漫画家まどの一哉ブログ
カテゴリー「読書日記」の記事一覧
- 2011.05.12 「迷宮」
- 2011.04.19 仮名草子「竹斎」
- 2011.04.11 「ユリイカ」
- 2011.04.06 「われら」
- 2011.04.02 「今日様」
- 2011.03.22 「地獄編三部作」
- 2011.03.09 「気違い部落周遊紀行」
- 2011.03.05 「よもつひらさか往還」
- 2011.02.27 「悪魔という救い」
- 2011.02.24 「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」
読書(5/8mixiより)
「迷宮」
大西巨人 作
かつて東京文壇で活動していた作家・皆木旅人は、その素性を隠し九州地方で教員をしていたが、やがて謎の自死を遂げる。その自殺を怪しむ縁者の春田は、皆木の他殺を証明するべく奔走。
ところが調査結果はかえってその自殺を裏付けるものばかりだ。やがて明らかとなる老いとともに避けられない皆木の運命とは。そして皆木婦人が使った、ディジタル置き時計カシオ・クォーツのトリックとは?
ミステリーの装いで描かれた人間の運命。
作者特有のおおげさで情緒性のない文体がおもしろい。
例えば、
「九月十三日、春田は新幹線下り東京駅発午前十一時四分の『ひかり』十三号に乗っていた。春田は、昨十二日午後六時三十分より二時間ばかり、東京駅八重洲地下街のレストラン『しらぬい』で鶴島直義と飲食しながら語り合った。午後十時ごろ帰宅した春田は、四、五日前から読みかけのガブリエル・ガルシア・マルケス作(エディス・グロスマン訳)、love in the Time of Cholera(『コレラ時代の恋愛』、「ペンギンブックス」1989年刊)を夜半一時ちょっと過ぎに読み終え、そのあとTVの「深夜映画」でフランス映画『熱風』(1934年作品、演出フョードル・オツェップ、出演マルセル・シャンタル、ヴァレリー・インキジノフ、ジャン・ヨンネルら、原作シュテファン・ツヴァイクの『アモック』)を見て、午前三時二十分に就寝した。」
などどうでもいい設定まで事細かに書かれているが、この細かい記述はストーリーにはまるで関係しないから、読んでいて実に奇妙な感覚に捕らえられる。ナンセンス文学なのだろうか?それでいてまったく退屈しないから不思議だ。
作中登場人物の皆木曰く「作家たるもの老いてもなおクリエイティブパワーを失ってはならず、作品がしだいに身辺雑記的なものになってゆくなら、その作家は既に終わっている。百歳を超えて大長編を構想・執筆するほどの覚悟でなければならない」。これは作者大西巨人の自負あるいは自戒であろうと思われる。
「迷宮」
大西巨人 作
かつて東京文壇で活動していた作家・皆木旅人は、その素性を隠し九州地方で教員をしていたが、やがて謎の自死を遂げる。その自殺を怪しむ縁者の春田は、皆木の他殺を証明するべく奔走。
ところが調査結果はかえってその自殺を裏付けるものばかりだ。やがて明らかとなる老いとともに避けられない皆木の運命とは。そして皆木婦人が使った、ディジタル置き時計カシオ・クォーツのトリックとは?
ミステリーの装いで描かれた人間の運命。
作者特有のおおげさで情緒性のない文体がおもしろい。
例えば、
「九月十三日、春田は新幹線下り東京駅発午前十一時四分の『ひかり』十三号に乗っていた。春田は、昨十二日午後六時三十分より二時間ばかり、東京駅八重洲地下街のレストラン『しらぬい』で鶴島直義と飲食しながら語り合った。午後十時ごろ帰宅した春田は、四、五日前から読みかけのガブリエル・ガルシア・マルケス作(エディス・グロスマン訳)、love in the Time of Cholera(『コレラ時代の恋愛』、「ペンギンブックス」1989年刊)を夜半一時ちょっと過ぎに読み終え、そのあとTVの「深夜映画」でフランス映画『熱風』(1934年作品、演出フョードル・オツェップ、出演マルセル・シャンタル、ヴァレリー・インキジノフ、ジャン・ヨンネルら、原作シュテファン・ツヴァイクの『アモック』)を見て、午前三時二十分に就寝した。」
などどうでもいい設定まで事細かに書かれているが、この細かい記述はストーリーにはまるで関係しないから、読んでいて実に奇妙な感覚に捕らえられる。ナンセンス文学なのだろうか?それでいてまったく退屈しないから不思議だ。
作中登場人物の皆木曰く「作家たるもの老いてもなおクリエイティブパワーを失ってはならず、作品がしだいに身辺雑記的なものになってゆくなら、その作家は既に終わっている。百歳を超えて大長編を構想・執筆するほどの覚悟でなければならない」。これは作者大西巨人の自負あるいは自戒であろうと思われる。
