漫画家まどの一哉ブログ
カテゴリー「読書日記」の記事一覧
- 2011.08.03 「肉体の悪魔」
- 2011.07.27 「ちびのツァッヒェス」
- 2011.07.23 「ラバウル戦記」
- 2011.07.19 「猛スピードで母は」
- 2011.07.15 「死海のほとり」
- 2011.07.12 「ブルガーコフ作品集」
- 2011.07.09 「鏡川」
- 2011.07.06 「暗夜」
- 2011.06.22 「木魂・毛小棒大」
- 2011.06.18 「R62号の発明・鉛の卵」
読書
「肉体の悪魔」
レイモン・ラディゲ 作
三島由紀夫が憧れたこの夭折の天才作家の名作を、なんで今まで読んでいなかったかと言えば、一つには恋愛というテーマが苦手。もう一つには青春という設定についていけない。もう一つはもし耽美文学だったら好き嫌いがある。というものだった。
しかしまったく違っていた。たしかに主人公達は恋愛しているのだが、縷々語られるのは男である「僕」のエゴイスティックな内面であり、それが冷徹に突き放した目線で描写されていて、悩んでいてもけっして懊悩や混乱を描くわけではなく、あくまで実験動物のように分析されいく。恋のかけひきは、まるで戦地に置ける作戦遂行の如くである。こういう推理小説のような味わいが優れた心理小説のおもしろさで、泣いたり叫んだりされるとこの味わいは出ない。
心理小説としての面白さもそうだが、物語の設定が不倫なので、主人公の二人が他人目を盗んで逢瀬を実行するストーリー上のスリル感も味わえる。そもそも相手の彼女は若くして結婚したのち、すぐさま主人公の「僕」と本当の恋に落ち妊娠までしてしまうが、結婚前に「僕」が態度をはっきりさせていればこんなややこしいことにはならなかった。という設定はまったく三島由紀夫の「豊饒の海(第一話:春の雪)」で主人公が彼女に犯した行為と同じである。三島は基本にラディゲを置いて組み立てていったものと思ったが、そのへんは語り尽くされているに違いない。
「肉体の悪魔」
レイモン・ラディゲ 作
三島由紀夫が憧れたこの夭折の天才作家の名作を、なんで今まで読んでいなかったかと言えば、一つには恋愛というテーマが苦手。もう一つには青春という設定についていけない。もう一つはもし耽美文学だったら好き嫌いがある。というものだった。
しかしまったく違っていた。たしかに主人公達は恋愛しているのだが、縷々語られるのは男である「僕」のエゴイスティックな内面であり、それが冷徹に突き放した目線で描写されていて、悩んでいてもけっして懊悩や混乱を描くわけではなく、あくまで実験動物のように分析されいく。恋のかけひきは、まるで戦地に置ける作戦遂行の如くである。こういう推理小説のような味わいが優れた心理小説のおもしろさで、泣いたり叫んだりされるとこの味わいは出ない。
心理小説としての面白さもそうだが、物語の設定が不倫なので、主人公の二人が他人目を盗んで逢瀬を実行するストーリー上のスリル感も味わえる。そもそも相手の彼女は若くして結婚したのち、すぐさま主人公の「僕」と本当の恋に落ち妊娠までしてしまうが、結婚前に「僕」が態度をはっきりさせていればこんなややこしいことにはならなかった。という設定はまったく三島由紀夫の「豊饒の海(第一話:春の雪)」で主人公が彼女に犯した行為と同じである。三島は基本にラディゲを置いて組み立てていったものと思ったが、そのへんは語り尽くされているに違いない。
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読書
「ちびのツァッヒェス」
E・T・A・ホフマン 作
ある貧しい農家に生まれたツァッヒェス。小さな体で、こぶのように丸まった背中、盛り上がった両肩の間に埋まった頭、枝のように貧弱な足、もじゃもじゃの髪にとがった鼻。言葉もろくに話せなかったが、あわれに思った心優しい修道女にもらわれていく。この修道女が実は妖女であり、後年ツァッヒェスは魔法の力によってみるみる出世していくのだ。
