漫画家まどの一哉ブログ
カテゴリー「読書日記」の記事一覧
- 2011.10.01 「レ・ミゼラブル」読了
- 2011.09.27 「予告された殺人の記録」
- 2011.09.23 「ホテル・アイリス」
- 2011.09.15 ベイトソンより抜粋
- 2011.09.10 椎名麟三を読む
- 2011.09.06 室生犀星を読む
- 2011.09.02 「偶然のチカラ」
- 2011.08.30 「ぼくのともだち」
- 2011.08.25 「三界の家」
- 2011.08.22 「通話」
読書(mixi過去日記より)
「レ・ミゼラブル」読了
分厚い新潮文庫で5巻まである、ユゴー作「レ・ミゼラブル」
8ヵ月かかって、やっと読み終わりました。
波瀾万丈の人間ドラマ、善対悪の対決です。
●なんといっても面白いのは1・2部。主人公はジャン・ヴァルジャン。有名な銀の燭台を盗む話。良心への目覚め。
そして無実の罪で捕まった男を救うために、地位を捨て、自ら正体を明かして名乗り出る話。それまでの葛藤が読みどころ。ドキドキする。
また追われる身となったジャン・ヴァルジャンが、悪党テナルディエの宿屋でこき使われる孤児コゼットを救出するところも胸躍る。
●3部以降は青年マリユスが登場し、話の中心がマリユスとコゼットに移行し、悪人達の企みによる危機からの脱出や、愛し合う二人の逢瀬など、いってみればドラマの王道を行くが如しで、やはりジャン・ヴァルジャンの良心の葛藤といった面がないともの足らないね。またジャヴェール警部は心を見ないで法を見るといったイヤなやつなんだけど、ドラマには欠かせない塩味のようなもの。
そんなふうに登場人物は皆典型的な悪人、善人に描かれていて、わかりやすいのはいいが、それにしてもコゼットやマリユスがあまりにも善人すぎる。とくにコゼットはあまりにもピュアで美しい心の持ち主、汚れを知らぬ天使のような乙女であって、つまらなくなってしまった。
それにひきかえ、よかったのは悪人テナルディエの娘エポニーヌだ。貧困のどん底で生きる彼女は青年マリユスに恋をし、騒動のさなか、マリユスをかばって銃弾に倒れるのだった。
このエポニーヌがミュージカルで歌うのが有名な「ON MY OWN」で、島田歌穂や本田美奈子、新妻聖子などいちばん歌える人がやってる役みたいだ。そんなことも知らなかったよ。
当然声のきれいな人がやってるけど、エポニーヌは設定では、もっとヤンキーでしゃがれ声だからね。俺は木下優樹菜想定で読んでいた。
歌を聴いてるだけで泣きそうになるから、舞台は見んとこ。
●ジャン・ヴァルジャンは施しを与える人で、民主化運動に走る人物ではない。とはいえ作者ユゴーは、けっしてキリスト教の神を良心の前提とはしていない。ではなにが良心の所以かについて、深い考察をしているわけではなくて、それより実際目の前で貧困にあえぐ悲惨な境遇の人々を、社会が放っておいてはいけないという、すこぶる実際的な衝動からこの物語を書いたようだ。社会派小説と言えばそうかも。
したがって随所に作者ユゴーの、パリの歴史や文化についてのウンチク(説教)が挟まれ、またこれが長いから挫折する人も多いと思うが、基本的には飽きさせないストーリーです。
「レ・ミゼラブル」読了
分厚い新潮文庫で5巻まである、ユゴー作「レ・ミゼラブル」
8ヵ月かかって、やっと読み終わりました。
波瀾万丈の人間ドラマ、善対悪の対決です。
●なんといっても面白いのは1・2部。主人公はジャン・ヴァルジャン。有名な銀の燭台を盗む話。良心への目覚め。
そして無実の罪で捕まった男を救うために、地位を捨て、自ら正体を明かして名乗り出る話。それまでの葛藤が読みどころ。ドキドキする。
また追われる身となったジャン・ヴァルジャンが、悪党テナルディエの宿屋でこき使われる孤児コゼットを救出するところも胸躍る。
●3部以降は青年マリユスが登場し、話の中心がマリユスとコゼットに移行し、悪人達の企みによる危機からの脱出や、愛し合う二人の逢瀬など、いってみればドラマの王道を行くが如しで、やはりジャン・ヴァルジャンの良心の葛藤といった面がないともの足らないね。またジャヴェール警部は心を見ないで法を見るといったイヤなやつなんだけど、ドラマには欠かせない塩味のようなもの。
そんなふうに登場人物は皆典型的な悪人、善人に描かれていて、わかりやすいのはいいが、それにしてもコゼットやマリユスがあまりにも善人すぎる。とくにコゼットはあまりにもピュアで美しい心の持ち主、汚れを知らぬ天使のような乙女であって、つまらなくなってしまった。
