漫画家まどの一哉ブログ
- 2013.04.13 「切れた鎖」
- 2013.04.07 「雲の影/貧乏の説」
- 2013.04.03 「ゲーテとトルストイ」
- 2013.03.30 「となり町戦争」
- 2013.03.26 「阿片」ある解毒治療の日記
- 2013.03.22 「ヘリオガバルス」または戴冠せるアナーキスト
- 2013.03.18 「スピリット」
- 2013.03.14 「死の同心円」
- 2013.03.10 「空の青み」
- 2013.03.06 「ナイフ投げ師」
読書
「切れた鎖」 田中慎弥 作
今をときめく田中慎弥
「不意の償い」:主人公夫婦の両親が勤めるスーパーマーケットの火事で、両親4人ともいっぺんに死んでしまうという設定は、ちょっとムリがあるんじゃないか。また幼いころから同じ団地に住み、自分達も両親と同じスーパーに勤めようとする主人公夫婦というのも強引ではなかろか。それでも主人公の妄想や幻視は、電車の中や産婦人科の前で猿や狸や蝙蝠が暗躍していておもしろかった。主人公は親が死んだ日に初めてセックスをしたことや、玄関でむりやり挿入したことが妻の妊娠につながったことをうしろめたく感じていて、そのやり場のない感情がとんでもない幻視幻想へと彼を導いていくのだが、なんでそうなるの?という気がした。
「蛹」:主人公はカブトムシで、親の代から話は始まり、幼虫時代を土中で過ごし、いよいよツノを出して地上での生活を迎えるはずが、なかなか土中から脱出できず、仲間がどんどん出て行く中で、自分だけいつまでも土中に囚われている。これはワクワクとした。
「切れた鎖」:文庫本表題作。地方都市で没落していく旧家の女三代を描いた話だが、ある意味正統な純文学の書き方なのか、現実の出口のなさに容赦がない。ところどころ目眩のような過去の時間のズレがあって暗い中にも気持ちがよかった。
この3作品に共通する作者の個性というものがわからなかったが、文体は自分にはぴったりだ。
読書
「雲の影/貧乏の説」 幸田露伴 著
露伴のエッセイ集。少年時代のことや、釣りのこと。世情のことや、もちろん文学のこと。どれも案外素直な内容でそんなに驚く程の洞察はないが、雰囲気を楽しむことができる。
露伴は1867年(慶応3年)に生まれて1947年(昭和22年)に死んだ人で、さすがにまだまだ江戸文化の香りが残っている時代に育っただけあって、江戸文学の語り方が歴史学者のそれではない。三馬を語り京伝を語り、近松を語り一九を語るが、自分が作家として彼らに繋がっている感覚を自然と持っていた気がする。江戸時代後期に親しまれてきたものは、やはり露伴が若いころも引き続き大衆にとっても定番の娯楽作品だったはずで、その辺りのリアルさが江戸期の作品について近しく語られる所以であろう。
(ところで話はそれるが、考えてみれば露伴と同時代の尾崎紅葉「金色夜叉」、泉鏡花「婦系図」あるいは後の新国劇の「国定忠次」や「月形半平太」など、現代でも私の親の世代までは日本人共有のネタというものがあったものだ。今残るは「忠臣蔵」くらいか。)
さて漢学はこの時代の共有知であって、露伴のこのエッセイ集でも「簡素治新」など手慣れたものである。曰く「簡」はこう也、曰く「素」はどう也。ところがしばしば自分はこの種の道を説く漢学というものに上滑りを感じてしまい、なにか言葉の辻褄を合わせることに傾いていて、きれいごとに終始している気がするのは、こちらに素養がないためでありましょうか。
読書
「ゲーテとトルストイ」 トーマス・マン 著
ゲーテとトルストイは、どちらも裕福な社会階層の出身で、頭脳明晰なうえ体力も運動神経も勝っているという怖いモノなしの人間だ。自然状態で動物としての生存能力が高く、実際長生きした。
さて、ゲーテは自分の才能を「まったく自然のもの」と考え、芸術的創造は「自然」の創造と同じく、結果には無頓着であるという。世界は究極目的からは自由であり、善も悪も同じく存在する理由を持っている。そういう意味で、芸術に道徳的欲求を求めることを拒否する。これはまさにその通りで自分もおおいに共感するところ。
トルストイもゲーテと同じく自然児でありながら、彼自身の魂を救済するために社会的活動に入ったというわけだ。
この圧倒的な健康さに対して、病患を持った立場から「精神」の力をもって「自然」へ対立し、人間性を高めようと格闘したのが、シラーやドストエフスキーの立場であった。というのがこの著作でトーマス・マンが力説しているところだ。
自分のような心身ともに脆弱でアホで「自然」状態では生存競争に敗れていかざるを得ない人間としては、ゲーテやトルストイの圧倒的な力強さはやはり勘弁してほしく、シラーやドストエフスキーの立場に共感する。しかし「精神」と呼べる程の立派なものはないので、創作結果には無頓着でさらに無内容であることをお許し願いたい。
