漫画家まどの一哉ブログ
- 2013.10.13 「失われた地平線」ヒルトン
- 2013.10.08 「単純な脳、複雑な私」池谷裕二
- 2013.09.30 「日本SF短編50 vol.5 1993ー2002」
- 2013.09.25 「ビリー・バッド」メルヴィル
- 2013.08.30 「東京震災記」田山花袋
- 2013.08.23 「境界なき土地」ドノソ
- 2013.08.16 「聖ヨハネ病院にて」
- 2013.08.06 「カンディード」
- 2013.07.22 「白鳥の歌/貝の音」
- 2013.07.17 「五里霧」
「失われた地平線」 ジェイムズ・ヒルトン 作
冒険小説の古典ともいうべき作品らしい。インドから小型機をハイジャックされたヨーロッパ人4人がたどり着いたのは、チベットの更に奥深く崑崙山脈のむこうに閉ざされた謎の理想郷、その名もシャングリ・ラ。その僧院には200年以上生きる最長老のラマ僧を筆頭に、歳をとらない人々が暮らしている。彼らは戦争と殺戮によって滅びゆく現代社会をやり過ごし、その後の世の到来を待っているのだ。
ヨーロッパ冒険小説の基本設定がここにあるのではないか。東アジアの秘境に迷い込んで魔術的文明に触れるという着想は、インディージョーンズやスターウォーズなどを見ても同じものを感じる。昔は西洋にとってはオリエントと言っても中東までの話で、それより東は文化があることになっていなかったから、この発想は伝統的なものなのだろう。
さてこの冒険譚が面白いかとうとそうでもない。情景描写にはかなり凝った表現を駆使しているが詩情は感じられない。エンターテイメント全般に言えることだが、登場人物に気持ちが乗らないと、どんな事件が起きようが自分の知ったことかという気がして読むのを止めてしまうのだが、この作品に関してそこのところはギリギリだった。
読書
「単純な脳、複雑な私」 池谷裕二 著
以前は素人向けの脳科学読み物をいくつか読んで喜んでいた。この著者のヒット作である「進化しすぎた脳」も楽しく読んだ。その続編ともいうべき読み物で、前作と同じく中高校生への解りやすい講義録といった内容。これなら自分でもついていけるかも?
その前作でも驚いたのだが、なんといっても我々が意識するより先に脳が行動の準備をしているという点が興味深い。例えば手を動かそうと意識する0.5~1秒前に、脳の運動前野ではその準備が始まっている。われわれが意識するのはその後。しかも手が動いたという感覚が脳に生まれたその後で、動けという命令が出される。では自分たちの自由意志っていったいなんなんだ?という疑問が生じるのも当然のことで、この本も後半、この問題に踏み込んでからが面白い。どうやら脳は生存のために未来を先取りしているようで、我々が意識している時間の感覚は、無意識の世界ではちょっと違うようだ。そして自由意志とは結局脳の準備したことを行わない、否定というかたちにあるという結論も驚き。
また脳が揺らぎ(ノイズ)を持っていることによって、環境にフレキシブルに対応できるしくみも、人生がノイジーで揺らいでいる自分のような者にとってはなぐさめとなるオハナシだった(笑)。生命の複雑な行動も、案外簡単な法則がもたらしている結果であるのも、むかし巷間に話題となった複雑系の復習だ。ここでは創発というしくみが勉強できるぞ。と、まあ素人が思いつく感想なんてこんなもんで、実際はよく分かっていないのであります。
※ここで紹介されている不思議な実験が、ブルーバックスのサイトで動画で確認できて愉快愉快。http://bookclub.kodansha.co.jp/books/bluebacks/infopage/brain.html
「日本SF短編50 vol.5 1993ー2002」
日本SF作家クラブ 編
10人収録されているが、北野さんのものを数作読んだことがあるだけ。これで自分も現代SF経験が積めるぞ。
大槻ケンヂ「くるぐる使い」は悪い意味で文章がトッ散らかっている。宮部みゆき「朽ちてゆくまで」はさすがにベストセラー作家だけあって、さらさらと読みやすい文章で、文体に統一感があるのが大槻ケンヂの流れの悪い文体の後に読むとよく分かる。とは言ってもストーリーが解るというだけの文章で、鑑賞すべきところはない。いかんせん冗長過ぎて、日常生活の描写などいらないから半分のボリュームにしてほしい。
上記2作や篠田節子「操作手」にも介護ロボットが出てくるし、たしかにSFなのだろうが、自分としてはどうも違う。菅浩江「永遠の森」は博物館惑星でのバイオ・クロックなる最先端科学を駆使した話で、こういうのがSFだという先入観を自分は持っている。だがここに登場する学芸員スタッフを海外ドラマやアニメ化すれば、スカした声優達が繰り広げるお決まりの人物造型しか思い浮かばない。藤崎慎吾「星に願いを ピノキオ2076」もバイオコンピューターに寄生して生き延びようとする人工知性のはなしで、SFエンターテイメントの王道をいくようなおもしろさだった。
以上の作品より群を抜いて以下3作が文章を楽しむ快楽があった。ネタがおもしろいと言うのとは別に、文章がおもしろいことが必須だ。
