漫画家まどの一哉ブログ
カテゴリー「読書日記」の記事一覧
読書(mixi過去日記より)
「馬」
小島信夫 作
小島信夫は2~3冊持っているのだが、
新潮文庫で改版された「アメリカン・スクール」が出たので買ってみた。
8編の短編のうちには既読のものもあるが、やはりたのしい。
そのうちの一編「馬」を紹介。
主人公の知らないうちに、自宅庭で増築工事が始まった。すべて妻のへそくりと画策によるものらしい。その二階屋の二階に自分は住むことになっているのだが、なんと一階には馬が住むという。腹を立てた自分は大工の棟梁を殴りつけようとして、梯子から落ち病院へかつぎこまれた。病院の窓から自宅を見ると、妻は頭領とできているようだし、よく見ると頭領と思った人影は自分のようでもある。どうやらここは脳病院のようで、やがて精悍な馬がやってきて、妻は日ごとに馬べったりの暮らしをおくり、自分はなんとか馬を征服しようと試みるのだが…。
つげ義春の夢漫画を読んでいるようなシュールな感覚。日本幻想文学中、十指にあげるかもしれないくらい気に入りました。
その他「鬼」「小銃」「星」など、主人公の私はつねに世界との関係で、ほんろうされるばかりだ。
例によって解説は保坂和志。
「馬」
小島信夫 作
小島信夫は2~3冊持っているのだが、
新潮文庫で改版された「アメリカン・スクール」が出たので買ってみた。
8編の短編のうちには既読のものもあるが、やはりたのしい。
そのうちの一編「馬」を紹介。
主人公の知らないうちに、自宅庭で増築工事が始まった。すべて妻のへそくりと画策によるものらしい。その二階屋の二階に自分は住むことになっているのだが、なんと一階には馬が住むという。腹を立てた自分は大工の棟梁を殴りつけようとして、梯子から落ち病院へかつぎこまれた。病院の窓から自宅を見ると、妻は頭領とできているようだし、よく見ると頭領と思った人影は自分のようでもある。どうやらここは脳病院のようで、やがて精悍な馬がやってきて、妻は日ごとに馬べったりの暮らしをおくり、自分はなんとか馬を征服しようと試みるのだが…。
つげ義春の夢漫画を読んでいるようなシュールな感覚。日本幻想文学中、十指にあげるかもしれないくらい気に入りました。
その他「鬼」「小銃」「星」など、主人公の私はつねに世界との関係で、ほんろうされるばかりだ。
例によって解説は保坂和志。
PR
読書
「ヴェニスに死す」
トオマス・マン 作
ヴィスコンティの映画を見ずして原作を読んだ。
既に国内で実績を積んだ初老の作家が、休養のためヴェニスを訪れ、そこで出会ったギリシャ彫刻のごとき美少年に心奪われる。作家は少年の美しさの虜となるにしたがって、しだいに大家としてのプライドを失い、日夜少年のあとをつけまわして過ごすのであったが、やがて流行りの伝染病にかかって息を引き取るのであった。
ある年齢以上になると、大人として自分を律する部分を無くしていくところが、さもありなんと思う。理知ある社会人としてのふるまいも、そうそう続けていては疲れる。人間は堕ちてゆくことによって解放を得なければならない。普段から愚行が大切だ。
愚行と言ってはあんまりだが、作中くりかえされる美に対する会話形式のモノローグには真実がある。以下。
芸術家が、精神的なものを追い求めて進む美への道は、必ず人を邪路にみちびくもの。危険で愛すべき道であり、真に邪道であり、罪の道であること。つまり必ずエロスの神が道づれになって道案内をするにきまっている。われわれを高めるものは情熱であり、恋愛ならざるを得ない。これでわれわれ詩人(芸術家)が聡明でも尊厳でもなく、人々を奈落へつれてゆくものであることがわかる。
