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漫画家まどの一哉ブログ

   
カテゴリー「読書日記」の記事一覧
読書
「黒い雨」
井伏鱒二
 作

追い求めているわけではないが、原民喜・林京子・井上光晴など、少しだが原爆文学を読んでいるくせに、この最も有名な古典が未読であった。
主人公夫婦があずかっている姪っ子の縁談へ向けて、彼女が8月6日に被爆していないことを証明するため清書される原爆日誌。この日誌をここまで書いた、ここまで書いたと繋いでいく形式で小説は進行する。原爆投下以降の主人公たちの一日一日が日誌という形で描写される。
原爆という事実がただごとではないので、当時の広島の街と人々の様子を追っているだけで引き込まれてしまい興奮して読んでいたが、日誌であるせいか初めから終わりまで同じ調子で書かれていて変化には乏しい。この均質な手応えもリアリズムなのかもしれないが、さすがに半ばくらいまで読んできて飽きてしまった。なぜ作者はこの記録文学のような方法を選んだのだろうか。
選ぶというよりこういう冷静で絵画的な描写というところが作家の特質なのだろうか。
長編だからといってドラマが仕立ててある必要はまったくないのだ。

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読書(mixi過去日記より)
「デモクラシーの冒険」
姜尚中
テッサ・モーリス‐スズキ

集英社新書 2004年

国家の枠組みを越えて活躍する二人が、オーストラリアのとある島に滞在。
冷戦終了後、一人勝ちの資本主義社会の中で、だんだんと空洞化するデモクラシーの現在について語り合った三日間を記録。いかに草の根の声を届ける手段が奪われているか、現代の状況を分析する。例えば。

●労働が、細分化され、情報化され、大きな労働勢力が衰退して、個人が直接資本と対峙せざるを得なくなっていく。
●国家機能の民営化は、実質企業と国家の癒着であり、国民にとって非常に重要な情報が企業秘密にされてしまう。
●マスコミが単純なナショナリズムやポピュリズムを煽動する形でしか、民意を反映しない。
●デモクラシーは世界中で国民国家の発達とともに、意識化されていくが、反面、周辺諸国や境界にいる人々への排除が強まる。
などなど投票行動はあれど、ますます声が届かなくなる世の中だ。

以前半分ざっと読んでいたものを、つづきをざっと読み通した。
対談は読みやすいが、話題が自由に広がっていきやすいので、読みながら反芻する間もなく読み終えてしまう。その中でボクがオモロいなと思ったところは以下。
ホッブスは、人間を自然状態におくと、「万人の万人に対する闘争状態」になってしまうので、その解決策として強大な共通権力を構想した。また逆にルソーは本来人間は善良で、原始共産的なユートピアで暮らしていたものが、堕落により不平等が現出したと考えた。
ところがこの人間の自然状態というのが、そもそも架空の設定であり、社会的存在である人間は必ずその社会の歴史を伴っている。その固有の歴史を無視して、架空の自然状態の中にいきなり秩序を作ろうとしたのが、アメリカのイラクに対する支配であり、その姿勢は「おまえら民主化しないと、殺すぞ」といったもの。ふむふむ。そんなものかな。

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読書
「もののたわむれ」
松浦寿輝
 作

全十四話からなる短編集。怪異譚が主かと思ったがそうでもなく、都会に暮らす孤独な人々のふとした非日常が淡々と語られる。わりと長いセンテンスを接続詞で手際よく繋いでいく、近代文学の香り豊かな文体が自分好みだった。すらすらと気持ちよく追ってゆける。
勤め人としての盛りを越えた男たちが、ふと立ち寄る場末の珈琲店や、天麩羅屋、将棋倶楽部などでちょっとした不思議に出会い、その短い時間にそれまでの自分の生きてきた時間をあらためて発見するといった具合か。しみじみとした怪異。
ただ読みやすくて気持ちがいい反面、常識から逸脱するような暴れる精神性はまったくなく、自分の印象は、「ああフツーだなあ、壊れない人生をおくる人だなあ。」というものであった。それもまたよし。

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読書
「銀の兜の夜」
丸山健二
 作

漁にかかって海から引き上げられた銀の兜。現金に換えることを目論んで出かけた父親は米軍基地の流れ弾で横死。兄は兜をかぶりながら奇声を発し、兜を処分しようとした母親は家庭内事故死。兄が出奔したあと、田舎家に一人暮らす主人公のわたしも、しだいに銀の兜の呪力に囚われて、記憶にない殺人を犯しているのだった。げにおそろしや、なぞの銀の兜。

といったホラー仕立ての小説なので、ネタバレ禁止をふまえて多くは語らないが、ドキドキしながら読める。とはいってもそこはさすがに文学であり、大自然の中、現代的成功に背を向けて一人生きる主人公の人生哲学や社会観がふんだんに語られるが、はっきりいって作者丸山健二の実際の境遇と心情を描いているのだろうと思う。
ところがこの主人公、まだ10代なので、この悟りの境地にはややムリがある。ムリがあると言えば、この小説の設定自体かなりムリがあって、呪物である謎の兜は幻想小説の世界からやってきて、なんと河童やドッペルゲンガーが何度も登場。そのわりには酔いしれるような幻想感はなく、あくまでも現実に沿った社会批判や生き方が描かれていて、どうしたらいいのか。大味というか、骨太というか、かなり妙な読後感が残る。おもしろいから不思議。