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読書
仮名草子「竹斎」
富山道治 作(1634年没)
京の都で食い詰めたヤブ医者竹斎。思い切って下僕の「にらみの介」をお供に江戸への移住を目指す。その道中記かと思いきや、確かにそうなのだが記述バランスが道中より定点(京都・名古屋・江戸)に置かれていた。出発前に清水寺はじめ、有名な神社仏閣にお参りし、また酒盛りや蹴鞠などをして遊ぶ洛中の人々のようすを見物しては、戯れ歌を一首、二首残していく。例えば蹴鞠を見て
へたのける けまりはぜんしゅ(禅宗)のなまざとり(生悟り)
ありといへどもあたらざりけり
やがて名古屋について、「天下一・やぶくすし・竹斎」という看板を出して、しばし営業に励む。自分でヤブを名乗るところがおもしろく、かえってウケて客をよぶ。ある日、鉄粉が目に入ってしまった鍛冶屋に、磁石を刷り込んだ膏薬を目に貼って、鉄粉の取り出しに成功。これに気を良くしたか梅の実が喉につかえた女にもこの膏薬を使ったところ、梅は出たが目鼻が顔の中央に吸い寄せられてしまう(そんなバカな)。これに「梅の療治は心得たり。目鼻のことはしらぬ」と答えてうちたたかれそうになる。また、井戸に落ちた子供を救出するにもこの磁石入り膏薬を使い、木の蓋に膏薬を貼って吸い付いてくるのを待つのだが、あわれ子供は死んでしまい、竹斎は袋だたきに。
そんな愉快なエピソードも交えつつ、江戸まで行くオハナシ。仮名草子は泰平の世の中を反映してか、無常観は薄いものらしいが、この話はいたるところ諸行無常・諸行無常の嘆き節の連続で、自分はやっぱり仏教的無常観を感じた。
ところで続編「竹斎狂歌物語」で京都まで帰ってくるよ。
仮名草子「竹斎」
富山道治 作(1634年没)
京の都で食い詰めたヤブ医者竹斎。思い切って下僕の「にらみの介」をお供に江戸への移住を目指す。その道中記かと思いきや、確かにそうなのだが記述バランスが道中より定点(京都・名古屋・江戸)に置かれていた。出発前に清水寺はじめ、有名な神社仏閣にお参りし、また酒盛りや蹴鞠などをして遊ぶ洛中の人々のようすを見物しては、戯れ歌を一首、二首残していく。例えば蹴鞠を見て
へたのける けまりはぜんしゅ(禅宗)のなまざとり(生悟り)
ありといへどもあたらざりけり
やがて名古屋について、「天下一・やぶくすし・竹斎」という看板を出して、しばし営業に励む。自分でヤブを名乗るところがおもしろく、かえってウケて客をよぶ。ある日、鉄粉が目に入ってしまった鍛冶屋に、磁石を刷り込んだ膏薬を目に貼って、鉄粉の取り出しに成功。これに気を良くしたか梅の実が喉につかえた女にもこの膏薬を使ったところ、梅は出たが目鼻が顔の中央に吸い寄せられてしまう(そんなバカな)。これに「梅の療治は心得たり。目鼻のことはしらぬ」と答えてうちたたかれそうになる。また、井戸に落ちた子供を救出するにもこの磁石入り膏薬を使い、木の蓋に膏薬を貼って吸い付いてくるのを待つのだが、あわれ子供は死んでしまい、竹斎は袋だたきに。
そんな愉快なエピソードも交えつつ、江戸まで行くオハナシ。仮名草子は泰平の世の中を反映してか、無常観は薄いものらしいが、この話はいたるところ諸行無常・諸行無常の嘆き節の連続で、自分はやっぱり仏教的無常観を感じた。
ところで続編「竹斎狂歌物語」で京都まで帰ってくるよ。
読書(mixi過去日記より)
「ユリイカ」
ポオ作 岩波文庫
わが最愛の幻想文学作家、エドガー・アラン・ポオ最後の作品。当時最先端の宇宙科学論を下敷きに、直感のみで組み立てられた形而上学的宇宙論。いっさいの数学的物理学的検証をともなわない。
壮大なるナンセンスと言えば言えるが、1840年代の天文学を基礎にした解釈は、あながち大ハズレでもない。たとえば、この宇宙は静止した状態ではなく、ある原始の究極の単一にその萌芽があり、斥力に応じて拡大の一途を経、やがて重力作用によって再び原始の単一に戻るであろう。などの論考は、現在のビッグ・バン&ビッグ・クランチ論を先取りしているとも思える。
ところが、太陽系の形成過程について、太陽が自転とともにその遠心力を用いて、次々と質量を解き放ち、それがやがて凝結して順番に惑星が形作られるところなど、まったくオカシイ。
加えてこれは形而上学的試みだから、これらの宇宙の営みは、すべて神のなせる業として導かれている。このあたりの論旨についていくのには、読み手の脳に跳躍力が必要である。
ポオはこの論考を、大きな意味での散文詩と思ってほしいそうだが、いえいえまったく詩になってませんよ。ポオはどうしてこんなものを書き残したかったのか?人間やはり、壮大な宇宙論や存在論を手にすると、本人は絶対正しいつもりなんだから、死ぬ前にどうしても多くの人に語りたくなるのは、天才作家も凡人も同じなのか?