読書
「となり町戦争」 三崎亜記 作
ふつうの街中でいつのまにか戦争をやっていて、日常と非日常が不思議な感じで混ざり合っている。というような設定は自分もぼんやりと考えていて、以前同人誌でためしに描いたこともあった。そんなわけで気になっていた小説。
作中、直接的な戦闘シーンはまったく出てこなくて、主人公は偵察目的でとなり町に侵入しているのだが、それでも町のどこかで戦争は行われていて、知らないうちに人が死んでいく。この戦争自体がまったく役所で管理運営されていて、主人公とペアを組む公務員の女性はてきぱきと仕事として処理して行くのだった。
この不思議な設定を生かすためにすべてのエピソードが組み立てられている。ストーリー進行と解説のために人物が動いているのはエンターテイメントのつくりで、作者の内面や問題意識が反映されるといったふうはない。当然非日常のシーンを活かすために、主人公のごく平凡な日常が多く描かれているが、フツーすぎて個人的には感情移入できなかった。文章は平易で読みやすい。設定以上のおもしろさというものは情景描写や心理描写に巧まずして滲み出ていてほしいものだが、それがうまい具合に常識的な範囲にとどめてあって、なるほどこれならば逆に多くの読者の共感を得るであろうとは思った。
ある程度の長さがあり特殊な設定があり、その設定を盛り上げるためにストーリーが進行するのだけど、欲を言えばやはりなにかしら作者個人の存在が色濃く出ていたほうが、読むのも描くのも面白い。しかしそれを計算して描くのは難しい。
読書
「阿片」ある解毒治療の日記
ジャン・コクトー 著
コクトーを一度も読んだことがないままこのエッセイを読む。コクトーは阿片中毒で入院していたわけだが、その症状はさほどひどいものではなく、本書の内容も阿片のことより日頃の芸術家たちとの交流などについて語っていて興味深い。
阿片というのはやはりダウナーで、やってる間にバリバリと創作活動するといったものではないようだ。コクトーは阿片に対しては常に親和的で、その効果を説くばかり。曰く身体が暖かくなり、風邪も引かず、心が落ち着く…。それでもこうした記述もまだ治りきっていないうちは書けるが、中毒から立ち直ると中毒の時の状態を思い出して書くことは苦しいと言っている。
「阿片こそいい迷惑だ。解毒治療の後で、僕は以前阿片の中毒だと思っていたのだが、実は阿片が却ってそれを軽くしていた症状をまた感ずるようになった。僕は思い出す、この同じ患者が以前まだ阿片を知らぬ前にも自分にもあったと。」
「阿片の下にある時、人はルーセルの如き作家を賞味するが、この喜びを他人に頒とうとは思わない。阿片は人を非社会的にし、共同精神から遠ざける。尤も共同精神は早速復讐をするのだが、阿片喫煙者に対する迫害は非社会的行為に対する社会の本能的防御だ。」
同時代に活躍したアナトール・フランス、プルースト、ルーセル、エイゼンシュタイン、ブニュエル、ピカソ、サティ等についてのコメントが読みどころ。
読書
「ヘリオガバルス」または戴冠せるアナーキスト
アルトー 作
前に難解ながらもわくわくと読んだ記憶があり、再読したがやはり面白かった。
ローマ帝国史上最悪最低の少年皇帝。母親らシリアの女性たちの権謀術数の結果、わずか14歳で皇帝の地位につく。ローマ入城の時は10トンの陽物像を台車に乗せて、300頭の牡牛に引かせ、胸もあらわな300人の女たちや、オーケストラ、踊り子たちと共に、ローマに尻を向けて犯されるカタチでやってきた。
彼ヘリオガバルスはまったく自らの欲望(男と寝ること)に忠実な人間でそれを隠しもしなかった。自身に紅白粉を塗り、女装して男を呼び込み、王室を公然たる娼窟それも男娼窟としてしまう。官僚や軍人などなんの価値もない人間であり、民衆の中からチンコの大きい者をピックアップして要職につける。連日の豪華な食事にも全く予算を出し惜しみしない。そうやって快楽にふけり、戦争などすることもなくこの体制が4年も続いたのだから驚きだ。もちろんこの伝説には歴史家の装飾や、アルトーの誇張された描写が含まれているだろうが、なんともシュールレアリスティックな雰囲気があって自分好みだった。
この作品は歴史小説ではあるが、アルトー哲学もおおいに混ざっていて、詩的言語を駆使した論理展開は、はっきり言って自分にはチンプンカンプンに近い。だがそれもまた良しだ。
読書
「スピリット」 ティオフィル・ゴーチェ 作
ゴーチェもいろいろ読んだが、ポー、ホフマン、バルザックより後の人でありながら、いちばんオーソドックスなストーリーテラーなような気がする。この物語も片思いを抱いたまま亡くなった少女の霊との交流を美しく描いたものだが、展開はストレートで意外性はない。この時代の小説の舞台はほとんどが貴族階級であり、とうぜん働かないし、女性はいかに美しく自らを飾り訴えるか以外の関心はないようだ。劇場に置いても人々の関心は、舞台よりも観客の誰と誰の仲がどの程度進んでいるかであり、まったくショーペンハウエルが馬鹿にしてののしった生活である。