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読書(mixi過去日記より)
「ワット」Watt
サミュエル・ベケット


二十歳の頃以来の再読。

冴えない流浪の男ワットは、目的地に着く前に汽車を降り、やがてノット氏の邸宅へたどりついた。交代に屋敷を離れる男のあとを継いで、ノット氏宅での召使いとしての暮らしが始まったのだ。その代々の召使達の仕事ぶりを、こまごまと語り継ぐといった内容の小説。

とは言ってもノット氏と召使達の日常は、ただただ分裂症的だから、ふつう全くどうでもいいことが、やたらしつこく描写される。
例えばノット氏の食べ残しを、いかに必ず全部近所の犬に食わせるかについて、犬の飼い主一家の家系から語り起こす。ノット氏の靴と半靴下と長靴とスリッパを、裸足も含めて左右それぞれどのように履くか?について、ありえる組み合わせを全て書き尽くす。この組合せの羅列は、いくどもくり返され、ノット氏と箪笥と化粧台と室内便器の日々変わる位置関係や、毎日変わるノット氏の肉体的特徴(ある日は太っていて背が高く金髪、次の日は痩せていて背が高く赤毛、また次の日は痩せていて中背で金髪、また次の日は太っていて背が低く褐色の髪…などなど要素はもっと多いので、組合せも2ページ以上に及ぶ)。
その白眉は、ある委員会で5人のメンバーが、それぞれ顔を見合わせようとして、すれちがう場合の記述が延々6ページ程!

やがてワットは後任の到着とともにノット氏邸を離れ、降り立った駅からまた旅立っていく。
ロマンでもなく、アンチロマンでもなく、およそ小説作法を破壊して書かれた、ナンセンスを冗談以上に徹底した、これほど不毛であることに感動する小説は他にないと思った。

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読書
「ひかげの花」
永井荷風


学生の頃から、ヒモひとすじの男。女の歓心を得るためにはどんな屈辱をも、耐え忍ぶことができる男重吉。そしてその連れ合いの女お千代は、あまり物事を考えず、規律正しく扱われることがしんぼうしきれない性格で、いわゆる醜業につくことについても流れのままに身を任せてしまい、それほどの抵抗は感じていない。
重吉のほうも自分の女が、身体を売って稼いでいるのに嫉妬心などまるで抱かず、女房の仕事をかげひなたに援助して活躍するありさま。
いや、ひなたならぬひかげなのだが、社会の片隅でけなげに生きる市井の人々を描くといっても、これは清貧でなくとんだ二人組だ。しかしこれも人間であって、その喜怒哀楽・心のひだを描いて読んでいて思わず気持ちが入った。売春婦とそのヒモたる男の日常を描いた作品は、現代でもいくらでもあるかもしれないが、この昔の小説はまったく陰惨なところがなく、がんばって生き抜こうとする二人を応援したくなる。作者の登場人物への愛が感じられたが、ここに永井荷風の人間観があるのではないか。次の一文など。

主人公お千代の娘、おたみが母親と同じ仕事に就いていることについて…
(略)塚山はその性情と、またその哲学観とから、人生に対して極端な絶望を感じているので、おたみが正しい職業について、あるいは貧苦に陥り、あるいはまた成功して虚栄の念にあくせくするよりも、どぶがわを流れる芥のような、無知放埒な生活を送っている方が、かえってその人には幸福であるのかも知れない。(略)と考えていたのである。

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読書
「雨瀟瀟」
永井荷風
 作

しとしとぴっちゃ~ん。雨が降り続く夜など、一人暮らしの老境、いかばかり寂しかろ。そんな荷風のつぶやきが縷々綴られた私小説。どうしても想いは時代の移り変わりを嘆くほうへむかうようだ。それが現代とちっとも変わらないところがおもしろい。いま自分は滝田ゆうの短編を読んでいて、ここに描かれる風俗に気持ちが入る世代はギリ自分たちが最後かもと思っているが、ことごとくデジタルになって行く世の中、アナログの風情が理解されるのはいつまでかなあ…。などと嘆くのとちょうど同じ様子が、この荷風の小説でも登場する。以下荷風の友人の言葉。

「家の娘は今高等女学校に通わしてあるがそれを見ても分かる話で今日の若い女には活字の外は何も読めない。草書も変体仮名も読めない。新聞の小説はよめるが仮名の草双紙は読めない。(略)稽古本の書体がわからないのはその人の罪ではない。町に育った今の女は井戸を知らない。刎釣瓶の竿に残月のかかった趣なぞは知ろうはずもない。(略)僕はもう事の是非を論じている時ではない。それよりわれわれは果たしていつまでわれわれの時代の古雅の趣味を持続して行く事ができるか、そんな事でも考えたがよい。」