ところがこのツァッヒェスは主人公ではなく悪役である。その魔法とは他人の成功はみな自分のものとし、自分の失敗はすべて他人のやったことにしてしまうというもの。周りいるもの皆魔法にかかってツァッヒェスを持ち上げ、あげくは大臣にまで昇りつめ、学園のアイドル的美女と婚礼を迎えんとする。
ヒーローは詩才豊かな大学生バルタザール。友人と協力してツァッヒェスの秘密を探り、愛する学園のアイドルを取り戻そうと格闘。そしてついに秘密が暴かれ、魔法は効力を失い、ちびのツァッヒェスはあわれな最期を迎えるといったお話であります。
作者ホフマンは、このあわれな人物に特別な情けをかけるわけではなく、物語は読者の好きな華やかな婚礼シーンで終わり、ツァッヒェスは置き去りだ。彼が死んで「ああ、かわいそうな身の上だったなあ」といったラストではないのだ。ツァッヒェスはあくまで不気味な奇形児というキャラクターで、その性格も実に俗物でイヤなやつに描かれており、読者が彼に感情移入することは防がれている。
この物語が書かれたのが1819年。まだメルヘンの世界では畸形は非常にアクの強いキャラクターで、魔法使いとして登場するのがふつうだったのではないか?そのへんはよくわからなくて、「生まれつき体の不自由な人を笑い者にしてはいけない」というセリフもあるが、内面が粗野な人間はどのみち幸福にはなれないというオチになっているのは、作者ホフマンの作戦だったのではないかとも思った。
「ちびのツァッヒェス」
E・T・A・ホフマン 作
ある貧しい農家に生まれたツァッヒェス。小さな体で、こぶのように丸まった背中、盛り上がった両肩の間に埋まった頭、枝のように貧弱な足、もじゃもじゃの髪にとがった鼻。言葉もろくに話せなかったが、あわれに思った心優しい修道女にもらわれていく。この修道女が実は妖女であり、後年ツァッヒェスは魔法の力によってみるみる出世していくのだ。
ところがこのツァッヒェスは主人公ではなく悪役である。その魔法とは他人の成功はみな自分のものとし、自分の失敗はすべて他人のやったことにしてしまうというもの。周りいるもの皆魔法にかかってツァッヒェスを持ち上げ、あげくは大臣にまで昇りつめ、学園のアイドル的美女と婚礼を迎えんとする。
ヒーローは詩才豊かな大学生バルタザール。友人と協力してツァッヒェスの秘密を探り、愛する学園のアイドルを取り戻そうと格闘。そしてついに秘密が暴かれ、魔法は効力を失い、ちびのツァッヒェスはあわれな最期を迎えるといったお話であります。
作者ホフマンは、このあわれな人物に特別な情けをかけるわけではなく、物語は読者の好きな華やかな婚礼シーンで終わり、ツァッヒェスは置き去りだ。彼が死んで「ああ、かわいそうな身の上だったなあ」といったラストではないのだ。ツァッヒェスはあくまで不気味な奇形児というキャラクターで、その性格も実に俗物でイヤなやつに描かれており、読者が彼に感情移入することは防がれている。
この物語が書かれたのが1819年。まだメルヘンの世界では畸形は非常にアクの強いキャラクターで、魔法使いとして登場するのがふつうだったのではないか?そのへんはよくわからなくて、「生まれつき体の不自由な人を笑い者にしてはいけない」というセリフもあるが、内面が粗野な人間はどのみち幸福にはなれないというオチになっているのは、作者ホフマンの作戦だったのではないかとも思った。
読書
「ラバウル戦記」
水木しげる
水木さんの戦争体験については、漫画や文章などで多く紹介されているので、自分もよく知っているのだが、この本はページの上半分が戦争当時のラフスケッチ画で占められていて、下半分に水木さんの解説があるといった体裁でたのしい。なかでもカラーの絵が美しく、特にグリーンが鮮やか。夜のシーンはさすがに雰囲気がある。
それにしても軍隊とは理不尽な場所だよ。水木さんは連日ビンタをくらってばかり。日本社会に伝統的ないわゆる抑圧移譲なのだが、かわいそうに水木さん達は最後の新兵で後から入ってくるものがいなかった。毎日が訓練や労働でムダに体力を消耗しているみたいだ。実際の戦闘自体は一瞬のことで、それも戦闘というより一方的に攻撃されるばかり。その後の水木さんの必死の逃走から爆弾で片腕を失うまでは有名なハナシだが、強運を支える体力が人一倍あった。
