漫画家まどの一哉ブログ
- 2014.12.26 「ピエールとリュース」 ロマン・ロラン
- 2014.12.22 「ミシェル・フーコー」 重田園江
- 2014.12.15 「青い野を歩く」 クレア・キーガン
- 2014.12.06 「理不尽な進化」 吉川浩満
- 2014.11.26 「遠く、苦痛の谷を歩いている時」 高橋たか子
- 2014.11.21 「蟹の横歩き」 ギュンター・グラス
- 2014.11.13 「ブエノスアイレス食堂」 バルマセーダ
- 2014.11.07 「みいら採り猟奇譚」 河野多恵子
- 2014.10.30 「夜の寓話」 ロジェ・グルニエ
- 2014.10.25 「隊長ブーリバ」 ニコライ・ゴーゴリ
「ピエールとリュース」 ロマン・ロラン 作
文豪が大長編執筆の合間に息抜きも兼ねて描いた短編?
第一次世界大戦戦時下、いよいよ差し迫るドイツ軍の空爆の最中、ふと出会った青年ピエールと貧しい絵描きの少女リュースのわずか2ヵ月間の短い恋愛を描く。裕福な階層に育ったピエールの純真さと、母との暮らしのために模写絵を売ってしのぐリュースの生活実感に差があって面白い。戦争が近づいても二人は死を前にした一瞬を慈しむように、あえて世の中には眼を向けずに過ごす。
話は直球で恋愛感情の揺らぎもなければ、社会の激変による運命の変転もなく、10代のピュアなラブロマンスを讃えて終わる。これだけでは作者の人間観はわからないが、青少年の純情を信じているところから、根本的には人間性を信じているのかもしれない。長編未読。
「ミシェル・フーコー」 重田園江 著
以前読んだこの著者の「社会契約論」が面白かったので、これもいつか読んでみようと思っていた。フーコーの入門書であり解説書なのかもしれないが醍醐味は著者自身の語り口である。フーコーの著作のうち「監獄の誕生」にのみポイントをしぼって書かれている。
現代思想知らずの私が読んでも痛快なわかりやすさで新鮮だ。身体刑から啓蒙主義による監獄刑への移行。そして資本主義が発達していく中で規律権力による国民の規律化と規格化と異常者の設定。これらの変化が大きな権力の意志ではなく「道具的理性」ーちょっとした工夫の積み重ねで生まれてきたところなど、おもわず膝をうつ面白さ。このあたりは従順な奴隷兼お客様として、規律化が完成された現代日本人を知るわれわれには理解しやすいところ。
後半、国家理性とは国家存続のための実践知であるなど、フーコー思想の深奥へ分け入っていくとさすがに実感と重ねて読んでいくことはできなかった。また主権とは何かという大きな問題は、やはりおいそれと結論を出すわけにはいかないようだ。ただ非常時から権力悪を批判するやり方の幼稚さはそのとおりだと思う。
ところで私にとってフーコーはこれで充分であります。
「青い野を歩く」 クレア・キーガン 作
アイルランドの果て。森もなく、断崖と泥炭でできた土地に暮らす話が心地よい。火をおこす、食事を作る、風呂に入る、など生活のもろもろを読むだけでなんとなく楽しいのは、それがけっして大切にされているわけではなく、むしろぞんざいないいかげんなやり方でなされているせいであろう。人生自体もどこか投げやりで、あまり深く考えてそうしているわけではない、その場しのぎのようなものとして描かれているところがよい。ある女が結婚してまた去って行くまでの月日をたんたんと描くのがよい。
