漫画家まどの一哉ブログ
カテゴリー「読書日記」の記事一覧
- 2011.08.30 「ぼくのともだち」
- 2011.08.25 「三界の家」
- 2011.08.22 「通話」
- 2011.08.16 「月の石」
- 2011.08.11 「巴里の憂鬱」
- 2011.08.03 「肉体の悪魔」
- 2011.07.27 「ちびのツァッヒェス」
- 2011.07.23 「ラバウル戦記」
- 2011.07.19 「猛スピードで母は」
- 2011.07.15 「死海のほとり」
読書
「ぼくのともだち」
エマニュエル・ボーヴ 作
アパートの屋根裏部屋に一人暮らす孤独な青年ヴィクトール・バトン。彼はともに人生を歩んでいけるようなほんとうのともだちを求めて、今日も町を彷徨うのだがなかなかにその願いは達成されない。彼はけっして悪いヤツじゃない。マナーは守るし礼儀正しい、むしろかなりいいヤツ。ただちょっと世間知らずで空想的なだけだ。
ある日、街中の野次馬のなかで知り合った一人の男。バトンはこの男を大切な立った一人の友人候補と思い定めてしまうが、彼が恋人と同棲していると聞いて絶望しかける。なんとか親しくなったあげく家に招待され、50フランの金を貸すことになる。しかも翌日彼のいない時間に彼女一人に会いにいったことが原因で、関係は終わってしまった。この勝手な思い込みと軽はずみさはどうだ?
また、港であたかも自殺するかのようなそぶりで道行く人に思わせぶりな態度をとっていると、本当の自殺希望者の男に身投げに誘われてしまう。なんとか押しとどめて金を与え、自分も経験のない売春宿へ連れていくと、その男はさっさと自分を捨てて女と消えてしまった。
またある日偶然にも金持ちの実業家に出合う。駅でポーターと間違われたのだ。これがきっかけで実業家の家に呼ばれ、気に入られた彼は新しい職場を紹介してもらった。この幸運にも増して彼は、その実業家の娘と町で偶然出会って仲良くなるという空想を押しとどめることができず、娘の後を付けて実業家の怒りをかい就職はご破算に。
ともだちということに過度に意識的に構えて、人間社会の経験値が足りず、聞いただけの浅知恵を駆使し、自分に都合のいい妄想から離れられない青年ヴィクトール・バトン君。こんな人けっこういると思うよ。
「ぼくのともだち」
エマニュエル・ボーヴ 作
アパートの屋根裏部屋に一人暮らす孤独な青年ヴィクトール・バトン。彼はともに人生を歩んでいけるようなほんとうのともだちを求めて、今日も町を彷徨うのだがなかなかにその願いは達成されない。彼はけっして悪いヤツじゃない。マナーは守るし礼儀正しい、むしろかなりいいヤツ。ただちょっと世間知らずで空想的なだけだ。
ある日、街中の野次馬のなかで知り合った一人の男。バトンはこの男を大切な立った一人の友人候補と思い定めてしまうが、彼が恋人と同棲していると聞いて絶望しかける。なんとか親しくなったあげく家に招待され、50フランの金を貸すことになる。しかも翌日彼のいない時間に彼女一人に会いにいったことが原因で、関係は終わってしまった。この勝手な思い込みと軽はずみさはどうだ?
