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漫画家まどの一哉ブログ

   
読書
「死んでいる」

ジム・クレイス 作


動物学者の夫婦が自分達の愛が始まった思い出の海岸に出向き、誰も来ないはずの人目につかない砂丘の影で愛を育んでいると、突然見知らぬ男に背後から花崗岩で頭を連打され、なにが起きたのか分からぬうちに死んでしまう。襲った男は単なる金目当ての暴漢だ。
砂漠に横たわる夫婦の死骸が日を追うごとにどんなふうに雨風や動植物などの自然に浸食され変化していくか、実に念入りに描写される。まさに「死んでいる」ことを描いた小説。それは殺された直後の体内物質の流れから始まっている。


この動物学者夫婦がいかにして出会うことになったか、若き日のこの海辺の街での合宿生活から語り起こされ、やがて出奔していった一人娘を持つ現在の生活まで、二人の感情のやりとりもたくさん語られるが、そこは自分の興味の対象外だ。


この学者の両親とはまるで違うタイプの一人娘が、行方不明になった両親を偶然出会った建築科の青年と探し始めることになり、市の死体安置室に行ったり、警察の実地検分があったりと、ミステリー風味のところは読み物としてのおもしろさがあった。


そんなわけでモザイクのように違った局面が組み合わさって出てくるので、たいくつだったり面白かったり交互に体験できる。

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読書
「工場日記」

シモーヌ・ヴェイユ 著


1934年、25歳の若き哲学者シモーヌ・ヴェイユが、教職を投げ打って飛び込んだ実働の世界。アルストム電気工場やルノーなどの大工場で、プレス・旋盤・フライス盤などの機械を前に、圧延・ねじ切り・研磨などの作業に挑む。
彼女は社会経験をともなわない単なる観念は少なからずエゴイズムを孕むことを見抜いていたようで、天性の平等感覚を持って社会に飛び込んで行くその態度はけっして物見遊山的なものではない。機械の調整についても頻繁に日記に書き込んでいるくらい仕事に打ち込んでいる。


一日のうちで仕事内容はいろいろと変わり、彼女は作業時間や仕上がった部品の数、稼いだ金額まで克明に日記に記している。この賃金が実質どれくらいの値打ちであるのか分からないが、オシャカになってしまう部品もたくさんあり、機械は必ずと言っていいほど調子の波があるし、たびたび故障しては作業は中断されるので、とうぜんわりのいい職場ではあるまい。
また求められる作業量が過酷なので、のんびり他のことを考えている余裕もなく、ただただ集中して機械を動かさなければならない。終わるころにはぐったりと疲れ足を引きずるようにして帰宅しても、翌朝にはまた元気に出社するのはまだまだ若いせいもあろう。それでも頭痛持ちでもあるし、体調が悪いときにはせっかくの休日も寝たままで終わってしまう。この苛烈な環境をのりきるためには何も考えないで黙って過ごすしかなく、そうやって一日一日を過ごすうち、だんだんと考えることを奪われた人間になって行く。なんと隷属的な労働環境だろうか。
そうは言っても休憩時間や仕事がうまくいっているとき、親切な仲間に助けてもらったときなど楽しい一面もたしかにあるのだ。


脳内で観念的なことを操ることにかけては人一倍巧みな哲学者でさえも、一労働者となってみれば、現代の我々が労働現場で感じていることとまったく変わらない。人間性を容赦なく奪う賃労働の哀しさよ。雇われて働くということは常にこういうものなのか。ああ…。

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読書
「バーデン・バーデンの夏」
レオニード・ツィプキン 作


ドストエフスキーの妻アンナ・グリゴーリエヴナの残した日記を片手に、彼ら夫婦の旅暮らしを後追いする。作者自身の旅の記録と、ドストエフスキーとアンナの記録が改行も無く入り混じり折り重なって行くという趣向。作品の面白さのほとんどはドストエフスキーとアンナの暮らしぶりにあって、ドストエフスキーの人物像は巷間多く伝えられているとしても、ここまで魅力的に書けるのは作者の愛がなせるわざなのか。なにせ有名作家達とのケンカでは、かのツルゲーネフまでもが凡才扱いだ。スーザン・ソンタグによって再発見されなければ、ほぼ失われてしまった傑作。


