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漫画家まどの一哉ブログ

   
カテゴリー「読書日記」の記事一覧
読書
「ひかげの花」
永井荷風


学生の頃から、ヒモひとすじの男。女の歓心を得るためにはどんな屈辱をも、耐え忍ぶことができる男重吉。そしてその連れ合いの女お千代は、あまり物事を考えず、規律正しく扱われることがしんぼうしきれない性格で、いわゆる醜業につくことについても流れのままに身を任せてしまい、それほどの抵抗は感じていない。
重吉のほうも自分の女が、身体を売って稼いでいるのに嫉妬心などまるで抱かず、女房の仕事をかげひなたに援助して活躍するありさま。
いや、ひなたならぬひかげなのだが、社会の片隅でけなげに生きる市井の人々を描くといっても、これは清貧でなくとんだ二人組だ。しかしこれも人間であって、その喜怒哀楽・心のひだを描いて読んでいて思わず気持ちが入った。売春婦とそのヒモたる男の日常を描いた作品は、現代でもいくらでもあるかもしれないが、この昔の小説はまったく陰惨なところがなく、がんばって生き抜こうとする二人を応援したくなる。作者の登場人物への愛が感じられたが、ここに永井荷風の人間観があるのではないか。次の一文など。

主人公お千代の娘、おたみが母親と同じ仕事に就いていることについて…
(略)塚山はその性情と、またその哲学観とから、人生に対して極端な絶望を感じているので、おたみが正しい職業について、あるいは貧苦に陥り、あるいはまた成功して虚栄の念にあくせくするよりも、どぶがわを流れる芥のような、無知放埒な生活を送っている方が、かえってその人には幸福であるのかも知れない。(略)と考えていたのである。

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読書
「雨瀟瀟」
永井荷風
 作

しとしとぴっちゃ~ん。雨が降り続く夜など、一人暮らしの老境、いかばかり寂しかろ。そんな荷風のつぶやきが縷々綴られた私小説。どうしても想いは時代の移り変わりを嘆くほうへむかうようだ。それが現代とちっとも変わらないところがおもしろい。いま自分は滝田ゆうの短編を読んでいて、ここに描かれる風俗に気持ちが入る世代はギリ自分たちが最後かもと思っているが、ことごとくデジタルになって行く世の中、アナログの風情が理解されるのはいつまでかなあ…。などと嘆くのとちょうど同じ様子が、この荷風の小説でも登場する。以下荷風の友人の言葉。

「家の娘は今高等女学校に通わしてあるがそれを見ても分かる話で今日の若い女には活字の外は何も読めない。草書も変体仮名も読めない。新聞の小説はよめるが仮名の草双紙は読めない。(略)稽古本の書体がわからないのはその人の罪ではない。町に育った今の女は井戸を知らない。刎釣瓶の竿に残月のかかった趣なぞは知ろうはずもない。(略)僕はもう事の是非を論じている時ではない。それよりわれわれは果たしていつまでわれわれの時代の古雅の趣味を持続して行く事ができるか、そんな事でも考えたがよい。」

そして荷風本人は
「(略)二葉亭四迷出て以来殆ど現代小説の定形の如くなった言文一致体の修辞法は七五調をなした江戸風詞曲の述作には害をなすものと思ったからである。このであるという文体についてはわたしは今日なお古人の文を読み返した後など殊に不快の感を禁じ得ないノデアル。わたしはどうかしてこの野卑蕪雑なデアルの文体を排棄しようと思いながら多年の陋習遂に改むるによしなく空しく紅葉一葉の如き文才なきを嘆じている次第であるノデアル。」

わっはっは。

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読書
「マックス・ヴェーバーの哀しみ

羽入辰郎 

社会学の巨人マックス・ヴェーバーが、実は「一生を母親に貪り喰われた男」であったことを解き明かした一冊。
ヴェーバーの母親は熱狂的なカルヴィニスト(プロテスタントの一種)で、子供たちにとっては恐怖の存在。逆に父親は楽天的で現実的な資本家。ヴェーバーはほんとは嫌いな学者にまでなって、母に愛してもらいたく努力するのだが、母親は息子の名声を利用するだけで、父親への抵抗も息子を利用する始末。
このヴェーバーの努力は無意識下に行われ、母親の嫌うタイプの恋人には求婚もせず、精神の不安定をワーカーホリックとなってやりすごし、迎えた新妻とはセックスレス。哀れ、ほんとうは父親のように生臭く堂々と生きたかったヴェーバーは、母親の敷いたレールから一歩も逃れられずに短い一生を終えるという、現代社会にいくらでもみられるハナシだ。

