・スイフに体を提供するよう条件をつけたためだった。すると一行の態度は一変し、いやがる彼女にぜひとも犠牲になってプロシアの士官にその身をささげ、自分たちを出発させてくれという。あわれ犠牲になったブール・ド・スイフ。彼女はふたたび出発した馬車のなかで感謝されるどころかあらためて蔑みの視線をおくられてしまう。

と、ネタバレ。人間って勝手なものだよ。

 

「テリエ館」:これはある娼館に集まる娼婦たちと男たちのはなしで、館を切り盛りするマダムの計画のもと、ある田舎の少女の聖体拝受式に参加して帰ってくるまでのワイワイガヤガヤを描いた楽しい話。

西洋の娼家というとバルガス・リョサの「緑の家」など思い出すが、映像的にはルイス・ブニュエル監督、カトリーヌ・ドヌーブ主演の「昼顔」という自分の好きな映画作品の記憶を借りてイメージしながら読んだ。

(新潮文庫)

拍手[0回]

読書

「ロボット」

チャペック 作

ロボットSFの嚆矢。1920年代の作品ながらロボットという設定がどうしても描いてしまう人間存在や社会と労働の問題は色濃く描かれていておもしろい。

おどろいた事にここで登場する人間そっくりのロボットたちは、機械仕掛けではなくバイオテクノロジーの産物だ。生命に簡単な発達を促す方法で、即席人間のようなものを大量に工場生産してしまう。彼らは感情を持たないし、死さえも恐れない理想の労働者だった。

やがて世界中に広まったロボットたちが人間に反旗を翻し、物語は残された少数の人間たちの末路まで行き着くところは、短い戯曲ながら大きな展開で、現代から見るとお約束だがそんなことは気にならないスピーディーなおもしろさがあった。 世界を支配したロボットたちだが、実はその寿命は20年しかないというところも、現代のレプリカントに受け継がれている設定で、やはりロボットは早死にするか永遠に死なないかのどっちかでなければ、人間の死の問題をあぶりだすことはできまい。

さてロボットたちが生き残ろうと思えば、開発者が残した創成のヒミツを知る以外解決の道はないのだが、その書類も既に灰燼と帰した最後に、愛に目覚めたロボットのアダムとイブが現れるところで話は終わってしまう。どうなりますやら。

自分はSFの黎明期のようなものは好きで、ウェルズはどれも面白いし、リラダンの「未来のイブ」やザミャーチンの「われら」など楽しかったが、その後発達したSFの世界にはどうもついていけないという古い人間だ。えらいすんまへん。

拍手[0回]

 

読書

 

井伏鱒二の歴史小説

 

「さざなみ軍記」:今話題の平清盛ではなく、都を追われ落ちのびてゆく平家の敗走を三位中将の若き息子が書き残した日記。これを現代語訳したものという設定だが、滅びいく者の哀感ただようまことに美しい文章だ。闘って負けるということは死を意味するので、それが全体としての無常観を醸し出しているのかもしれない。そんな中にも、相手の首を腕力でねじ切る剛力の者が登場したり、たぶんに幻想味もあって心地よく酔える。

 

「ジョン万次郎漂流記」:有名なジョン万次郎が漂流してアメリカの捕鯨船に助けられ、日本に帰国後は通訳として活躍するまでを追った一代記。主人公万次郎の明るくポジティヴな性格が絶望的状況から人生を切り開いていくようすがよくわかる。よって楽しさがある。

 

「二つの話」:もし高速で運動すれば時間は逆行するという物理学理論にのっとり、過去へ旅するお話を子どもたちに提供するという設定。SF的理由付けはそれのみで、タイムマシンも必要としない。新井白石に会って、模型飛行機をあげようとする話と、秀吉の聚楽第で茶会準備にこき使われる話だが、歌会で池のカエルを黙らせる仕事が愉快。

(新潮文庫)

拍手[0回]