解説によると、かのポール・ヴァレリーは「ユリイカ論」の中で、「人間としての栄光は、空虚な事柄との対決に自己を費やすことのできること」であり、「純粋な論理学は虚偽が真実を意味することを教える」と、精神の求める無稽を讃えて「ユリイカ」を弁護している。
まあ、それを言ったらずるい気もするが、現在自作の中で荒唐無稽な虚妄の世界を目指しているボクとしては原則賛成しておかねばならないかも…。それにしてもやっぱりこれってトンデモ本…?
「ユリイカ」
ポオ作 岩波文庫
わが最愛の幻想文学作家、エドガー・アラン・ポオ最後の作品。当時最先端の宇宙科学論を下敷きに、直感のみで組み立てられた形而上学的宇宙論。いっさいの数学的物理学的検証をともなわない。
壮大なるナンセンスと言えば言えるが、1840年代の天文学を基礎にした解釈は、あながち大ハズレでもない。たとえば、この宇宙は静止した状態ではなく、ある原始の究極の単一にその萌芽があり、斥力に応じて拡大の一途を経、やがて重力作用によって再び原始の単一に戻るであろう。などの論考は、現在のビッグ・バン&ビッグ・クランチ論を先取りしているとも思える。
ところが、太陽系の形成過程について、太陽が自転とともにその遠心力を用いて、次々と質量を解き放ち、それがやがて凝結して順番に惑星が形作られるところなど、まったくオカシイ。
加えてこれは形而上学的試みだから、これらの宇宙の営みは、すべて神のなせる業として導かれている。このあたりの論旨についていくのには、読み手の脳に跳躍力が必要である。
ポオはこの論考を、大きな意味での散文詩と思ってほしいそうだが、いえいえまったく詩になってませんよ。ポオはどうしてこんなものを書き残したかったのか?人間やはり、壮大な宇宙論や存在論を手にすると、本人は絶対正しいつもりなんだから、死ぬ前にどうしても多くの人に語りたくなるのは、天才作家も凡人も同じなのか?
解説によると、かのポール・ヴァレリーは「ユリイカ論」の中で、「人間としての栄光は、空虚な事柄との対決に自己を費やすことのできること」であり、「純粋な論理学は虚偽が真実を意味することを教える」と、精神の求める無稽を讃えて「ユリイカ」を弁護している。
まあ、それを言ったらずるい気もするが、現在自作の中で荒唐無稽な虚妄の世界を目指しているボクとしては原則賛成しておかねばならないかも…。それにしてもやっぱりこれってトンデモ本…?
読書(mixi過去日記より)
「われら」
ザミャーチン作 岩波文庫
200年戦争が終わり、全地球を征服した単一国が誕生して1,000年。恩人様の支配により、人々は睡眠・生殖を含む全生活を、時間律法表で定められたとおりに行っていた。全ての建造物はガラス張りであり、守護者(秘密警察)による監視も徹底している。
自然状態の動植物は、人工物だけで構成された都市をめぐる壁の向こう側に排除されていた。
今にも飛び立たんとする宇宙船インテグラルの制作担当者D-503は、女性I-330に出会って以来、生活が一変。どうやら魂の発生という病気らしい。彼女を追ってたどりついた博物施設「古代館」に迷い込むうち、単一国政府に異を唱える自由な人間(古代人)の集団にめぐり会った。しかし、インテグラル打ち上げ前日、全国民に想像力を奪う脳手術が強制されようとしていた。
1920年代、発表されるや反ソビエトの宣伝小説と批判され、スターリン政権下で亡命せざるをえなかった、ザミャーチンの傑作近未来小説。独裁政権と科学技術が結びついた、暗黒の未来を的確に描く。
ただしこの小説、映画「未来世紀ブラジル」や「マイノリティリポート」を観るように、ストーリーを追ってわくわくと楽しめるかというとさにあらず。散文詩のように、心象が描写され、読者はむしろ沈鬱なイメージの中へ引き込まれ、一章ごとに作者の詩的遊戯を味わうという仕掛け。それ故に捨てがたい名作となった。
「われら」
ザミャーチン作 岩波文庫