一年中、魚や果物が豊富にとれ農作物もぐんぐん実る。南方では毎日のんびり暮らせばよい。「南の島は楽園。はたして文明は人間を幸福にしているのだろうか?」水木さんがよくいうところだが、文明人が文明を発達させざるを得なかったのは、食べ物のない冬を越さなければならなかったから。と思うけど、あとはエンゲルスにきいてみよう。
「ラバウル戦記」
水木しげる
水木さんの戦争体験については、漫画や文章などで多く紹介されているので、自分もよく知っているのだが、この本はページの上半分が戦争当時のラフスケッチ画で占められていて、下半分に水木さんの解説があるといった体裁でたのしい。なかでもカラーの絵が美しく、特にグリーンが鮮やか。夜のシーンはさすがに雰囲気がある。
それにしても軍隊とは理不尽な場所だよ。水木さんは連日ビンタをくらってばかり。日本社会に伝統的ないわゆる抑圧移譲なのだが、かわいそうに水木さん達は最後の新兵で後から入ってくるものがいなかった。毎日が訓練や労働でムダに体力を消耗しているみたいだ。実際の戦闘自体は一瞬のことで、それも戦闘というより一方的に攻撃されるばかり。その後の水木さんの必死の逃走から爆弾で片腕を失うまでは有名なハナシだが、強運を支える体力が人一倍あった。
一年中、魚や果物が豊富にとれ農作物もぐんぐん実る。南方では毎日のんびり暮らせばよい。「南の島は楽園。はたして文明は人間を幸福にしているのだろうか?」水木さんがよくいうところだが、文明人が文明を発達させざるを得なかったのは、食べ物のない冬を越さなければならなかったから。と思うけど、あとはエンゲルスにきいてみよう。
読書
「猛スピードで母は」
長嶋有
子どもが出てくる話に初めから偏見がある。また小学生を中心に家族が描かれていると、これまた偏見を持つ。なにか現代家族や子ども達の問題にあらかじめ回答が用意されていて、さては予定調和ではないかしらんと勘ぐってしまう。
ところがほんとうはそんな正解はないということが、この小説および「サイドカーに犬」を読むと分かる。大人である母親にとって、必ずしも子どもは人生の中心ではない。各自自分の人生を生きるべきである。あらためてそう思わせるのは、作者の描く女性たちが強気でさっぱりしていてサクサクと行動するからだろうか。悩みや悲しみの感情を抱いたまま立ち止まっていない。この立ち止まらなさが日常の仕事や生活のリズムに支配されてのことなので、読む方もサクサクと立ち止まることなく昼間のリズムで読んでしまう感じだ。そんな気持ちよさがあった。
子どもと母親の関係、または愛人と子どもの関係に、一般的にこうだといったような設定はないので、描きすぎるとどこかで拾ってきたようなハナシになってしまうかもしれないが、そんな心配はいらなかった。2作品とも登場する男のほうはなんとも凡人で、やはり女の方が魅力的なのは主人公だからかな?
しかし作者の描く女性がいつもこうではあるまい。作品が違えばもめそめそした意気地のない女や、家事や仕事ができなくてグータラな女も出てくるのだろうか。それも人間だし読んでみたい気がする。
「猛スピードで母は」
長嶋有
子どもが出てくる話に初めから偏見がある。また小学生を中心に家族が描かれていると、これまた偏見を持つ。なにか現代家族や子ども達の問題にあらかじめ回答が用意されていて、さては予定調和ではないかしらんと勘ぐってしまう。
ところがほんとうはそんな正解はないということが、この小説および「サイドカーに犬」を読むと分かる。大人である母親にとって、必ずしも子どもは人生の中心ではない。各自自分の人生を生きるべきである。あらためてそう思わせるのは、作者の描く女性たちが強気でさっぱりしていてサクサクと行動するからだろうか。悩みや悲しみの感情を抱いたまま立ち止まっていない。この立ち止まらなさが日常の仕事や生活のリズムに支配されてのことなので、読む方もサクサクと立ち止まることなく昼間のリズムで読んでしまう感じだ。そんな気持ちよさがあった。
子どもと母親の関係、または愛人と子どもの関係に、一般的にこうだといったような設定はないので、描きすぎるとどこかで拾ってきたようなハナシになってしまうかもしれないが、そんな心配はいらなかった。2作品とも登場する男のほうはなんとも凡人で、やはり女の方が魅力的なのは主人公だからかな?
