漫画家まどの一哉ブログ
- 2013.09.25 「ビリー・バッド」メルヴィル
- 2013.08.30 「東京震災記」田山花袋
- 2013.08.23 「境界なき土地」ドノソ
- 2013.08.16 「聖ヨハネ病院にて」
- 2013.08.06 「カンディード」
- 2013.07.22 「白鳥の歌/貝の音」
- 2013.07.17 「五里霧」
- 2013.07.08 「夢小説」
- 2013.06.22 「真昼の暗黒」
- 2013.06.10 「文藝春秋・短編小説館」
読書
「ビリー・バッド」 メルヴィル 作
商船から戦艦に徴用された青年ビリーは、少年の心を持った純粋無垢な愛されるハンサムボーイ。それ故に邪心ある者の嫉妬を買い、計略によって叛乱のぬれぎぬを着せられ、あげくの果てに殺人事件を犯してしまう。このような純真な青年が実際いるかどうかは別にして、悪意ある者の存在や、狭い社会での制裁のあり方など、人間社会に永遠についてまわる問題。さすがメルヴィル、社会派の筆が冴える。
実際メルヴィルが船に乗って外洋に出ていたのは25歳までだったそうで、その後「白鯨」その他数冊出版するが結局小説では食えず、47~66歳までは税関で検査官として働いているのだから、ふつうのまっとうな人間である。社会と人間が描けるタイプの作家だ。
今回は光文社古典新訳文庫で読んだが、メルヴィルのちょっと古風な味わいをうまく活かした訳文になっているそうでなかなか良かった。メルヴィルの文章はけっして面白みのあるものではなく、どちらかというと堅苦しいが、そこが良い。訳文しか知らないで言うのもなんだが、硬派な文章を読む快感がある。もちろん文章の美しさもある。またストーリーの本筋を逸脱して、船舶や船内労働に関する蘊蓄を傾ける所は「白鯨」に同じ。これも持ち味。
翻訳小説は旧訳にふだん馴染んでいて、新訳もよいが現代口調が過ぎると台無しにされた感じがする。
読書
「東京震災記」 田山花袋 著
明治期自然主義小説の代表選手、田山花袋による関東大震災ルポルタージュ。
ストーリー仕立てではないため盛り上がりというものはないが、都内各所の壊滅的な状況や、残された人々の戸惑う様子がくりかえしくりかえし描きだされる。言うまでもなくこの震災の悲惨なところは大規模火災にあって、いたるところ周り全体が火炎であり、熱風と煙の中で逃げ場は川にしかなく、結局そこでも多くの人が亡くなっているその様子が語られている。
また花袋は、東京のそこかしこにそれまでかろうじて残っていた愛すべき古き江戸の風情が、とうとうこの震災で灰燼に帰してしまったことを大いに嘆いている。しかし今後ほんとうの意味で東京が大都会へと生まれ変わるきっかけでもあることを期待してもいる。なにせ一面焼け野原でなにも残っていないのだから。
それにしてもさすがに花袋の文章が美しく、こんな文学的な表現で語られると、廃墟と化した東京でも実に魅力的に思えてしまう。震災のルポ自体より、自然や情景の描写に心うたれた。
読書
「境界なき土地」 ホセ・ドノソ 作
ドノソを読むのはこれまでに2回失敗しているが、これはよかった。いわゆるマジックリアリズムやグロテスクリアリズムの作風というより、丁寧に書かれたふつうの人間ドラマだった。滅びようとしている小村の売春宿が舞台で、主人公がオカマの中年ダンサーだというところが野次馬的な好奇心をそそるが、当然オカマだって普通の人間なんだから、彼(彼女)の葛藤やふるまいをそれだけで奇行とは呼べまい。
彼は売春宿兼酒場でダンサーとして働くが、結局はオカマゆえに男達にからかわれ暴力を受ける人生。彼の娘は店の売上をせっせと貯金し、どうしても滅びゆく村と店を捨てようとしない絶望とともに生きる女。そしてトラックだけを頼りになんとかボスの支配から逃れようとする野蛮な男。
電気が通って発展していくはずの村だったが、結局そうは行かずボスたる政治家の思い通りに土地が買い占められようとしている。たった一人のボスだけが支配する村の小さな経済。それだけが唯一の政治でもあるといった状況。洋の東西を問わずこれが地方の小村というものなのか、行き止まりの社会と行き止まりの人生がある。
読書
「聖ヨハネ病院にて」
上林暁 作
読み返すたびに違った印象で面白く感じられるのは、読むこちら側の人生がいろんな局面を経て成長しているからであろう。作者の妻が実際に精神を病んで入院しており、子供たちを育てながらも毎日病院へ通う現実が描かれる。というとかなり悲惨な話のようだが、たとえ状況は困難でも、確かな夫婦愛が貫かれているところに安心をおぼえる。「名月記」も同じような環境を描いた短編だが、こちらはいよいよ退院しようという時期のエピソードで構成されていて楽しい。この場合の楽しいというのは、ほほえましいといったような感覚。主人公が苦労つづきでも、夫婦の会話に人生の滋味というものが感じられて、私小説の心地よさがあった。
この代表作が捨てがたい名作で、私もこれ以外あまり読まないが、全集は分厚く19巻もあるのだ。私小説でこのボリューム!