200年戦争が終わり、全地球を征服した単一国が誕生して1,000年。恩人様の支配により、人々は睡眠・生殖を含む全生活を、時間律法表で定められたとおりに行っていた。全ての建造物はガラス張りであり、守護者(秘密警察)による監視も徹底している。
自然状態の動植物は、人工物だけで構成された都市をめぐる壁の向こう側に排除されていた。
今にも飛び立たんとする宇宙船インテグラルの制作担当者D-503は、女性I-330に出会って以来、生活が一変。どうやら魂の発生という病気らしい。彼女を追ってたどりついた博物施設「古代館」に迷い込むうち、単一国政府に異を唱える自由な人間(古代人)の集団にめぐり会った。しかし、インテグラル打ち上げ前日、全国民に想像力を奪う脳手術が強制されようとしていた。
1920年代、発表されるや反ソビエトの宣伝小説と批判され、スターリン政権下で亡命せざるをえなかった、ザミャーチンの傑作近未来小説。独裁政権と科学技術が結びついた、暗黒の未来を的確に描く。
ただしこの小説、映画「未来世紀ブラジル」や「マイノリティリポート」を観るように、ストーリーを追ってわくわくと楽しめるかというとさにあらず。散文詩のように、心象が描写され、読者はむしろ沈鬱なイメージの中へ引き込まれ、一章ごとに作者の詩的遊戯を味わうという仕掛け。それ故に捨てがたい名作となった。
読書(MIXI過去日記より)
「今日様」
葉山嘉樹短編小説集
女房のおたねといつもの如くケンカした藤蔵は、ついに離婚して単身満州へ渡ることを決意。親父に資金を迫る。もう60を越えた親父に言わせれば、息子の藤蔵は、朝鮮や樺太に一旗揚げに飛び出しては、失敗して親に尻拭いばかりさせているダメ男。遠い夢ばかり追いかけて、毎日の労働に喜びを見いだせないのだ。
ところがこの親父さんは藤蔵の百姓仕事に地下足袋さえ与えないドケチ人間で、藤蔵に与えられたのは、山の上の水漏れたんぼで、肥料代さえもかけられないというありさま。
さて藤蔵夫婦のケンカの仲裁を頼まれた居候の山田は、おたねの実家へと赴くが、おたねの実父は、生えて育ったから立っているという木のような人間で、なにもしない。
妙に頭のいいおたねは「百姓は永久に圧しつけられる生業の中に、湧いてくる蛆虫だ」とか自説をぶちあげ、母親に「また気違いが始まったよ」と嘆かれる。はたして山田は無事おたねを藤蔵のもとへ連れ帰ることができるのか?
面白すぎる人物設定。
葉山嘉樹(1894~1945)といえば、分類的にはプロレタリア小説家で、たしかに代表作「海に生きる人々」などをみても、資本家の搾取を攻撃するインテリ労働者などが出てくるのだが、そういう箇所を読むと実は自分は気持ちが引いてしまう。
そういう警察になんども捕まっている運動家のような、言葉を操る人物ではない、底辺の生活者だけで構成された話がぐっとくる。
室蘭から荒海に乗り出す小さな石炭運搬船の水夫達や、天竜川上流に鉄道施設のためトンネルを掘る坑夫達など、作者の肉体労働体験がリアルで、あたまでっかちにならない。
有名な「セメント樽の中の手紙」は菅野修によって、漫画化されています。(ガロ1991.10月)
「今日様」
葉山嘉樹短編小説集
女房のおたねといつもの如くケンカした藤蔵は、ついに離婚して単身満州へ渡ることを決意。親父に資金を迫る。もう60を越えた親父に言わせれば、息子の藤蔵は、朝鮮や樺太に一旗揚げに飛び出しては、失敗して親に尻拭いばかりさせているダメ男。遠い夢ばかり追いかけて、毎日の労働に喜びを見いだせないのだ。
ところがこの親父さんは藤蔵の百姓仕事に地下足袋さえ与えないドケチ人間で、藤蔵に与えられたのは、山の上の水漏れたんぼで、肥料代さえもかけられないというありさま。
さて藤蔵夫婦のケンカの仲裁を頼まれた居候の山田は、おたねの実家へと赴くが、おたねの実父は、生えて育ったから立っているという木のような人間で、なにもしない。
妙に頭のいいおたねは「百姓は永久に圧しつけられる生業の中に、湧いてくる蛆虫だ」とか自説をぶちあげ、母親に「また気違いが始まったよ」と嘆かれる。はたして山田は無事おたねを藤蔵のもとへ連れ帰ることができるのか?
