漫画家まどの一哉ブログ
- 2015.07.30 「内地へよろしく」 久生十蘭
- 2015.07.21 「薔薇とハナムグリ」 モラヴィア
- 2015.07.13 「彼らは廃馬を撃つ」 ホレス・マッコイ
- 2015.07.08 「タルチュフ」 モリエール
- 2015.07.04 「聖なる酔っぱらいの伝説」 ヨーゼフ・ロート
- 2015.06.24 「ペドロ・パラモ」 フアン・ルルフォ
- 2015.06.17 「牛乳屋テヴィエ」 ショレム・アレイヘム
- 2015.06.09 「戦前「科学画報」小説傑作選1」
- 2015.06.01 「星に降る雪/修道院」 池澤夏樹
- 2015.05.26 「鰐の聖域」 中上健次
「内地へよろしく」 久生十蘭 作
1944年作品。太平洋戦争中、主人公は報道班従軍画家の青年。赤道を越えて南洋の島々に赴き、物資滞る中でも明るく誠実に生きる人々に出会う。タイトルから全編戦地での話かと思いきや、主人公は早々と内地へ帰ってきて、物語の大半はお見合い騒動を中心としたドタバタコメディである。内地外地ともに登場人物が個性的で、皆善人。人情味溢れる庶民ばかりだ。
そんな内容でありながら、久生十蘭の文章がさすがに密度が高くて面白く、緊張感があって味わいたっぷり。なかでも銚子(外川)の鰹漁師の不良爺さん連のしゃべる方言が気持ちよくってしかたがない。また主人公はじめ昔風の江戸っ子訛りで、こんな口調は今東京でも聞けないだろうが、まことに楽しい。
お見合い騒動も終わって主人公達は連れ立って、またもや南方の戦地へ赴くのだが、以前と違って戦況は熾烈なものとなり、呑気な常夏の暮らしはもはやありえず、島に生きる日本人達は国のために命を投げ出す覚悟で健気に毎日を送るといった描写に終始しているのは、時節がらしかたのないものであろう。
「薔薇とハナムグリ」 モラヴィア 作
シュルレアリスム・風刺短編集という副題。たしかにちょっと不思議なエピソードばかりで、それを読者が納得できないまま謎を謎のままで終わってしまうあたり、シュルレアリスムとよばれてもいいかもしれない。
ただ自分は本来のシュルレアリスムとはこういった作為的な技術を使ったものではなく、作者が意図しないところで幻想的な展開になってしまっているものと考えているので、これをシュールと言うのは少し違うと思う。
表題作などあきらかに動物を使った風刺・寓意小説で、とくにシュールと考えずに楽しめば良い。
パパーロとよばれる投資対象商品で失敗する一家の話は、パパーロなる物がなんなのかまったく解説されない。またお金持ちの夫人達がファッションとして背中に平然とワニを背負っていたりして、これらは意図されたシュール。
薔薇の蜜を好むハナムグリ達の中で、一匹だけキャベツを好むというマイノリティの孤独。来世でいけすとよばれるユートピアに行けると信じられていた蛸の社会。これらは典型的なわかりやすい寓意小説。
古くからある結婚式場で、参加者が次々と天井高く吊り上げられ、どこかへ消えてしまう不思議。島に住む怪物の見る夢のままに暮らしを左右されてしまう島の人々。こういったものは幻想的でよかった。
「彼らは廃馬を撃つ」ホレス・マッコイ 作
1920年代のハリウッド。ダンスマラソンなるものがあって、男女のペアで夜を日に継いで倒れるまで踊り続け、最後に残ったものが賞金を手にするというイベント。実際人気を博していたそうだが、その面白さが想像できない。踊り手もフラフラだろうし、そんなに長時間見ていられるものかな?
またダービーレースも行われ、なんと踊りながらトラックをクルクル周回するのだが、ステップを踏みながら走るのはどんなぐあいなのか?