と、いうわけで、美への道は純粋だが、それゆえにその正体は恋愛とエロスを含み、理知と経験をかなぐりすててこそ得ることができるのということか。これが老齢に達するにしたがって、いよいよ人間に残された情熱として高まりこそすれ、衰えないところが皮肉なものだ。
「ヴェニスに死す」
トオマス・マン 作
ヴィスコンティの映画を見ずして原作を読んだ。
既に国内で実績を積んだ初老の作家が、休養のためヴェニスを訪れ、そこで出会ったギリシャ彫刻のごとき美少年に心奪われる。作家は少年の美しさの虜となるにしたがって、しだいに大家としてのプライドを失い、日夜少年のあとをつけまわして過ごすのであったが、やがて流行りの伝染病にかかって息を引き取るのであった。
ある年齢以上になると、大人として自分を律する部分を無くしていくところが、さもありなんと思う。理知ある社会人としてのふるまいも、そうそう続けていては疲れる。人間は堕ちてゆくことによって解放を得なければならない。普段から愚行が大切だ。
愚行と言ってはあんまりだが、作中くりかえされる美に対する会話形式のモノローグには真実がある。以下。
芸術家が、精神的なものを追い求めて進む美への道は、必ず人を邪路にみちびくもの。危険で愛すべき道であり、真に邪道であり、罪の道であること。つまり必ずエロスの神が道づれになって道案内をするにきまっている。われわれを高めるものは情熱であり、恋愛ならざるを得ない。これでわれわれ詩人(芸術家)が聡明でも尊厳でもなく、人々を奈落へつれてゆくものであることがわかる。
と、いうわけで、美への道は純粋だが、それゆえにその正体は恋愛とエロスを含み、理知と経験をかなぐりすててこそ得ることができるのということか。これが老齢に達するにしたがって、いよいよ人間に残された情熱として高まりこそすれ、衰えないところが皮肉なものだ。
読書(mixi過去日記より)
「十三人組物語」
バルザック 作
ナポレオン帝政期のパリに潜む秘密結社「十三人組」。知力・財力・行動力豊かで名望もある男達が、実は秘密結社を組織し、人知れず社会を裏面から動かしている。という設定を背景として語られる三話のオムニバス小説。実は「十三人組」は、道具立てにすぎず、ほんの少し顔を出すだけ。
第一話「フェラギュス」
第二話「ランジェ公爵夫人」
第三話「金色の眼の娘」
面白かったのは第二話「ランジェ公爵夫人」だ。
絶海の孤島に位置する修道院を訪れたモンリヴォー将軍は、そこでオルガンを演奏し、聖歌を歌うかつての恋人(ランジェ公爵夫人)を発見する。面会を許されたモンリヴォー将軍は、彼女の変わらぬ愛を確認し、必ずや彼女を奪還することを誓うが、そもそもなぜ彼女はこうして世俗との関わりを一切断つ生活に入ったのだろうか…。
話は数年前に戻る。
冒険家として名声を馳せたモンリヴォー将軍は、一躍社交界の人気者となるが、その将軍にいちばん引かれたのがランジェ公爵夫人だった。将軍のほうもランジェ公爵夫人に引かれ、その思いはしだいに真摯なものとなって行く。だが、事実上破綻状態にあるとは言え、夫人は夫のある身。また自身のプライドも手伝って、ある一線以上に将軍を迎え入れることはなく、毎夜話をするだけで退けていたのだ。
ついに将軍はそのあしらいに侮辱を感じ、復習の鬼と化して夫人との関係を絶つ。そうなってみて初めて、ランジェ公爵夫人は将軍への思いに身もだえるようになり、一途に彼を追い求めることになるが、時すでに遅く、夫人は絶望のあまり神に仕える道へ身を投じたのだった。
さて、モンリヴォー将軍は「十三人組」の仲間とともに、ランジェ公爵夫人を修道院から奪い去ることができたのでしょうか?