「カンディード」
ヴォルテール 作
これは18世紀の作品だが、近代文学のようなリアリズムがなくったって面白いものはいくらでもある。
疑う事を知らない純粋な主人公カンディードが過酷な運命に翻弄され世界各地を放浪するのだが、同行する仲間の人物達もかなり悲惨な生涯を生きる人々ばかりだ。
これは何故かというと「カンディードまたは最善説」というタイトルからもわかるように、この作品全体がオプティミスムに対する批判として書かれているからで、この場合のオプティミスムとは現代でいうところの楽天主義ではなく、当時支配的であったライプニッツの最善説というものである。神様の作った世界であるからには、世の中で起きる事は悪い事も含めてすべて最善の結果として現れているという考え。造物主という前提がなければとても納得できない説だが、1755年にリスボン大地震が起きて3万人が犠牲となってからは、ヴォルテールはいよいよこの考えに異議を唱える気になったようだ。
そんなわけで主人公カンディードは波瀾万丈の冒険をくりかえしながら、いつまでたってもお人好しなのだ。最後の最後に仲間と流れ着いた土地でささやかな畑を耕して生きていく。ようやく虚しい哲学的思弁 を捨て、実直な日々の労働に幸福を見出すという結末は、なるほど人生哲学として正解だが、ただしこれはあくまで平凡な人間の喜びの一面であって、曲者ヴォルテールがこれをもってすべて解決としていたわけではあるまい。
同時代のルソーが「告白」を書いたように冗談抜きで自己をそのままさらけ出して真実を訴えたのとは違って、ヴォルテールのように自身の思いを直裁に物語化することが照れくさく、どうしてもコントの体裁をとってしまうのは、自分もおおいに共感できる所です。もっともルソーの「孤独な散歩者の夢想」は本人がマジな分、読んでるほうは爆笑してしまうという傑作だった。
読書
「白鳥の歌/貝の音」
井伏鱒二 作
この短編集には純粋な空想による時代劇なども数作含まれているが、自分としては作者が日常の中で出会った出来事を繋いでいったような作品が好みだ。けっこう題材として愉快なことがあるもんだ。
「白鳥の歌」:瀬戸内の因島にある医院の二階に下宿している学生時代の作者。港町の劇場付きの下宿には、旅の一座が背負った借金のカタに、後桐という女形が置き止めをくらっていた。モルヒネ中毒の発作でよく医院へ飛び込んでくるこの男に頼まれ、チェーホフの「白鳥の歌」を歌舞伎風に翻案することになってしまう。
「下足番」:早稲田江戸川橋にあった娘義太夫の定席によく気のつく下足番がいたが、最近行ったある料理屋旅館の番頭によく似た男がおり、問うてみると果たして本人だった。山形の田舎出身の彼は、実は村の川にかかる橋を爆破して逃げてきたいきさつがあった。
「病中所見」:作者は甲州へアンゴラ兎を買い付けにいって突然ギックリ腰を発症してしまう。なじみの旅館までタクシーでのりつけて、女将や女中に教わったとおりに腰をいたわりながら過ごした数日の話。
土地の旦那からなじみの芸者を隠す話や、女将が世話を焼いているぼんやりした見習い青年の話など。
どの話も市井の人々の飾らない会話を読んでいるだけで楽しい。現代の教養ある都市生活者の日常じゃこの楽しさは出ない。
「五里霧」 大西巨人 作
長編作家として知られる大西巨人の短編集。いつもながらヘンに堅苦しくてゴリゴリとしている愉快な文体で短編を読むと、味わいもないまま終了してしまう。と思ったらそれはそれで情感も豊かで、やはり純粋な日本文学であることに今さらながら気付くしだい。