しかし作者の描く女性がいつもこうではあるまい。作品が違えばもめそめそした意気地のない女や、家事や仕事ができなくてグータラな女も出てくるのだろうか。それも人間だし読んでみたい気がする。
読書
「死海のほとり」
遠藤周作
キリスト教はわからない。例えば仏教的無常観や空や無の思想なら、自分の場合ある程度素直に近づくことができる。しかし隣人愛の問題となると自分の中でことさら捉え直すことができない。加えて神の存在を大前提、あるいは第一の課題とされるとどうしていいか分からない。
この小説の中で、イエスは圧倒的な愛の心を持って不幸な人々に寄り添おうとするが、それが常人が持っているエゴイズムを遥かに越えているので人々は驚いてしまう。めったにいない人間を見たのだ。こんな人がいるのか。だからといってすぐ弟子となってイエスを支持するわけではなく、どうしていいか分からないまま一歩引いて見てしまう。
わずかな人々の支持を得るイエス。もちろん奇跡を見せることはおろか、一人として病人を救うこともできない。かえって迫害を受けたあげく刑死するのだが、不思議なのは、この小説の中でも触れられているとおり、なぜイエスが亡くなった後で、弟子達はそんなにも熱心に彼のことを語り、また人々は教えに目覚めていったのか?なぜイエスが生きている時でなく死後なのか?やはり先走って死んでしまうくらいの人物であってこそ、じわりじわりと後から影響が広がっていくものなのか。(そんな簡単なことか?)
最も不幸な者・弱い者、また悪者・卑怯な者。彼らを絶対見捨てず、彼らにこそ寄り添おうとする思想。イエスの愛の精神は選ぶところなく、ケース・バイ・ケースでそのレベルを変えることがない。ここまで徹底された教えとなれば当然世界人類に普遍的な価値を持つ。あまりに強い愛の思想なので、人間は神様を信じなければとても実践できない。(ような気がする)
物語はかつてキリスト教系の学校で学んだ作者が、当時の学友を訪ねてイスラエルに渡り、イエスの足跡をたどる現在と、イエスと弟子達が迫害を受けながらパレスチナを巡り、とうとう十字架に掛けられるまでの過去の話が交互に進行する。そして最後にいつの時代も弱き者のそばに遍在するイエスの姿が垣間見られる。(のかもしれない)
「死海のほとり」
遠藤周作
キリスト教はわからない。例えば仏教的無常観や空や無の思想なら、自分の場合ある程度素直に近づくことができる。しかし隣人愛の問題となると自分の中でことさら捉え直すことができない。加えて神の存在を大前提、あるいは第一の課題とされるとどうしていいか分からない。
この小説の中で、イエスは圧倒的な愛の心を持って不幸な人々に寄り添おうとするが、それが常人が持っているエゴイズムを遥かに越えているので人々は驚いてしまう。めったにいない人間を見たのだ。こんな人がいるのか。だからといってすぐ弟子となってイエスを支持するわけではなく、どうしていいか分からないまま一歩引いて見てしまう。
わずかな人々の支持を得るイエス。もちろん奇跡を見せることはおろか、一人として病人を救うこともできない。かえって迫害を受けたあげく刑死するのだが、不思議なのは、この小説の中でも触れられているとおり、なぜイエスが亡くなった後で、弟子達はそんなにも熱心に彼のことを語り、また人々は教えに目覚めていったのか?なぜイエスが生きている時でなく死後なのか?やはり先走って死んでしまうくらいの人物であってこそ、じわりじわりと後から影響が広がっていくものなのか。(そんな簡単なことか?)