激しやすい性格ですぐ着火し怒鳴り散らす。かと思うとすぐさま妻の前に跪き衣服に口づけして赦しを請う。たびたび癲癇の発作を起こして倒れる。ルーレットにとち狂って次から次へと質入れしては小銭を持って会場へ駆けつけ、またたく間にすってしまうが懲りない。街を去る寸前のちょっとした合間にも同じことをくり返し、旅費さえも危うくなる。このあたりの常軌を逸したルーレットに賭ける執念(会場までの歩数を縁起のいい数字にするため苦心して歩く)と乱脈ぶりがおもしろくて目が離せない。かと思うと家計を省みず貧しい人々に乞われるままに施しをしてしまう。そして突然悪化した肺からの喀血の結果、自分の死期を悟ったままソファに横たわり旅立って行く。そんなドストエフスキー。


ところで夫婦が海を泳ぐ描写がたびたびあるが、これが性愛をえがいたものだとは、うかつながら気付かなかった。

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読書
「劇画暮らし」 辰巳ヨシヒロ 著


作者の自伝的エッセイ。「劇画漂流」は手塚治虫が死んだあたりで終わっているが、これは映画「TATSUMI」までを含む。既に知っている話でもついつい面白く読んでしまった。


内容は創作ではなく事実であるから評価云々はできないが、一生を通して漫画(劇画)に携わって生きているのは、さすがに才能のなせるところ。世間は辰巳ヨシヒロを眠らせてはおかないのだ。それにしても若くして貸本漫画家となり、仲間の漫画家達と意見を戦わせながら、新しい表現の開拓に励むなどは、まったくうらやましい理想の青春である。自分にはまるでなかった人生のなりゆきだ。


私は年齢的に貸本漫画隆盛の頃は知らず、ごく幼少期に見ていたものは子供用のほのぼのした愉快漫画だったので、劇画工房の頃よりその後の青年コミック誌誕生の頃のほうが実感を持って読むことができる。辰巳さんの画風も花登筐や梶山季之の世界にぴったり合っていたのではないか。よく知らないで言うが殺伐とした世相と昭和のアウトローの風情が思い浮かぶよ。


それよりもやはり辰巳ヨシヒロの世界的評価は人間と社会の暗部を描いた短編にある。これは辰巳作品があくまでエンターテイメントの方法を離脱しない、ちゃんとストーリーとオチがある描き方で描かれているためで、この枠を突破してしまうとなかなか理解されないのは残念ながら国際的標準であるらしい。


個人的には、手塚治虫文化賞授賞式後のパーティーに混ぜてもらったことがあるくらいです。

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読書
「自発的隷従論」

エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ 著


16世紀フランス。モンテーニュの盟友でありながら夭折した政治思想家ボエシ。人間は生まれながらにして自由のはずが、なぜ支配者に進んで隷従するのか。支配・被支配の関係は基本的に支配者が暴力的に民衆を抑圧する視点で描かれるが、実際には喜んで支配に身を捧げる多くの民衆の姿が見られる。支配者も同じ人間であり、簡単にその横暴を拒否できるはずなのに、この不思議な現象はなぜ起きるのか?まさに現代まで通じる人間社会の根幹にある疑問をピンポイントでついた論考。


圧政者の詐術として、遊戯・饗応・称号・自己演出・宗教心の利用などをあげ、これらの詐術に民衆はいとも簡単にはめられてしまう。そしてとりまきとしての小圧政者の存在。圧政者のそばで飼いならされることによって満足を得、自由を売り渡したとりまき達は、自身の従者にも従属を強要。下の者はさらに下の者に同じことを強要し、このシステムが順番にくりかえされて基本的な社会構造が出来上がる。そうやって社会が安定してしまえば、隷従は自然な習慣となってなんら疑問に思われない。人は生まれながらにして用意されたこの仕組みを学習するのである。


