漫画家まどの一哉ブログ
- 2012.08.24 「青梅雨」
- 2012.08.20 「埋火」(うずみび)
- 2012.08.16 「鉄の時代」
- 2012.07.31 「死霊解脱物語聞書」
- 2012.07.27 「神を見た犬」
- 2012.07.23 「おはん」
- 2012.07.19 「宇宙戦争」
- 2012.07.15 「幽霊たち」
- 2012.07.11 「トモスイ」
- 2012.07.07 「雨の中の蜜蜂」
読書
「青梅雨」 永井龍男 作
再読。この作品集は短編小説の見本のようなものなのだけれど、自分はここに収録されている「私の眼」「快晴」という連作が好きで読み返してみた。
「私の眼」は葬式に参列する男の一人称で書かれた小説なのだけれど、読み進むうちになにやらヘンだと思っていると、この男は狂人なのである。なにしろ香典袋にワケあって靴べらを入れているのだ。この主人公にすれば靴べらは、死者が家を脱出するための欠かせない道具なのである。そんな狂気を狂気の側からじわりじわりと書いてあって、ちょっと背筋が寒くなる好短編だ。
「快晴」はその葬式の次の骨上げの日、昨日気違いがまぎれ込んでおどろいたという噂話をしている参列者が、またしてもその狂人を発見するという、今度は第三者の目線で描かれた狂人の行動。これもおそろしい。
だいたいにおいて自分は、人生や生活の一断片を切り取ってしみじみとさせてもらうより、狂気や幻想に触れていたい。しかもこちらが安心して読んでいられるようではちっとも面白くない。そんなわけでこの2編をとくに好む。
「一個」は電車の中で隣席の男に話しかけたようで実は話しかけていず、隣に人がいると思っていると実は誰もいない。家に戻ると寝室の柱時計は妻の声になったり、電報の呼び声になったりして、結局男は死んでしまうようだが、これは死の前にみた夢の中にいるような不気味さ。
「狐」という話はまるで無能で働きもせず、妻や子どもに苦労をかける情けない男の暮らしぶりが描かれているが、ふつう私小説にありがちなこの設定は、作者が自分の体たらくを描き綴るのが多くあって、それしか書かない。ところがこの作者はまったく私小説でなく人物を創作して、まんまと一編書いてしまう。してみるとこの種の話も体験に頼ることなく、技術でもって書けてしまうものらしい。
読書
「埋火」(うずみび) 立原正秋 作
再読。立原正秋といえばかつて自分が安部慎一に会ったときに、立原作品を漫画化する企画を聞いた。まことに短編とは風味だというアベシンに通じる味わいがある。しかし内容が男女の性愛にしぼられると、個人的には興味が薄いので読んでいてどうでもいい気になってしまう。中間小説という分野が今あるのかどうかわからないが、いかにも中間小説らしく思える。それはたとえば女が着物を着ている。旅に出る。旅館で男と過ごす。といった伝統的な設定があるとそれだけである種の雰囲気といったものを感じてしまい、そうなると性愛以外に書くことないんじゃないかと思ってしまう。
「山居記」:わずか50代にして一線を退き、公園の管理・清掃人として小屋に暮らす男。新しい恋愛も別れた妻との再会も、どちらも深入りせずに世捨人として生きる様が心に残った。つげ義春的なスタンスだ。
「水仙」:これも知識階級を去りタクシー運転手として生きて癌で死んでしまった友人の、ある種世捨人的な生き方を省みる話。かといってその心理に切り込むことはなく、あくまで日常の中での風味を味わうもの。
「吾亦紅」:肋骨を折ってしばらく入院した時の日々を描く。こういったフツーのことを書いて一編の作品に仕上げるのに、季節とともにある動植物の観察はかかせないアイテムだ。吾亦紅(われもこう)。
読書(mixi過去日記)
「鉄の時代」 J・M・クッツェー著