それにひきかえ、よかったのは悪人テナルディエの娘エポニーヌだ。貧困のどん底で生きる彼女は青年マリユスに恋をし、騒動のさなか、マリユスをかばって銃弾に倒れるのだった。
このエポニーヌがミュージカルで歌うのが有名な「ON MY OWN」で、島田歌穂や本田美奈子、新妻聖子などいちばん歌える人がやってる役みたいだ。そんなことも知らなかったよ。
当然声のきれいな人がやってるけど、エポニーヌは設定では、もっとヤンキーでしゃがれ声だからね。俺は木下優樹菜想定で読んでいた。
歌を聴いてるだけで泣きそうになるから、舞台は見んとこ。
●ジャン・ヴァルジャンは施しを与える人で、民主化運動に走る人物ではない。とはいえ作者ユゴーは、けっしてキリスト教の神を良心の前提とはしていない。ではなにが良心の所以かについて、深い考察をしているわけではなくて、それより実際目の前で貧困にあえぐ悲惨な境遇の人々を、社会が放っておいてはいけないという、すこぶる実際的な衝動からこの物語を書いたようだ。社会派小説と言えばそうかも。
したがって随所に作者ユゴーの、パリの歴史や文化についてのウンチク(説教)が挟まれ、またこれが長いから挫折する人も多いと思うが、基本的には飽きさせないストーリーです。
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読書
「予告された殺人の記録」
ガルシア・マルケス 作
近代化の波が少しずつ押し寄せる旧社会的な田舎町。世界中かつて今でもどこにでもあるこの設定は、現代社会のわれわれ日本人が読んでも十分納得できる。もちろん名誉のための殺人が実際許容される余地は今の日本にはないが。
物語は、厳格に育てられたはずの娘が資産家にみそめられて嫁いでみると既に処女ではなく、結婚したその日のうちに離縁されて実家に送り返されてくる。その妹の名誉を晴らすため二人の兄たちが妹の処女を奪った男を惨殺するというもの。その行われた殺人事件を遡るかたちで、時間をモザイク的に織り込みながら、なぜ予告されていたにもかかわらず殺人が実行されてしまったかを語る。
話は直線的にではなく行きつ戻りつしながらゆっくり進む。なぜなら二人の兄たちが屠殺用のナイフを見せびらかしながら街中に自らの殺人計画をふれまわったのは、誰かに止めてほしかったからであり、名誉を重んじるのが旧社会の侠気(おとこぎ)としても、いかにもやりたくない仕事だからだ。それに妹の処女を奪ったのがほんとうにその男なのか全く検証されていないし、的となっているのは平凡だがやや裕福なアラブ人である。ここにほんの少々階層差がある。
当日が、えらい司教が街にやってくるという祝祭の日で、街全体が浮かれだっているのがいかにも悲惨な事件が起きるのに、話としてはふさわしい。しかも婚礼の日でもある。ざわついているのだ。みんな朝まで飲んで酔いつぶれている。そんななかで屠殺用ナイフを持った男たちが殺人を計画しながらもおびえていて、徐々に徐々にターゲットの男を追いつめるはめになっていくところは現実的だった。実はこの小説は実際に起った事件を題材に描かれているのだ。
したがって社会派リアリズム小説でもあるのだが、なにせ全時間が祭りの日なのでいかにも非日常のふわふわした幻想性が味わえるというものである。
「予告された殺人の記録」
ガルシア・マルケス 作
近代化の波が少しずつ押し寄せる旧社会的な田舎町。世界中かつて今でもどこにでもあるこの設定は、現代社会のわれわれ日本人が読んでも十分納得できる。もちろん名誉のための殺人が実際許容される余地は今の日本にはないが。
物語は、厳格に育てられたはずの娘が資産家にみそめられて嫁いでみると既に処女ではなく、結婚したその日のうちに離縁されて実家に送り返されてくる。その妹の名誉を晴らすため二人の兄たちが妹の処女を奪った男を惨殺するというもの。その行われた殺人事件を遡るかたちで、時間をモザイク的に織り込みながら、なぜ予告されていたにもかかわらず殺人が実行されてしまったかを語る。
話は直線的にではなく行きつ戻りつしながらゆっくり進む。なぜなら二人の兄たちが屠殺用のナイフを見せびらかしながら街中に自らの殺人計画をふれまわったのは、誰かに止めてほしかったからであり、名誉を重んじるのが旧社会の侠気(おとこぎ)としても、いかにもやりたくない仕事だからだ。それに妹の処女を奪ったのがほんとうにその男なのか全く検証されていないし、的となっているのは平凡だがやや裕福なアラブ人である。ここにほんの少々階層差がある。