また、港であたかも自殺するかのようなそぶりで道行く人に思わせぶりな態度をとっていると、本当の自殺希望者の男に身投げに誘われてしまう。なんとか押しとどめて金を与え、自分も経験のない売春宿へ連れていくと、その男はさっさと自分を捨てて女と消えてしまった。
またある日偶然にも金持ちの実業家に出合う。駅でポーターと間違われたのだ。これがきっかけで実業家の家に呼ばれ、気に入られた彼は新しい職場を紹介してもらった。この幸運にも増して彼は、その実業家の娘と町で偶然出会って仲良くなるという空想を押しとどめることができず、娘の後を付けて実業家の怒りをかい就職はご破算に。
ともだちということに過度に意識的に構えて、人間社会の経験値が足りず、聞いただけの浅知恵を駆使し、自分に都合のいい妄想から離れられない青年ヴィクトール・バトン君。こんな人けっこういると思うよ。
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読書
「三界の家」
林京子
林京子は長崎での被爆体験を中心に、自身の人生をすべてなぞって作品にしている私の好きな作家である。
この短編集では作者の父親を描いた話が心に残った。
彼女の父親は戦前M物産の上海支店に勤めるエリートであり、家族からは「とうさま」と呼ばれ、尊敬を集めていた。敗色濃厚な中国大陸、一家は父親を残したまま先に引き上げ、作者は長崎の三菱兵器工場にて被爆。やがて父親も帰国するが財閥解体の指令を受けてM物産社員という肩書きを失ってしまう。
そうなるとエリートは弱い者で、就職難の中やっと見つけたクチも雑用までやるのが苦痛ですぐ止めてしまい、昼間から家でぶらぶらである。ようやく続いているらしい職場をある日母親と作者が訪ねてみると、海岸近くの小屋の中で、ひとり伝票仕事をしていた。寂しくて呆然とするシーンだ。
母親は家政婦の職を見つけて働きに出るようになるが、そのころ閑な父親はぶらり散歩がてら母の勤め先である家庭に立ち寄り、おみやげに果物などをもらって帰る。なんとも情けない有様である。
時代が流れて老いた父親はやがて膵臓がんを患い、病院では家族総出の世話になるが、ひっきりなしにベッドのそばで付き添って寝ている母親の名を呼ぶ。しかし母は返事をしない。返事をすると甘えるからだそうである。「とうさま」と呼ばれて尊敬されていた父親は、母の中でとうのむかしに終わっているのである。
小説では父の死後、葬儀があって一族の墓を掘り起こすシーンが描かれる。父の親族に連なる何代かの人達の骨壺が出てくる。残された母親は父の骨壺を最終的に近代的なロッカー式の墓に移してしまう。自分も死後はそこに入るつもりだ。娘(作者)たちも来てよいという。父方の縁はそこで切られてしまった。作者も自分の子どもが結婚した時点で縁は断ち切り、無性としての存在に帰りたいと思うのだった。
雑感:親子というものは逃れられないものであるが、人生によっては積極的に親子の縁を切ってそれがプラスである人もいよう。ましてや親以前自分以降につながる縁は人それぞれだ。関係はないのが事実だろう。大きな意味で先祖や共同体が自分にもつながっていることは、安心して死んでいく心の支えではあるが、それは今自分の周りにいる人々がそうだと考えてもいいと思う。
「三界の家」
林京子
林京子は長崎での被爆体験を中心に、自身の人生をすべてなぞって作品にしている私の好きな作家である。
この短編集では作者の父親を描いた話が心に残った。
彼女の父親は戦前M物産の上海支店に勤めるエリートであり、家族からは「とうさま」と呼ばれ、尊敬を集めていた。敗色濃厚な中国大陸、一家は父親を残したまま先に引き上げ、作者は長崎の三菱兵器工場にて被爆。やがて父親も帰国するが財閥解体の指令を受けてM物産社員という肩書きを失ってしまう。
そうなるとエリートは弱い者で、就職難の中やっと見つけたクチも雑用までやるのが苦痛ですぐ止めてしまい、昼間から家でぶらぶらである。ようやく続いているらしい職場をある日母親と作者が訪ねてみると、海岸近くの小屋の中で、ひとり伝票仕事をしていた。寂しくて呆然とするシーンだ。
母親は家政婦の職を見つけて働きに出るようになるが、そのころ閑な父親はぶらり散歩がてら母の勤め先である家庭に立ち寄り、おみやげに果物などをもらって帰る。なんとも情けない有様である。
時代が流れて老いた父親はやがて膵臓がんを患い、病院では家族総出の世話になるが、ひっきりなしにベッドのそばで付き添って寝ている母親の名を呼ぶ。しかし母は返事をしない。返事をすると甘えるからだそうである。「とうさま」と呼ばれて尊敬されていた父親は、母の中でとうのむかしに終わっているのである。