そして荷風本人は
「(略)二葉亭四迷出て以来殆ど現代小説の定形の如くなった言文一致体の修辞法は七五調をなした江戸風詞曲の述作には害をなすものと思ったからである。このであるという文体についてはわたしは今日なお古人の文を読み返した後など殊に不快の感を禁じ得ないノデアル。わたしはどうかしてこの野卑蕪雑なデアルの文体を排棄しようと思いながら多年の陋習遂に改むるによしなく空しく紅葉一葉の如き文才なきを嘆じている次第であるノデアル。」

わっはっは。

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読書
「マックス・ヴェーバーの哀しみ

羽入辰郎 

社会学の巨人マックス・ヴェーバーが、実は「一生を母親に貪り喰われた男」であったことを解き明かした一冊。
ヴェーバーの母親は熱狂的なカルヴィニスト(プロテスタントの一種)で、子供たちにとっては恐怖の存在。逆に父親は楽天的で現実的な資本家。ヴェーバーはほんとは嫌いな学者にまでなって、母に愛してもらいたく努力するのだが、母親は息子の名声を利用するだけで、父親への抵抗も息子を利用する始末。
このヴェーバーの努力は無意識下に行われ、母親の嫌うタイプの恋人には求婚もせず、精神の不安定をワーカーホリックとなってやりすごし、迎えた新妻とはセックスレス。哀れ、ほんとうは父親のように生臭く堂々と生きたかったヴェーバーは、母親の敷いたレールから一歩も逃れられずに短い一生を終えるという、現代社会にいくらでもみられるハナシだ。

ヴェーバーの名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を初読したとき、なんて面白いんだと感動したものだが、後年読み返してみるとまるで退屈だった。そんな経験を持つワタクシとしては、社会学の本格的な土俵より、こういった周辺記事みたいなもののほうが愉快かもしれない。ヴェーバーの生涯を研究している学者はたくさんいるようだが、この著作が正解か不正解かはこの際どっちだってよくて、読み物として痛快であれば私には正解である。

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読書
原民喜を読む

「美しき死の岸に」:作者の妻の病がだんだんと重くなり、やがて死に至るまでの一連の連作。そのなかでとうとう妻が死んでしまう話。悲しい話だが、日本文学史上もっとも美しい散文といわれるだけのことはあって、例えば室内楽を聴いているような澄み切った美しさ。

「夏の花」:広島での被爆体験を語った代表作。これは事実が脚色なしに克明に綴られる。散文の名手だけに、この事実はカタカナで書きなぐるのがふさわしい、としている箇所があるのがおもしろい。アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム

「鎮魂歌」:この小説だけが珍しく観念的で、作者の想念が、かけめぐる言葉のままにくり返すリズムにのせて演奏されていくような書き方をしている。客観的事実よりもこころの動きを忠実においかけるカタチで、好きな人は好きだろうが、自分はだめだった。

事実の推移は、まるで新聞記事を読むくらいの分かりやすさがあるが、それでいて人物のこころのうごきも手に取るようにわかる。それが澄んだきれいな文章で書いてあるから、内容が深刻でも読んでいてとても気持ちがよい。

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読書
「巨匠とマルガリータ」
ミハイル・ブルガーコフ


モスクワ市街。作家協会会長が公園でツルリとすべったまま、電車にはねられ首が飛んでしまったのを皮切りに、作家・劇場関係者のまわりに次々と起こる怪事件。黒魔術のショーでは10ルーブル紙幣が降ってきたり、豪華衣裳が女性客に与えられたりするが、数時間後には紙くずと消える。劇場支配人たちは一瞬で遠隔の地に飛ばされてしまう。これらはすべて黒魔術ショーを行った4人の悪魔たちの仕業なのだが、その中のひとりはでかい黒猫なのだ。
一方、ローマ帝国総督ポンティウス・ピラトゥスは、ヨシュア(イエス)を処刑してしまったことにどうしても悔いが残り、毎日を鬱鬱と過ごしていたが、実はこの挿話はモスクワの精神病院に収容されている巨匠と呼ばれる作家の手による未発表の作品であった。
巨匠の愛人マルガリータはぜひとも巨匠を救出し、この未発表作を世に出そうと強く願う。そこへ実際のピラトゥスとヨシュアの現場を目撃していたくだんの悪魔たちが協力し、マルガリータは魔女となってほうきにまたがり、モスクワの空をかけめぐり、批評家のアパートを破壊し、パーティで悪魔の女王の役目を果たしたりする。
やがて、巨匠とマルガリータは悪魔たちの手のよって今生での暮らしを終え、遠い昔ピラトゥスの生けるローマで安寧の日々を得るのだった。


といったかなり破天荒で荒唐無稽な小説。ドタバタ劇の如く動きの多い話で、空飛ぶシーンのスピード感は秀逸だった。また、人なのか大型のネコなのか?おかしなキャラクターも登場して、落ち着いたリアリズムを味わうことはできないが、当時のソビエト社会を風刺しているからといって単純な寓意小説でもないから安心だ。ナンセンスな幻想とリアリズムが混淆して同居するという作風は、まさに自分のスタンスと同じといってもよく、今まで世界幻想文学の中でポーとホフマンを座右に置いてきたが、この際ブルガーコフも仲間に加えたいものである。

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