「森番の娘」:ダンスホールの踊り子だったマーサが農夫ディーガンの求婚を受け入れたのも、年齢的なことを考えて最後のチャンスかもと思ったからだが、嫁いでみると大農家のはずの家はオンボロだった。そうして生まれた3人の子どものうち娘だけは実は不倫の結果だ。後悔から始まったマーサの妻として母としての人生が煮え切らないまま続いていくが、その内面を細かく描くのではなく、家庭に起ったことが順番にどんどん描かれて話が進むのだ。この大掴みな人生の描写がひとつの達観のようで気持ちがよい。途中拾われてきた犬目線で話が進んで行くのが愉快。
「クイックン・ツリーの夜」:木も生えない寒風吹き荒む泥炭の土地。死んだ神父の後に越してきたマーガレットは外でおしっこする迷信深い女。2軒屋の隣に住む男スタックは雌山羊のジョセフィーンと暮らしていて、ベッドで寝るときも山羊と一緒だ。その山羊の代わりに遂にマーガレットと暮らすことになり、2軒屋の間の壁はぶち抜かれたが、マーガレットはしだいに村人の病気を治す魔力を増幅していく。都市生活とは無縁の人生がおもしろい。
「理不尽な進化」
吉川浩満 著
進化という言葉は学術の世界とは違って一般世間では向上・発展的変化という肯定的な意味で使われている。これが著者の言う進化のおまじない的用法である。環境にもっとも適応したものがサバイバルゲームの勝者となるのだ。ところが実際にはこの地球上では99.9%もの生物が絶滅していて、たとえば我が世の春を謳歌していた恐竜など、環境に適応していたのにその環境そのものが隕石の激突によって激変したため理不尽にも絶滅してしまう。
世間一般的な感覚では「えっ、適応していたのにそんな理不尽な!」という進化への戸惑いを覚えざるをえない。という書き出しはちょっと違和感があって、いくらビジネス界を中心に進化メッセージが発信されていたとしても、人生自体に理不尽なものを感じているのが、けっこうふつうなのではないだろうか。
学問の世界ではグールドが適応主義に異議を唱えたが、けっきょくドーキンスらネオ・ダーヴィニズムの勝利に終わる。この適応主義の勝利は自分のような素人読者にとってもそれほど新しい話ではない。ところが著者は敗北したグールドに光を当てる。進化の歴史で絶滅していった生物のその絶滅理由が理不尽なものだったとすれば、適者生存と行っても偶然そうなっただけで他の道もあり得た。それを全て適応主義で乗り切ることにグールドが感じた違和感を手がかりに歴史科学としての進化論のあり方を探っていく。
自分は科学哲学はじめ知の枠組み等についてあまり興味がないので、そのあたりの考察はああそうなのという感想だが、たとえば「説明」=科学的方法、「理解」=歴史的思考というような言葉の限定された使い方にいつも馴染めない。
能力のあったものが勝ち抜いたのではなく、たまたま生き残ったという結果が適応なのだ。進化論というのは経験を科学する学問であり、その何億年という長いスパンで行われる淘汰は人間の感覚では追いつけない。進化論はどうしても目的論的に考えてしまう人間の都合を遠く離れた結果論的な学問で、量子力学や相対性理論などと同じ理論装置であるという解説にはグッときた。この世界は人間の存在とは無関係だ。
「遠く、苦痛の谷を歩いている時」 高橋たか子 作
表題作の他「甦りの家」「病身」
人間の意識の底に共有する意識だまりのようなものがあって、ときどきそこへ下りていっては、他人の意識をすくい上げてくる。それは夜見る夢の中で行われる場合が多い。といった共通のモチーフで描かれている三作。
「甦りの家」の中で元型という言い方で扱われるその共有概念を、作者は心理学用語とはなんの関係もないというが、ユングのそれを思い浮かべたとしてもそうはずれではあるまい。
主人公が少女時代に、哲学書を読まなくても同じことを知ることができるのではないかと考えるところから、この元型をめぐる彷徨が始まっている。自分と意識の底を共有していると見える年下の青年を思うままに操って、性的な妄想をも膨らましてゆく奇妙な日常。そんな非日常世界がまったく怜悧で平静な感触で綴られていく。