最も不幸な者・弱い者、また悪者・卑怯な者。彼らを絶対見捨てず、彼らにこそ寄り添おうとする思想。イエスの愛の精神は選ぶところなく、ケース・バイ・ケースでそのレベルを変えることがない。ここまで徹底された教えとなれば当然世界人類に普遍的な価値を持つ。あまりに強い愛の思想なので、人間は神様を信じなければとても実践できない。(ような気がする)
物語はかつてキリスト教系の学校で学んだ作者が、当時の学友を訪ねてイスラエルに渡り、イエスの足跡をたどる現在と、イエスと弟子達が迫害を受けながらパレスチナを巡り、とうとう十字架に掛けられるまでの過去の話が交互に進行する。そして最後にいつの時代も弱き者のそばに遍在するイエスの姿が垣間見られる。(のかもしれない)
読書
「ブルガーコフ作品集」
ミハイル・ブルガーコフ 作
かつて季刊「iichiko」に掲載されたブルガーコフの短編作品を集めた珍しい書。最近モーレツにファンになったものだから、高価ながらも購入して読んだ。ブルガーコフは生前多くの作品をソビエト政府に発禁にされ、劇団の演出家として生計を立てていたのだが、それでも年譜を見るとかなりたくさんの作品を書いている。名作「女王とマルガリータ」は発表の可能性もないまま書かれた遺作であるが、芸術家の性(さが)というか根性というか、書き続けるのが自然だったのだろう。これが宿命だ。
その「女王とマルガリータ」の初期稿も一部掲載されているが、最終稿とはずいぶん違うものだった。私の解釈では、ブルガーコフはかなりユーモラスな作風なのだが、この作品集で印象に残ったものは以下の悲しい話だった。
「赤い冠」:出征した弟を一目母親に会わせるため探しに行く兄の私。ようやく出会えたと思った弟だが、あえなく戦禍に倒れてしまう。その死んだ弟が毎晩壁から立ち現れて私を苦しめる。
「モルヒネ」:チェーホフとおなじくブルガーコフも人生の最初は医者だった。地方医として赴任してモルヒネ中毒に陥った自身の体験をもとに書かれた作品。幻想性は薄いが死に向かって滅び行く主人公があわれ。
「ブルガーコフ作品集」
ミハイル・ブルガーコフ 作
かつて季刊「iichiko」に掲載されたブルガーコフの短編作品を集めた珍しい書。最近モーレツにファンになったものだから、高価ながらも購入して読んだ。ブルガーコフは生前多くの作品をソビエト政府に発禁にされ、劇団の演出家として生計を立てていたのだが、それでも年譜を見るとかなりたくさんの作品を書いている。名作「女王とマルガリータ」は発表の可能性もないまま書かれた遺作であるが、芸術家の性(さが)というか根性というか、書き続けるのが自然だったのだろう。これが宿命だ。
その「女王とマルガリータ」の初期稿も一部掲載されているが、最終稿とはずいぶん違うものだった。私の解釈では、ブルガーコフはかなりユーモラスな作風なのだが、この作品集で印象に残ったものは以下の悲しい話だった。
「赤い冠」:出征した弟を一目母親に会わせるため探しに行く兄の私。ようやく出会えたと思った弟だが、あえなく戦禍に倒れてしまう。その死んだ弟が毎晩壁から立ち現れて私を苦しめる。
「モルヒネ」:チェーホフとおなじくブルガーコフも人生の最初は医者だった。地方医として赴任してモルヒネ中毒に陥った自身の体験をもとに書かれた作品。幻想性は薄いが死に向かって滅び行く主人公があわれ。
読書
「鏡川」
安岡章太郎
作者に連なる父方・母方の系図を遡り、明治期、故郷高知を中心にめまぐるしく変転する人生を生き抜いた人々を描くルポルタージュ小説。有名なところでは母方の遠戚に第一次若槻内閣の大蔵大臣であった片岡直温登場。この人は失言で金融恐慌の引き金を引いた人だが、ここではそこまでは描かれてなくて、出世以前の地元でのいきさつにとどまる。
また父方の遠戚に寺田寅彦もちらちらと顔を出す。
それよりなんといってもこの作品を小説たらしめているのは、やはり父方の遠戚に連なる西山麓という人のエピソードだ。ある意味主人公と言っていい。この人、母一人子一人で育ちながら幾つになってもまともに働こうとしない元祖ニートのような人なのである。親戚中でも稀代のなまけものとして名が通っていて、なにかと反面教師として引き合いに出されるようなのだ。しかし驚くなかれこの西山麓氏は雅号西山小鷹という漢詩人であり、土佐の漢詩界をリードするほどの実力の持ち主。残念ながら時代はその漢詩自体を過ぎ去って消え行くものとしているのが悲しい。