小説では父の死後、葬儀があって一族の墓を掘り起こすシーンが描かれる。父の親族に連なる何代かの人達の骨壺が出てくる。残された母親は父の骨壺を最終的に近代的なロッカー式の墓に移してしまう。自分も死後はそこに入るつもりだ。娘(作者)たちも来てよいという。父方の縁はそこで切られてしまった。作者も自分の子どもが結婚した時点で縁は断ち切り、無性としての存在に帰りたいと思うのだった。
雑感:親子というものは逃れられないものであるが、人生によっては積極的に親子の縁を切ってそれがプラスである人もいよう。ましてや親以前自分以降につながる縁は人それぞれだ。関係はないのが事実だろう。大きな意味で先祖や共同体が自分にもつながっていることは、安心して死んでいく心の支えではあるが、それは今自分の周りにいる人々がそうだと考えてもいいと思う。
読書
「通話」
ロベルト・ポラーニョ 作
チリ・メキシコ・スペインなどで暮らし、スペイン語で多くの小説を書いて2003年に50歳で死んだ著者の短編集。
「文学の冒険」:作家Bは自作の中で知り合いの売れっ子作家Aをモデルにとりあげ、その偽善性と御用作家ぶりを揶揄する。その後Bもはじめて大手出版社から本を出すが、これをAが手放しで絶賛した。これにはなにか裏があるのだろうか?Aの態度が気が気でならなず延々と悩むBが描かれるが、とうとうAと会うことになった直前、目を通したAの新作はすばらしいものだった。
「刑事たち」:車を走らせながらあれこれと雑談にふける二人の警官。ある日自分たちの警察署に中学時代の同級生が連れられてきた。そいつは接見禁止でカミソリもタオルも持たせてもらえなかった。しかも今の自分の様子を鏡で見ようともしない。なぜなら鏡に映るのは別人だからだという。そんなばかなことはあるまいと主人公の警官が鏡を見てみると、そこには肩越しにうしろから覗く知らない男と無数の人間の顔が…。しかしそれはほんの一瞬のことだった。
「ジョアンナ・シルヴェストリ」:37歳ポルノ女優として成功したジョアンナは、かつてポルノ界の大スターだったジャック・ホームズに会いにいく。借りたポルシェをとばしてようやくたどり着いたボロボロのバンガロー。今や業界から離れて無気力な生活を続けるジャック。もう来るなよと言われたようなものだけど、この人にはアタシが必要だと決意するジョアンナ。かれの大きなぶよぶよになったペニスを太ももの間に挟んで泣きながら眠った。そして二人がただ生きているということが意味あることだと感じるのだった。
いろいろな人々の人生の変転がめくるめく繰り広げられ、男と女たちがくっついたり離れたり、みんなフツーの人間で、それだけにおおきな振幅はないが読んでいるとふるふると心に沁みてくる。これこそ小説の醍醐味だ。理屈抜きがいい。
「通話」
ロベルト・ポラーニョ 作
チリ・メキシコ・スペインなどで暮らし、スペイン語で多くの小説を書いて2003年に50歳で死んだ著者の短編集。
「文学の冒険」:作家Bは自作の中で知り合いの売れっ子作家Aをモデルにとりあげ、その偽善性と御用作家ぶりを揶揄する。その後Bもはじめて大手出版社から本を出すが、これをAが手放しで絶賛した。これにはなにか裏があるのだろうか?Aの態度が気が気でならなず延々と悩むBが描かれるが、とうとうAと会うことになった直前、目を通したAの新作はすばらしいものだった。
「刑事たち」:車を走らせながらあれこれと雑談にふける二人の警官。ある日自分たちの警察署に中学時代の同級生が連れられてきた。そいつは接見禁止でカミソリもタオルも持たせてもらえなかった。しかも今の自分の様子を鏡で見ようともしない。なぜなら鏡に映るのは別人だからだという。そんなばかなことはあるまいと主人公の警官が鏡を見てみると、そこには肩越しにうしろから覗く知らない男と無数の人間の顔が…。しかしそれはほんの一瞬のことだった。
「ジョアンナ・シルヴェストリ」:37歳ポルノ女優として成功したジョアンナは、かつてポルノ界の大スターだったジャック・ホームズに会いにいく。借りたポルシェをとばしてようやくたどり着いたボロボロのバンガロー。今や業界から離れて無気力な生活を続けるジャック。もう来るなよと言われたようなものだけど、この人にはアタシが必要だと決意するジョアンナ。かれの大きなぶよぶよになったペニスを太ももの間に挟んで泣きながら眠った。そして二人がただ生きているということが意味あることだと感じるのだった。
いろいろな人々の人生の変転がめくるめく繰り広げられ、男と女たちがくっついたり離れたり、みんなフツーの人間で、それだけにおおきな振幅はないが読んでいるとふるふると心に沁みてくる。これこそ小説の醍醐味だ。理屈抜きがいい。
読書
「月の石」
トンマーゾ・ランドルフィ 作
手持ちの幻想文学事典を見ても、当然まだまだ知らない作家のほうがうんと多い。ランドルフィというイタリアの作家を初めて読んだが、充分にその幻想世界に酔うことができた。