バルザックは銭金(ゼニカネ)の話がおもしろくて読んでいるのだが、こういう恋愛ものもけっこうよかった。
ところで第一話のなかにこんなシーンがある。
ある登場人物の馬車めがけて、建築現場のてっぺんから石材が落ちてくる。また馬車の車軸が突然折れて大事故になり、調べてみると車軸がいつのまにか折れやすいものに差し替えらいる。それでこの人物は「俺は命を狙われている!」と気付く。
というものだが、これって今でもミステリーやサスペンスでよくありますよね。バルザックが始めたのかは解らないが、昔からずーっと皆で使ってきたんだね。
追記:最近映画化されたはず。
「十三人組物語」
バルザック 作
ナポレオン帝政期のパリに潜む秘密結社「十三人組」。知力・財力・行動力豊かで名望もある男達が、実は秘密結社を組織し、人知れず社会を裏面から動かしている。という設定を背景として語られる三話のオムニバス小説。実は「十三人組」は、道具立てにすぎず、ほんの少し顔を出すだけ。
第一話「フェラギュス」
第二話「ランジェ公爵夫人」
第三話「金色の眼の娘」
面白かったのは第二話「ランジェ公爵夫人」だ。
絶海の孤島に位置する修道院を訪れたモンリヴォー将軍は、そこでオルガンを演奏し、聖歌を歌うかつての恋人(ランジェ公爵夫人)を発見する。面会を許されたモンリヴォー将軍は、彼女の変わらぬ愛を確認し、必ずや彼女を奪還することを誓うが、そもそもなぜ彼女はこうして世俗との関わりを一切断つ生活に入ったのだろうか…。
話は数年前に戻る。
冒険家として名声を馳せたモンリヴォー将軍は、一躍社交界の人気者となるが、その将軍にいちばん引かれたのがランジェ公爵夫人だった。将軍のほうもランジェ公爵夫人に引かれ、その思いはしだいに真摯なものとなって行く。だが、事実上破綻状態にあるとは言え、夫人は夫のある身。また自身のプライドも手伝って、ある一線以上に将軍を迎え入れることはなく、毎夜話をするだけで退けていたのだ。
ついに将軍はそのあしらいに侮辱を感じ、復習の鬼と化して夫人との関係を絶つ。そうなってみて初めて、ランジェ公爵夫人は将軍への思いに身もだえるようになり、一途に彼を追い求めることになるが、時すでに遅く、夫人は絶望のあまり神に仕える道へ身を投じたのだった。
さて、モンリヴォー将軍は「十三人組」の仲間とともに、ランジェ公爵夫人を修道院から奪い去ることができたのでしょうか?
バルザックは銭金(ゼニカネ)の話がおもしろくて読んでいるのだが、こういう恋愛ものもけっこうよかった。
ところで第一話のなかにこんなシーンがある。
ある登場人物の馬車めがけて、建築現場のてっぺんから石材が落ちてくる。また馬車の車軸が突然折れて大事故になり、調べてみると車軸がいつのまにか折れやすいものに差し替えらいる。それでこの人物は「俺は命を狙われている!」と気付く。
というものだが、これって今でもミステリーやサスペンスでよくありますよね。バルザックが始めたのかは解らないが、昔からずーっと皆で使ってきたんだね。
追記:最近映画化されたはず。
読書
「大火」
里見弴 作
花魁今紫を贔屓に通ってくるのは、向島のご隠居と資産家の息子である法科大学生の三郎だった。その日は昼間から南の大風が強く吹く日であったが、やがて半鐘が鳴りだす。5階まで上がる高い時計台から見下ろして、やあこちらは風上だから大丈夫だと安心しているうち、よもや火の手はすぐ近くまで迫っていて、楼閣の者あわてて荷物をまとめ、ついに廓外へ逃げ延びるまでを、三郎と今紫を中心に描いた短編。
里見弴はなんといってもその絶妙の語り口が魅力で、流麗でリアルで粋でしみじみとする。会話もおもわず情が移るおもしろさ。「やぶれ太鼓」という短編は、ある幇間(たいこもち)の流れ流れる浮き草のような人生の行く末を描いたはなしだが、自分はこれを読んで久保田万太郎の「末枯」を思いだした。「末枯」は、やはり落語家の流れ行く人生を、平易で美しい文体で描いた小説だ。
いまどき大正時代の花柳界や芸人を描いた小説を誰が読むだろうかとも思うし、だいたいこの日記を読んでくれている人が、里見弴や久保田万太郎を知っているとも思えない。しかも自分のようなシュール系に束ねられる漫画家が、こんな旧き東京の人情話を好んで読んでいるのも妙な具合だが、たんなる人情話ではない。その魅力はたぶん人生に対する諦観と、なによりその絶妙の文章で、平易な美文というものが自分は大好きなのである。