ヴェーバーの名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を初読したとき、なんて面白いんだと感動したものだが、後年読み返してみるとまるで退屈だった。そんな経験を持つワタクシとしては、社会学の本格的な土俵より、こういった周辺記事みたいなもののほうが愉快かもしれない。ヴェーバーの生涯を研究している学者はたくさんいるようだが、この著作が正解か不正解かはこの際どっちだってよくて、読み物として痛快であれば私には正解である。

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読書
原民喜を読む

「美しき死の岸に」:作者の妻の病がだんだんと重くなり、やがて死に至るまでの一連の連作。そのなかでとうとう妻が死んでしまう話。悲しい話だが、日本文学史上もっとも美しい散文といわれるだけのことはあって、例えば室内楽を聴いているような澄み切った美しさ。

「夏の花」:広島での被爆体験を語った代表作。これは事実が脚色なしに克明に綴られる。散文の名手だけに、この事実はカタカナで書きなぐるのがふさわしい、としている箇所があるのがおもしろい。アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム

「鎮魂歌」:この小説だけが珍しく観念的で、作者の想念が、かけめぐる言葉のままにくり返すリズムにのせて演奏されていくような書き方をしている。客観的事実よりもこころの動きを忠実においかけるカタチで、好きな人は好きだろうが、自分はだめだった。

事実の推移は、まるで新聞記事を読むくらいの分かりやすさがあるが、それでいて人物のこころのうごきも手に取るようにわかる。それが澄んだきれいな文章で書いてあるから、内容が深刻でも読んでいてとても気持ちがよい。

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読書
「巨匠とマルガリータ」
ミハイル・ブルガーコフ


モスクワ市街。作家協会会長が公園でツルリとすべったまま、電車にはねられ首が飛んでしまったのを皮切りに、作家・劇場関係者のまわりに次々と起こる怪事件。黒魔術のショーでは10ルーブル紙幣が降ってきたり、豪華衣裳が女性客に与えられたりするが、数時間後には紙くずと消える。劇場支配人たちは一瞬で遠隔の地に飛ばされてしまう。これらはすべて黒魔術ショーを行った4人の悪魔たちの仕業なのだが、その中のひとりはでかい黒猫なのだ。
一方、ローマ帝国総督ポンティウス・ピラトゥスは、ヨシュア(イエス)を処刑してしまったことにどうしても悔いが残り、毎日を鬱鬱と過ごしていたが、実はこの挿話はモスクワの精神病院に収容されている巨匠と呼ばれる作家の手による未発表の作品であった。
巨匠の愛人マルガリータはぜひとも巨匠を救出し、この未発表作を世に出そうと強く願う。そこへ実際のピラトゥスとヨシュアの現場を目撃していたくだんの悪魔たちが協力し、マルガリータは魔女となってほうきにまたがり、モスクワの空をかけめぐり、批評家のアパートを破壊し、パーティで悪魔の女王の役目を果たしたりする。
やがて、巨匠とマルガリータは悪魔たちの手のよって今生での暮らしを終え、遠い昔ピラトゥスの生けるローマで安寧の日々を得るのだった。


といったかなり破天荒で荒唐無稽な小説。ドタバタ劇の如く動きの多い話で、空飛ぶシーンのスピード感は秀逸だった。また、人なのか大型のネコなのか?おかしなキャラクターも登場して、落ち着いたリアリズムを味わうことはできないが、当時のソビエト社会を風刺しているからといって単純な寓意小説でもないから安心だ。ナンセンスな幻想とリアリズムが混淆して同居するという作風は、まさに自分のスタンスと同じといってもよく、今まで世界幻想文学の中でポーとホフマンを座右に置いてきたが、この際ブルガーコフも仲間に加えたいものである。

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読書(mixi過去日記より)
「偶然の本質」
アーサー・ケストラー


1974年発行のニュー・サイエンスの古典。
先ず超心理学。テレパシーや透視などのESP(超感覚知覚)、果ては念力(PK-サイコキネシス)まで、世界中の研究機関でくりかえされた各種実験を紹介。有名なものは、別室で選ばれたカードの絵柄を当てるといったようなもの。するとくり返すほど、大数の法則に従って近づいていくはずの確立から、明らかな偏差が現れる。つまり確立以上に当たる。これぞ超感覚知覚の証明か?