主人公の大学生ジョヴァンカルロは村では坊ちゃんだが、ある日山からやってきた娘グルーを見て恋に落ちてしまう。ところが足元を見るとグルーは山羊の足を持っていて、なぜか誰もそのことを指摘しない。それは一瞬の幻であったのか、ふだんのグルーの足は普通の人間の足だ。
しだいに愛し合う関係となった二人。ある夜グルーに誘われて山へ山へと歩いていくと、しだいに激しくなる雨に降られ、ふと聴こえる山羊の鳴き声。近づいてくる山羊。するとグルーと山羊の体は互いに混じり合ったものに変わってしまうのだった。
その後二人はグルーのなじみの山賊達と行動を伴にし、真っ暗な深い深い渓谷で酒盛り、村人との決闘・虐殺。しかしこれらは全て今現在のことではなかったのか?山中を動物と人間の合体した異形の群れが歩いていくのだった。
というあらすじを書いてもワケはわからないが、このはっきりしないところが幻想文学の味わいで、夢の中に引っ張られていく心地よさがある。ランドルフィは奇想・滑稽・シュール・ナンセンスの作家でもあるらしいから、今後出会えたらぜひ読んでみたい。
「月の石」
トンマーゾ・ランドルフィ 作
手持ちの幻想文学事典を見ても、当然まだまだ知らない作家のほうがうんと多い。ランドルフィというイタリアの作家を初めて読んだが、充分にその幻想世界に酔うことができた。
主人公の大学生ジョヴァンカルロは村では坊ちゃんだが、ある日山からやってきた娘グルーを見て恋に落ちてしまう。ところが足元を見るとグルーは山羊の足を持っていて、なぜか誰もそのことを指摘しない。それは一瞬の幻であったのか、ふだんのグルーの足は普通の人間の足だ。
しだいに愛し合う関係となった二人。ある夜グルーに誘われて山へ山へと歩いていくと、しだいに激しくなる雨に降られ、ふと聴こえる山羊の鳴き声。近づいてくる山羊。するとグルーと山羊の体は互いに混じり合ったものに変わってしまうのだった。
その後二人はグルーのなじみの山賊達と行動を伴にし、真っ暗な深い深い渓谷で酒盛り、村人との決闘・虐殺。しかしこれらは全て今現在のことではなかったのか?山中を動物と人間の合体した異形の群れが歩いていくのだった。
というあらすじを書いてもワケはわからないが、このはっきりしないところが幻想文学の味わいで、夢の中に引っ張られていく心地よさがある。ランドルフィは奇想・滑稽・シュール・ナンセンスの作家でもあるらしいから、今後出会えたらぜひ読んでみたい。
読書(mixi過去日記より)
「巴里の憂鬱」
ボードレール作
三好達治訳
散文詩っていいですねえ。
ボクはむかしから、詩が苦手で、分からないことはないが、どうにも韻文というのがあかん。あの段落をぷつぷつ切っていく表現がどうも自分の脳に合わない。
小説の文体を鑑賞しながら読むほうではあるけれども、詩の形にされるとまるで違う世界だ。現代詩文庫近代詩編を集めていたこともあったが、とっくの昔に売り払ってしまった。
でも散文詩のように、散文のカタチをとってあるものはとても楽しい。一応のスジがあるものも面白いし、ただただ美的イメージを拡げて見せてくれるものも楽しい。だが散文詩自体が世の中にあまりないようで、一番好きなアポリネール以外では、ロートレアモン、このボードレール、日本人では萩原朔太郎の「猫街」その他ぐらいか。
詩人はやっぱり韻文を操ってこそ、創作のしがいもあるものだろうか?
(話はそれるが、ストーリー漫画家のボクから見ると、斎藤種魚さんのコマつなぎは詩人に思える。)
というわけでボードレール「巴里の憂鬱」
ひとつひとつの作品解説はしないが、また全体を評論する能力も自分にはないが、酔えますよ。「酔え」という作品もあります。
「今こそ酔うべきの時なれ!虐げらるる奴隷となって、時間の手中に堕ちざるために、酒によって、詩によって、はた徳によって、そは汝の好むがままに、酔え、絶えず汝を酔わしめてあれ!」
てなぐあいです。「けしからぬ硝子屋」が有名かな。「貧民を撲殺しよう」という作もおもしろい。
「巴里の憂鬱」
ボードレール作
三好達治訳
散文詩っていいですねえ。
ボクはむかしから、詩が苦手で、分からないことはないが、どうにも韻文というのがあかん。あの段落をぷつぷつ切っていく表現がどうも自分の脳に合わない。
小説の文体を鑑賞しながら読むほうではあるけれども、詩の形にされるとまるで違う世界だ。現代詩文庫近代詩編を集めていたこともあったが、とっくの昔に売り払ってしまった。
でも散文詩のように、散文のカタチをとってあるものはとても楽しい。一応のスジがあるものも面白いし、ただただ美的イメージを拡げて見せてくれるものも楽しい。だが散文詩自体が世の中にあまりないようで、一番好きなアポリネール以外では、ロートレアモン、このボードレール、日本人では萩原朔太郎の「猫街」その他ぐらいか。
詩人はやっぱり韻文を操ってこそ、創作のしがいもあるものだろうか?