主人公のペア2人はいつの日かハリウッド映画界で栄光を手にすることを夢見て生きてきたのだが、女の方は既に人生に絶望しており、毎日を鬱鬱と生きる人間。出る言葉は全否定と悪態であり、周りの人間に対する愛想も笑顔もない。この女の存在がこの小説を特異なものにしている。女が希望どおり相方に殺してもらって人生を終えたところから話は始まり、そこへ戻る仕掛け。
全編ほぼダンスのシーンでめったに外へも出ないし、パルプマガジンの作品にしてはまったく解放感がない。苦行のようなハナシだ。
「タルチュフ」 モリエール 作
一家の主とその母親だけが、偽善者タルチュフにうかうかと騙されており、それ以外の家族や縁者はみな冷静にタルチュフの企みを見抜いている。といった極端な設定がなんの経緯も語られずにいきなり登場するのが妙だ。しかし観客にはひじょうに分かりやすい状態で話が展開するので、まあ喜劇にはこの簡単さが必要なのかもしれない。
最後にうまくいくはずだったタルチュフの悪だくみが、賢明な国王陛下の判断によって未然に防がれ、一家は逃亡離散を免れるというところも、自分達を守ってくれる強い権力が大好きな大衆劇の基本か。水戸黄門や大岡越前のようなもの。
当主の妻は、まんまとタルチュフの望みどおりにタルチュフを愛していると一芝居うって、じつは当主はテーブルの下で隠れて聴いている。そんなハラハラドキドキの定番、基本中の基本もちゃんと入ってる。これが喜劇だ。
「聖なる酔っぱらいの伝説」
ヨーゼフ・ロート 作
訳文ではあるけど、ロートの文体はさっぱりしていて、テンポもよく軽快な感じだ。
「四月、ある愛の物語」:主人公の男はアンナという女性となんとなく同棲しながら、郵便局長の家にいる窓辺の少女に惚れ込んでしまい、アンナは平然とそのことを告げられる。
「ファルメライヤー駅長」:田舎の駅長は現在平和な家庭を築いているにもかかわらず、列車事故で助けたロシアの伯爵夫人に心を奪われ、家族を顧みることなく半生を伯爵夫人の後を追うことに費やす。いずれの話もなんとも自分に正直で、うしろめたさのかけらもないことに驚いてしまう。
「皇帝の胸像」:解体された旧オーストリア帝国の事情を知らないで読むわけだが、作中主人公の老いた伯爵は愛国心の名のもとに野蛮化する民族主義を嘆いている。皇帝の栄誉はおくとしても、各民族の自立に疑問符をなげかけるユダヤ人作家の視点は、現在汲むべきところ大いにあり。
「聖なる酔っぱらいの伝説」:寓意小説。住居を持たず河川敷で暮らしていた男に神の恵みか、次々と不思議な偶然がお金をもたらしてくれる。ただしミサのある日に教会で小さな聖女テレーズさまにお返ししなくてはならない約束。最後はちょっと涙するおはなし。手塚治虫でも喜んで描きそうだが、デフォルメしてしまうだろう。
「ペドロ・パラモ」フアン・ルルフォ 作
自分にとってラテンアメリカ文学の苦手なところは、人物名の印象が皆同じになってしまって、誰が誰やら分からないまま読んでしまうというところだ。この小説の場合時間が順を追って進まないのでなおさらだ。街の悪党ペドロ・パラモの人生が主な内容だが、それよりも前半のペドロ・パラモの後を追って寂れた街にやって来た息子のはなしが面白い。すでにペドロ・パラモは死んでいて、わずかに街に残った女たちとの交流があるのだが、生きているつもりでいた目の前の人物が実は幽霊だったりということがくり返されて、喪失感が重なってゆく。
ところでペドロ・パラモの悪党ぶりや愛する女への葛藤など物語の内容はあるのだが、なぜか直接頭に入って来ずに、悪魔的なイメージに占領されてしまう。なるほどマジック・リアリズムの嚆矢とされる作品だ。
「牛乳屋テヴィエ」
ショレム・アレイヘム 作