「大火」
里見弴 作
花魁今紫を贔屓に通ってくるのは、向島のご隠居と資産家の息子である法科大学生の三郎だった。その日は昼間から南の大風が強く吹く日であったが、やがて半鐘が鳴りだす。5階まで上がる高い時計台から見下ろして、やあこちらは風上だから大丈夫だと安心しているうち、よもや火の手はすぐ近くまで迫っていて、楼閣の者あわてて荷物をまとめ、ついに廓外へ逃げ延びるまでを、三郎と今紫を中心に描いた短編。
里見弴はなんといってもその絶妙の語り口が魅力で、流麗でリアルで粋でしみじみとする。会話もおもわず情が移るおもしろさ。「やぶれ太鼓」という短編は、ある幇間(たいこもち)の流れ流れる浮き草のような人生の行く末を描いたはなしだが、自分はこれを読んで久保田万太郎の「末枯」を思いだした。「末枯」は、やはり落語家の流れ行く人生を、平易で美しい文体で描いた小説だ。
いまどき大正時代の花柳界や芸人を描いた小説を誰が読むだろうかとも思うし、だいたいこの日記を読んでくれている人が、里見弴や久保田万太郎を知っているとも思えない。しかも自分のようなシュール系に束ねられる漫画家が、こんな旧き東京の人情話を好んで読んでいるのも妙な具合だが、たんなる人情話ではない。その魅力はたぶん人生に対する諦観と、なによりその絶妙の文章で、平易な美文というものが自分は大好きなのである。
読書
「取り替え子(チェンジリング)」
大江健三郎 作
作者大江健三郎と俳優であり映画監督であった伊丹十三とは、四国松山時代からの旧友であり、また伊丹の妹を妻に持つ作者にとって、伊丹十三は義兄でもある。その伊丹十三の有名な飛び降り自殺事件をモチーフに、もちろんすべて作中の人物としての仮名で書かれた小説。
といっても事件のなぞを振り返るドキュメンタリー小説ではなく、現実を現実のまま強固に残しながら、氾濫する空想とからめてしまう、作者特有の方法がなんとも不思議な作品だ。
たとえば主人公である作者は、死んだ友人と生前交換していたテープ録音を再生しては、死者との対話をさらにつづけるのだ。その過程でしだいしだいに自死直前の心理があきらかになるが、そのまま物語は少年時代、四国山中での国粋主義集団との交流にまで遡り、作者と友人が共有する決定的な体験が語られる。その体験で友人(伊丹十三)は、美しい少年から、外の世界とテロルにふれた者として変わってしまったのだ。取り替えられた子供だったのだ。物語は終盤センダリックの絵本に登場する、悪鬼に取り替えられた子供のはなしと連関して終わるが、まんまと作者にだまされて読まされてしまった。
心地よく騙された気がするのは、やはり圧倒的な事件性を持つ現実と、夢幻的な想像力との融合があるからで、その空想のスタイルがすなわち作家の思想であり、意識的な部分ではテーマでもあるわけだが、それがこんなふうに出来上がっているところがただごとではない。
「取り替え子(チェンジリング)」
大江健三郎 作
作者大江健三郎と俳優であり映画監督であった伊丹十三とは、四国松山時代からの旧友であり、また伊丹の妹を妻に持つ作者にとって、伊丹十三は義兄でもある。その伊丹十三の有名な飛び降り自殺事件をモチーフに、もちろんすべて作中の人物としての仮名で書かれた小説。
といっても事件のなぞを振り返るドキュメンタリー小説ではなく、現実を現実のまま強固に残しながら、氾濫する空想とからめてしまう、作者特有の方法がなんとも不思議な作品だ。
たとえば主人公である作者は、死んだ友人と生前交換していたテープ録音を再生しては、死者との対話をさらにつづけるのだ。その過程でしだいしだいに自死直前の心理があきらかになるが、そのまま物語は少年時代、四国山中での国粋主義集団との交流にまで遡り、作者と友人が共有する決定的な体験が語られる。その体験で友人(伊丹十三)は、美しい少年から、外の世界とテロルにふれた者として変わってしまったのだ。取り替えられた子供だったのだ。物語は終盤センダリックの絵本に登場する、悪鬼に取り替えられた子供のはなしと連関して終わるが、まんまと作者にだまされて読まされてしまった。