(話はそれるが、ストーリー漫画家のボクから見ると、斎藤種魚さんのコマつなぎは詩人に思える。)
というわけでボードレール「巴里の憂鬱」
ひとつひとつの作品解説はしないが、また全体を評論する能力も自分にはないが、酔えますよ。「酔え」という作品もあります。
「今こそ酔うべきの時なれ!虐げらるる奴隷となって、時間の手中に堕ちざるために、酒によって、詩によって、はた徳によって、そは汝の好むがままに、酔え、絶えず汝を酔わしめてあれ!」
てなぐあいです。「けしからぬ硝子屋」が有名かな。「貧民を撲殺しよう」という作もおもしろい。
読書
「肉体の悪魔」
レイモン・ラディゲ 作
三島由紀夫が憧れたこの夭折の天才作家の名作を、なんで今まで読んでいなかったかと言えば、一つには恋愛というテーマが苦手。もう一つには青春という設定についていけない。もう一つはもし耽美文学だったら好き嫌いがある。というものだった。
しかしまったく違っていた。たしかに主人公達は恋愛しているのだが、縷々語られるのは男である「僕」のエゴイスティックな内面であり、それが冷徹に突き放した目線で描写されていて、悩んでいてもけっして懊悩や混乱を描くわけではなく、あくまで実験動物のように分析されいく。恋のかけひきは、まるで戦地に置ける作戦遂行の如くである。こういう推理小説のような味わいが優れた心理小説のおもしろさで、泣いたり叫んだりされるとこの味わいは出ない。
心理小説としての面白さもそうだが、物語の設定が不倫なので、主人公の二人が他人目を盗んで逢瀬を実行するストーリー上のスリル感も味わえる。そもそも相手の彼女は若くして結婚したのち、すぐさま主人公の「僕」と本当の恋に落ち妊娠までしてしまうが、結婚前に「僕」が態度をはっきりさせていればこんなややこしいことにはならなかった。という設定はまったく三島由紀夫の「豊饒の海(第一話:春の雪)」で主人公が彼女に犯した行為と同じである。三島は基本にラディゲを置いて組み立てていったものと思ったが、そのへんは語り尽くされているに違いない。
「肉体の悪魔」
レイモン・ラディゲ 作
三島由紀夫が憧れたこの夭折の天才作家の名作を、なんで今まで読んでいなかったかと言えば、一つには恋愛というテーマが苦手。もう一つには青春という設定についていけない。もう一つはもし耽美文学だったら好き嫌いがある。というものだった。
しかしまったく違っていた。たしかに主人公達は恋愛しているのだが、縷々語られるのは男である「僕」のエゴイスティックな内面であり、それが冷徹に突き放した目線で描写されていて、悩んでいてもけっして懊悩や混乱を描くわけではなく、あくまで実験動物のように分析されいく。恋のかけひきは、まるで戦地に置ける作戦遂行の如くである。こういう推理小説のような味わいが優れた心理小説のおもしろさで、泣いたり叫んだりされるとこの味わいは出ない。
心理小説としての面白さもそうだが、物語の設定が不倫なので、主人公の二人が他人目を盗んで逢瀬を実行するストーリー上のスリル感も味わえる。そもそも相手の彼女は若くして結婚したのち、すぐさま主人公の「僕」と本当の恋に落ち妊娠までしてしまうが、結婚前に「僕」が態度をはっきりさせていればこんなややこしいことにはならなかった。という設定はまったく三島由紀夫の「豊饒の海(第一話:春の雪)」で主人公が彼女に犯した行為と同じである。三島は基本にラディゲを置いて組み立てていったものと思ったが、そのへんは語り尽くされているに違いない。
読書
「ちびのツァッヒェス」
E・T・A・ホフマン 作
ある貧しい農家に生まれたツァッヒェス。小さな体で、こぶのように丸まった背中、盛り上がった両肩の間に埋まった頭、枝のように貧弱な足、もじゃもじゃの髪にとがった鼻。言葉もろくに話せなかったが、あわれに思った心優しい修道女にもらわれていく。この修道女が実は妖女であり、後年ツァッヒェスは魔法の力によってみるみる出世していくのだ。
ところがこのツァッヒェスは主人公ではなく悪役である。その魔法とは他人の成功はみな自分のものとし、自分の失敗はすべて他人のやったことにしてしまうというもの。周りいるもの皆魔法にかかってツァッヒェスを持ち上げ、あげくは大臣にまで昇りつめ、学園のアイドル的美女と婚礼を迎えんとする。