牧野修「螺旋文書」:センテンスの短い文章がリズム感よく打ち出されてきて、同性愛の二人の関係がどの順番で繰り広げられているのか、目眩のするような不思議さ。緊張感と妖艶な雰囲気が心地よい。個人的にはここまででよく、宇宙から攻撃してくるテキスト群の設定は別の話にしてくれないか。
田中啓文「嘔吐した宇宙飛行士」:愉快愉快。細かい描写もみんな愉快。それでいて全然下品でない文体。大切な宇宙訓練の前日に大食い競争があるというムチャな展開が新作落語のような面白さ。この作品もサービスし過ぎで、この2日間だけで終わって欲しかった。
北野勇作「かめさん」:これが一連のカメ小説の嚆矢なのかな?この文庫本の中で、この作品のみが単にストーリーを追っていくだけではない文章表現になっていて、進行を気にせず世界を味わうことができる。すごくのんびりする。そしていつもどおり少し寂しい。
読書
「ビリー・バッド」 メルヴィル 作
商船から戦艦に徴用された青年ビリーは、少年の心を持った純粋無垢な愛されるハンサムボーイ。それ故に邪心ある者の嫉妬を買い、計略によって叛乱のぬれぎぬを着せられ、あげくの果てに殺人事件を犯してしまう。このような純真な青年が実際いるかどうかは別にして、悪意ある者の存在や、狭い社会での制裁のあり方など、人間社会に永遠についてまわる問題。さすがメルヴィル、社会派の筆が冴える。
実際メルヴィルが船に乗って外洋に出ていたのは25歳までだったそうで、その後「白鯨」その他数冊出版するが結局小説では食えず、47~66歳までは税関で検査官として働いているのだから、ふつうのまっとうな人間である。社会と人間が描けるタイプの作家だ。
今回は光文社古典新訳文庫で読んだが、メルヴィルのちょっと古風な味わいをうまく活かした訳文になっているそうでなかなか良かった。メルヴィルの文章はけっして面白みのあるものではなく、どちらかというと堅苦しいが、そこが良い。訳文しか知らないで言うのもなんだが、硬派な文章を読む快感がある。もちろん文章の美しさもある。またストーリーの本筋を逸脱して、船舶や船内労働に関する蘊蓄を傾ける所は「白鯨」に同じ。これも持ち味。
翻訳小説は旧訳にふだん馴染んでいて、新訳もよいが現代口調が過ぎると台無しにされた感じがする。
読書
「東京震災記」 田山花袋 著
明治期自然主義小説の代表選手、田山花袋による関東大震災ルポルタージュ。
ストーリー仕立てではないため盛り上がりというものはないが、都内各所の壊滅的な状況や、残された人々の戸惑う様子がくりかえしくりかえし描きだされる。言うまでもなくこの震災の悲惨なところは大規模火災にあって、いたるところ周り全体が火炎であり、熱風と煙の中で逃げ場は川にしかなく、結局そこでも多くの人が亡くなっているその様子が語られている。
また花袋は、東京のそこかしこにそれまでかろうじて残っていた愛すべき古き江戸の風情が、とうとうこの震災で灰燼に帰してしまったことを大いに嘆いている。しかし今後ほんとうの意味で東京が大都会へと生まれ変わるきっかけでもあることを期待してもいる。なにせ一面焼け野原でなにも残っていないのだから。
それにしてもさすがに花袋の文章が美しく、こんな文学的な表現で語られると、廃墟と化した東京でも実に魅力的に思えてしまう。震災のルポ自体より、自然や情景の描写に心うたれた。
読書
「境界なき土地」 ホセ・ドノソ 作
ドノソを読むのはこれまでに2回失敗しているが、これはよかった。いわゆるマジックリアリズムやグロテスクリアリズムの作風というより、丁寧に書かれたふつうの人間ドラマだった。滅びようとしている小村の売春宿が舞台で、主人公がオカマの中年ダンサーだというところが野次馬的な好奇心をそそるが、当然オカマだって普通の人間なんだから、彼(彼女)の葛藤やふるまいをそれだけで奇行とは呼べまい。
彼は売春宿兼酒場でダンサーとして働くが、結局はオカマゆえに男達にからかわれ暴力を受ける人生。彼の娘は店の売上をせっせと貯金し、どうしても滅びゆく村と店を捨てようとしない絶望とともに生きる女。そしてトラックだけを頼りになんとかボスの支配から逃れようとする野蛮な男。
電気が通って発展していくはずの村だったが、結局そうは行かずボスたる政治家の思い通りに土地が買い占められようとしている。たった一人のボスだけが支配する村の小さな経済。それだけが唯一の政治でもあるといった状況。洋の東西を問わずこれが地方の小村というものなのか、行き止まりの社会と行き止まりの人生がある。
読書
「聖ヨハネ病院にて」
上林暁 作
読み返すたびに違った印象で面白く感じられるのは、読むこちら側の人生がいろんな局面を経て成長しているからであろう。作者の妻が実際に精神を病んで入院しており、子供たちを育てながらも毎日病院へ通う現実が描かれる。というとかなり悲惨な話のようだが、たとえ状況は困難でも、確かな夫婦愛が貫かれているところに安心をおぼえる。「名月記」も同じような環境を描いた短編だが、こちらはいよいよ退院しようという時期のエピソードで構成されていて楽しい。この場合の楽しいというのは、ほほえましいといったような感覚。主人公が苦労つづきでも、夫婦の会話に人生の滋味というものが感じられて、私小説の心地よさがあった。
この代表作が捨てがたい名作で、私もこれ以外あまり読まないが、全集は分厚く19巻もあるのだ。私小説でこのボリューム!