アパルトヘイト廃止直前、騒乱の南アフリカ。癌を抱えて死を目の前にしながら、一人留まり続ける白人老婦人のモノローグ。はるかアメリカに移住した愛娘への手紙という体裁で語られる。
永年にわたって気付かれた白人による支配を恥じることによって矜持を保つ老婦人カレン。しかし現実は彼女の思惑を越えて、強烈なしっぺがえしを与え続ける。反アパルトヘイト闘争のなかで、政府・警察によって追われ、殺される黒人少年たち。彼らは戦いの絆の中で死をも厭わないが、それは人間としての感受性を全て放棄した悲しい鉄の心だった。
物語は、ある日主人公カレンの家にふらりと現れたホームレスの男との、奇妙な同居生活を中心に進む。彼にとってはこの騒乱も存在しないかのごとく、ただだらしない日常がつづくのみである。
こう書くとまるで社会派小説のようだが、主人公の語り口はあまりにも個人的で、詩的言語の連続であり、人生そのものに対する深い洞察が、イメージのまま語られるので、まったく社会派小説ではない。でないと自分は読まない。
ところでそもそも自分は、例えば2時間自由時間があれば、映画を観るより本を読むタイプであるが、実はそれほど言葉というものを信用していない。
言語を積み重ねて認識を深めるというやりかたは、その言葉数がある一定量を越えると、たちまち効率が悪くなって、どうどうめぐりになる気がする。
言葉は認識の最終形体ではない。
それならむしろ、イメージをもてあそんで、絢爛たる言語空間を築いたほうが楽しい。そこに小説という分野の醍醐味あり。てなことをあらためて考えさせる作品でした。すんません、直接の感想でなくて。
読書
「死霊解脱物語聞書」
累(かさね)といえば、江戸時代の幽霊物語の代表選手の一人であるが、この聞書では累(かさね)の霊は人間世界にその姿を現しておどろかすのではなく、いたいけな農家の少女に取り憑くのである。その憑依のありさまが実にリアルで、やはりこれはノンフィクションだなと思う。
あるときは少女は累(かさね)に成りきって地獄の様子を語り、あるときは自意識は保ったまま、人には見えないすぐ傍らの累(かさね)の挙動を解説する。これは現代の我々から見ると多重人格などの精神障害の一種ではないかと疑われるが、除霊してもなんどもなんども取り付くところなど、病状の悪化ではなかろうか。
ところでこの話で大活躍するのは祐天上人という浄土宗の僧侶で、念仏の効力をもってして累(かさね)を解脱に導くべく苦闘するが、後に浄土宗の高僧となった人だけあって村人に説く仏教理論が精密である。この浄土宗の念仏思想がこの聞書の本旨らしい。それでもこの祐天上人の知恵と行動力はまさにヒーローであり、悪霊に取り憑かれて暴れ苦しむ少女や、大慌ての村人の対策などがきちんと描かれていて、物語としてたいへんおもしろく読めてしまうのである。
読書
「神を見た犬」 ブッツァーティ 作
現代イタリアの作家。短編小説の醍醐味ここにあり。
「七階」:その病院は7階の患者が一番病状が軽く、階を下りるに従って重篤となり、1階の患者たちはただ死を待つばかりであった。すぐにでも退院出来るくらいの症状で7階に入院したはずの主人公は、病院の都合やスタッフの手違いなどで、だんだんと下の階に移動させられていく。実は病状は深刻なのであろうか?不安がつのる。
「神を見た犬」:廃墟となった礼拝堂に一匹の犬と暮らす修道士。彼が死を迎える数日前に、不思議な大いなる白光が天から降り注いだ。それは神が尋ねてきたとの村中の噂だった。やがて修道士が死に、修道士とともに神を見たはずの犬だけが村に残る。神を見た犬にじっとに見つめられた村人たちは、けっして悪事を働けないのであった。