ヒーローは詩才豊かな大学生バルタザール。友人と協力してツァッヒェスの秘密を探り、愛する学園のアイドルを取り戻そうと格闘。そしてついに秘密が暴かれ、魔法は効力を失い、ちびのツァッヒェスはあわれな最期を迎えるといったお話であります。
作者ホフマンは、このあわれな人物に特別な情けをかけるわけではなく、物語は読者の好きな華やかな婚礼シーンで終わり、ツァッヒェスは置き去りだ。彼が死んで「ああ、かわいそうな身の上だったなあ」といったラストではないのだ。ツァッヒェスはあくまで不気味な奇形児というキャラクターで、その性格も実に俗物でイヤなやつに描かれており、読者が彼に感情移入することは防がれている。
この物語が書かれたのが1819年。まだメルヘンの世界では畸形は非常にアクの強いキャラクターで、魔法使いとして登場するのがふつうだったのではないか?そのへんはよくわからなくて、「生まれつき体の不自由な人を笑い者にしてはいけない」というセリフもあるが、内面が粗野な人間はどのみち幸福にはなれないというオチになっているのは、作者ホフマンの作戦だったのではないかとも思った。
「ちびのツァッヒェス」
E・T・A・ホフマン 作
ある貧しい農家に生まれたツァッヒェス。小さな体で、こぶのように丸まった背中、盛り上がった両肩の間に埋まった頭、枝のように貧弱な足、もじゃもじゃの髪にとがった鼻。言葉もろくに話せなかったが、あわれに思った心優しい修道女にもらわれていく。この修道女が実は妖女であり、後年ツァッヒェスは魔法の力によってみるみる出世していくのだ。
ところがこのツァッヒェスは主人公ではなく悪役である。その魔法とは他人の成功はみな自分のものとし、自分の失敗はすべて他人のやったことにしてしまうというもの。周りいるもの皆魔法にかかってツァッヒェスを持ち上げ、あげくは大臣にまで昇りつめ、学園のアイドル的美女と婚礼を迎えんとする。
ヒーローは詩才豊かな大学生バルタザール。友人と協力してツァッヒェスの秘密を探り、愛する学園のアイドルを取り戻そうと格闘。そしてついに秘密が暴かれ、魔法は効力を失い、ちびのツァッヒェスはあわれな最期を迎えるといったお話であります。
作者ホフマンは、このあわれな人物に特別な情けをかけるわけではなく、物語は読者の好きな華やかな婚礼シーンで終わり、ツァッヒェスは置き去りだ。彼が死んで「ああ、かわいそうな身の上だったなあ」といったラストではないのだ。ツァッヒェスはあくまで不気味な奇形児というキャラクターで、その性格も実に俗物でイヤなやつに描かれており、読者が彼に感情移入することは防がれている。
この物語が書かれたのが1819年。まだメルヘンの世界では畸形は非常にアクの強いキャラクターで、魔法使いとして登場するのがふつうだったのではないか?そのへんはよくわからなくて、「生まれつき体の不自由な人を笑い者にしてはいけない」というセリフもあるが、内面が粗野な人間はどのみち幸福にはなれないというオチになっているのは、作者ホフマンの作戦だったのではないかとも思った。
読書
「ラバウル戦記」
水木しげる
水木さんの戦争体験については、漫画や文章などで多く紹介されているので、自分もよく知っているのだが、この本はページの上半分が戦争当時のラフスケッチ画で占められていて、下半分に水木さんの解説があるといった体裁でたのしい。なかでもカラーの絵が美しく、特にグリーンが鮮やか。夜のシーンはさすがに雰囲気がある。
それにしても軍隊とは理不尽な場所だよ。水木さんは連日ビンタをくらってばかり。日本社会に伝統的ないわゆる抑圧移譲なのだが、かわいそうに水木さん達は最後の新兵で後から入ってくるものがいなかった。毎日が訓練や労働でムダに体力を消耗しているみたいだ。実際の戦闘自体は一瞬のことで、それも戦闘というより一方的に攻撃されるばかり。その後の水木さんの必死の逃走から爆弾で片腕を失うまでは有名なハナシだが、強運を支える体力が人一倍あった。