読書

「三位一体の神話

大西巨人 作 

 

これだけ硬派な潤いのない文体で、なぜ迫真のミステリーたりえているのか?大西巨人は不思議な作家だ。とはいえ日本文学史上の巨星であってみれば、自分の非力な読書力がそう思わせているのかもしれない。情感に訴えるところまるでなく、ただただ論理的に細密に事実を繋ぎ合わせ、モザイク的に構成されるこの大西スタイルは、意外にも引き込まれてしまって快感なのである。

遅筆で有名な小説家Aがベッドの上で服毒死していた。実はどうしてもかなわない小説家Aの本物の才能を妬み、また作品内で自身の出自を暴露されることを恐れた小説家Bによる自殺に見せかけた完全犯罪であった。残された遺書の筆跡鑑定でも疑いはかからない。 小説家Aの死後、作品全集を編集する若き編集者Cは、発見された未発表原稿から遺書のトリックを解き明かし、犯人である小説家Bに迫るがついに第2の殺人の犠牲者となってしまう。 しかしこの第2の殺人のとき滞米を装った小説家Bのアリバイは、ある偶然から崩れていくのだった。

作品内ではたしかに創作に対する社会に開かれた作家の姿勢など、テーマを見つけて読むことも出来るが、自分はただミステリーとして充分おもしろかっただけで、それがこの文体で味わえたのだからこんな経験は他にないと思う。

 

拍手[2回]

読書

「犬の心臓」

ブルガーコフ 作

 

ドタバタギャグという分野は自分にとっては基本である。しかもそれが世界の名作であるからたまらない。

 

飢えて凍えて市中をさまよっていた野良犬シャリクは、ある日突然裕福な医師フィリッポヴィチに拾われ、ぜいたくな毎日をおくることになった。しかしそれは恐ろしい外科実験の前ぶれだったのである。唐突に手術を施され死んだ青年の脳下垂体を移植された野良犬シャリク。想定外にも彼はしだいに犬の身を忘れ人間へと進化し始める。そしてできあがった人間シャリクは、とんでもなく下品・無作法・悪辣な男だった。この犬から出来た人間が医師の家でまきおこす数々の騒動の結末やいかに!?

 

というとんでもないSFもどきの奇想小説。模索するプロレタリアートの国、新生ソビエト社会の矛盾を風刺している面もおもしろいが、けっして単純な寓意小説ではない。浅知恵を身に着け欲望のままに行動するシャリクをはじめ、ムチャな実験手術を行った医師フィリッポヴィチや、真面目なだけの人物は登場しないところがギャグの痛快感をさそうが、これだって実はリアリズムなのかもしれないね。

拍手[0回]

読書(mixi過去日記より)
「存在の耐えられない軽さ」
ミラン・クンデラ


プラハの春以降、ソビエトに蹂躙されたチェコスロバキア。新聞の投書記事を反共産主義とみなされ、医師の職を追われることになった主人公を中心に、その妻、友人たちとの恋愛と死までを描く。

小説と言う分野はずるいもので、言葉を使うものだから、語り部として有能な作者ならば、自身の思想や想いをそのままの形で書き述べることが出来る。
作中人物に長々と語らせてもよいが、実は彼女の愛はこうだった。彼にとって女とはこういう存在だった。この時代の政治とはどうだった。などなど作者目線で書いてしまうのは自由だ。クンデラはこの辺が自由自在で、哲学や政治思想に関する直接的な著述が、この恋愛小説には多く含まれているが、だまされたように読めてしまう。

もしその思想的な部分が作品のテーマとなっているのならば、単純な駄作であろうが、あくまで人間の存在に正解はなく、登場人物を動かすことによって、一歩ずつ確認していく作業が、芸術の醍醐味であろう。この話は大人の恋愛を描いたものだが、タイトルどおり人間の存在の問題を含んでいるので、自分でも読めた。