当日が、えらい司教が街にやってくるという祝祭の日で、街全体が浮かれだっているのがいかにも悲惨な事件が起きるのに、話としてはふさわしい。しかも婚礼の日でもある。ざわついているのだ。みんな朝まで飲んで酔いつぶれている。そんななかで屠殺用ナイフを持った男たちが殺人を計画しながらもおびえていて、徐々に徐々にターゲットの男を追いつめるはめになっていくところは現実的だった。実はこの小説は実際に起った事件を題材に描かれているのだ。
したがって社会派リアリズム小説でもあるのだが、なにせ全時間が祭りの日なのでいかにも非日常のふわふわした幻想性が味わえるというものである。
読書
「ホテル・アイリス」
小川洋子 作
主人公の少女は高校を中退して、実家の観光地ホテルで母とともに働く毎日だ。ある日やってきた初老の男が身だしなみのしっかりした紳士であるにもかかわらず、連れ込んだ娼婦を怒鳴りつけるその声。その声に魅せられてしまう少女は、そこではじめてじぶんのマゾヒスティックな性的資質に目覚めるのだった。
というわけでつましく暮らす初老の翻訳家と少女の秘密の交際が始まるのだが、男は不能なのであり、少女は裸で縛られた状態で、舌を使ってあらゆる形で男の体に奉仕する。と、基本的にはSM小説で、しかもストーリー展開もドキドキするくらい充分にある。なにせ私は秘密の交際という設定だけで、スリリングに読めてしまう。その上ケガで舌をなくした青年が登場し、物語は意外なふくらみを見せるから凝っている。
初老の紳士と少女のSM的交際は、ストーリーとしてはおそらく平凡なものであり、作者小川洋子は何が描きたくてこの設定を選んだのか。充分にエロチックで美しいが、この作者がほんとうにこの世界が書きたくて書いているのか、ほかにも読んでみないとわからないところだ。
「ホテル・アイリス」
小川洋子 作
主人公の少女は高校を中退して、実家の観光地ホテルで母とともに働く毎日だ。ある日やってきた初老の男が身だしなみのしっかりした紳士であるにもかかわらず、連れ込んだ娼婦を怒鳴りつけるその声。その声に魅せられてしまう少女は、そこではじめてじぶんのマゾヒスティックな性的資質に目覚めるのだった。
というわけでつましく暮らす初老の翻訳家と少女の秘密の交際が始まるのだが、男は不能なのであり、少女は裸で縛られた状態で、舌を使ってあらゆる形で男の体に奉仕する。と、基本的にはSM小説で、しかもストーリー展開もドキドキするくらい充分にある。なにせ私は秘密の交際という設定だけで、スリリングに読めてしまう。その上ケガで舌をなくした青年が登場し、物語は意外なふくらみを見せるから凝っている。
初老の紳士と少女のSM的交際は、ストーリーとしてはおそらく平凡なものであり、作者小川洋子は何が描きたくてこの設定を選んだのか。充分にエロチックで美しいが、この作者がほんとうにこの世界が書きたくて書いているのか、ほかにも読んでみないとわからないところだ。
ベイトソン「精神の生態学」より抜粋
ベイトソンも面白いけど、最近は年齢を重ねたせいか、こういう論理的なもの物を長く読んでいるのに耐えられない。感情が飢える。かの有名なダブルバインド理論を読み込む前に図書館に返却するつもりだが、なるほど!と印象に残った部分を以下に抜き書きしておこうかな。
「プリミティブな芸術の様式と優美と情報」より
あらゆる種類の技能の伝達は、つねにこの種のものだ。熟達した芸をみたとき、われわれは「すばらしい」ことを意識するが、それがどうだから「すばらしい」のかを言葉でうまく語ることはできない。
芸術家はキミョウなジレンマに陥っているといえそうだ。訓練によって技能に熟達していくにつれ、自分がそれをどのように行っているのかが意識からすり落ちていく。意識の手を離すことで、技能が身につく。
だがそうした「ハート」の、いわゆる「無意識」の、演算規則は、言語の演算規則とは全く別の方法でコード化され組織されている。しかもわれわれの意識は、大部分言語の論理によって組み立てられている。そのために、無意識の演算規則を意識で捉えることは二重の困難をともなう。意識に支配されている限り精神はこうした対象をつかむことができないというばかりではなく、かりに夢、芸術、詩、宗教、酩酊などによってそれが運よく把握できたとしても、それを言葉にするのがまた途方もなく難しいのだ。