一年中、魚や果物が豊富にとれ農作物もぐんぐん実る。南方では毎日のんびり暮らせばよい。「南の島は楽園。はたして文明は人間を幸福にしているのだろうか?」水木さんがよくいうところだが、文明人が文明を発達させざるを得なかったのは、食べ物のない冬を越さなければならなかったから。と思うけど、あとはエンゲルスにきいてみよう。
「ラバウル戦記」
水木しげる
水木さんの戦争体験については、漫画や文章などで多く紹介されているので、自分もよく知っているのだが、この本はページの上半分が戦争当時のラフスケッチ画で占められていて、下半分に水木さんの解説があるといった体裁でたのしい。なかでもカラーの絵が美しく、特にグリーンが鮮やか。夜のシーンはさすがに雰囲気がある。
それにしても軍隊とは理不尽な場所だよ。水木さんは連日ビンタをくらってばかり。日本社会に伝統的ないわゆる抑圧移譲なのだが、かわいそうに水木さん達は最後の新兵で後から入ってくるものがいなかった。毎日が訓練や労働でムダに体力を消耗しているみたいだ。実際の戦闘自体は一瞬のことで、それも戦闘というより一方的に攻撃されるばかり。その後の水木さんの必死の逃走から爆弾で片腕を失うまでは有名なハナシだが、強運を支える体力が人一倍あった。
一年中、魚や果物が豊富にとれ農作物もぐんぐん実る。南方では毎日のんびり暮らせばよい。「南の島は楽園。はたして文明は人間を幸福にしているのだろうか?」水木さんがよくいうところだが、文明人が文明を発達させざるを得なかったのは、食べ物のない冬を越さなければならなかったから。と思うけど、あとはエンゲルスにきいてみよう。
読書
「猛スピードで母は」
長嶋有
子どもが出てくる話に初めから偏見がある。また小学生を中心に家族が描かれていると、これまた偏見を持つ。なにか現代家族や子ども達の問題にあらかじめ回答が用意されていて、さては予定調和ではないかしらんと勘ぐってしまう。
ところがほんとうはそんな正解はないということが、この小説および「サイドカーに犬」を読むと分かる。大人である母親にとって、必ずしも子どもは人生の中心ではない。各自自分の人生を生きるべきである。あらためてそう思わせるのは、作者の描く女性たちが強気でさっぱりしていてサクサクと行動するからだろうか。悩みや悲しみの感情を抱いたまま立ち止まっていない。この立ち止まらなさが日常の仕事や生活のリズムに支配されてのことなので、読む方もサクサクと立ち止まることなく昼間のリズムで読んでしまう感じだ。そんな気持ちよさがあった。
子どもと母親の関係、または愛人と子どもの関係に、一般的にこうだといったような設定はないので、描きすぎるとどこかで拾ってきたようなハナシになってしまうかもしれないが、そんな心配はいらなかった。2作品とも登場する男のほうはなんとも凡人で、やはり女の方が魅力的なのは主人公だからかな?
しかし作者の描く女性がいつもこうではあるまい。作品が違えばもめそめそした意気地のない女や、家事や仕事ができなくてグータラな女も出てくるのだろうか。それも人間だし読んでみたい気がする。
「猛スピードで母は」
長嶋有
子どもが出てくる話に初めから偏見がある。また小学生を中心に家族が描かれていると、これまた偏見を持つ。なにか現代家族や子ども達の問題にあらかじめ回答が用意されていて、さては予定調和ではないかしらんと勘ぐってしまう。
ところがほんとうはそんな正解はないということが、この小説および「サイドカーに犬」を読むと分かる。大人である母親にとって、必ずしも子どもは人生の中心ではない。各自自分の人生を生きるべきである。あらためてそう思わせるのは、作者の描く女性たちが強気でさっぱりしていてサクサクと行動するからだろうか。悩みや悲しみの感情を抱いたまま立ち止まっていない。この立ち止まらなさが日常の仕事や生活のリズムに支配されてのことなので、読む方もサクサクと立ち止まることなく昼間のリズムで読んでしまう感じだ。そんな気持ちよさがあった。
子どもと母親の関係、または愛人と子どもの関係に、一般的にこうだといったような設定はないので、描きすぎるとどこかで拾ってきたようなハナシになってしまうかもしれないが、そんな心配はいらなかった。2作品とも登場する男のほうはなんとも凡人で、やはり女の方が魅力的なのは主人公だからかな?