翻って著者は現代の素粒子物理学の成果に言及し、物質が極微の素粒子に分解されていくにつれ、それは我々の日常世界でいうところの「もの(物質)」ではなく、粒子でありながら同時に波動でもあり、エネルギーが決まれば位置が決まらないといった、ハイゼンベルグの不確定な世界を解説。実はこの物質ならざる物理世界が、精神の実態と関係しているのではないか?という推論が導かれる。

この筋立てで、ユングいうところのシンクロニシティ(同時性)の正体に迫ろうとする。つまり物事が、因果性に基づいて起きる普通の世界に対して、因果性に基づかずに立ち現れるシンクロニシティの理由にたどりつけないかと…。

著者は各研究を紹介するにとどまり、裏付けの無い断定はしていないので、いわゆるトンデモ本とは違うとしておこう。村上陽一郎の訳やし。
しかし、この本が日本で刊行された1974年当時と現在とでは、素粒子物理学も発展していて、著者が鍵を握るとしていたニュートリノにも、質量はあった。
加えて近年MRI(おなじみ磁気で脳を輪切りするヤツ)の発達もあって、脳科学が著しい成果をあげているらしく、著者ケストラーが物質に対置させていた精神といううものも、多くが脳内物質の作用で解明されている。意識の本質にたどり着くことはまだないにせよ。

そうはいっても偶然や霊的世界の謎は解き明かされていない。ネタとしてはおもしろいけど、基礎知識がないとトンデモ科学にひっかかちゃう!

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「豊饒の海」
三島由紀夫
 作

三島由紀夫の絶筆であり、ライフワークとなった長編「豊饒の海」
輪廻転生を題材としているだけに、背景には仏教思想が色濃く流れている。三島由紀夫と仏教思想というのが、なんとも意外な気がする。だがそれは空とか無常とか諦念とかではなしに、阿頼耶識を中心概念としたアビダルマ哲学のようなもの。登場人物はインドまで行って大乗の哲学に目覚めるのだが、その辺りはなんとなく手探りで書かれているような気がした。悟ってしまえば小説なんか書かないだろうとは思うが。

第一話「春の雪」
この第一話を読んだのはかなり前。大正時代。眉目秀麗な侯爵家の一人息子、あまりに繊細でプライドが高い性格のため、想いを寄せる伯爵家の令嬢に素直になれない。彼女と宮家(皇室)との婚礼が決まってしまった後、ようやく二人は愛を貫くことができるが、それは破滅へ向かう禁断の恋であった。 主人公は死ぬ前に「また何処其処で合おう」と謎の言葉を残して死ぬが、これが次の生まれ変わりの人物との出会いとなっていく仕掛け。しかも身体には、代々生まれ変わりの徴あり。

第二話「奔馬」
やはりいちばん面白い巻。昭和戦前。今度の主人公は、日本と皇室のために君側の奸を切って、自らも切腹することを願うピュアな少年で、危なげなテロ計画の進行にはらはらする。当然最後は破滅なわけだが、第一話の耽美少年、第二話の右翼少年とも、主人公はあきらかに作者三島の分身である。

第三話「暁の寺」
この寺とはなんとタイの寺で、今度はタイのお姫様に転生。やがて仏教哲学が縷々語られることになるが、退屈してきたところで物語自体が進んで読者を引っぱっていくように仕組まれている。そしてエロチックな内容となって、三島の世界が全部出た気がした。

第四話「天人五衰」
はたしてほんとうに一連の転生した人物か?凡人を見下して生きる悪意の天才少年が主人公。莫大な財産の取得計画のゆくえは?やはり最後は破滅に至るわけだが、全話を通して転生した少年たちを見守ってきた、もう一人の主人公も最早老残の姿をさらし、しずかに衰えてゆく。


これらのストーリーが絢爛豪華な美文で描かれ、風景描写でもちょっとおおげさすぎて頭に入ってこないくらいだ。フツーの空や海や木々なんてものはないのだ。すべては美のためにある。

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読書(mixi過去日記より)
「チーズと うじ虫」
カルロ・ギンズブルグ


16世紀、イタリアの一地方に住む一介の粉挽屋メノッキオが、
その独自の反キリスト教的世界観のため焚刑とされるまでをたどる、
1984年発行当時話題となった歴史書。

メノッキオ曰く
「神様とはなんであるか?それは空気であり、水であり、土、火など、すべてが一体となったカオス。それが神そのものであり、そのカオスの中から、ちょうど醗酵させたチーズに自然とうじ虫がわいてくるように、生まれてくるのが天使だ」
この自然観にぐっと来た。天使のところを生命と置き換えて読めば、神という言葉を使っていても、この人の世界観が、いかに自然科学に近いかということがわかる。
「来世なんていうものはなく、肉体が死ねば、同時に魂も死ぬ」
「キリストは男と女の間に生まれた、ふつうの人間だ」
どうよ、この世界観。