てな具合で詳述しないが、自分もそうやって無意識の手によるところ大でありたい。
ベイトソンも面白いけど、最近は年齢を重ねたせいか、こういう論理的なもの物を長く読んでいるのに耐えられない。感情が飢える。かの有名なダブルバインド理論を読み込む前に図書館に返却するつもりだが、なるほど!と印象に残った部分を以下に抜き書きしておこうかな。
「プリミティブな芸術の様式と優美と情報」より
あらゆる種類の技能の伝達は、つねにこの種のものだ。熟達した芸をみたとき、われわれは「すばらしい」ことを意識するが、それがどうだから「すばらしい」のかを言葉でうまく語ることはできない。
芸術家はキミョウなジレンマに陥っているといえそうだ。訓練によって技能に熟達していくにつれ、自分がそれをどのように行っているのかが意識からすり落ちていく。意識の手を離すことで、技能が身につく。
だがそうした「ハート」の、いわゆる「無意識」の、演算規則は、言語の演算規則とは全く別の方法でコード化され組織されている。しかもわれわれの意識は、大部分言語の論理によって組み立てられている。そのために、無意識の演算規則を意識で捉えることは二重の困難をともなう。意識に支配されている限り精神はこうした対象をつかむことができないというばかりではなく、かりに夢、芸術、詩、宗教、酩酊などによってそれが運よく把握できたとしても、それを言葉にするのがまた途方もなく難しいのだ。
てな具合で詳述しないが、自分もそうやって無意識の手によるところ大でありたい。
読書(mixi過去日記より)
椎名麟三を読む
自分の読んだのは、講談社文芸文庫の短編集。
作者は戦前ごく一時期、共産党(もちろん非合法)の細胞であったが、その地下活動家としての苦悩を描いた作品が、なんだか青臭くてつまらなかった。
というわけで敬遠していたのだが、後期の短編からあらためて読んでみると、同じ共産党の細胞のはなしでも、うんとくだけていてユーモラス。
例えば「カラチの女」:遠くカラチの資産家の末娘が、婿探しに内地の日本人を希望していて、莫大な持参金つきである。という近所の食堂のうわさを真に受けて、主人公の私はぜひその娘と結婚して、大金を党の活動資金にあてようと画策する…。
また作者の少年時代の経験をもとに描かれた表題作「神の道化師」が傑作。
破綻・困窮した家庭から家出した中学生の主人公。無料宿泊所に出入りすると、そこはモルヒネ中毒者や乞食など、社会の最底辺に屯する人々の巣窟だった。ここにいてはいけないと、仕事を見つけて脱出をはかるも、同宿の中年乞食の男に溺愛され、なにかと世話になってしまう。
この小説のラスト近くを紹介。
そして準次は、あるレストランへつとめることになったのだ。もうその彼は、家出したときの彼ではなかった。立派な王城の住人になっていたからである。ただ住んでみると、その社会という王城は、彼の期待に反して実にくだらない、あわれむべきものであったが、しかし彼の捨てることの出来ないものであった。
このフレーズがいいです!
椎名麟三を読む
自分の読んだのは、講談社文芸文庫の短編集。
作者は戦前ごく一時期、共産党(もちろん非合法)の細胞であったが、その地下活動家としての苦悩を描いた作品が、なんだか青臭くてつまらなかった。
というわけで敬遠していたのだが、後期の短編からあらためて読んでみると、同じ共産党の細胞のはなしでも、うんとくだけていてユーモラス。
例えば「カラチの女」:遠くカラチの資産家の末娘が、婿探しに内地の日本人を希望していて、莫大な持参金つきである。という近所の食堂のうわさを真に受けて、主人公の私はぜひその娘と結婚して、大金を党の活動資金にあてようと画策する…。
また作者の少年時代の経験をもとに描かれた表題作「神の道化師」が傑作。
破綻・困窮した家庭から家出した中学生の主人公。無料宿泊所に出入りすると、そこはモルヒネ中毒者や乞食など、社会の最底辺に屯する人々の巣窟だった。ここにいてはいけないと、仕事を見つけて脱出をはかるも、同宿の中年乞食の男に溺愛され、なにかと世話になってしまう。
この小説のラスト近くを紹介。
そして準次は、あるレストランへつとめることになったのだ。もうその彼は、家出したときの彼ではなかった。立派な王城の住人になっていたからである。ただ住んでみると、その社会という王城は、彼の期待に反して実にくだらない、あわれむべきものであったが、しかし彼の捨てることの出来ないものであった。
このフレーズがいいです!