面白すぎる人物設定。
葉山嘉樹(1894~1945)といえば、分類的にはプロレタリア小説家で、たしかに代表作「海に生きる人々」などをみても、資本家の搾取を攻撃するインテリ労働者などが出てくるのだが、そういう箇所を読むと実は自分は気持ちが引いてしまう。
そういう警察になんども捕まっている運動家のような、言葉を操る人物ではない、底辺の生活者だけで構成された話がぐっとくる。
室蘭から荒海に乗り出す小さな石炭運搬船の水夫達や、天竜川上流に鉄道施設のためトンネルを掘る坑夫達など、作者の肉体労働体験がリアルで、あたまでっかちにならない。
有名な「セメント樽の中の手紙」は菅野修によって、漫画化されています。(ガロ1991.10月)
読書
「地獄編三部作」
大西巨人 作
ごつごつとした観念的な抽象的な言葉で彫琢された文体。骨格だけがむき出しになっているような、がちがちの文章。それが論理を展開するために使われるのではなく、あくまでも小説の役割として使われていて、つまり人物の内面や情景描写のために使われていて、読んでいるとクラクラと引き込まれる。こんな文体があったのか!という印象。これも美文の一種だ。例えば
__それは、遠い以前に税所が見失った「人間性への確信」および「生と存在の肯定」の回復可能に関する幽かな予感の瞬きであった。その明滅する微光を抱き締めながら、税所は、一人の女性との合一の意志を・瑞枝との結婚の決意を、彼の内側に育成することができた。
__そんなふうに、敗戦後の税所は、たまたまみずから省みては、そのたびごとに、彼自身の過去を恥辱と醜悪と卑屈と汚穢との堆積としか感ずることができなくて、そういう唾棄するべき彼自身をほとほとこの世から抹殺したいほどに激甚な疼きの発作を心裏に覚えるのであった。
こんな調子です。
小説は第一部で台本形式,日記形式などを織りまぜながら、第二部はまるごと小説内小説になっているといったコラージュ的面白さがある。またこの小説が未発表を余儀なくされた理由である、当時の作家・批評家達が誰と分かる仮名(坂口鮟鱇・汁菜輪蔵など)で登場するパロディもあり、この作者の愉快な資質がうかがわれるというもんだ。
さて地獄編ときいて、どんな地獄かなと思うと、これが女を死に至らしめる罪作りな主人公の内面的煩悶である。そのあたりはよくある話で、それ自体は自分はどうでもよかった。
「地獄編三部作」
大西巨人 作
ごつごつとした観念的な抽象的な言葉で彫琢された文体。骨格だけがむき出しになっているような、がちがちの文章。それが論理を展開するために使われるのではなく、あくまでも小説の役割として使われていて、つまり人物の内面や情景描写のために使われていて、読んでいるとクラクラと引き込まれる。こんな文体があったのか!という印象。これも美文の一種だ。例えば
__それは、遠い以前に税所が見失った「人間性への確信」および「生と存在の肯定」の回復可能に関する幽かな予感の瞬きであった。その明滅する微光を抱き締めながら、税所は、一人の女性との合一の意志を・瑞枝との結婚の決意を、彼の内側に育成することができた。
__そんなふうに、敗戦後の税所は、たまたまみずから省みては、そのたびごとに、彼自身の過去を恥辱と醜悪と卑屈と汚穢との堆積としか感ずることができなくて、そういう唾棄するべき彼自身をほとほとこの世から抹殺したいほどに激甚な疼きの発作を心裏に覚えるのであった。
こんな調子です。
小説は第一部で台本形式,日記形式などを織りまぜながら、第二部はまるごと小説内小説になっているといったコラージュ的面白さがある。またこの小説が未発表を余儀なくされた理由である、当時の作家・批評家達が誰と分かる仮名(坂口鮟鱇・汁菜輪蔵など)で登場するパロディもあり、この作者の愉快な資質がうかがわれるというもんだ。
さて地獄編ときいて、どんな地獄かなと思うと、これが女を死に至らしめる罪作りな主人公の内面的煩悶である。そのあたりはよくある話で、それ自体は自分はどうでもよかった。
読書(mixi過去日記より)
「気違い部落周遊紀行」
きだ みのる著(冨山房百科文庫)
戦中から戦後にかけて、東京都下の山村に住んだ著者が、その村社会を活写したフィールドワーク。
フランスの社会学・人類学の翻訳家である著者が、都市生活者の目で観た、伝統的で閉鎖的な日本の村社会。それははたして「気違い部落」と呼ばれるほどの驚きを持ったものなのか、はたまた逆にそれを笑う都会人のほうが「気違い部落」の住人なのか。
著者が移り住んだのは山寺だが、ここの住職は「人間、肉体の欲望に忠実に生きることこそ真実」との哲学のもとに、博打と女買いにあけくれたあげく行方不明になっていて、かわりに蓄音機が経を読むという合理的なシステムになっていておかしい。
村人はもちろん自分の作る農作物の改良・増産には感心があるが、それは自分家だけが抜け駆けできる場合に限った話で、全体の収穫が上がったのでは結局価格が下がるだけだから、自分の畑だけの豊作を考える。