心地よく騙された気がするのは、やはり圧倒的な事件性を持つ現実と、夢幻的な想像力との融合があるからで、その空想のスタイルがすなわち作家の思想であり、意識的な部分ではテーマでもあるわけだが、それがこんなふうに出来上がっているところがただごとではない。
読書(mixi過去日記より)
「予言者の名前」
島田雅彦 作
オウム事件が合った頃は、カルト教団を材料に宗教の問題を扱った作品が多くあった様な気がする。
自分はそのちょっと前から、それっぽいハナシを考えて「クイックジャパン」に幾つか発表したが、世の中みんなやりだしたのでイヤになってやめた。
それでもカルトや宗教は、基本的に興味のある題材なので、古本屋でこんなものを見つけると、短いものだしちょっと読んでみようかと思う。
宗教の世俗化が進んでいて、わりとどの宗教からも等距離でいられる日本人ならではの視点で描かれた宗教小説。ワタルとムルカシという二人の宗教家(予言者)が、既存の宗教的立場に次々と疑義を投げかける。その内容が観念的な言葉でそのまま語られる。
といっても、小説だから難しい論理を展開する訳ではないが、いわゆる生活や風景の描写など、ふつうの小説で描かれる様な部分はほとんどない。したがって面白いことは面白いが、登場人物に自分を重ねたりして味わうことはできません。短ければこんなのもあり。
文庫本は巻末に中沢新一の解説がついているが、これがよかった。ただし島田雅彦を誉め過ぎ。島田雅彦は求道者とは真逆の、フツーのインテリオヤジという印象が自分にはある。
「予言者の名前」
島田雅彦 作
オウム事件が合った頃は、カルト教団を材料に宗教の問題を扱った作品が多くあった様な気がする。
自分はそのちょっと前から、それっぽいハナシを考えて「クイックジャパン」に幾つか発表したが、世の中みんなやりだしたのでイヤになってやめた。
それでもカルトや宗教は、基本的に興味のある題材なので、古本屋でこんなものを見つけると、短いものだしちょっと読んでみようかと思う。
宗教の世俗化が進んでいて、わりとどの宗教からも等距離でいられる日本人ならではの視点で描かれた宗教小説。ワタルとムルカシという二人の宗教家(予言者)が、既存の宗教的立場に次々と疑義を投げかける。その内容が観念的な言葉でそのまま語られる。
といっても、小説だから難しい論理を展開する訳ではないが、いわゆる生活や風景の描写など、ふつうの小説で描かれる様な部分はほとんどない。したがって面白いことは面白いが、登場人物に自分を重ねたりして味わうことはできません。短ければこんなのもあり。
文庫本は巻末に中沢新一の解説がついているが、これがよかった。ただし島田雅彦を誉め過ぎ。島田雅彦は求道者とは真逆の、フツーのインテリオヤジという印象が自分にはある。
読書(mixi過去日記より)
「富士」
武田泰淳 作
戦時下、富士山麓にある精神病院。国家総動員時にお国の役にたたない患者達と、愛を持って看病にあたる医師・看護士達の物語。
とはいってもリアリズム小説ではなく、登場する個性豊かな患者達の病状は全く作者の創造で、自分が宮様であると信じる元精神科医、一言も言葉を発せず、哲学的ノートを綴る少年、自分の育てた伝書鳩を待ち続ける男、研修医の子種を宿したとふれ回るキリスト者などなど…。
異常者・正常者の枠を取り払った、極めて強烈なキャラクター達が、滔々と思念的弁舌をふるう、グロテスクな魅力に満ちた観念小説。だが、単なる思弁小説でないのは、次々と巻き起こる事件に沿って話が進むからであって、例えば鳩を求めて煙突に上る男・院長宅襲撃・股間に下げた懐中電灯を男根に見立てて医師を襲う女・宮様のつもりで皇室に接触する元精神科医・放火・殺人など、正に異常事態しか出現しない。
もともとこの精神病院の設定自体が、リアリズムならぬシュールレアリズムの世界で、戦時下の一般社会とはかけ離れた、「スミヤキストQ」が忍び込んだ癲狂院のようなものとなっている。
