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漫画家まどの一哉ブログ

   
読書
「悪魔という救い」
菊地章太
 著

しばしば映画やドラマの題材となる悪魔憑きと悪魔祓い。カトリックの社会で今現在も廃れるどころかさらに勢いを増すこの伝統について、有名な映画を手がかりとしながら考える。
その映画作品とは「エクソシスト」「エミリーローズ」「尼僧ヨアンナ」である。映画に疎い自分はどれも未見だが、うっすらとは知っていた。どの作品もカトリック界で正式に定められた悪魔祓いの方法を忠実に再現していて、なかには本物の神父たちも登用されているくらいだ。そして悪魔に憑かれた主人公たちのみせる症状も実例をもとに描かれている。有名なブリッジ歩きや、肌に現れる聖痕(スティグマ)。他人の声でうなるように叫ぶ、異常なものを吐き出すなど。しかしこれらはすべて現在の精神医学で解説できるヒステリー患者の症例と同じで、まったく神がかり(悪魔がかり)的なものではない。簡単にいえば、悪魔なんていない。

興味深いのはその文化的背景で、絶対悪である悪魔と対決して闘うといった苛烈な設定は、西洋キリスト教社会に特有なもので、我が日本社会ではありえないというところである。著者は個人ひとりひとりが唯一神と対峙するキリスト教社会と、個が曖昧でつねに全体性を重んじる日本社会との違いを理由にあげるが、そうかもしれない。ボクが思い出すのは、例えば臨死体験でふれる死後の世界が文化によって違っていて、東洋では閻魔様に出会ってくるといった体験があるが、まさか西洋人が閻魔様に出会うことはあるまい。とうぜんだが、悪魔や地獄もそれぞれの文化で長く蓄積されたものを、われわれは無意識の世界で引き継いでいる。考えではなく宗教的体験が違う。この著作では東南アジアのかなり親和的な悪魔の例があげられていて面白かった。

さて、苦しむ人間は精神医学や心理学の処方ではなしに、もっと大きなすべてを包みこんでくれるような理解を求めていて、それが神様を作り出すとともに悪魔をも必要としているのではないか。もちろんすべてを悪魔のせいにするワケではないが、個や自由を見つめ直したときに、神による救いと同時に悪魔による救いもあるのではないかというのがこの本の結論めいたところ。なるほど。

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読書
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」
内山 節
 著

昔から日本人の生活の中でごく自然にあった「キツネにだまされる話」。
これがしだいに廃れて語られなくなったのが、どうやら1965年頃らしいという興味深い発見から始まる哲学的エッセイ。それがほんとうだとすると、そのころから日本人の生活の仕方が大きく変わったのではないか。ちょうど高度経済成長のただなかで、キツネが暮らす農山村でも経済発展のみを追いかける生き方が主流となった。また科学技術を信奉して迷信を排し、テレビや電話の普及によってコミュニケーションのあり方が変化した。進学率が高まって伝統的な村の教育より全国一律の受験教育優先となり、村の自然と共同体のなかで生きることを離れて死生観が変わった。と、なるほどこれらの変化を1965年を境にして考えるならば、キツネとの交流を失っていくのは当然で、素直に納得できる話だ。

ところがこの著作は実は「歴史哲学序説」であって、ここからがおもしろいのだ。

人類は進歩・発展するものとして直線的に過去を振り返るのが現在の歴史の見方であり、後れた社会から技術・経済・人権などが発達した現代社会へと進んでいくものとして書かれる。
そういった発達していく歴史ではない、過去をのりこえようとしないあるがままの自然と一体となった村の暮らし。生者と死者がともに生きていく暮らし。そこにも歴史というものはあるのではないか。それが人々がキツネにだまされて生きてきた歴史ではないか。

いきなりだが、主観は世界から先がけて存在しているのではなく、世界に向き合うことによって立ち上がってくるものだ。したがって世界から独立した主観というものは存在しないし、主観を排することもできない。歴史学が客観的事実としているものは、あくまで主観によって選びとられた客観的事実である。
そしてそれは合理的な知性の働きであるけれども、その知性は現在の問題意識によって記憶を選びとっていくから、それだけが歴史であったように見えてしまう。