現代日本に生きる我々にとって、哀しいほどに実感を持って納得できるハナシ。主権者としての権利を行使するより、いかにおこぼれにあずかるかに腐心するプライドなき民衆としての奴隷根性があらためて確認できる。かくして抑圧移譲のピラミッドは揺るがないのだった。

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読書
「ピエールとリュース」 ロマン・ロラン 作


文豪が大長編執筆の合間に息抜きも兼ねて描いた短編?
第一次世界大戦戦時下、いよいよ差し迫るドイツ軍の空爆の最中、ふと出会った青年ピエールと貧しい絵描きの少女リュースのわずか2ヵ月間の短い恋愛を描く。裕福な階層に育ったピエールの純真さと、母との暮らしのために模写絵を売ってしのぐリュースの生活実感に差があって面白い。戦争が近づいても二人は死を前にした一瞬を慈しむように、あえて世の中には眼を向けずに過ごす。
話は直球で恋愛感情の揺らぎもなければ、社会の激変による運命の変転もなく、10代のピュアなラブロマンスを讃えて終わる。これだけでは作者の人間観はわからないが、青少年の純情を信じているところから、根本的には人間性を信じているのかもしれない。長編未読。

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読書
「ミシェル・フーコー」 重田園江 著


以前読んだこの著者の「社会契約論」が面白かったので、これもいつか読んでみようと思っていた。フーコーの入門書であり解説書なのかもしれないが醍醐味は著者自身の語り口である。フーコーの著作のうち「監獄の誕生」にのみポイントをしぼって書かれている。


現代思想知らずの私が読んでも痛快なわかりやすさで新鮮だ。身体刑から啓蒙主義による監獄刑への移行。そして資本主義が発達していく中で規律権力による国民の規律化と規格化と異常者の設定。これらの変化が大きな権力の意志ではなく「道具的理性」ーちょっとした工夫の積み重ねで生まれてきたところなど、おもわず膝をうつ面白さ。このあたりは従順な奴隷兼お客様として、規律化が完成された現代日本人を知るわれわれには理解しやすいところ。


後半、国家理性とは国家存続のための実践知であるなど、フーコー思想の深奥へ分け入っていくとさすがに実感と重ねて読んでいくことはできなかった。また主権とは何かという大きな問題は、やはりおいそれと結論を出すわけにはいかないようだ。ただ非常時から権力悪を批判するやり方の幼稚さはそのとおりだと思う。


ところで私にとってフーコーはこれで充分であります。

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読書
「青い野を歩く」 クレア・キーガン 作


アイルランドの果て。森もなく、断崖と泥炭でできた土地に暮らす話が心地よい。火をおこす、食事を作る、風呂に入る、など生活のもろもろを読むだけでなんとなく楽しいのは、それがけっして大切にされているわけではなく、むしろぞんざいないいかげんなやり方でなされているせいであろう。人生自体もどこか投げやりで、あまり深く考えてそうしているわけではない、その場しのぎのようなものとして描かれているところがよい。ある女が結婚してまた去って行くまでの月日をたんたんと描くのがよい。


「森番の娘」:ダンスホールの踊り子だったマーサが農夫ディーガンの求婚を受け入れたのも、年齢的なことを考えて最後のチャンスかもと思ったからだが、嫁いでみると大農家のはずの家はオンボロだった。そうして生まれた3人の子どものうち娘だけは実は不倫の結果だ。後悔から始まったマーサの妻として母としての人生が煮え切らないまま続いていくが、その内面を細かく描くのではなく、家庭に起ったことが順番にどんどん描かれて話が進むのだ。この大掴みな人生の描写がひとつの達観のようで気持ちがよい。途中拾われてきた犬目線で話が進んで行くのが愉快。