当時ローマ・カトリック教会による特権的な支配、収奪を地方の人々は快く思っていなかった。ということもあるが、中央から離れた土地では、キリスト教以前の、口頭伝承的な農民の宗教観・世界観がまだまだ背景としてあった。ということが学習できた。忘れるけど。

それにしてもこの粉挽屋メノッキオという人は、10指に余る書物に接しただけ、しかもトルコ人にはトルコ人の、ユダヤ人にはユダヤ人の宗教があるということを、学んだだけで、それぞれの民族にいろんな神様がいて、それは対等であることに気付いてしまう。キリストの教えもその一種に過ぎなくて、たまたま我々がキリスト教圏に生まれただけであり、所変われば教えも変わることに。
今日の欧米、特にアメリカ人が、なかなか自分たちのキリスト教を相対化して見ることが出来ない中、この16世紀の田舎の粉挽屋ときたらもう、すごいよ!おそらく根っからの自然科学者だと思うよ。いたんだねえ…、こんな人が。

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読書(mixi過去日記より)
「街と村」
伊藤整
 作

作者とおぼしき主人公が、出身地である街(小樽)と村へ帰り、宛もなく彷徨いながら数々の亡霊に翻弄される幻想小説。その亡霊とは宙を舞う小林多喜二、また自分が過去に弄んだ女たちであったりする。自分が裏切った恋人や友人達が次々と現れ、かつての行為を責められ続ける。

主人公の私はやがて村に入り、泥棒の汚名をきせられ、地獄へ堕ちて畜生と化し、その実、行路病者として葬られるという、全編自責で埋め尽くされた小説。だが、幻想小説として、なまのリアリズム以外の方法で描かれているため、息苦しさは感じられない。

自分がいかに不誠実で、利己的で、ひどい人間であるかを露悪的にまで描くのは、日本近代小説によくあるスタイル。ボクは伝統的な私小説も楽しんで読むが、そういった自責的な部分はほとんど気にしていない。自責も苦悩も不幸も、発表された時点で、自己愛と自慢であることに変わりはないから真に受けない。ボクの場合、私小説の面白さはそういった自責部分ではないことが多い。この作品は幻想性がふんだんに展開されていて、たのしいです。


百になるまで
にゃんこの声
聞きたぐねえ
ざっくらん
ざっくらん

これはねずみたちが、金銀宝石を川で洗っているシーンでの歌。
このあと主人公は猫のふりをして、この財宝を盗み出し逃走するも、角ごとでお地蔵さんに会う度に重さが増して、手放してしまいます。ふふふ。

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読書(mixi過去日記より)
「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)
芥川龍之介
 作

ちくま文庫の芥川龍之介全集を、ゆっくり順番に読んでいて、第3巻を読み終わった。
もちろん再読もある。
「南京の基督」「きりしとほろ上人伝」など有名なキリシタンものが多いなか、やや中編の「素戔嗚尊」がおもしろかった。続編の「老いたる素戔嗚尊」のほうが有名かもしれないが、主人公が若い頃のはなしもなかなか。

高天原の国で並ぶものない強力を誇る素戔嗚尊。またその心根は純朴かつ一本気だが、かえって彼を慕う人は少なかった。思兼尊(おもいかねのみこと)の姪に心寄せる素戔嗚尊は、仲を取り持つ約束の男に騙され、暴力沙汰を起こしてしまう。その事件が国を二分する騒動に発展した結果、彼は国を追われ放浪の身となってしまった。
やがて森の中の洞窟に住む大気都姫(おおけつひめ)と出会い、その姉妹達とも暮らし始めたが、それは実は畜生道への堕落だった。悪夢的な精神性…。
挫折の果て、森を離れ、海や山を越えて悲しみの旅を続ける素戔嗚尊。ようやく出雲の国へと流れ着いた彼は、さびしい大岩の上に一人の少女を見つける。聞けば彼女、櫛名田姫(くしなだひめ)は、巫女の占いにより、八つの頭を持つ大蛇のいけにえとされる運命。それを聞いた素戔嗚尊は喜んで、大蛇に立ち向かうことを決意するのだった。


それも自身の性格の故なのだけれど、抗えない運命に弄ばれながら、放浪する素戔嗚尊の心象風景が胸を打つ。野性的で暴力的になったかと思えば、大自然の中で恬淡な境地を得たり。だが通底するのは孤独感と悲しみだった。
さて、素戔嗚尊と八岐大蛇の決戦はいかに。芥川は意外なところで物語を終わらせてしまいます。ええっ、ここで終わり?!でもそれが芥川。
それにしても、やっぱ基本だね!造形的な作風が自分にぴったり。オモロいなあ。

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