読書(mixi過去日記より)
室生犀星を読む
室生犀星の小説を怪奇幻想譚に限って読むと、なんと言っても「蜜のあはれ」という、金魚の化身が、金魚になったり、少女になったりしておっさんとふらふら過ごすハナシが一番だ。
今回それ以外のものを、ちくま文庫のアンソロジーで読んだ。
「蛾」時代劇。四十九日の法用も済ませたその日に、死んだと思った亭主がひょっこり帰ってくる。しかし毎日ぼんやりと過ごすだけで、行方不明になっていた間の様子は語らない。女房は亭主が持ち帰った川魚取りの仕事道具の中から、あるはずもない女物の櫛を発見する。するとその夜から、どこかの町家の内儀が落とし物を捜して訪ねてくるようになった。やがて内儀と亭主は親しげに話し始めるが、ある日ふいに二人とも姿を消す。例の櫛もない。川に行ってみると、何やら水中に二人の影が見えるような、見えないような感じである。
このように、何の説明も解決もせずに、謎のまま放ったらかすタイプのハナシが、個人的には大好きです。
「三階の家」一階は商店だが、二・三階は貸間という住宅。といっても気味の悪い噂が立って、借りているのは三階片隅の男のみ。ある日そこへ、来るなと言っておいた別れた女房が訪ねてくる。男は迷惑がって、きつく言って追い返した。すると夜になって、いるはずもない二階の部屋から物音が…。気味悪がって、商家のおかみと二人で調べても誰もいない。ただ玄関先には訪ねてきた女の履物があり、女は帰っていないのだった。そしてふと階段の裏を覗くと…。
「香炉を盗む」亭主が他所の女の元へ出かけようとすると、必ず玄関で亭主の帽子を用意して待っている女房。亭主に一言も文句を言うではないが、だんだんと気鬱になって痩せ細るうちに、座したまま亭主の行動をすべて感知するようになる。亭主は恐ろしいのだが、病人を放っておくわけにもいかない。女房は死を目前に、ますますその霊感を発揮する。
その他、室生犀星は幻想ものでも、死別した子供の幽霊の話しなど、哀感漂うものが人気なようだが、自分の趣味とはちょっと違った。でもおもしろいです。
室生犀星を読む
室生犀星の小説を怪奇幻想譚に限って読むと、なんと言っても「蜜のあはれ」という、金魚の化身が、金魚になったり、少女になったりしておっさんとふらふら過ごすハナシが一番だ。
今回それ以外のものを、ちくま文庫のアンソロジーで読んだ。
「蛾」時代劇。四十九日の法用も済ませたその日に、死んだと思った亭主がひょっこり帰ってくる。しかし毎日ぼんやりと過ごすだけで、行方不明になっていた間の様子は語らない。女房は亭主が持ち帰った川魚取りの仕事道具の中から、あるはずもない女物の櫛を発見する。するとその夜から、どこかの町家の内儀が落とし物を捜して訪ねてくるようになった。やがて内儀と亭主は親しげに話し始めるが、ある日ふいに二人とも姿を消す。例の櫛もない。川に行ってみると、何やら水中に二人の影が見えるような、見えないような感じである。
このように、何の説明も解決もせずに、謎のまま放ったらかすタイプのハナシが、個人的には大好きです。
「三階の家」一階は商店だが、二・三階は貸間という住宅。といっても気味の悪い噂が立って、借りているのは三階片隅の男のみ。ある日そこへ、来るなと言っておいた別れた女房が訪ねてくる。男は迷惑がって、きつく言って追い返した。すると夜になって、いるはずもない二階の部屋から物音が…。気味悪がって、商家のおかみと二人で調べても誰もいない。ただ玄関先には訪ねてきた女の履物があり、女は帰っていないのだった。そしてふと階段の裏を覗くと…。
「香炉を盗む」亭主が他所の女の元へ出かけようとすると、必ず玄関で亭主の帽子を用意して待っている女房。亭主に一言も文句を言うではないが、だんだんと気鬱になって痩せ細るうちに、座したまま亭主の行動をすべて感知するようになる。亭主は恐ろしいのだが、病人を放っておくわけにもいかない。女房は死を目前に、ますますその霊感を発揮する。
その他、室生犀星は幻想ものでも、死別した子供の幽霊の話しなど、哀感漂うものが人気なようだが、自分の趣味とはちょっと違った。でもおもしろいです。
読書
「偶然のチカラ」
植島啓司 著
過去に読んだA・ケストラー「偶然の本質」、I・エクランド「偶然とは何か」に続いて偶然シリーズ3冊目である。また、この著者のエッセイは過去に2冊ほど面白く読んだ記憶がある。水木さんが「偶然の神秘」とかいった漫画を描いていたと思うが、自分も偶然に対する関心は途切れることがない。
とは言っても冷静に考えると、やはり確率と統計のはなしになるので、それはしかたがない。
主観的には何故自分にこんなことが起きるのか?と不思議に思うことでも、確率から見ればそれくらいのことならたまにはあるだろということだ。そして何故それが自分に起きるのかという理由は別にないのだ。
著者は学者でありながらギャンブラーでもあるので、いきおい話はルーレットなど賭博の運不運におよぶが、ここが確率と統計だけでは補い得ないところである。誰しも自分の選択が正しかったかどうかは解らない。あのとき別の手をうっていれば、現在いい結果が出たかどうかは検証しようがない。ただ人間自分で決めたことには執着心が出るので、ただしいギャンブラーはできるだけ自分で決めずに様子を眺め、他人に決めさせよ。とのことである。これも偶然のチカラ?