ところが記憶にはふだん意識されないものもずいぶんあって、何かの拍子に思い出すこともある。また手や身体が覚えている記憶もわざわざ言葉では意識されない。われわれが主体的な意識と思っているものは、実は記憶の中のごく一部にすぎない。つまり知性は生命のごく一部にすぎないとすれば、知性で歴史をとらえていくことは生命の歴史を見えなくしてしまうのではないか。そうやって見えない記憶・身体の記憶・生命の記憶を忘れていく過程で、われわれはキツネにだまされなくなってしまったのである。

以上は現代哲学ではベーシックな考え方となっているらしいが、これをわざわざ歴史という言葉でとらえることにより、現代の私たちの生き方を反省することができるというもんだ。やはり社会や自然との共生感を取り戻さなければ、生きることも死ぬこともつらくなるよ。これって大事だよ。う〜む。

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読書
「黒い雨」
井伏鱒二
 作

追い求めているわけではないが、原民喜・林京子・井上光晴など、少しだが原爆文学を読んでいるくせに、この最も有名な古典が未読であった。
主人公夫婦があずかっている姪っ子の縁談へ向けて、彼女が8月6日に被爆していないことを証明するため清書される原爆日誌。この日誌をここまで書いた、ここまで書いたと繋いでいく形式で小説は進行する。原爆投下以降の主人公たちの一日一日が日誌という形で描写される。
原爆という事実がただごとではないので、当時の広島の街と人々の様子を追っているだけで引き込まれてしまい興奮して読んでいたが、日誌であるせいか初めから終わりまで同じ調子で書かれていて変化には乏しい。この均質な手応えもリアリズムなのかもしれないが、さすがに半ばくらいまで読んできて飽きてしまった。なぜ作者はこの記録文学のような方法を選んだのだろうか。
選ぶというよりこういう冷静で絵画的な描写というところが作家の特質なのだろうか。
長編だからといってドラマが仕立ててある必要はまったくないのだ。

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読書(mixi過去日記より)
「デモクラシーの冒険」
姜尚中
テッサ・モーリス‐スズキ

集英社新書 2004年

国家の枠組みを越えて活躍する二人が、オーストラリアのとある島に滞在。
冷戦終了後、一人勝ちの資本主義社会の中で、だんだんと空洞化するデモクラシーの現在について語り合った三日間を記録。いかに草の根の声を届ける手段が奪われているか、現代の状況を分析する。例えば。

●労働が、細分化され、情報化され、大きな労働勢力が衰退して、個人が直接資本と対峙せざるを得なくなっていく。
●国家機能の民営化は、実質企業と国家の癒着であり、国民にとって非常に重要な情報が企業秘密にされてしまう。
●マスコミが単純なナショナリズムやポピュリズムを煽動する形でしか、民意を反映しない。
●デモクラシーは世界中で国民国家の発達とともに、意識化されていくが、反面、周辺諸国や境界にいる人々への排除が強まる。
などなど投票行動はあれど、ますます声が届かなくなる世の中だ。

以前半分ざっと読んでいたものを、つづきをざっと読み通した。
対談は読みやすいが、話題が自由に広がっていきやすいので、読みながら反芻する間もなく読み終えてしまう。その中でボクがオモロいなと思ったところは以下。
ホッブスは、人間を自然状態におくと、「万人の万人に対する闘争状態」になってしまうので、その解決策として強大な共通権力を構想した。また逆にルソーは本来人間は善良で、原始共産的なユートピアで暮らしていたものが、堕落により不平等が現出したと考えた。
ところがこの人間の自然状態というのが、そもそも架空の設定であり、社会的存在である人間は必ずその社会の歴史を伴っている。その固有の歴史を無視して、架空の自然状態の中にいきなり秩序を作ろうとしたのが、アメリカのイラクに対する支配であり、その姿勢は「おまえら民主化しないと、殺すぞ」といったもの。ふむふむ。そんなものかな。

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読書
「もののたわむれ」
松浦寿輝
 作

全十四話からなる短編集。怪異譚が主かと思ったがそうでもなく、都会に暮らす孤独な人々のふとした非日常が淡々と語られる。わりと長いセンテンスを接続詞で手際よく繋いでいく、近代文学の香り豊かな文体が自分好みだった。すらすらと気持ちよく追ってゆける。
勤め人としての盛りを越えた男たちが、ふと立ち寄る場末の珈琲店や、天麩羅屋、将棋倶楽部などでちょっとした不思議に出会い、その短い時間にそれまでの自分の生きてきた時間をあらためて発見するといった具合か。しみじみとした怪異。
ただ読みやすくて気持ちがいい反面、常識から逸脱するような暴れる精神性はまったくなく、自分の印象は、「ああフツーだなあ、壊れない人生をおくる人だなあ。」というものであった。それもまたよし。