ユング心理学の知識は無くてもこのモチーフは面白い。自分にとって作品の良し悪しはテーマではなく感触なので、そういった意味では高橋たか子は好きな作家だ。過剰で逸脱した精神性を希求する作者の資質が好ましい。文章の肌触りがよくて読みやすかった。
「遠く、苦痛の谷を歩いている時」では一人称で語られる登場人物がいつのまにか入れ替わっていて、今喋っているわたしはさっきまでのわたしと違う人物だったりする。それも意識の奥底では繋がっていて、全体を見れば大きな共通の意識がそれぞれの形をとって立ち現れているのかもしれない。複雑な構成だが、流れるように読める。
「蟹の横歩き」 ギュンター・グラス 作
日本版サブタイトルに「ヴィルヘルム・グストロフ号事件」とあるとおり、1945年に起きた豪華客船沈没事件を題材としている。作品の構成は複雑で、そもそもこの客船が「グストロフ号」と名付けられるに至った経緯。これはユダヤ人ダヴィト・フランクフルターによってナチス党員ヴィルヘルム・グストロフが暗殺された事件がそもそもで、この殺されたナチス党員の名前が豪華客船に命名されたわけである。
次に当時東プロシアから海路脱出を図った大勢のドイツ人を乗せたグストロフ号が、ソビエト潜水艇からの水雷によって沈没。主人公をお腹に孕んだ若き母親が幸運にも救出され、護衛艦の上で出産するまでの物語。
そして現在主人公の息子がインターネットの世界でネオナチの論客となり、果てはユダヤ人を名乗る論敵の青年を射殺してしまうという悲劇が描かれる。
これだけ盛りだくさんの社会的現実を用意されれば、文学的評価はわからないが退屈することはない。フィクションとノンフィクションの両方を行き来するから、ちょっとした戸惑いはある。語り手の主人公のジャーナリストは凡庸などっちつかずのスタンスをとっていて、むしろ母親のとんがった性格がこの作品をいきいきとさせている。と言っても彼女に政治的スタンスはないのだ。
主人公の息子の都合の良い歴史の美化と他民族蔑視やネオナチの野蛮な連中を見れば、現在我が国で起きている事態と瓜二つで、残念ながら人間のやることは変わらない。戦争から時代が遠く離れてしまうとこんなことになるのか。という現在進行形のまま作品は終わる。
「ブエノスアイレス食堂」
カルロス・バルマセーダ 作
アルゼンチンはマル・デル・プラタの街で1世紀近くに渡って人気を誇ったブエノスアイレス食堂。その歴史を作った数々の天才料理人の物語でありながら、実は猟奇殺人事件が本題という奇妙な小説。いやそれはないやろと思われるカニバリズムに始まりカニバリズムに終わるのだ。
いかにしてブエノスアイレス食堂が始まり、どうやって引き継がれて来たか。創業時に天才料理人カリオストロ兄弟が書き残したレシピブック「南海の料理指南書」が、かろうじて受け継がれ、時代時代の名コック達によって解読・実践されていく。今もアルゼンチンに残る人気料理の出来るまで。その素材・調味料など細かく紹介され、どんな料理か想像もつかないが、たしかにおいしそうだ。
そうやってブエノスアイレス食堂周辺に蠢く人々の来歴が行きつ戻りつ語られ、これはいったい何が書きたいの?とそろそろ飽きかかる頃、赤ん坊の時に母親の死体を貪った主人公によって、おぞましい連続殺人事件がくりひろげられる。もちろん天才料理人としての腕をぞんぶんにふるった食人事件なのだからたまらない。
このカニバリズムにリアリティを求めても仕方がないが、食堂の歴史著述と同じ筆致で淡々と描かれるとそんなことは気にならず、直接的な恐怖をあおるふうではないので一種幻想文学のような感触があります。ムシャムシャ。
