漫画家まどの一哉ブログ
- 2015.05.19 「上海の蛍」 武田泰淳
- 2015.05.11 「日曜農園」 松井雪子
- 2015.04.27 「獄中記」 ワイルド
- 2015.04.21 「マリオと魔術師」 トマス・マン
- 2015.04.15 「人工楽園」 ボードレール
- 2015.04.08 「裏面」ある幻想的な物語 クビーン
- 2015.03.30 「氷」 アンナ・カヴァン
- 2015.03.23 「SOY!大いなる豆の物語」 瀬川深
- 2015.03.16 「椿姫」 デュマ・フィス
- 2015.03.10 「明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち」 山田詠美
「上海の蛍」 武田泰淳 作
1944年、上海の東方文化協会で日本語の書物を中国語に翻訳する仕事をすることになった若き武田泰淳。理事長の家に下宿して始まった上海での日々を描く。事務所では中国・日本双方から集まった学者や職員が働いているわけだが、日中友和のためと称するこの事業自体が中国人から見ればありえないキレイゴトであり、中国人職員達は心の底では冷めていたのではないか。そこを詳しく論じる教養は自分にはない。
中国戦線を経験していた中国文学研究家の作者が、上海での新しい体験になにを思っていたか?直接的に語られているわけではない。ただ大らかに遠慮なく過ごした。酒さえ飲んでしまえば怖い者なしで、言いたいことは何でも言う。大声で叫び夜の街を練り歩く傍若無人のありさま。やはり日本人の特権でなにをやっても大目に見られていたのだろうか。多くは語らないが屈折した青年だった自身を晩年に書いた。これが遺作だ。
当時の中国には、なにを目的としていたのか自分には興味がないが、上海以外にも有名な日本の小説家が仕事で滞在していたようで、文学会議ともなると火野葦平や田村俊子、高見順、阿部知二らが顔を出す。そんなふう。
「日曜農園」 松井雪子 作
父親が突然蒸発してしまって借りたままになった市の家庭農園。女子高生の娘は農園を引き継ぎ、素人ながらほそぼそと野菜を作り続ける。農園を娘に任した母親はひたすらシェイプアップに励んで筋肉を育む。いつの日か父は帰ってくるのだろうか。
主人公の女子高生は農園にそう熱心なわけではないが、ネットで父親の足跡をたどるようにしながら少しずつ野菜作りに精通して行く。母親は夫の行方探しを諦めたわけではないが、普段はビジネスに集中。ふたりともひょうひょうと人生を受け流して行き悲嘆にくれるわけでもなく、読んでるこちらも気楽だ。
漫画もとってもおもしろい松井雪子さん。小説を初めて読んだが、漫画作品とはまったく違ったおもしろさ。いや、違っているかどうかなんて比較すら出来ないわけだが、漫画ならではのギャグやポップな愛嬌は影を潜めて、まっとうにリアルに主人公の日曜日が綴られていく。まあブンガクだから当然なのかもしれないが、味わいのある文章で気持ちが良かった。読んでいるとじんわりと心落ち着く。これぞ小説の快感といった具合。
「獄中記」 ワイルド 作
言わずと知れたオスカー・ワイルド。
獄中記に期待するものと言えば、やはりこまごました獄中の日常か、もしくは自分もここまで堕ちたんだ、もうこうなったら覚悟を決めたぞ!みたいな極端な決意表明だが、ワイルドは後者だ。もっともさすがに大いに己が罪を悔い(別に同性愛性癖が悪いとは思わないが)世間に頭を下げることは徹底している。「自分の天才を信じきって青春を浪費してしまい、快楽から快楽へとはまり込んだ」とひたすら反省しているが、そこが魅力だったのにと思う人も多いかも知れない。
出獄後は芸術家としてストイックに生きるようなことを宣言して、ではなにが本当の芸術家か縷々解説する。彼の至った結論とは人間の悲哀こそが最高の情緒であり、芸術家は悲哀を知りほんとうの愛を知らなければならないということらしい。獄に繋がれる身となった自分の悲哀から発展して、ようやく貧窮や困難の救済としての人間愛に目覚めたのだ。エリート街道まっしぐらの身の上ゆえか、囚人となって初めてそこにたどり着いたのだろうか。「貧しき者は賢く、われわれよりも慈悲深く、親切で、しかも感受性が豊かである」とベタ褒めだが、これも出身階級ならではの勘違いだろう。
さらにその意味で芸術家をはるかに越えて優れた人物こそキリストであり、他者の悲哀に全身を投げ打って同情をよせることができるキリストの大いなる愛こそが至高のものであることが延々説かれる。巻頭で宗教を信じないと言っていることと矛盾するようだが、ここでは教会全体ではなくキリスト個人の人格を取り上げているので、問題はないようだ。
出獄後は寒村でひっそり暮らし、晩年は忘れられて困窮の中一人寂しく死んだそうだ。切ないねえ。
「マリオと魔術師」 トマス・マン 作