「立冬紀」:1937年、鹿児島から福岡の家へ戻る汽車の中、主人公は八代駅であわてて二箱弁当を買ったが、開けてみるとどちらもおかずばかりで飯はなかった。この失敗で同席の人達の笑いを誘い仲良くなった。同席のうち二人の女性は「あき子ねえしゃん」と「としえしゃん」。一人の男性は巡洋艦足柄の乗組員で帰艦命令を受けて戻るところだ。おりしも盧溝橋事件が起き、いよいよ本格的な戦争に突入するのだろうかという不安入り混じる会話が続くが、主人公は実は福岡にナイトショーの映画「白き処女地」を見に行くために帰るところなのだ。九州弁が実に心地よく響く。
「底付き」:1931年、相良と妻やすのの家では博多人形を売って暮らしている。花札勝負に明け暮れるルンペンプロレタリアートの旦那銀之助が大阪へ商用で行ったきり帰ってこないのを心配した見世(みよ)は相良夫妻宅へ相談に訪れたが、どうやら銀之助が運んだ博多人形は「ソコツキ」といわれる裏面に卑猥な細工を施した特殊なものであったらしい。もちろん「底付き」とは女性器に対する一種の秘語でもある。
「連絡船」;1941年、門司の下関対岸にあたるところに和布刈神社というのがあって、大阪日々新聞福岡支社で雇い員を勤める桜井は、恋人である未亡人の華子とたびたび訪れていた。そこは関門海峡の連絡船乗り場でもあるわけだが、「人は精神の、魂の、連絡船を持つべきであるが、数年このかたまるでそれを持たない」と思う桜井。華子も桜井もともに人生に落莫の風を感じて生きている。そんな中とうとう出征となった桜井は、家庭の窮迫で学業をあきらめることになったある少女の支援を華子に托そうとする。
この短編集には現代を舞台にした作品も多く含まれているが、自分が気に入ったのは戦前の話ばかりだ。ドラマがある。それに九州弁の小説が大好きなのだ。
読書
「夢小説」
シュニッツラー 作
医師フリトリンは、愛していながらも実は揺れ動いている妻アルベルティーネの本心を打ち明けられて、夫婦間の愛に虚無的なものを覚えた。彼を慕っていた患者宅の娘を袖にして、下町の娼婦と一夜を共にするが、それでもまだ心は晴れない。
そんなとき旧友のピアニストに再開し、秘密の仮想舞踏会が開かれていることを知る。旧友に頼み込んで合い言葉を教えてもらい、自身も仮装してこっそりとその仮想舞踏会にまぎれ込んでみると、男達はほとんど仮面をつけた僧服姿。そして女達は顔に仮面と薄いヴェールをつけたほかは一糸まとわぬ姿のまま、ダンスパーティーが始まったのだった。
そのとき医師フリトリンは一人の女性に「ここにいては危険だからすぐに逃げるように」と再三忠告されるのだが、全裸の女性にそんなことささやかれても冷静でいられないよねえ。結局フリトリンが闖入者であることはバレるが、その謎の女性が身代わりとなって、彼は暴力も受けずに会場から追い出されただけですんだ。
その後懸命に謎の仮想舞踏会の正体を探ろうとするが、身の危険をおぼえるだけで結果は得られず、しかも謎の女性は死を持って報われたかもしれず、謎は謎のまま再び日常が始まろうとするのだった。
読書
「真昼の暗黒」 アーサー・ケストラー 作
アーサー・ケストラーといえば「偶然の本質」などスピリチュアル研究者だと思っていたが、こんな壮絶な内容の小説を書いていたとは。まさにソビエトにおいてスターリンの独裁体制が確立してゆく、その粛正の恐ろしさをブハーリンの運命をモデルに描いた社会小説。革命後の政権にあって枢要な役割を演じた主人公ルバショフ(ブハーリン)もナンバー・ワン(スターリン)の容赦ない権謀によって独房に監禁されている。始めから終わりまでこの独房生活が話の中心だがまったく退屈しない。壁をコツコツとたたく回数でアルファベットを現す秘密の暗号があり、独房同士はこの方法で通信することが出来る。監獄での出来事は一斉に伝わるのだ。