したがって私欲の満たされない、山の木を刈るなどの共同作業は、たき火の周りでだべっていることに多くの時間が割かれ、まったくもって進まない。
もちろん隣人が病気になったときなどは、相互扶助の精神が自然と発揮されて、大切な卵でも気前よく分け与えたりもするが、これが単に食料に困窮しているとなると、とたんに弱肉強食の自然状態となり、たまごは高く売りつけられるのである。
と、要約していくとキリがなく、戦後民主主義下での村議選の様子などは、選挙前から義理と実弾によって当選者が決まっているところなど、今もっておなじみの風景だ。
10年以上前初読の時には、都会とは違う、今も残る村社会の後進性を描いたものだと思ったが、今回再読してみて感じるのは、なんのなんの、これは現在も変わらぬ都会も含めた、日本社会そのものであり、それどころか人類全体に通じる本質だということ。世界中いつだって人間のやることはこういうもんだよ。
「気違い部落周遊紀行」
きだ みのる著(冨山房百科文庫)
戦中から戦後にかけて、東京都下の山村に住んだ著者が、その村社会を活写したフィールドワーク。
フランスの社会学・人類学の翻訳家である著者が、都市生活者の目で観た、伝統的で閉鎖的な日本の村社会。それははたして「気違い部落」と呼ばれるほどの驚きを持ったものなのか、はたまた逆にそれを笑う都会人のほうが「気違い部落」の住人なのか。
著者が移り住んだのは山寺だが、ここの住職は「人間、肉体の欲望に忠実に生きることこそ真実」との哲学のもとに、博打と女買いにあけくれたあげく行方不明になっていて、かわりに蓄音機が経を読むという合理的なシステムになっていておかしい。
村人はもちろん自分の作る農作物の改良・増産には感心があるが、それは自分家だけが抜け駆けできる場合に限った話で、全体の収穫が上がったのでは結局価格が下がるだけだから、自分の畑だけの豊作を考える。
したがって私欲の満たされない、山の木を刈るなどの共同作業は、たき火の周りでだべっていることに多くの時間が割かれ、まったくもって進まない。
もちろん隣人が病気になったときなどは、相互扶助の精神が自然と発揮されて、大切な卵でも気前よく分け与えたりもするが、これが単に食料に困窮しているとなると、とたんに弱肉強食の自然状態となり、たまごは高く売りつけられるのである。
と、要約していくとキリがなく、戦後民主主義下での村議選の様子などは、選挙前から義理と実弾によって当選者が決まっているところなど、今もっておなじみの風景だ。
10年以上前初読の時には、都会とは違う、今も残る村社会の後進性を描いたものだと思ったが、今回再読してみて感じるのは、なんのなんの、これは現在も変わらぬ都会も含めた、日本社会そのものであり、それどころか人類全体に通じる本質だということ。世界中いつだって人間のやることはこういうもんだよ。
読書(mixi過去日記より)
「よもつひらさか往還」
倉橋由美子
うら若き男子、主人公の慧(けい)くんは、とある古いクラブで不思議なバーテンダーの九鬼さんと知り合う。九鬼さんの作る色鮮やかなカクテルを飲み干すたび、慧くんの魂はこの世を離れて、冥界を彷徨いだし、妖しい女達と都合良くも情交をかわすという短編連作。
途中九鬼さんはいとも簡単に自ら命を絶って(ネタバレ)、その後はいつ何処へでも融通無碍に出現して、いよいよもって、あの世とこの世を繋ぐ案内人としての正体を現すのだった。
怪奇幻想の中にもアイロニーと毒をたっぷりと含む倉橋由美子にしては、この作品はわりと素直にきれいな幻想譚で、主人公の青年は女に寵愛されるタイプという設定が、現実から読者を解き放つミソのような気がする。ただ自分としてはやはり毒がないと物足りない…。
「よもつひらさか往還」
倉橋由美子
うら若き男子、主人公の慧(けい)くんは、とある古いクラブで不思議なバーテンダーの九鬼さんと知り合う。九鬼さんの作る色鮮やかなカクテルを飲み干すたび、慧くんの魂はこの世を離れて、冥界を彷徨いだし、妖しい女達と都合良くも情交をかわすという短編連作。
途中九鬼さんはいとも簡単に自ら命を絶って(ネタバレ)、その後はいつ何処へでも融通無碍に出現して、いよいよもって、あの世とこの世を繋ぐ案内人としての正体を現すのだった。
怪奇幻想の中にもアイロニーと毒をたっぷりと含む倉橋由美子にしては、この作品はわりと素直にきれいな幻想譚で、主人公の青年は女に寵愛されるタイプという設定が、現実から読者を解き放つミソのような気がする。ただ自分としてはやはり毒がないと物足りない…。
読書
「悪魔という救い」
菊地章太 著
しばしば映画やドラマの題材となる悪魔憑きと悪魔祓い。カトリックの社会で今現在も廃れるどころかさらに勢いを増すこの伝統について、有名な映画を手がかりとしながら考える。