この麓さん、まったく働かないので一時同棲した遊郭上がりの女には電球と入れ歯を持って逃げられ、葬式行列の先頭で旗持ちをやって糊口をしのぎ、やがて養老院で病死するのだが、この人物がいてこそこの作品は小説になっている気がして愉快だった。
「鏡川」
安岡章太郎
作者に連なる父方・母方の系図を遡り、明治期、故郷高知を中心にめまぐるしく変転する人生を生き抜いた人々を描くルポルタージュ小説。有名なところでは母方の遠戚に第一次若槻内閣の大蔵大臣であった片岡直温登場。この人は失言で金融恐慌の引き金を引いた人だが、ここではそこまでは描かれてなくて、出世以前の地元でのいきさつにとどまる。
また父方の遠戚に寺田寅彦もちらちらと顔を出す。
それよりなんといってもこの作品を小説たらしめているのは、やはり父方の遠戚に連なる西山麓という人のエピソードだ。ある意味主人公と言っていい。この人、母一人子一人で育ちながら幾つになってもまともに働こうとしない元祖ニートのような人なのである。親戚中でも稀代のなまけものとして名が通っていて、なにかと反面教師として引き合いに出されるようなのだ。しかし驚くなかれこの西山麓氏は雅号西山小鷹という漢詩人であり、土佐の漢詩界をリードするほどの実力の持ち主。残念ながら時代はその漢詩自体を過ぎ去って消え行くものとしているのが悲しい。
この麓さん、まったく働かないので一時同棲した遊郭上がりの女には電球と入れ歯を持って逃げられ、葬式行列の先頭で旗持ちをやって糊口をしのぎ、やがて養老院で病死するのだが、この人物がいてこそこの作品は小説になっている気がして愉快だった。
読書
「暗夜」
残雪(ツァンシュエ)作
幻想文学が好きだが、全く別世界の出来事を描いた安心して読めるファンタジーは自分の趣味ではなく、やはりこの世界と存在を揺さぶるような、現実に迫真する幻想の力がほしい。悪夢のような話は数多あるだろうが、他人事ではないのだ。そんな意味で誰しもそういうだろうけど、カフカ・ベケットに連なる作家、残雪(ツァンシュエ)は見落とせない。うかつだが今まで知らなかった。
「痕(ヘン)」:現代中国。独自の編み方でむしろを編み上げる職人の痕(ヘン)。隣家の鍛冶屋はなにやら痕(ヘン)に怒りを覚えていて、鎌を片手にギラリと光る鋭い目で痕(ヘン)を恫喝するのであるが、その理由はわからない。ある日やってきた買い付け人は、痕(ヘン)と契約を交わし、出来上がったむしろを全て高額で買い取っていくが、買われたむしろは荒れた裏山に無造作に捨ててあるのだ。また村の茶店の女将の亭主は寝たきりの病人だが、その亭主が訪ねるたびに違う人間になっている。
これらの謎は一向に解決されないままで、読んでいると不安で不安でしようがないが読まずにいられない。こんな不安な小説は井上光晴やカフカにもなかった。
「暗夜」:斉四爺(チースーイエ)に連れられて、猿山を見に行くことになった主人公の少年鋭菊(ミンチュイ)。歩いて三日もかかる距離を暗夜に出発するが、いつまでたっても辺りは暗いままで何も見えない。やたらぶち当たってくる車は実は亡霊。借りるはずの宿には断られてしまう。と思ったらある家に閉じ込められて寝台に縛られ、上からは刃物が吊るされている。実は鋭菊(ミンチュイ)の父もかつて猿山に登った人間だった。その他いろいろな出来事は合理性を持たずに結びつき、全ての出来事はまさに暗夜のごとく、はっきりとは見えないままに我々を襲うのである。
「暗夜」
残雪(ツァンシュエ)作
幻想文学が好きだが、全く別世界の出来事を描いた安心して読めるファンタジーは自分の趣味ではなく、やはりこの世界と存在を揺さぶるような、現実に迫真する幻想の力がほしい。悪夢のような話は数多あるだろうが、他人事ではないのだ。そんな意味で誰しもそういうだろうけど、カフカ・ベケットに連なる作家、残雪(ツァンシュエ)は見落とせない。うかつだが今まで知らなかった。