まさに小説という分野ならではの面白さで、実際日常会話でべらべらと神学的哲学的思念を披瀝することは滅多にないし、漫画では考えられないネーム量になってしまう。映画もしかり。それが気にせずスラスラ読めてしまうのが、小説が言葉の芸術たる所以なんだろうな。
●たとえ漫画でもこれが俺にはできないんですよ。いや、たとえナレーションであっても、言葉で説明するのができないの。漫画の中で言葉に独立した役割を与えられないんです。
人物の行為の補足として「しまった」とか「よし行くぞ」とか、あるいは日常会話の「2万ほど、なんとかならない?」とか「なんだ、先行ったと思ってたよ」とか、そんなです。
友人の斎藤種魚、西野空男など「架空」派漫画家には観念的な言葉をうまく使う人が多い。
「富士」
武田泰淳 作
戦時下、富士山麓にある精神病院。国家総動員時にお国の役にたたない患者達と、愛を持って看病にあたる医師・看護士達の物語。
とはいってもリアリズム小説ではなく、登場する個性豊かな患者達の病状は全く作者の創造で、自分が宮様であると信じる元精神科医、一言も言葉を発せず、哲学的ノートを綴る少年、自分の育てた伝書鳩を待ち続ける男、研修医の子種を宿したとふれ回るキリスト者などなど…。
異常者・正常者の枠を取り払った、極めて強烈なキャラクター達が、滔々と思念的弁舌をふるう、グロテスクな魅力に満ちた観念小説。だが、単なる思弁小説でないのは、次々と巻き起こる事件に沿って話が進むからであって、例えば鳩を求めて煙突に上る男・院長宅襲撃・股間に下げた懐中電灯を男根に見立てて医師を襲う女・宮様のつもりで皇室に接触する元精神科医・放火・殺人など、正に異常事態しか出現しない。
もともとこの精神病院の設定自体が、リアリズムならぬシュールレアリズムの世界で、戦時下の一般社会とはかけ離れた、「スミヤキストQ」が忍び込んだ癲狂院のようなものとなっている。
まさに小説という分野ならではの面白さで、実際日常会話でべらべらと神学的哲学的思念を披瀝することは滅多にないし、漫画では考えられないネーム量になってしまう。映画もしかり。それが気にせずスラスラ読めてしまうのが、小説が言葉の芸術たる所以なんだろうな。
●たとえ漫画でもこれが俺にはできないんですよ。いや、たとえナレーションであっても、言葉で説明するのができないの。漫画の中で言葉に独立した役割を与えられないんです。
人物の行為の補足として「しまった」とか「よし行くぞ」とか、あるいは日常会話の「2万ほど、なんとかならない?」とか「なんだ、先行ったと思ってたよ」とか、そんなです。
友人の斎藤種魚、西野空男など「架空」派漫画家には観念的な言葉をうまく使う人が多い。
読書mixi過去日記より
「神は妄想である」宗教との決別
リチャード・ドーキンス 著
生物学の世界的権威、かのドーキンスが書いた警世の書。かつて有名な利己的遺伝子説に触れたときは、どうももうひとつ納得いかなかったが、この本はいい!俺は快哉を叫ぶ。
それにしても西欧社会、とくにアメリカにおける聖書原理主義による病理には恐ろしいものがある。物心つかない幼い頃に、教え込まれる聖書の非合理と迷信が、大人になってもいかに精神を縛り続けるか。進化論を否定し、地獄の存在におびえ、子どもにたった一つの価値観を強要し、異教徒を悪魔視して顧みない。そして、敬虔な宗教者というだけで罪は目こぼしされ、反対に無神論者というだけで忌み嫌われるという矛盾。
また自爆テロに走るイスラム原理主義者が、報復感情ではなく、天国を夢見ているという恐ろしさ。
いま、ようやく無神論者は声をあげるべき秋である。
戦う生物学者ドーキンスは、容赦がない。科学と宗教は全く相容れない分野であるから、おたがい踏み込むことはせずに、共存しよう。という一見平穏な立場に意義を唱え、神の問題は正しく科学の課題であること、そして論証を積み重ねることにより、神の存在を否定することの重要性を説く。
また、地球上の生物の偶然とはとても考えられない多様性を、誰か(神)が設計したものと考える、いわゆるインテリジェントデザイン説は、進化論(ダーウィニズム)を知らない蒙昧であることを教える。
そしてそして道徳のよってきたる所以は宗教ではなく、時代精神の反映によるというところまで。
いいぞドーキンス!がんばれドーキンス!