この時代の西洋幻想小説の多くがスピリチュアルな話であり、この小説のタイトルであり登場する娘の愛称がスピリット。まさに心霊譚の王道をいく話だ。それでも死んだ娘の魂は、過去も未来もなく距離と言う概念もなく、何処へでも一瞬にして移動する存在であり、宇宙は無数の光り輝く霊体に満たされているという描写は、現代に語られる臨死体験と全く同じであって興味深い。
霊体である彼女と親しく触れ合いたいからといって、自ら死を選んでしまったら、それこそ未来永劫引き裂かれた間となってしまうという設定も、ちゃんと考えられているのだった。
「死の同心円」 J.ロンドン 作
表題作を含む短編集。ジャック・ロンドンというと、アラスカなどの厳しい気候の中で動物ががんばる物語を思い浮かべるが、本質的には短編作家だそうだ。そうなると中には怪しげで現実離れした風味を味わうことが出来るものもいくつかある。ロンドンは、ヘミングウェイ、メルヴィル、コンラッド等と同じく行動型で肉体頑健な作家で、自身の冒険体験が豊富だから作品もどんどん大自然の中へ出て行くのかもしれない。
「マプヒの家」:珊瑚礁で囲まれた南洋の島。島民は真珠をとって生計をたてていた。かつてないほど大粒の真珠を手に入れたマプヒは、これを家一軒と引き換えに売る腹づもりである。ところが巨大ハリケーンが島を襲い、全てを破壊してしまう。
「恥じっかき」:毛皮を略奪しながらアラスカの大地を放浪してきた荒くれ者スビエンコフも、ついに現地人に囚われる身となった。次々と拷問されて殺されていく仲間を見て、どうしても拷問だけは避けてすんなりと死にたいと思ったスビエンコフ。一計を案じて、蛮人の首領をだましにかかるが、彼が言うところの魔法とは?
「影と光」:仲の悪い二人の青年化学者。一人は全ての光を吸収してなにも反射しない純粋な黒を開発し、一人は反対に全くの透明を開発した。まわりから見えない姿となった二人の対決やいかに!
読書
「空の青み」 G.バタイユ 作
主人公の私はほとんど二日酔いと風邪と吐き気と発熱でどうしょうもないグダグダ状態で、そのことばかりが書いてあるのだが、なぜか無性におもしろい。朝まで飲み歩いて、少し仮眠をとった状態で、また出かけて酒を飲むが、けっして酩酊しているわけではなく、自らが死に近づいていく感覚をつねに抱いている。自己嫌悪的なグチならつまらないが、そうではなくて病気の自分のかえって鋭利になった感覚を追いかけていて大切にしている様子が、きめ細やかで新鮮に感じる。
3人の女性が登場して、それぞれとの距離が描かれるが、セクシャルなシーンはそんなにはない。社会主義の闘士である女性は、主人公にとって恐ろしい存在であるし、仮の恋人のような若い女性はチャーミングであるが、主人公の煩悶を解決する役割はない。そして話の最後に久しぶりに会う本妻が、内面的にも肉体的にも主人公の人生を決定する。この本妻との愛が微妙な距離感覚で一筋縄では行かない感じで、二人は愛し合っているのだろうが、それが直接的にはわからなくてスリリングだ。最後に土の上でセックスするところがクライマックスだが、土と墓と死と性をネタにいかにもバタイユの思想を解説するのは評論家に任せよう。二人の感情のうつろいが読んでいて楽しい。
読書
「ナイフ投げ師」 スティーヴン・ミルハウザー 作
「ナイフ投げ師」:超人的な技を持つナイフ投げ師の舞台。驚くべき技術で繰り広げられる演目だが、クライマックスでは、的と成る人間の身体を狙ってわざと聖なる血を流す儀式が行われる。薄暗い中で不気味に進行する非日常の世界。いかにも正統幻想文学の怪しい雰囲気いっぱいで堪能した。
「ある訪問」:田舎に定住して結婚したという友人の頼りを受けて、久しぶりに訪ねてみると妻というのは身長60センチもある巨大なカエルで、そいつがテーブルに向かってちょこんと座っているのだ。友人にぴったり寄添うカエルとの一日が淡々と語られて実に妙だ。
その他、街や風景まで売ってしまう画期的な百貨店や、現実離れしたアトラクションで満たされた遊園地。生きているかのように動く精巧に出来た自動人形劇場など、ミルハウザーは空想的な設定を事細かにルポルタージュの方法で述べる作品が多く、小説の情景描写を読むのが苦手な自分としては、やや苦しかった。そういうのは絵で観たいもんだ。やはり登場人物の会話があって、人物目線で話が進む方が楽しい。
「出口」:軽い気持ちで人妻と浮気した主人公。相手のダンナが貧相な小男だったのでナメてかかっていると、早朝呼び出されて銃による決闘に至るという悲劇。人生油断ならぬ。