舞台や映画でおなじみ「屋根の上のバイオリン弾き」の原作であることを知らずに読みはじめた。主人公テヴィエは牛乳屋だが、牛乳配達だけしているわけではなく作り手なのである。生乳の他チーズもバターも生クリームも作る。お得意は街の金持ちだ。そして家には娘ばかり6人もいるのだ。
今や日本人にもおなじみのウクライナ。ソビエト政権成立のころウクライナに暮らすユダヤ人一家。イディッシュについてなんの知識も思い入れもないが、それを意識しなくても父親と娘たちの世代間の考え方の齟齬を描いて、世界中の人が見て読んで面白いものになっているわけです。屋根の上でバイオリンは弾かない。
親父さんからすれば自分が娘のためにいい縁談をまとめてきてやったと思っていても、娘と恋人は「ぼくたち結婚することにしました」ってそりゃいったいどういうことだ?といった具合。これが全編主人公テヴィエの語りで書かれており、それがまったく田舎の農家の親父さんの口調なので面白い。とはいっても自分の趣味とはちょっと違う作品。
読書
「星に降る雪/修道院」
池澤夏樹 作
「修道院」:非常に美しい通俗小説。あまりにもスラスラ読める。さらさらと流れていくような読書感覚。青い海と眩しい太陽そして朽ち果てた修道院。すべて日本人が簡単にイメージできる範囲で美しい地中海の島が描かれている。親切な宿や村の人々。そこで知った壊された礼拝堂をたった一人で再建しようとした孤独な男の話。それらもみな分かりやすく、言わば定番で読者が容易に想定できる範囲だ。
この孤独な男はなぜ礼拝堂を修復しようと思ったか。それは過ぎ去った女友達とのみだらな快楽の日々であり、そして男友だちも巻き込んで起きた争いと殺人の悲劇の果て。彼の修復行為は過去に犯した罪に対する償いであったのだ。信仰にたいする深い洞察はなく、きちんと辻褄の合った悲劇が明らかにされるわけだが、童話のようにわかりやすくまとまっていてなんの違和感もない。
「星に降る雪」:雪山で雪崩に遭遇し共通の友人を失った男女が、主人公の職場であるニュートリノ観測所で出会い、忌まわしい雪崩事件後の思いを、まずセックスしてから語り合うお話。
「鰐の聖域」 中上健次 作
未完結遺作。和歌山県新宮市の被差別部落出身の若者。大して働かないくせに女だけには不自由しないろくでなしの主人公。渓流に潜ってヤスで鮎を突くのが楽しみ。普段は目的もなく車を乗り回したり、女の尻を追いかけたり、喫茶店でだべったりしている。たまにガソリンスタンドで働いたりする。周りいるのは「路地」とよばれる部落出身の男達。限られたパイを奪い合う土建屋グループを軸に、その女達。金融屋と暴走族上がりの社員達。などなど。
予想どおり非常に泥臭い中上作品。代表作を読んでいれば被差別部落と近代化の問題や、日本人の土着的な生き様など思い至るであろうが、この作品のみに限って言えば、主人公その他まったくリアルに地方に屯するヤンキー的な人達の風情で、文学的な内省や風景描写もなく、まさにヤンキーな日常そのまま。
これは偏見を持って言うが、都会の上流階級で育ちインテリジェンスを身につけた知的な人々から見れば魅力的などろどろした下層の地方生活者、あたかも面白い物語の設定のように感じるこれらの風情も、少しでも身近にそれを知る地方出身者にしてみれば、すぐにでも逃げ出したい堪え難いシロモノで、このヤンキーな人達がずっと同じ力関係で近くにいるからもう地元には絶対帰らないという地方出身者も多いらしい?(仄聞)
この後が書き継がれていればいよいよ本質に迫ったかもしれないが、ここまではあまりにリアルなヤンキーの日常で、どうしても嫌悪感を持ってしまう。まあ主要作品を読んでから言えという話かもしれない。