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読書
「銀の兜の夜」
丸山健二
 作

漁にかかって海から引き上げられた銀の兜。現金に換えることを目論んで出かけた父親は米軍基地の流れ弾で横死。兄は兜をかぶりながら奇声を発し、兜を処分しようとした母親は家庭内事故死。兄が出奔したあと、田舎家に一人暮らす主人公のわたしも、しだいに銀の兜の呪力に囚われて、記憶にない殺人を犯しているのだった。げにおそろしや、なぞの銀の兜。

といったホラー仕立ての小説なので、ネタバレ禁止をふまえて多くは語らないが、ドキドキしながら読める。とはいってもそこはさすがに文学であり、大自然の中、現代的成功に背を向けて一人生きる主人公の人生哲学や社会観がふんだんに語られるが、はっきりいって作者丸山健二の実際の境遇と心情を描いているのだろうと思う。
ところがこの主人公、まだ10代なので、この悟りの境地にはややムリがある。ムリがあると言えば、この小説の設定自体かなりムリがあって、呪物である謎の兜は幻想小説の世界からやってきて、なんと河童やドッペルゲンガーが何度も登場。そのわりには酔いしれるような幻想感はなく、あくまでも現実に沿った社会批判や生き方が描かれていて、どうしたらいいのか。大味というか、骨太というか、かなり妙な読後感が残る。おもしろいから不思議。

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読書(mixi過去日記より)
「ワット」Watt
サミュエル・ベケット


二十歳の頃以来の再読。

冴えない流浪の男ワットは、目的地に着く前に汽車を降り、やがてノット氏の邸宅へたどりついた。交代に屋敷を離れる男のあとを継いで、ノット氏宅での召使いとしての暮らしが始まったのだ。その代々の召使達の仕事ぶりを、こまごまと語り継ぐといった内容の小説。

とは言ってもノット氏と召使達の日常は、ただただ分裂症的だから、ふつう全くどうでもいいことが、やたらしつこく描写される。
例えばノット氏の食べ残しを、いかに必ず全部近所の犬に食わせるかについて、犬の飼い主一家の家系から語り起こす。ノット氏の靴と半靴下と長靴とスリッパを、裸足も含めて左右それぞれどのように履くか?について、ありえる組み合わせを全て書き尽くす。この組合せの羅列は、いくどもくり返され、ノット氏と箪笥と化粧台と室内便器の日々変わる位置関係や、毎日変わるノット氏の肉体的特徴(ある日は太っていて背が高く金髪、次の日は痩せていて背が高く赤毛、また次の日は痩せていて中背で金髪、また次の日は太っていて背が低く褐色の髪…などなど要素はもっと多いので、組合せも2ページ以上に及ぶ)。
その白眉は、ある委員会で5人のメンバーが、それぞれ顔を見合わせようとして、すれちがう場合の記述が延々6ページ程!

やがてワットは後任の到着とともにノット氏邸を離れ、降り立った駅からまた旅立っていく。
ロマンでもなく、アンチロマンでもなく、およそ小説作法を破壊して書かれた、ナンセンスを冗談以上に徹底した、これほど不毛であることに感動する小説は他にないと思った。

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読書
「ひかげの花」
永井荷風


学生の頃から、ヒモひとすじの男。女の歓心を得るためにはどんな屈辱をも、耐え忍ぶことができる男重吉。そしてその連れ合いの女お千代は、あまり物事を考えず、規律正しく扱われることがしんぼうしきれない性格で、いわゆる醜業につくことについても流れのままに身を任せてしまい、それほどの抵抗は感じていない。
重吉のほうも自分の女が、身体を売って稼いでいるのに嫉妬心などまるで抱かず、女房の仕事をかげひなたに援助して活躍するありさま。
いや、ひなたならぬひかげなのだが、社会の片隅でけなげに生きる市井の人々を描くといっても、これは清貧でなくとんだ二人組だ。しかしこれも人間であって、その喜怒哀楽・心のひだを描いて読んでいて思わず気持ちが入った。売春婦とそのヒモたる男の日常を描いた作品は、現代でもいくらでもあるかもしれないが、この昔の小説はまったく陰惨なところがなく、がんばって生き抜こうとする二人を応援したくなる。作者の登場人物への愛が感じられたが、ここに永井荷風の人間観があるのではないか。次の一文など。