主人公ルバショフと同じ革命世代の幹部は、反革命的計画を自白することによって、まんまと極刑を免れる方策を彼に示唆した。だが時代は既に変わっていて、革命前夜を知らない若い指導者達は彼ら旧世代を一掃する意味で容赦なく死刑を宣告していく。若い世代の信念はこうだ。「歴史の中でたった一国立ち上がった社会主義国ソビエト。これはほんとうの世界革命が成就するまでなんとしても倒れてはならない。ナンバー・ワンのもとに結集しプロレタリア独裁・共産党政権を絶対守り抜かなければならない。」だが、そうやって死守した国家はもはや後世に残すべき意味のない醜悪なものに成り果てていたわけだった。連日連夜の尋問で主人公が自白に至る過程はリアル。そして暗黒裁判へと進む。
読書
「文藝春秋・短編小説館」
1991年発行の当時「文藝春秋」に掲載された作品を集めた短編集。作家は丸谷才一、安岡章太郎、藤沢周平、大江健三郎、吉行淳之介、村上春樹、三浦哲郎、田久保英夫、大庭みな子、遠藤周作、河野多恵子、瀬戸内寂聴、古井由吉、日野啓三、吉村昭。
この後あれよあれよという間に何人も死んでいく。多くが晩年の作品だ。
さすがに才能豊かな作家も晩年になると想像力が失われてしまうのか、小説といっても身辺雑記的なものが多い。この短編集の中でも安岡「叔父の墓地」、吉行「蝙蝠傘」、瀬戸内寂聴「木枯」など全くその類いでエッセイというならば申しぶんないのだが、これを小説といわれると違和感がある。伝統的に私小説という分野があるにしても、自己の生き様に迫るといったギリギリ感もない。もっとも安岡の文章は自分にとっては絶品というやつだ。
河野多恵子「怒れぬ理由」なども、あまりにも細々とした私生活が描かれていて、他人にとってはまったくどうでもいいハナシだ。社会階層も私とは違っていて困ったもんだ。ただ作者特有の霊魂観がおもしろくて要約すると、「霊魂は多分に無機的な電気の一極のような性質を持っていて、縁あった生者が故人のことを思い出したり語ったりすると、それに反応して電流が通じる。これを感知できるのは生者の側だけである。生者がしだいに亡くなって故人を偲ぶ人が誰もいなくなれば、霊魂は消滅する。」というものである。
この顔ぶれの中では一番若い村上春樹「トニー滝谷」がいちばん小説らしい小説で面白かった。
村上春樹「トニー滝谷」:ジャズミュージシャンの父親にトニーという名を付けられた主人公。テクニカルイラストレーターの腕を活かしてひとりぼっちの人生を歩んできた彼。初めて惚れて結婚した女は狂ったように洋服を買ってしまう女。彼女が亡くなった後、残された山のような洋服の中で本当の孤独が胸にせまる。
三浦哲郎「添い寝」:温泉地で働く巴。彼女の仕事は70歳以上の老人男性限定で一晩添い寝するという変わったものだ。朝起きると隣の老人が冷たくなっていることもある。そんなある日、むかし東京の出版社で働いていたときの同僚が訪ねてくるが、彼女はまったくさばさばしたものである。人生の変転を描くもユーモラスな一品。
遠藤周作「取材旅行」:作者は取材のため土地の人間ですら知らない戦国時代の城跡や屋敷後をめぐる。若き秀吉が仲間の蜂須賀小六たちと奮闘した、小牧・犬山あたりの小城主達とのかけひきが明らかにされて興味深い。