その映画作品とは「エクソシスト」「エミリーローズ」「尼僧ヨアンナ」である。映画に疎い自分はどれも未見だが、うっすらとは知っていた。どの作品もカトリック界で正式に定められた悪魔祓いの方法を忠実に再現していて、なかには本物の神父たちも登用されているくらいだ。そして悪魔に憑かれた主人公たちのみせる症状も実例をもとに描かれている。有名なブリッジ歩きや、肌に現れる聖痕(スティグマ)。他人の声でうなるように叫ぶ、異常なものを吐き出すなど。しかしこれらはすべて現在の精神医学で解説できるヒステリー患者の症例と同じで、まったく神がかり(悪魔がかり)的なものではない。簡単にいえば、悪魔なんていない。
興味深いのはその文化的背景で、絶対悪である悪魔と対決して闘うといった苛烈な設定は、西洋キリスト教社会に特有なもので、我が日本社会ではありえないというところである。著者は個人ひとりひとりが唯一神と対峙するキリスト教社会と、個が曖昧でつねに全体性を重んじる日本社会との違いを理由にあげるが、そうかもしれない。ボクが思い出すのは、例えば臨死体験でふれる死後の世界が文化によって違っていて、東洋では閻魔様に出会ってくるといった体験があるが、まさか西洋人が閻魔様に出会うことはあるまい。とうぜんだが、悪魔や地獄もそれぞれの文化で長く蓄積されたものを、われわれは無意識の世界で引き継いでいる。考えではなく宗教的体験が違う。この著作では東南アジアのかなり親和的な悪魔の例があげられていて面白かった。
さて、苦しむ人間は精神医学や心理学の処方ではなしに、もっと大きなすべてを包みこんでくれるような理解を求めていて、それが神様を作り出すとともに悪魔をも必要としているのではないか。もちろんすべてを悪魔のせいにするワケではないが、個や自由を見つめ直したときに、神による救いと同時に悪魔による救いもあるのではないかというのがこの本の結論めいたところ。なるほど。
「悪魔という救い」
菊地章太 著
しばしば映画やドラマの題材となる悪魔憑きと悪魔祓い。カトリックの社会で今現在も廃れるどころかさらに勢いを増すこの伝統について、有名な映画を手がかりとしながら考える。
その映画作品とは「エクソシスト」「エミリーローズ」「尼僧ヨアンナ」である。映画に疎い自分はどれも未見だが、うっすらとは知っていた。どの作品もカトリック界で正式に定められた悪魔祓いの方法を忠実に再現していて、なかには本物の神父たちも登用されているくらいだ。そして悪魔に憑かれた主人公たちのみせる症状も実例をもとに描かれている。有名なブリッジ歩きや、肌に現れる聖痕(スティグマ)。他人の声でうなるように叫ぶ、異常なものを吐き出すなど。しかしこれらはすべて現在の精神医学で解説できるヒステリー患者の症例と同じで、まったく神がかり(悪魔がかり)的なものではない。簡単にいえば、悪魔なんていない。
興味深いのはその文化的背景で、絶対悪である悪魔と対決して闘うといった苛烈な設定は、西洋キリスト教社会に特有なもので、我が日本社会ではありえないというところである。著者は個人ひとりひとりが唯一神と対峙するキリスト教社会と、個が曖昧でつねに全体性を重んじる日本社会との違いを理由にあげるが、そうかもしれない。ボクが思い出すのは、例えば臨死体験でふれる死後の世界が文化によって違っていて、東洋では閻魔様に出会ってくるといった体験があるが、まさか西洋人が閻魔様に出会うことはあるまい。とうぜんだが、悪魔や地獄もそれぞれの文化で長く蓄積されたものを、われわれは無意識の世界で引き継いでいる。考えではなく宗教的体験が違う。この著作では東南アジアのかなり親和的な悪魔の例があげられていて面白かった。
さて、苦しむ人間は精神医学や心理学の処方ではなしに、もっと大きなすべてを包みこんでくれるような理解を求めていて、それが神様を作り出すとともに悪魔をも必要としているのではないか。もちろんすべてを悪魔のせいにするワケではないが、個や自由を見つめ直したときに、神による救いと同時に悪魔による救いもあるのではないかというのがこの本の結論めいたところ。なるほど。
読書
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」
内山 節 著
昔から日本人の生活の中でごく自然にあった「キツネにだまされる話」。
これがしだいに廃れて語られなくなったのが、どうやら1965年頃らしいという興味深い発見から始まる哲学的エッセイ。それがほんとうだとすると、そのころから日本人の生活の仕方が大きく変わったのではないか。ちょうど高度経済成長のただなかで、キツネが暮らす農山村でも経済発展のみを追いかける生き方が主流となった。また科学技術を信奉して迷信を排し、テレビや電話の普及によってコミュニケーションのあり方が変化した。進学率が高まって伝統的な村の教育より全国一律の受験教育優先となり、村の自然と共同体のなかで生きることを離れて死生観が変わった。と、なるほどこれらの変化を1965年を境にして考えるならば、キツネとの交流を失っていくのは当然で、素直に納得できる話だ。