しかし作者の描く女性がいつもこうではあるまい。作品が違えばもめそめそした意気地のない女や、家事や仕事ができなくてグータラな女も出てくるのだろうか。それも人間だし読んでみたい気がする。
読書
「死海のほとり」
遠藤周作
キリスト教はわからない。例えば仏教的無常観や空や無の思想なら、自分の場合ある程度素直に近づくことができる。しかし隣人愛の問題となると自分の中でことさら捉え直すことができない。加えて神の存在を大前提、あるいは第一の課題とされるとどうしていいか分からない。
この小説の中で、イエスは圧倒的な愛の心を持って不幸な人々に寄り添おうとするが、それが常人が持っているエゴイズムを遥かに越えているので人々は驚いてしまう。めったにいない人間を見たのだ。こんな人がいるのか。だからといってすぐ弟子となってイエスを支持するわけではなく、どうしていいか分からないまま一歩引いて見てしまう。
わずかな人々の支持を得るイエス。もちろん奇跡を見せることはおろか、一人として病人を救うこともできない。かえって迫害を受けたあげく刑死するのだが、不思議なのは、この小説の中でも触れられているとおり、なぜイエスが亡くなった後で、弟子達はそんなにも熱心に彼のことを語り、また人々は教えに目覚めていったのか?なぜイエスが生きている時でなく死後なのか?やはり先走って死んでしまうくらいの人物であってこそ、じわりじわりと後から影響が広がっていくものなのか。(そんな簡単なことか?)
最も不幸な者・弱い者、また悪者・卑怯な者。彼らを絶対見捨てず、彼らにこそ寄り添おうとする思想。イエスの愛の精神は選ぶところなく、ケース・バイ・ケースでそのレベルを変えることがない。ここまで徹底された教えとなれば当然世界人類に普遍的な価値を持つ。あまりに強い愛の思想なので、人間は神様を信じなければとても実践できない。(ような気がする)
物語はかつてキリスト教系の学校で学んだ作者が、当時の学友を訪ねてイスラエルに渡り、イエスの足跡をたどる現在と、イエスと弟子達が迫害を受けながらパレスチナを巡り、とうとう十字架に掛けられるまでの過去の話が交互に進行する。そして最後にいつの時代も弱き者のそばに遍在するイエスの姿が垣間見られる。(のかもしれない)
「死海のほとり」
遠藤周作
キリスト教はわからない。例えば仏教的無常観や空や無の思想なら、自分の場合ある程度素直に近づくことができる。しかし隣人愛の問題となると自分の中でことさら捉え直すことができない。加えて神の存在を大前提、あるいは第一の課題とされるとどうしていいか分からない。
この小説の中で、イエスは圧倒的な愛の心を持って不幸な人々に寄り添おうとするが、それが常人が持っているエゴイズムを遥かに越えているので人々は驚いてしまう。めったにいない人間を見たのだ。こんな人がいるのか。だからといってすぐ弟子となってイエスを支持するわけではなく、どうしていいか分からないまま一歩引いて見てしまう。
わずかな人々の支持を得るイエス。もちろん奇跡を見せることはおろか、一人として病人を救うこともできない。かえって迫害を受けたあげく刑死するのだが、不思議なのは、この小説の中でも触れられているとおり、なぜイエスが亡くなった後で、弟子達はそんなにも熱心に彼のことを語り、また人々は教えに目覚めていったのか?なぜイエスが生きている時でなく死後なのか?やはり先走って死んでしまうくらいの人物であってこそ、じわりじわりと後から影響が広がっていくものなのか。(そんな簡単なことか?)
最も不幸な者・弱い者、また悪者・卑怯な者。彼らを絶対見捨てず、彼らにこそ寄り添おうとする思想。イエスの愛の精神は選ぶところなく、ケース・バイ・ケースでそのレベルを変えることがない。ここまで徹底された教えとなれば当然世界人類に普遍的な価値を持つ。あまりに強い愛の思想なので、人間は神様を信じなければとても実践できない。(ような気がする)
物語はかつてキリスト教系の学校で学んだ作者が、当時の学友を訪ねてイスラエルに渡り、イエスの足跡をたどる現在と、イエスと弟子達が迫害を受けながらパレスチナを巡り、とうとう十字架に掛けられるまでの過去の話が交互に進行する。そして最後にいつの時代も弱き者のそばに遍在するイエスの姿が垣間見られる。(のかもしれない)