さてここで唐突に、かの有名なカオス理論のバタフライ効果を持ち出してみれば、宇宙には無関係なことなど存在していない。全ての因果系列は繋がりがある。それならものは考えようで、自分の身に起きること全ては必然であると考えても間違いではあるまい。因果だねえ…。
かの南方熊楠も因果については考えていて、原因と結果を結ぶ直線が何本もあるとすると、当然この線はそれぞれ独立した必然性を持っている。そしてこの線は互いに理由もなく交差するが、まさにこの交点こそが偶然である。熊楠は縁という言葉で表現している。縁は異なものである。
著者曰く、もし無人島で一人暮らししているとすれば偶然を感じるだろうか?おそらく感じないのではないか。するとやはり偶然とは他者の営みとの交わり・縁というところに成り立つのではないか。
というわけで今回も解ったような解らなかったようなところまで進んだ。
「偶然のチカラ」
植島啓司 著
過去に読んだA・ケストラー「偶然の本質」、I・エクランド「偶然とは何か」に続いて偶然シリーズ3冊目である。また、この著者のエッセイは過去に2冊ほど面白く読んだ記憶がある。水木さんが「偶然の神秘」とかいった漫画を描いていたと思うが、自分も偶然に対する関心は途切れることがない。
とは言っても冷静に考えると、やはり確率と統計のはなしになるので、それはしかたがない。
主観的には何故自分にこんなことが起きるのか?と不思議に思うことでも、確率から見ればそれくらいのことならたまにはあるだろということだ。そして何故それが自分に起きるのかという理由は別にないのだ。
著者は学者でありながらギャンブラーでもあるので、いきおい話はルーレットなど賭博の運不運におよぶが、ここが確率と統計だけでは補い得ないところである。誰しも自分の選択が正しかったかどうかは解らない。あのとき別の手をうっていれば、現在いい結果が出たかどうかは検証しようがない。ただ人間自分で決めたことには執着心が出るので、ただしいギャンブラーはできるだけ自分で決めずに様子を眺め、他人に決めさせよ。とのことである。これも偶然のチカラ?
さてここで唐突に、かの有名なカオス理論のバタフライ効果を持ち出してみれば、宇宙には無関係なことなど存在していない。全ての因果系列は繋がりがある。それならものは考えようで、自分の身に起きること全ては必然であると考えても間違いではあるまい。因果だねえ…。
かの南方熊楠も因果については考えていて、原因と結果を結ぶ直線が何本もあるとすると、当然この線はそれぞれ独立した必然性を持っている。そしてこの線は互いに理由もなく交差するが、まさにこの交点こそが偶然である。熊楠は縁という言葉で表現している。縁は異なものである。
著者曰く、もし無人島で一人暮らししているとすれば偶然を感じるだろうか?おそらく感じないのではないか。するとやはり偶然とは他者の営みとの交わり・縁というところに成り立つのではないか。
というわけで今回も解ったような解らなかったようなところまで進んだ。
読書
「ぼくのともだち」
エマニュエル・ボーヴ 作
アパートの屋根裏部屋に一人暮らす孤独な青年ヴィクトール・バトン。彼はともに人生を歩んでいけるようなほんとうのともだちを求めて、今日も町を彷徨うのだがなかなかにその願いは達成されない。彼はけっして悪いヤツじゃない。マナーは守るし礼儀正しい、むしろかなりいいヤツ。ただちょっと世間知らずで空想的なだけだ。
ある日、街中の野次馬のなかで知り合った一人の男。バトンはこの男を大切な立った一人の友人候補と思い定めてしまうが、彼が恋人と同棲していると聞いて絶望しかける。なんとか親しくなったあげく家に招待され、50フランの金を貸すことになる。しかも翌日彼のいない時間に彼女一人に会いにいったことが原因で、関係は終わってしまった。この勝手な思い込みと軽はずみさはどうだ?
また、港であたかも自殺するかのようなそぶりで道行く人に思わせぶりな態度をとっていると、本当の自殺希望者の男に身投げに誘われてしまう。なんとか押しとどめて金を与え、自分も経験のない売春宿へ連れていくと、その男はさっさと自分を捨てて女と消えてしまった。
またある日偶然にも金持ちの実業家に出合う。駅でポーターと間違われたのだ。これがきっかけで実業家の家に呼ばれ、気に入られた彼は新しい職場を紹介してもらった。この幸運にも増して彼は、その実業家の娘と町で偶然出会って仲良くなるという空想を押しとどめることができず、娘の後を付けて実業家の怒りをかい就職はご破算に。
ともだちということに過度に意識的に構えて、人間社会の経験値が足りず、聞いただけの浅知恵を駆使し、自分に都合のいい妄想から離れられない青年ヴィクトール・バトン君。こんな人けっこういると思うよ。
「ぼくのともだち」
エマニュエル・ボーヴ 作
アパートの屋根裏部屋に一人暮らす孤独な青年ヴィクトール・バトン。彼はともに人生を歩んでいけるようなほんとうのともだちを求めて、今日も町を彷徨うのだがなかなかにその願いは達成されない。彼はけっして悪いヤツじゃない。マナーは守るし礼儀正しい、むしろかなりいいヤツ。ただちょっと世間知らずで空想的なだけだ。
ある日、街中の野次馬のなかで知り合った一人の男。バトンはこの男を大切な立った一人の友人候補と思い定めてしまうが、彼が恋人と同棲していると聞いて絶望しかける。なんとか親しくなったあげく家に招待され、50フランの金を貸すことになる。しかも翌日彼のいない時間に彼女一人に会いにいったことが原因で、関係は終わってしまった。この勝手な思い込みと軽はずみさはどうだ?