主人公お千代の娘、おたみが母親と同じ仕事に就いていることについて…
(略)塚山はその性情と、またその哲学観とから、人生に対して極端な絶望を感じているので、おたみが正しい職業について、あるいは貧苦に陥り、あるいはまた成功して虚栄の念にあくせくするよりも、どぶがわを流れる芥のような、無知放埒な生活を送っている方が、かえってその人には幸福であるのかも知れない。(略)と考えていたのである。

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読書
「雨瀟瀟」
永井荷風
 作

しとしとぴっちゃ~ん。雨が降り続く夜など、一人暮らしの老境、いかばかり寂しかろ。そんな荷風のつぶやきが縷々綴られた私小説。どうしても想いは時代の移り変わりを嘆くほうへむかうようだ。それが現代とちっとも変わらないところがおもしろい。いま自分は滝田ゆうの短編を読んでいて、ここに描かれる風俗に気持ちが入る世代はギリ自分たちが最後かもと思っているが、ことごとくデジタルになって行く世の中、アナログの風情が理解されるのはいつまでかなあ…。などと嘆くのとちょうど同じ様子が、この荷風の小説でも登場する。以下荷風の友人の言葉。

「家の娘は今高等女学校に通わしてあるがそれを見ても分かる話で今日の若い女には活字の外は何も読めない。草書も変体仮名も読めない。新聞の小説はよめるが仮名の草双紙は読めない。(略)稽古本の書体がわからないのはその人の罪ではない。町に育った今の女は井戸を知らない。刎釣瓶の竿に残月のかかった趣なぞは知ろうはずもない。(略)僕はもう事の是非を論じている時ではない。それよりわれわれは果たしていつまでわれわれの時代の古雅の趣味を持続して行く事ができるか、そんな事でも考えたがよい。」

そして荷風本人は
「(略)二葉亭四迷出て以来殆ど現代小説の定形の如くなった言文一致体の修辞法は七五調をなした江戸風詞曲の述作には害をなすものと思ったからである。このであるという文体についてはわたしは今日なお古人の文を読み返した後など殊に不快の感を禁じ得ないノデアル。わたしはどうかしてこの野卑蕪雑なデアルの文体を排棄しようと思いながら多年の陋習遂に改むるによしなく空しく紅葉一葉の如き文才なきを嘆じている次第であるノデアル。」

わっはっは。

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読書
「マックス・ヴェーバーの哀しみ

羽入辰郎 

社会学の巨人マックス・ヴェーバーが、実は「一生を母親に貪り喰われた男」であったことを解き明かした一冊。
ヴェーバーの母親は熱狂的なカルヴィニスト(プロテスタントの一種)で、子供たちにとっては恐怖の存在。逆に父親は楽天的で現実的な資本家。ヴェーバーはほんとは嫌いな学者にまでなって、母に愛してもらいたく努力するのだが、母親は息子の名声を利用するだけで、父親への抵抗も息子を利用する始末。
このヴェーバーの努力は無意識下に行われ、母親の嫌うタイプの恋人には求婚もせず、精神の不安定をワーカーホリックとなってやりすごし、迎えた新妻とはセックスレス。哀れ、ほんとうは父親のように生臭く堂々と生きたかったヴェーバーは、母親の敷いたレールから一歩も逃れられずに短い一生を終えるという、現代社会にいくらでもみられるハナシだ。

ヴェーバーの名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を初読したとき、なんて面白いんだと感動したものだが、後年読み返してみるとまるで退屈だった。そんな経験を持つワタクシとしては、社会学の本格的な土俵より、こういった周辺記事みたいなもののほうが愉快かもしれない。ヴェーバーの生涯を研究している学者はたくさんいるようだが、この著作が正解か不正解かはこの際どっちだってよくて、読み物として痛快であれば私には正解である。

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