現在世界中で勢力を増す宗教原理主義が、いかにテロと戦争をまきおこしているか。うれしいことにこの本はアメリカでベストセラーとなったそうだ。この先、世界中の宗教の世俗化にちょっとは希望が持てるのか?
「神は妄想である」宗教との決別
リチャード・ドーキンス 著
生物学の世界的権威、かのドーキンスが書いた警世の書。かつて有名な利己的遺伝子説に触れたときは、どうももうひとつ納得いかなかったが、この本はいい!俺は快哉を叫ぶ。
それにしても西欧社会、とくにアメリカにおける聖書原理主義による病理には恐ろしいものがある。物心つかない幼い頃に、教え込まれる聖書の非合理と迷信が、大人になってもいかに精神を縛り続けるか。進化論を否定し、地獄の存在におびえ、子どもにたった一つの価値観を強要し、異教徒を悪魔視して顧みない。そして、敬虔な宗教者というだけで罪は目こぼしされ、反対に無神論者というだけで忌み嫌われるという矛盾。
また自爆テロに走るイスラム原理主義者が、報復感情ではなく、天国を夢見ているという恐ろしさ。
いま、ようやく無神論者は声をあげるべき秋である。
戦う生物学者ドーキンスは、容赦がない。科学と宗教は全く相容れない分野であるから、おたがい踏み込むことはせずに、共存しよう。という一見平穏な立場に意義を唱え、神の問題は正しく科学の課題であること、そして論証を積み重ねることにより、神の存在を否定することの重要性を説く。
また、地球上の生物の偶然とはとても考えられない多様性を、誰か(神)が設計したものと考える、いわゆるインテリジェントデザイン説は、進化論(ダーウィニズム)を知らない蒙昧であることを教える。
そしてそして道徳のよってきたる所以は宗教ではなく、時代精神の反映によるというところまで。
いいぞドーキンス!がんばれドーキンス!
現在世界中で勢力を増す宗教原理主義が、いかにテロと戦争をまきおこしているか。うれしいことにこの本はアメリカでベストセラーとなったそうだ。この先、世界中の宗教の世俗化にちょっとは希望が持てるのか?