また、港であたかも自殺するかのようなそぶりで道行く人に思わせぶりな態度をとっていると、本当の自殺希望者の男に身投げに誘われてしまう。なんとか押しとどめて金を与え、自分も経験のない売春宿へ連れていくと、その男はさっさと自分を捨てて女と消えてしまった。
またある日偶然にも金持ちの実業家に出合う。駅でポーターと間違われたのだ。これがきっかけで実業家の家に呼ばれ、気に入られた彼は新しい職場を紹介してもらった。この幸運にも増して彼は、その実業家の娘と町で偶然出会って仲良くなるという空想を押しとどめることができず、娘の後を付けて実業家の怒りをかい就職はご破算に。
ともだちということに過度に意識的に構えて、人間社会の経験値が足りず、聞いただけの浅知恵を駆使し、自分に都合のいい妄想から離れられない青年ヴィクトール・バトン君。こんな人けっこういると思うよ。
読書
「三界の家」
林京子
林京子は長崎での被爆体験を中心に、自身の人生をすべてなぞって作品にしている私の好きな作家である。
この短編集では作者の父親を描いた話が心に残った。
彼女の父親は戦前M物産の上海支店に勤めるエリートであり、家族からは「とうさま」と呼ばれ、尊敬を集めていた。敗色濃厚な中国大陸、一家は父親を残したまま先に引き上げ、作者は長崎の三菱兵器工場にて被爆。やがて父親も帰国するが財閥解体の指令を受けてM物産社員という肩書きを失ってしまう。
そうなるとエリートは弱い者で、就職難の中やっと見つけたクチも雑用までやるのが苦痛ですぐ止めてしまい、昼間から家でぶらぶらである。ようやく続いているらしい職場をある日母親と作者が訪ねてみると、海岸近くの小屋の中で、ひとり伝票仕事をしていた。寂しくて呆然とするシーンだ。
母親は家政婦の職を見つけて働きに出るようになるが、そのころ閑な父親はぶらり散歩がてら母の勤め先である家庭に立ち寄り、おみやげに果物などをもらって帰る。なんとも情けない有様である。
時代が流れて老いた父親はやがて膵臓がんを患い、病院では家族総出の世話になるが、ひっきりなしにベッドのそばで付き添って寝ている母親の名を呼ぶ。しかし母は返事をしない。返事をすると甘えるからだそうである。「とうさま」と呼ばれて尊敬されていた父親は、母の中でとうのむかしに終わっているのである。
小説では父の死後、葬儀があって一族の墓を掘り起こすシーンが描かれる。父の親族に連なる何代かの人達の骨壺が出てくる。残された母親は父の骨壺を最終的に近代的なロッカー式の墓に移してしまう。自分も死後はそこに入るつもりだ。娘(作者)たちも来てよいという。父方の縁はそこで切られてしまった。作者も自分の子どもが結婚した時点で縁は断ち切り、無性としての存在に帰りたいと思うのだった。
雑感:親子というものは逃れられないものであるが、人生によっては積極的に親子の縁を切ってそれがプラスである人もいよう。ましてや親以前自分以降につながる縁は人それぞれだ。関係はないのが事実だろう。大きな意味で先祖や共同体が自分にもつながっていることは、安心して死んでいく心の支えではあるが、それは今自分の周りにいる人々がそうだと考えてもいいと思う。
「三界の家」
林京子
林京子は長崎での被爆体験を中心に、自身の人生をすべてなぞって作品にしている私の好きな作家である。
この短編集では作者の父親を描いた話が心に残った。
彼女の父親は戦前M物産の上海支店に勤めるエリートであり、家族からは「とうさま」と呼ばれ、尊敬を集めていた。敗色濃厚な中国大陸、一家は父親を残したまま先に引き上げ、作者は長崎の三菱兵器工場にて被爆。やがて父親も帰国するが財閥解体の指令を受けてM物産社員という肩書きを失ってしまう。
そうなるとエリートは弱い者で、就職難の中やっと見つけたクチも雑用までやるのが苦痛ですぐ止めてしまい、昼間から家でぶらぶらである。ようやく続いているらしい職場をある日母親と作者が訪ねてみると、海岸近くの小屋の中で、ひとり伝票仕事をしていた。寂しくて呆然とするシーンだ。
母親は家政婦の職を見つけて働きに出るようになるが、そのころ閑な父親はぶらり散歩がてら母の勤め先である家庭に立ち寄り、おみやげに果物などをもらって帰る。なんとも情けない有様である。
時代が流れて老いた父親はやがて膵臓がんを患い、病院では家族総出の世話になるが、ひっきりなしにベッドのそばで付き添って寝ている母親の名を呼ぶ。しかし母は返事をしない。返事をすると甘えるからだそうである。「とうさま」と呼ばれて尊敬されていた父親は、母の中でとうのむかしに終わっているのである。