「護送大隊襲撃」:入獄中に病を患い、ようやく出獄してきた山賊のボスに昔日の面影はなかった。山に陣取るかつての仲間達も、もう彼を迎え入れることはできない。ひとり山中の仮小屋に暮らす彼のもとに若い山賊志望者が弟子入りする。若者の前で無謀とも思える護送大隊襲撃を企てた彼が最後に見たものは、今は亡きかつての仲間達だった。
いかにも短編小説といった味わいがある。それも手を替え品を替えの不思議な話ばかり。
たとえばかつての米ソ冷戦を題材にした、秘密兵器説得ガスの話など、星新一を彷彿させる愉快さだ。ワケのわからない個人的な内情を、突然やってきて途切れることなく喋り続け、カネを渡すまで帰らない男の話も爆笑。既に敗色濃厚なドイツ軍の最終兵器としての巨大戦艦「死」に乗り込んだ隊員たちの最後は悲しい。面白かったという感想しか言えないが、この種の短編は他に多言はいらないということで…。
読書
「おはん」 宇野千代 作
情念といわれると、なにか非常にしつこい重く暗い感情を思い浮かべる。人生の紆余曲折の中で離れられない男女の愛情や恋情など、丁寧に描いてゆけばたちどころに情念の世界が完成するだろう。この小説にそれほどの重さを感じないのは、二人の女にひかれる主体性のない男のどうしょうもない感情を綴っているからだと思う。しかしこれも情念と言えばそうなのかもしれない。女の方はいかにも弱気な元妻と、いかにも気の強い愛人で、性格的にはわかりやすく、それだけに煮え切らない男の態度が際立つ仕掛けなのだろうか。
二人の女どちらにもずるずるといい顔をして、いよいよことが露呈して破滅するのではというスリル。ドキドキして続けて読めずに何度も本を閉じた。全編この男の独白というスタイルで、まといつくような関西弁の捕まえたら離さない口語体が、意志の弱い男の感情をそのままに伝える気がした。高尚なことや深い思索などは全くないのだが、感情の表現は緻密で、これぞ芸術のおもしろさ、むずかしいことはいらない。この文章さえあれば酔える。
読書
「宇宙戦争」 H・G・ウェルズ 作
映画は未見のまま作者ウェルズを信じて読んだ。
なんといっても火星からの侵略者に襲われたロンドンは汽車と馬車の時代。そんな時代に金属製でピカピカと光る大型戦闘マシーンが現れるのだから、その落差たるや現代SFの比ではない。火星人の大型戦闘マシーンは三本足の乗り物で、ヒュンヒュンと地上を走り回る。火星には車輪という概念がないという設定なのだが、今でこそ人間が乗り込んでの巨大ロボは数多溢れるけれど、これはウェルズがまっ先に考えたアイデアではないかとも思う。乗り込んでるのは火星人だけど。
自分にとっておもしろい初期SFは、現実社会の描写がしっかりとリアリティを感じさせるもの。幻想小説のつもりで楽しんでいるので、現実をきっちり書いてもらった方がより空想が映えるというものだ。ウェルズの短編はみなおもしろい。こういう長編でも飽きずに読めるのは、戦闘自体を描こうとしていないからだろう。だいたい火星人と当時の人類では力の差がありすぎて戦闘にならないから、地球人はただ逃げ惑うばかり。そこを多く描いたパニック小説と言えるかもしれない。英雄が出てこないから読めた。
読書
「幽霊たち」 ポール・オースター 作
主人公ブルーがホワイトから任された仕事はブラックという男を見張って報告するというものだった。以来ブルーはブラックの住む部屋が見える隣のマンションの一室に陣取り、ひたすらブラックの行動を監視する日々が始まった。ところがブラックは毎日ただただ机に向かって書き物をするのがもっぱらで、ほかにこれといった行動をしないのだ。なんとも退屈な尾行作業が続く。 業を煮やしたブルーはいろいろと変装を試みてブラックと会話。するとブラックは自分の仕事はある男を終日見張ることだというのだ。やがてとうとうブラックの部屋に忍び込んだブルー。そこで彼が見たブラックの原稿は、ブルーの書いた報告書だった。ついにブルーはブラックと直接対峙するが …。