「マリオと魔術師」:避暑地の村で魔術のイベントが開かれ、夜遅いけれども子供達にせがまれて見に行く。普段見知った村人や、避暑に訪れた外国人もチラホラ。魔術師は高慢な態度を芸風としており、前半はカードや失せもの探しなど通常のマジック。後半、催眠術のショーとなって術にかけられた人は否応なく踊り出してしまう。昼間ウエイターとして働くマリオは催眠術のために大勢の前で辱められてしまうが…。
えらそうな魔術師が不気味でよい。
「混乱と稚き悩み」:教授の自宅にて年長の子供達がダンスパーティを開き、学生仲間達がやってきてにぎやかな夜となる。まだ幼い子供達も加わって遊ぶが、教授の最愛の小さな女の子は、遊んでくれたお兄さんと離れるのを嫌がって泣くのだった。
大人から見た現代の若者達の風俗がえんえんと描かれてまことに退屈。
読書
「人工楽園」 ボードレール 著
詩人の書く論考は芸術的過ぎてなんだかチンプンカンプンのことがあるが、これは論理的でわかりやすいほうだ。ボードレールが明晰で意志的な人であることがわかる。
酒、アシーシュ、阿片についての考察だが、愛されるべき酒についての言及はわずかばかりで、問題とされるのはアシーシュと阿片である。
前半で紹介されるアシーシュとはハッシシで、自分も詳しい知識はないが大麻樹脂のことであり、この時代にはジャム状のものをスプーン一杯分飲み込む方法で摂取する。マリファナ(乾燥大麻)は登場しない。
その効果について何人かの体験談を取り上げるが、人によって違った面があり、基本的にはダウナーなのだろうが専らそういうわけでもなく、けっこうハイテンションな状態も現れるようだ。とはいっても活動的というのではなく、ただ野放図に感激しやすくなってしまうみたいだ。共通するのは至福を味わったあとの気怠さで、もうなにひとつ行動する気にならない意志のなくなった状態になる。
ボードレールがアシーシュを否定するのは、その意志喪失効果のゆえである。かのバルザックも意志の譲渡ほど屈辱的なことはないとアシーシュに手をださなっかたようだが、反道徳の貌を持つ詩人ボードレールにしても意志を失って創作しているわけではないのである。芸術は強固な論理性とそれをコントロールする意志力あってこその営みで、けっして薬物による幻惑状態でなせるようなものではないのだ。
後半はボードレールの尊敬する著述家ド・クィンシーによる名作「阿片服用者の告白」より主要部分を抜粋しながらその恐ろしさを解説してゆく。当時阿片は薬店で普通に買えた。ド・クィンシーは歯痛対策として使ったのをきっかけに長い戦いの人生に足を踏み入れるわけである。ボードレールはこの著作の文学的完成度に惚れ込んでいるので、阿片の危険性を説きつつも、ド・クィンシーの文章の美しさを紹介する論述となっている。
全体としては麻薬の危険性を告知するものでありながら、さすがに美文満載の読み物となっております。
「裏面」ある幻想的な物語
アルフレート・クビーン 作
まさに悪夢的な幻想小説。そう謳われるものはいくつか過去に読んだこともあるはずだが、ここまで悪夢的なものはなかった。
大富豪となった学生時代の友人に招かれて、彼が作った夢の国へ移住する主人公夫婦。旅の途中までは平穏だが、夢の国の大きな外壁を越えるところから、もう戻れないのではないかと、不穏な空気が高まっていく。それでも古き良き文化を守っていくことを旨として作られた夢の国なので、最初はなんとか慣れていける範囲の生活がつづく。
主人公が酪農場で道に迷っていたとき、餓死寸前の痩せこけた白い馬が駆け抜けて行くあたりから、不気味なイメージが次々と広がって目が離せない。手持ちの全財産はなぜか紛失してしまうし、彼の妻は精神的な不安から病死へと一直線。この国の創造者であり支配者である元友人にようやく出会ってみると、それは不遜な権力者ではなく、魔力に支配された意識も虚ろな眠れる狂王であり、まともに相手は出来ない。
後半は夢の国の全てが朽ちて崩壊していく暗黒のシュールレアリスム。まさにボスの絵画を見ているような世界。最後の方はスケールがでかすぎて、やりたい放題である。あまり作者のみが勝手に幻想世界に突き進んでも読者としてはついて行きにくいものだが、この作品の場合、例えばルーセルのそれに比べれば、街が破滅していくというストーリー上の方向性を持っているので読みやすかった。暗黒暗黒。
「氷」 アンナ・カヴァン 作
カヴァンがこんなにもエンターテイメント的な戦闘シーンをきちんと描くとは思わなかった。世界は巨大な氷に飲み込まれようとしており、街は戦禍にさらされ住民も疲弊している。国境を突破して少女を追いかける主人公の男はなかなかに戦闘の達人でタフだ。
そのくせ何故そんな事態になっているのかは謎のままでなんの説明もない。読み物としては取っ付きやすいのに辻褄の合う筋立てはなく、カタルシスもないまま不思議な感覚に巻き込まれて読み進むこととなる。