ところがこの著作は実は「歴史哲学序説」であって、ここからがおもしろいのだ。
人類は進歩・発展するものとして直線的に過去を振り返るのが現在の歴史の見方であり、後れた社会から技術・経済・人権などが発達した現代社会へと進んでいくものとして書かれる。
そういった発達していく歴史ではない、過去をのりこえようとしないあるがままの自然と一体となった村の暮らし。生者と死者がともに生きていく暮らし。そこにも歴史というものはあるのではないか。それが人々がキツネにだまされて生きてきた歴史ではないか。
いきなりだが、主観は世界から先がけて存在しているのではなく、世界に向き合うことによって立ち上がってくるものだ。したがって世界から独立した主観というものは存在しないし、主観を排することもできない。歴史学が客観的事実としているものは、あくまで主観によって選びとられた客観的事実である。
そしてそれは合理的な知性の働きであるけれども、その知性は現在の問題意識によって記憶を選びとっていくから、それだけが歴史であったように見えてしまう。
ところが記憶にはふだん意識されないものもずいぶんあって、何かの拍子に思い出すこともある。また手や身体が覚えている記憶もわざわざ言葉では意識されない。われわれが主体的な意識と思っているものは、実は記憶の中のごく一部にすぎない。つまり知性は生命のごく一部にすぎないとすれば、知性で歴史をとらえていくことは生命の歴史を見えなくしてしまうのではないか。そうやって見えない記憶・身体の記憶・生命の記憶を忘れていく過程で、われわれはキツネにだまされなくなってしまったのである。
以上は現代哲学ではベーシックな考え方となっているらしいが、これをわざわざ歴史という言葉でとらえることにより、現代の私たちの生き方を反省することができるというもんだ。やはり社会や自然との共生感を取り戻さなければ、生きることも死ぬこともつらくなるよ。これって大事だよ。う〜む。
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」
内山 節 著
昔から日本人の生活の中でごく自然にあった「キツネにだまされる話」。
これがしだいに廃れて語られなくなったのが、どうやら1965年頃らしいという興味深い発見から始まる哲学的エッセイ。それがほんとうだとすると、そのころから日本人の生活の仕方が大きく変わったのではないか。ちょうど高度経済成長のただなかで、キツネが暮らす農山村でも経済発展のみを追いかける生き方が主流となった。また科学技術を信奉して迷信を排し、テレビや電話の普及によってコミュニケーションのあり方が変化した。進学率が高まって伝統的な村の教育より全国一律の受験教育優先となり、村の自然と共同体のなかで生きることを離れて死生観が変わった。と、なるほどこれらの変化を1965年を境にして考えるならば、キツネとの交流を失っていくのは当然で、素直に納得できる話だ。
ところがこの著作は実は「歴史哲学序説」であって、ここからがおもしろいのだ。
人類は進歩・発展するものとして直線的に過去を振り返るのが現在の歴史の見方であり、後れた社会から技術・経済・人権などが発達した現代社会へと進んでいくものとして書かれる。
そういった発達していく歴史ではない、過去をのりこえようとしないあるがままの自然と一体となった村の暮らし。生者と死者がともに生きていく暮らし。そこにも歴史というものはあるのではないか。それが人々がキツネにだまされて生きてきた歴史ではないか。
いきなりだが、主観は世界から先がけて存在しているのではなく、世界に向き合うことによって立ち上がってくるものだ。したがって世界から独立した主観というものは存在しないし、主観を排することもできない。歴史学が客観的事実としているものは、あくまで主観によって選びとられた客観的事実である。
そしてそれは合理的な知性の働きであるけれども、その知性は現在の問題意識によって記憶を選びとっていくから、それだけが歴史であったように見えてしまう。
ところが記憶にはふだん意識されないものもずいぶんあって、何かの拍子に思い出すこともある。また手や身体が覚えている記憶もわざわざ言葉では意識されない。われわれが主体的な意識と思っているものは、実は記憶の中のごく一部にすぎない。つまり知性は生命のごく一部にすぎないとすれば、知性で歴史をとらえていくことは生命の歴史を見えなくしてしまうのではないか。そうやって見えない記憶・身体の記憶・生命の記憶を忘れていく過程で、われわれはキツネにだまされなくなってしまったのである。
以上は現代哲学ではベーシックな考え方となっているらしいが、これをわざわざ歴史という言葉でとらえることにより、現代の私たちの生き方を反省することができるというもんだ。やはり社会や自然との共生感を取り戻さなければ、生きることも死ぬこともつらくなるよ。これって大事だよ。う〜む。