「痕(ヘン)」:現代中国。独自の編み方でむしろを編み上げる職人の痕(ヘン)。隣家の鍛冶屋はなにやら痕(ヘン)に怒りを覚えていて、鎌を片手にギラリと光る鋭い目で痕(ヘン)を恫喝するのであるが、その理由はわからない。ある日やってきた買い付け人は、痕(ヘン)と契約を交わし、出来上がったむしろを全て高額で買い取っていくが、買われたむしろは荒れた裏山に無造作に捨ててあるのだ。また村の茶店の女将の亭主は寝たきりの病人だが、その亭主が訪ねるたびに違う人間になっている。
これらの謎は一向に解決されないままで、読んでいると不安で不安でしようがないが読まずにいられない。こんな不安な小説は井上光晴やカフカにもなかった。
「暗夜」:斉四爺(チースーイエ)に連れられて、猿山を見に行くことになった主人公の少年鋭菊(ミンチュイ)。歩いて三日もかかる距離を暗夜に出発するが、いつまでたっても辺りは暗いままで何も見えない。やたらぶち当たってくる車は実は亡霊。借りるはずの宿には断られてしまう。と思ったらある家に閉じ込められて寝台に縛られ、上からは刃物が吊るされている。実は鋭菊(ミンチュイ)の父もかつて猿山に登った人間だった。その他いろいろな出来事は合理性を持たずに結びつき、全ての出来事はまさに暗夜のごとく、はっきりとは見えないままに我々を襲うのである。
読書(6/11mixi日記より)
「木魂・毛小棒大」
里見 弴
古谷野敦が選んだ里見弴の埋もれた短編集。里見弴は大衆小説から純文学まで大量にどんどん書いた人だ。しかもここに収録されている「小坪の漁師」は92歳の時の作品。有名な「極楽とんぼ」だって80歳を過ぎて書いているのだから驚きだ。スラスラ書けるのかしらん?文体もスラスラしていて、あっというまに読み進んでしまう、流れるような語り口。それに面白いのは会話で、さすがに口調は昔風だが、男女のやり取りが軽妙洒脱、それでいてリアル。中公文庫。
「海の上」:主人公の友人が、以前雄大な山の上でひとりぼっちだった時、不思議と性的興奮を覚えて自慰行為に走ったそうだが、この主人公も周りに誰もいない海上で全裸になってしまう。この広大な空間の中なのに誰も見ていないという状況でおきる、ふしぎな性衝動を描いためずらしい小説。
「長屋総出」:2~30年このかた住み着いたきりの長屋の住人たち。この設定で連続コメディなど書けそうだ。この短編ではある家の女中がなんか様子がおかしいと思っていると、急に発狂してしまって家を飛び出す。さあそのままにはしておけないので長屋住人総出で街中を探しまわるという大騒動。捕まえては逃げられたりしてね。
「文学」:若い頃作家志望で東京を流浪し、今は人形職人となっている男が久しぶりに小説を書いた。自分の人生がモデルだ。その小説と、それを読んでいる女房という現在のシーンが交代に出てくる、小説ない小説の形式。わかいころ世話になり迷惑もかけたプロ作家にその作品をみてもらうが…。人間的成長と文学的才能は別のものだったか?
「木魂・毛小棒大」
里見 弴
古谷野敦が選んだ里見弴の埋もれた短編集。里見弴は大衆小説から純文学まで大量にどんどん書いた人だ。しかもここに収録されている「小坪の漁師」は92歳の時の作品。有名な「極楽とんぼ」だって80歳を過ぎて書いているのだから驚きだ。スラスラ書けるのかしらん?文体もスラスラしていて、あっというまに読み進んでしまう、流れるような語り口。それに面白いのは会話で、さすがに口調は昔風だが、男女のやり取りが軽妙洒脱、それでいてリアル。中公文庫。
「海の上」:主人公の友人が、以前雄大な山の上でひとりぼっちだった時、不思議と性的興奮を覚えて自慰行為に走ったそうだが、この主人公も周りに誰もいない海上で全裸になってしまう。この広大な空間の中なのに誰も見ていないという状況でおきる、ふしぎな性衝動を描いためずらしい小説。
「長屋総出」:2~30年このかた住み着いたきりの長屋の住人たち。この設定で連続コメディなど書けそうだ。この短編ではある家の女中がなんか様子がおかしいと思っていると、急に発狂してしまって家を飛び出す。さあそのままにはしておけないので長屋住人総出で街中を探しまわるという大騒動。捕まえては逃げられたりしてね。
「文学」:若い頃作家志望で東京を流浪し、今は人形職人となっている男が久しぶりに小説を書いた。自分の人生がモデルだ。その小説と、それを読んでいる女房という現在のシーンが交代に出てくる、小説ない小説の形式。わかいころ世話になり迷惑もかけたプロ作家にその作品をみてもらうが…。人間的成長と文学的才能は別のものだったか?