「みいら採り猟奇譚」 河野多恵子 作
戦前から戦中にかけて、開業医の家庭に育った歳の離れた新婚夫婦のおはなし。相良外科病院のひとり娘比奈子は女学校を卒業するとすぐ前から家族間で決まっていたように、内科医の尾高正隆に嫁ぐが、こういう親の決めた早い結婚は当時ふつうの感覚だったのだろうか。
結婚後初夜から閨房のようすが描かれるところが珍しいが、実はこの夫がマゾヒストで二人の被虐加虐のバリエーションがしだいに発展していく。やがて夫は銭湯に行けないほど体中傷だらけとなってしまうのだが、SM描写はちっともいやらしくなく冷静な筆致で書かれているので、この二人がなんでこんなことをしているのか奇妙な感じがする。
ところがこの小説でそういったシーンはごくわずかで、大半はこの時代のちょっと生活にゆとりのある階層の細やかな日常生活である。身近な衣食住の工夫や買い物、親戚付き合い、近所付き合いなどがていねいに描かれていてたのしい。開業医の暮らしぶりが分かるし、だんだんと戦争に突入してゆく世の中の様子がリアルだ。
それだけでも楽しく読める話なのだが、なぜか夜になるとアブノーマルなことになって、この昼と夜がすんなりと繋がっているのがなんとも不思議な、そういう人間だからという理由でしか説明できない、人間ありのままでいいのだという世界だ。
「夜の寓話」 ロジェ・グルニエ 作
著者は作家になる以前に著名なジャーナリストであり、この短編集はライターとしての経験を素材に編集・広告業界でうごめく人間達を描いたもの。といってもべつにその業界ならではの人物像を追いかけたわけではなく、人間一般のやるせなさを綴る。
●ジゼルの靴:リセ(国立高等中学)時代に、いじめられていたところを義憤にかられて味方したことから友人となった男ラリユー。彼は卒業後も半ばアウトローの道を歩むが、語り手(私)との奇妙な友情は続く。こういうインテリではない人物との話は想像できない展開となっておもしろい。
●脱走兵たち:軍隊時代に知り合ったジャーナリスト、ペレンの後日談。スペイン戦争のさなか、彼が最後に選んだのは、体内にペスト菌を抱えたまま忍び込みフランコ派を絶滅させるという突拍子もない仕事だった、果たして…。
●厄払い:報道部女性記者カルリと若手カメラマンラフレ。彼らがペアを組んで取材した先では必ず人が死ぬ。迷信深いカルリは呪いを消すために、一線を越えて二人の関係を変えようとする。
「隊長ブーリバ」 ニコライ・ゴーゴリ 作
ウクライナはザポロジエの街に住む連戦の勇者タラス・ブーリバ。彼はコサックの中のコサックだ。ロシア正教の宗教学校から帰ってきた二人の息子オスタップとアンドリーにもほんとうの戦争を体験させねばならぬ。安穏と平和を貪っているわけにはいかない。講和条約もものかは、いよいよ戦争を開始するのだ。東にダッタン人、西にポーランド人、南の海にトルコ人を相手にコサック魂を見せつけてやろうぞ。
白兵戦の時代までなら男子たるもの戦闘の覇者がヒーローだ。敵の首をはね街を蹂躙し殲滅する。これぞ男の進む路。男が戦場へ出なくてどうする。けっきょく男は戦争がしたい動物かもしれないね。
小隊の展開から銃を使った団体戦、1対1のせめぎ合いなど、やったりやられたりの戦闘シーンが実に巧みに描かれていてワクワクしながら読んでしまった。
敵国の姫に心奪われコサックを裏切ってしまう弟アンドリーの運命やいかに。囚われの身となり、斬首される寸前父ブーリバの声を聞く兄オスタップ。徹底して小ずるいユダヤ商人も再三登場。そして敗戦の隊長ブーリバの壮烈な最後とは。
というわけで、ゴーゴリと言ってもやっぱリアリズムだけじゃない、ロマンチシズム小説の快楽でした。