読書「徳田秋声の周囲」
川崎長太郎 作
婦人を亡くして憔悴する文壇の重鎮徳田秋声。師を慰めるため集まった門下の中に、長太郎と年かさの女順子がいた。その順子に親しげに近づかれる川崎長太郎。
私は、反射的に、五体を棒みたいに硬直させました。東京の空気を吸って、既に二、三年経っていますが、まだひと見知り癖も抜けきらない、からきし内気な田舎者でしかありません。
「あなた、お友達になって下さいな。今、私一人で寂しいんです。一寸、世間から身を隠しているというふうなの。__お友達になって下さい。私、とてもフライよ」
中学も満足に行っていない私には、第一「フライ」とは如何なることを意味する言葉か、さっぱりのみ込めかねますし、こんな女の言うことなど、ゆめ真にうけてはなるまいと警戒心怠り亡く、が、その実、_____
この辺の文章がおもしろいなあ。いいなあ。わくわくしながら読みだした。やがて長太郎はこの放蕩文学女子の後をうかうかと追いかけるざまになってしまうのだが、その順子はあっという間に師匠徳田秋声の内縁に納まって、この小説は意外にも川崎長太郎の私小説というより、世間的には老醜をさらす徳田秋声のスキャンダル報告みたいになってしまった。これがまた面白い。といっても残された子供たちとの家庭が破壊されたあげく、女に捨てられるといったよくある内容。それでも愉しく読めればなんでもオッケー。
川崎長太郎 作
婦人を亡くして憔悴する文壇の重鎮徳田秋声。師を慰めるため集まった門下の中に、長太郎と年かさの女順子がいた。その順子に親しげに近づかれる川崎長太郎。
私は、反射的に、五体を棒みたいに硬直させました。東京の空気を吸って、既に二、三年経っていますが、まだひと見知り癖も抜けきらない、からきし内気な田舎者でしかありません。
「あなた、お友達になって下さいな。今、私一人で寂しいんです。一寸、世間から身を隠しているというふうなの。__お友達になって下さい。私、とてもフライよ」
中学も満足に行っていない私には、第一「フライ」とは如何なることを意味する言葉か、さっぱりのみ込めかねますし、こんな女の言うことなど、ゆめ真にうけてはなるまいと警戒心怠り亡く、が、その実、_____
この辺の文章がおもしろいなあ。いいなあ。わくわくしながら読みだした。やがて長太郎はこの放蕩文学女子の後をうかうかと追いかけるざまになってしまうのだが、その順子はあっという間に師匠徳田秋声の内縁に納まって、この小説は意外にも川崎長太郎の私小説というより、世間的には老醜をさらす徳田秋声のスキャンダル報告みたいになってしまった。これがまた面白い。といっても残された子供たちとの家庭が破壊されたあげく、女に捨てられるといったよくある内容。それでも愉しく読めればなんでもオッケー。
読書mixi過去日記より
「白い果実」
ジェフリー・フォード作(2004年 国書刊行会)
1998年世界幻想文学大賞受賞作。
独裁者ビロウが支配する理想形態都市(ウェルビルトシティ)。主人公の一級観相官クレイはビロウの命を承けて、辺境の鉱山の街アナマソビアへ赴く。この世の楽園に実るという「白い果実」を手に入れるために…。
予備知識無しで読みだして、始めて気付いた。これってエンターテイメント!
娯楽の王道を行くストーリー構成。ちゃんと怪物との戦闘シーンなんかもあって笑ってしまう。だが、スパイア鉱石を掘り続けたあげく青く石化する人々。人間の外見・体格などを精密に観測し、性格・能力までも決定する観相学。人間並みに進化させられた猿の管理人、などなど、繰り広げられる空想的イメージがただごとではない、奇想文学の怪作!
冒険ファンタジーといっても流行っているものには、RPGの世界でおなじみのネタが多いが、既成のイメージに浸って安心してると、脳が劣化するんじゃないかと思う。未知の空想世界に独力でついていかなければ。
「白い果実」
ジェフリー・フォード作(2004年 国書刊行会)
1998年世界幻想文学大賞受賞作。
独裁者ビロウが支配する理想形態都市(ウェルビルトシティ)。主人公の一級観相官クレイはビロウの命を承けて、辺境の鉱山の街アナマソビアへ赴く。この世の楽園に実るという「白い果実」を手に入れるために…。
予備知識無しで読みだして、始めて気付いた。これってエンターテイメント!
娯楽の王道を行くストーリー構成。ちゃんと怪物との戦闘シーンなんかもあって笑ってしまう。だが、スパイア鉱石を掘り続けたあげく青く石化する人々。人間の外見・体格などを精密に観測し、性格・能力までも決定する観相学。人間並みに進化させられた猿の管理人、などなど、繰り広げられる空想的イメージがただごとではない、奇想文学の怪作!
冒険ファンタジーといっても流行っているものには、RPGの世界でおなじみのネタが多いが、既成のイメージに浸って安心してると、脳が劣化するんじゃないかと思う。未知の空想世界に独力でついていかなければ。