主人公と彼が追いかける少女、そして少女を管理する長官。この3人の行動とエピソードが繋がらないままに、ゆるい時間軸に沿って描かれる。この分かりにくさが意図されたものではなく、おそらく巧まずしてなされているところが魅力になっている。
しかしこれもSFの側から見て希有の感じがするだけであって、カフカや残雪なんかと並べてみればそんなに珍しいものではないのかもしれない。スリップストリーム文学というジャンルらしいがよくわからない。結局小説にしても漫画にしても、おもしろいものは作者が安全圏にいて書いているのではなく、なにかしら切迫性を持って書いているもので、作品全体を覆う荒涼感、言い知れぬ不安感は作者本人の内面から自然と出ている。カヴァンのおもしろさ、まさにそこにあり。
「SOY!大いなる豆の物語」 瀬川深 作
無職ながら突然パラグアイの食品総合商社オーナーの遺産を受け継ぐこととなった主人公の青年。はたして遠く南米の地で大豆農園を開拓した創業者は、ほんとうに青年の血縁なのか?いったいどんな人物だったのか?歴史を繙く東北の旅が始まる。
主人公の無職青年はぼんやりした人間で、現在の境遇やふりかかった事態からすれば、もっといろいろ考えたっていいだろうに、それほどでもない。かといってとんでもない失敗を次々としでかすワケでもなく、言ってみれば平凡な男。これもリアルな若者なのかもしれないな。大学卒業後も集まってネットゲームを立ち上げたり、あるいは食のイベントに参加したり、主人公とまわりの同世代の人間達との交流は、実はあまり興味を持てなかった。(これは個人的な体験が違っているせいと思う)
この主人公青年のエピソードにくらべれば創業者の立志伝がはるかにおもしろく、日本近代の東北史でもあり、パラグアイ移民と開拓の歴史でもあり、筆禍事件を期に生地を離れ大陸へと勇躍する屈折した事業家である創業者の人生。それを追っていく展開は実にわくわくする。また仙台に事務所を構える正義派老弁護士も痛快であり、まさしくこういう爺様は実在するはずで、こんな人がいないと世の中はおもしろくない。
そしてなにより魅力的なのは東北の雑穀を事業化している叔父とその息子で、まさに地方の俗物の代表選手であり、またその息子のイヤなヤツっぷりも捨てがたい。この2人がおおいに活躍するのを期待したが、そんなにも登場しなかったのは残念。ここでこの叔父の日常をストーリーとは離れて細かく描き、小人物の悲喜こもごもの人生を味わえたらさぞ楽しいだろうと想像するが、そうすると物語小説ではなくなってしまうだろう。
それにしても全てのエピソードに興味をもつのはむつかしい。
近現代のアジア・南米・東北をかけめぐり、食やゲームや大衆演劇まで登場する実にてんこもりの作品です。
「椿姫」 デュマ・フィス 作
かの有名なオペラの原作。大デュマの息子デュマ・フィスのヒット作。
冒頭、悲嘆にくれる男主人公アルマンが今は亡き恋人マルグリットの墓を移送するため死体認知を行うまでのくだりが異様におもしろく、わくわくして読みはじめた。ところがアルマンがかつての思い出を語る形で、女主人公マルグリットが登場すると、とたんにありきたりの恋物語になってしまい、面白みは半減した。
これはここで描かれる女というものが、19世紀のフランス小説ではたいがいそうなのだが、恋愛しかやることがない画一的な存在であるからだろう。マルグリット本人は娼婦であり貴族達とは違うのだが、ステージが有閑階級の日常であり、男も女も誰も働かないから話題の乏しさは拭いがたい。
もっとも若きアルマンも思慮浅い感情的な男でちっともおもしろくない。彼がマルグリットを失ってからがおもしろい。死を前にした病床のマルグリットや、彼女が死んだあと絶望の日々を送るアルマンなど、恋の駆け引き以外のほうがはるかによい。
「明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち」
山田詠美 作
連れ子同士で再婚した夫婦と4人の子供達。母親の溺愛する長男の突然の死により平和な家庭は崩壊してゆく。アルコール中毒となった母親。大切な人が明日死ぬかもしれないという思いを心の底に抱きながら成長していく3人のこどもたちが、それぞれの視点で描かれる。
母親が死んだ長男にあまりにも依存していたため、残された家族全員が気持ちを切り替えることができないという特殊な状況。普通の供養と一般的な法事をしていればこんなことにはならなかったかもしれない。自分も愛する人も明日死ぬかもしれないと考えることによって緊張感も生まれるが、一歩踏み出す勇気も持てなくなってしまう。
かなり濃い内容でずっしりと重く、遊びのないストレートな作品。現代人、とりわけ家族を描いたものに共感しようとはまったく思わないのに、読みはじめたらなんとなく読んでしまったのは、自分も現代人だからしょうがない。ラストではじんわりと感動した。いつのまにか変わっている一人称の使い方が心憎い。