「クイックン・ツリーの夜」:木も生えない寒風吹き荒む泥炭の土地。死んだ神父の後に越してきたマーガレットは外でおしっこする迷信深い女。2軒屋の隣に住む男スタックは雌山羊のジョセフィーンと暮らしていて、ベッドで寝るときも山羊と一緒だ。その山羊の代わりに遂にマーガレットと暮らすことになり、2軒屋の間の壁はぶち抜かれたが、マーガレットはしだいに村人の病気を治す魔力を増幅していく。都市生活とは無縁の人生がおもしろい。

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読書
「理不尽な進化」

吉川浩満 著


進化という言葉は学術の世界とは違って一般世間では向上・発展的変化という肯定的な意味で使われている。これが著者の言う進化のおまじない的用法である。環境にもっとも適応したものがサバイバルゲームの勝者となるのだ。ところが実際にはこの地球上では99.9%もの生物が絶滅していて、たとえば我が世の春を謳歌していた恐竜など、環境に適応していたのにその環境そのものが隕石の激突によって激変したため理不尽にも絶滅してしまう。
世間一般的な感覚では「えっ、適応していたのにそんな理不尽な!」という進化への戸惑いを覚えざるをえない。という書き出しはちょっと違和感があって、いくらビジネス界を中心に進化メッセージが発信されていたとしても、人生自体に理不尽なものを感じているのが、けっこうふつうなのではないだろうか。


学問の世界ではグールドが適応主義に異議を唱えたが、けっきょくドーキンスらネオ・ダーヴィニズムの勝利に終わる。この適応主義の勝利は自分のような素人読者にとってもそれほど新しい話ではない。ところが著者は敗北したグールドに光を当てる。進化の歴史で絶滅していった生物のその絶滅理由が理不尽なものだったとすれば、適者生存と行っても偶然そうなっただけで他の道もあり得た。それを全て適応主義で乗り切ることにグールドが感じた違和感を手がかりに歴史科学としての進化論のあり方を探っていく。
自分は科学哲学はじめ知の枠組み等についてあまり興味がないので、そのあたりの考察はああそうなのという感想だが、たとえば「説明」=科学的方法、「理解」=歴史的思考というような言葉の限定された使い方にいつも馴染めない。


能力のあったものが勝ち抜いたのではなく、たまたま生き残ったという結果が適応なのだ。進化論というのは経験を科学する学問であり、その何億年という長いスパンで行われる淘汰は人間の感覚では追いつけない。進化論はどうしても目的論的に考えてしまう人間の都合を遠く離れた結果論的な学問で、量子力学や相対性理論などと同じ理論装置であるという解説にはグッときた。この世界は人間の存在とは無関係だ。

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読書
「遠く、苦痛の谷を歩いている時」 高橋たか子 


表題作の他「甦りの家」「病身」
人間の意識の底に共有する意識だまりのようなものがあって、ときどきそこへ下りていっては、他人の意識をすくい上げてくる。それは夜見る夢の中で行われる場合が多い。といった共通のモチーフで描かれている三作。


「甦りの家」の中で元型という言い方で扱われるその共有概念を、作者は心理学用語とはなんの関係もないというが、ユングのそれを思い浮かべたとしてもそうはずれではあるまい。
主人公が少女時代に、哲学書を読まなくても同じことを知ることができるのではないかと考えるところから、この元型をめぐる彷徨が始まっている。自分と意識の底を共有していると見える年下の青年を思うままに操って、性的な妄想をも膨らましてゆく奇妙な日常。そんな非日常世界がまったく怜悧で平静な感触で綴られていく。
ユング心理学の知識は無くてもこのモチーフは面白い。自分にとって作品の良し悪しはテーマではなく感触なので、そういった意味では高橋たか子は好きな作家だ。過剰で逸脱した精神性を希求する作者の資質が好ましい。文章の肌触りがよくて読みやすかった。


「遠く、苦痛の谷を歩いている時」では一人称で語られる登場人物がいつのまにか入れ替わっていて、今喋っているわたしはさっきまでのわたしと違う人物だったりする。それも意識の奥底では繋がっていて、全体を見れば大きな共通の意識がそれぞれの形をとって立ち現れているのかもしれない。複雑な構成だが、流れるように読める。

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