小説では父の死後、葬儀があって一族の墓を掘り起こすシーンが描かれる。父の親族に連なる何代かの人達の骨壺が出てくる。残された母親は父の骨壺を最終的に近代的なロッカー式の墓に移してしまう。自分も死後はそこに入るつもりだ。娘(作者)たちも来てよいという。父方の縁はそこで切られてしまった。作者も自分の子どもが結婚した時点で縁は断ち切り、無性としての存在に帰りたいと思うのだった。
雑感:親子というものは逃れられないものであるが、人生によっては積極的に親子の縁を切ってそれがプラスである人もいよう。ましてや親以前自分以降につながる縁は人それぞれだ。関係はないのが事実だろう。大きな意味で先祖や共同体が自分にもつながっていることは、安心して死んでいく心の支えではあるが、それは今自分の周りにいる人々がそうだと考えてもいいと思う。
読書
「通話」
ロベルト・ポラーニョ 作
チリ・メキシコ・スペインなどで暮らし、スペイン語で多くの小説を書いて2003年に50歳で死んだ著者の短編集。
「文学の冒険」:作家Bは自作の中で知り合いの売れっ子作家Aをモデルにとりあげ、その偽善性と御用作家ぶりを揶揄する。その後Bもはじめて大手出版社から本を出すが、これをAが手放しで絶賛した。これにはなにか裏があるのだろうか?Aの態度が気が気でならなず延々と悩むBが描かれるが、とうとうAと会うことになった直前、目を通したAの新作はすばらしいものだった。
「刑事たち」:車を走らせながらあれこれと雑談にふける二人の警官。ある日自分たちの警察署に中学時代の同級生が連れられてきた。そいつは接見禁止でカミソリもタオルも持たせてもらえなかった。しかも今の自分の様子を鏡で見ようともしない。なぜなら鏡に映るのは別人だからだという。そんなばかなことはあるまいと主人公の警官が鏡を見てみると、そこには肩越しにうしろから覗く知らない男と無数の人間の顔が…。しかしそれはほんの一瞬のことだった。
「ジョアンナ・シルヴェストリ」:37歳ポルノ女優として成功したジョアンナは、かつてポルノ界の大スターだったジャック・ホームズに会いにいく。借りたポルシェをとばしてようやくたどり着いたボロボロのバンガロー。今や業界から離れて無気力な生活を続けるジャック。もう来るなよと言われたようなものだけど、この人にはアタシが必要だと決意するジョアンナ。かれの大きなぶよぶよになったペニスを太ももの間に挟んで泣きながら眠った。そして二人がただ生きているということが意味あることだと感じるのだった。
いろいろな人々の人生の変転がめくるめく繰り広げられ、男と女たちがくっついたり離れたり、みんなフツーの人間で、それだけにおおきな振幅はないが読んでいるとふるふると心に沁みてくる。これこそ小説の醍醐味だ。理屈抜きがいい。
「通話」
ロベルト・ポラーニョ 作
チリ・メキシコ・スペインなどで暮らし、スペイン語で多くの小説を書いて2003年に50歳で死んだ著者の短編集。
「文学の冒険」:作家Bは自作の中で知り合いの売れっ子作家Aをモデルにとりあげ、その偽善性と御用作家ぶりを揶揄する。その後Bもはじめて大手出版社から本を出すが、これをAが手放しで絶賛した。これにはなにか裏があるのだろうか?Aの態度が気が気でならなず延々と悩むBが描かれるが、とうとうAと会うことになった直前、目を通したAの新作はすばらしいものだった。
「刑事たち」:車を走らせながらあれこれと雑談にふける二人の警官。ある日自分たちの警察署に中学時代の同級生が連れられてきた。そいつは接見禁止でカミソリもタオルも持たせてもらえなかった。しかも今の自分の様子を鏡で見ようともしない。なぜなら鏡に映るのは別人だからだという。そんなばかなことはあるまいと主人公の警官が鏡を見てみると、そこには肩越しにうしろから覗く知らない男と無数の人間の顔が…。しかしそれはほんの一瞬のことだった。
「ジョアンナ・シルヴェストリ」:37歳ポルノ女優として成功したジョアンナは、かつてポルノ界の大スターだったジャック・ホームズに会いにいく。借りたポルシェをとばしてようやくたどり着いたボロボロのバンガロー。今や業界から離れて無気力な生活を続けるジャック。もう来るなよと言われたようなものだけど、この人にはアタシが必要だと決意するジョアンナ。かれの大きなぶよぶよになったペニスを太ももの間に挟んで泣きながら眠った。そして二人がただ生きているということが意味あることだと感じるのだった。
いろいろな人々の人生の変転がめくるめく繰り広げられ、男と女たちがくっついたり離れたり、みんなフツーの人間で、それだけにおおきな振幅はないが読んでいるとふるふると心に沁みてくる。これこそ小説の醍醐味だ。理屈抜きがいい。