ロシアの監視下にあり、秘密警察の罠が渦巻くプラハでの話もスリリングだが、終章、田舎に移り住んでようやく心の平穏を得た二人の幸福の発見、かわいがっていた飼い犬の死、など実に細やかに描かれていて泣きそうになった。

拍手[0回]

読書
「ミイラ物語」
ゴーチェ
 作

古代エジプト。大司祭の娘タホゼールは裕福に暮らしていたが、祭りの日に見初めたヘブライ人ポエリの後を追って姿をくらます。身分を偽ってポエリの経営する農園へまぎれ込んだのだ。しかしある夜ポエリの舟をつけてナイル川を泳ぎ渡ると、たどり着いたヘブライ人の部落にはポエリの愛する人がおり、タホゼールは恋に破れたことを知るのだった。
かたや世界を支配する大王ファラオは、タホゼールを我がものにするべく国中を探しまわり、ついにヘブライ人の部落からタホゼールを略奪してしまう。
一方、虐げられたヘブライの民を導くモーゼはファラオに抗ってエジプトからの脱出を目指す。ここにファラオに仕える学者たちとモーゼの魔法合戦がくりひろげられ、やがて海を割って進むヘブライ人たちを追いかけるファラオの大隊は大波にのまれて消え去ってしまうのであった。
といういきさつが発掘されたミイラに添付されていたというオハナシ。

私小説的な近代文学や身辺雑記、また最新のアンチロマンなどを読んでいると突然イヤになってくる。もっと空想の羽をひろげたものを読みたくなって、今回選んだのがこれ。現実離れしたストーリーに救われた。もちろん世の中空想的な話はゴマンとあるだろうが、なにぶん古いものが好きなもんで…。

拍手[2回]

読書
「ワーニャおじさん」
チェーホフ
 作

戯曲はあまり読まないが、小説でも会話が多いのが好きなので、セリフばかりというのは楽しい。ドラマでも見ているような感覚で読める。

ワーニャおじさんというのは農場を経営しているが実は貴族階級出身のインテリで、農場経営の上がりを、学者に嫁いだ妹を支援するために注ぎ込んだのである。自身もその学者に入れ込んで尊敬し、生涯の大切な時期を学者の手足となって働いたのだった。ところがその学者が、嫁いだ妹亡き今、美人の後添いをつれて村に住み着いた時点で、ワーニャおじさんは彼にまったく失望している。俺の人生はこいつの学説にだまされたおかげでムダだった。それに新しいヨメさんはなんて美人なんだ。というわけ。
そんな彼と同じ屋敷に暮らす人々のさまざまを描く。
最後に拳銃騒動まであるが、そんなヤマがなくてもセリフが豊かというか、解説の言葉を借りれば人間描写の彫りが深い。だからストーリーは簡単でも実にダイナミックだ。

屋敷にたびたび訪れる医師は先進的なエコロジストで、森林が金儲けのためにどんどん伐採されていくのを嘆き、森の小屋を作って樹々の生育を研究している。チェーホフの時代(1890年代)に既に今日的環境問題が持ち上がっているとは知らなかったし、チェーホフが登場人物の言葉を借りて、持論を展開するのもやや感心した。

拍手[1回]

  
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
フリーエリア

「世の終りのためのお伽噺」
アックスストア
「洞窟ゲーム」
アックスストア 西遊
「西遊」
amazon ヨドバシ.com
アックス75号
アックスストア

祭り前

秘密諜報家
最新コメント
[08/13 筒井ヒロミ]
[02/24 おんちみどり]
[05/10 まどの]
[05/10 西野空男]
[01/19 斎藤潤一郎]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
madonokazuya
性別:
非公開
自己紹介:
漫画家
バーコード
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析
カウンター
カウンター
フリーエリア
Copyright ©  -- まどの一哉 「絵空事ノート」 --  All Rights Reserved

Design by CriCri / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]