ブルーもホワイトもブラックも、ほんとうは何者なのか得体の知れない人間たちによって、輪郭の茫漠とした物語が語られる。徒労とも思える監視作業ははなはだ不条理なので、逆に興味をそそられる具合だ。もちろん最終的に謎解きがあるようなたぐいの小説ではないことは読んでいて解るので、おそらく種明かしはないだろうと思っていると、最後に銃や殴打などアクションも出てくるにせよ果たして謎のままだった。なんと不思議な話だろう。ただブルーの困惑と懊悩が他人事ではないので読んでしまう。純粋なエンターテイメントだと全部他人事なのでこうはいかない。
読書
「トモスイ」 高樹のぶ子 作
一度は読みたいと思っていた高樹のぶ子。この本はアジア各国の文学者を尋ね、作者自身も触発されて短編を書くというプロジェクトの結果出来た小説をまとめたもので、ふだんの長編とはかなり違うだろうと推測するがこれはこれで面白く読めた。
「トモスイ」:夜釣りに出かけて、トモスイとよばれる何やら裸の貝のようなものを釣り上げる。それは地元の名物で、突起物と反対側の穴との両方から口を付けて、ちゅるちゅると内容物を吸うととても旨いといういささか気味の悪いお話。
「天の穴」:台風の夜、運転中に少年に接触しそうになるが、彼は台風の目を追いかけているのだった。車に乗せてみると気象天文にやたら詳しい。やがて見つけた台風の目のむこうに見える渦巻銀河。彼を残して死んでいった肉親たちは、いつの日か台風の目からこの世に落ちてくるという。
「どしゃぶり麻玲」:なにもかも運命と捉える少女麻玲。雨宿りのデパートの玄関で出会った彼女に案内され、同行した写真展は彼女の父親の遺作展だった。だが実は麻玲はすでにこの世の人ではなく、主人公の私の心の中で生きる娘なのだ。
「唐辛子姉妹」:そもそも韓国の唐辛子は、豊臣秀吉によって伝えられたという伝説を語り合う姉唐辛子と妹唐辛子。二人はやがて摘み取られ、麻袋に入り、そのあと瓶に詰め込まれて赤くなった。二ヵ月後あるレストランでいっしょにペーストとなり、人間の腹の中へ。間もなく大阪へ渡り、真っ赤な水となって排泄されたのだった。
読書
「雨の中の蜜蜂」 カルロス・デ・オリヴェイラ 作
1953年発表、ポルトガル・ネオリアリズム文芸の代表作。 商人兼農場主の主人公は、なにやら常にくよくよと悩んでいる男で、自分がこれまで犯した罪と呼べるほどでもない罪を、神父に懺悔するばかりでは足らず、地元の新聞に記事として発表しようとする。このおかしな行動は阻止されるが、そもそも落ちぶれた名門の出身である自分の妻を、この行為に巻き込んで恥をさらしてやろうとする下心もある。そんな主人公は大酒を喰らって酔いつぶれ、妻に寝室から追い出しをくうが、明くる早朝自分の雇っている御者と、近所の陶工の娘との逢い引きを知ることとなり、これを陶工に密告。怒った陶工は弟子と組んで御者を撲殺してしまい、密告した主人公はますます良心の痛みに苦しむこととなるという粗筋。
悲劇と言えば悲劇に違いないが、主人公の情けなさが可笑しいので全編気持ちよいユーモアに満ちている。主人公はいるものの、上流から下層までいろんな住民が登場する集団劇でもあって、ストーリーよりは人物描写が小説の中心となる。
また主人公は基本的に死の恐怖にとらわれていて、雨に打たれて死んでいく蜜蜂の如く人間の行く末のはかなさに日々思いをはせているが、けっして達観しているわけではなく、その恐怖におののいているのだ。まことにキリスト教徒にしては人間として正直だ。神父は彼の信頼を勝ち得ていない。この小心でちっぽけな人間が、酔っぱらいながらおろおろと過ごす、実はたった2日間が描かれている小説なのである。