読書
「R62号の発明・鉛の卵」
安部公房
安部公房は自分の守備範囲だが、面白かったりつまらなかったりする。これは初期短編集だが、いわゆる日本文学的情緒や日常生活感で読める作家ではないのはもとよりなので、発想の特異性が気にならない語り口でないと、自分などは読後殺伐としてしまう。シュールなものも現実の共同体が描かれているものもあるが、どちらかが必ず面白いわけでもなく、なにが自分にとって評価基準となるのか読んでいて自分でもわからない。それがいつも謎。とりあえず奇矯な設定を納得させるのは、リアリティというより文体なのかも知れない。発想主体の短編という作風は、自分と近いかもとは思う。
「鍵」:身寄りをなくした青年が天才的鍵職人の叔父を頼って訪ねてくるが、叔父は自分の発明した鍵の秘密を守るため、容易に打ち解けない。そして叔父のそばには人間ウソ発見器である盲目の娘がいるのだった。オチがあるが、なくてもよかった。
「鏡と呼子」:村の学校に新任教師として赴任したK。ところが校長や教員達、下宿先の長男と老婆など村人は皆猜疑心に取り付かれたようにお互いの動向を気にしている。もしシュールな漫画にねじ式ベースというものがあるとすれば、これは典型的なカフカベース。下宿先の長男が日がな一日、山から望遠鏡で村を観察しているというのが面白く、鏡と呼子は彼の連絡手段である。土俗的な雰囲気と、いろんなことがはっきりしないまま終わるところが味であると思う。これが一番おもしろい。
「鉛の卵」:タイムカプセルである卵形冬眠箱から出てみると、100年後の世界であるはずが80万年後だった。そこには葉緑素を持つサボテンのような人類が!主人公である古代人の生活がアイロニカルに無化されるSF短編の醍醐味あり。しかもちゃんとドンデン返し付き。
「R62号の発明・鉛の卵」
安部公房
安部公房は自分の守備範囲だが、面白かったりつまらなかったりする。これは初期短編集だが、いわゆる日本文学的情緒や日常生活感で読める作家ではないのはもとよりなので、発想の特異性が気にならない語り口でないと、自分などは読後殺伐としてしまう。シュールなものも現実の共同体が描かれているものもあるが、どちらかが必ず面白いわけでもなく、なにが自分にとって評価基準となるのか読んでいて自分でもわからない。それがいつも謎。とりあえず奇矯な設定を納得させるのは、リアリティというより文体なのかも知れない。発想主体の短編という作風は、自分と近いかもとは思う。
「鍵」:身寄りをなくした青年が天才的鍵職人の叔父を頼って訪ねてくるが、叔父は自分の発明した鍵の秘密を守るため、容易に打ち解けない。そして叔父のそばには人間ウソ発見器である盲目の娘がいるのだった。オチがあるが、なくてもよかった。
「鏡と呼子」:村の学校に新任教師として赴任したK。ところが校長や教員達、下宿先の長男と老婆など村人は皆猜疑心に取り付かれたようにお互いの動向を気にしている。もしシュールな漫画にねじ式ベースというものがあるとすれば、これは典型的なカフカベース。下宿先の長男が日がな一日、山から望遠鏡で村を観察しているというのが面白く、鏡と呼子は彼の連絡手段である。土俗的な雰囲気と、いろんなことがはっきりしないまま終わるところが味であると思う。これが一番おもしろい。
「鉛の卵」:タイムカプセルである卵形冬眠箱から出てみると、100年後の世界であるはずが80万年後だった。そこには葉緑素を持つサボテンのような人類が!主人公である古代人の生活がアイロニカルに無化されるSF短編の醍醐味あり。しかもちゃんとドンデン返し付き。