「カンディード」
ヴォルテール 作
これは18世紀の作品だが、近代文学のようなリアリズムがなくったって面白いものはいくらでもある。
疑う事を知らない純粋な主人公カンディードが過酷な運命に翻弄され世界各地を放浪するのだが、同行する仲間の人物達もかなり悲惨な生涯を生きる人々ばかりだ。
これは何故かというと「カンディードまたは最善説」というタイトルからもわかるように、この作品全体がオプティミスムに対する批判として書かれているからで、この場合のオプティミスムとは現代でいうところの楽天主義ではなく、当時支配的であったライプニッツの最善説というものである。神様の作った世界であるからには、世の中で起きる事は悪い事も含めてすべて最善の結果として現れているという考え。造物主という前提がなければとても納得できない説だが、1755年にリスボン大地震が起きて3万人が犠牲となってからは、ヴォルテールはいよいよこの考えに異議を唱える気になったようだ。
そんなわけで主人公カンディードは波瀾万丈の冒険をくりかえしながら、いつまでたってもお人好しなのだ。最後の最後に仲間と流れ着いた土地でささやかな畑を耕して生きていく。ようやく虚しい哲学的思弁 を捨て、実直な日々の労働に幸福を見出すという結末は、なるほど人生哲学として正解だが、ただしこれはあくまで平凡な人間の喜びの一面であって、曲者ヴォルテールがこれをもってすべて解決としていたわけではあるまい。
同時代のルソーが「告白」を書いたように冗談抜きで自己をそのままさらけ出して真実を訴えたのとは違って、ヴォルテールのように自身の思いを直裁に物語化することが照れくさく、どうしてもコントの体裁をとってしまうのは、自分もおおいに共感できる所です。もっともルソーの「孤独な散歩者の夢想」は本人がマジな分、読んでるほうは爆笑してしまうという傑作だった。
読書
「白鳥の歌/貝の音」
井伏鱒二 作
この短編集には純粋な空想による時代劇なども数作含まれているが、自分としては作者が日常の中で出会った出来事を繋いでいったような作品が好みだ。けっこう題材として愉快なことがあるもんだ。
「白鳥の歌」:瀬戸内の因島にある医院の二階に下宿している学生時代の作者。港町の劇場付きの下宿には、旅の一座が背負った借金のカタに、後桐という女形が置き止めをくらっていた。モルヒネ中毒の発作でよく医院へ飛び込んでくるこの男に頼まれ、チェーホフの「白鳥の歌」を歌舞伎風に翻案することになってしまう。
「下足番」:早稲田江戸川橋にあった娘義太夫の定席によく気のつく下足番がいたが、最近行ったある料理屋旅館の番頭によく似た男がおり、問うてみると果たして本人だった。山形の田舎出身の彼は、実は村の川にかかる橋を爆破して逃げてきたいきさつがあった。
「病中所見」:作者は甲州へアンゴラ兎を買い付けにいって突然ギックリ腰を発症してしまう。なじみの旅館までタクシーでのりつけて、女将や女中に教わったとおりに腰をいたわりながら過ごした数日の話。
土地の旦那からなじみの芸者を隠す話や、女将が世話を焼いているぼんやりした見習い青年の話など。
どの話も市井の人々の飾らない会話を読んでいるだけで楽しい。現代の教養ある都市生活者の日常じゃこの楽しさは出ない。
「五里霧」 大西巨人 作
長編作家として知られる大西巨人の短編集。いつもながらヘンに堅苦しくてゴリゴリとしている愉快な文体で短編を読むと、味わいもないまま終了してしまう。と思ったらそれはそれで情感も豊かで、やはり純粋な日本文学であることに今さらながら気付くしだい。
「立冬紀」:1937年、鹿児島から福岡の家へ戻る汽車の中、主人公は八代駅であわてて二箱弁当を買ったが、開けてみるとどちらもおかずばかりで飯はなかった。この失敗で同席の人達の笑いを誘い仲良くなった。同席のうち二人の女性は「あき子ねえしゃん」と「としえしゃん」。一人の男性は巡洋艦足柄の乗組員で帰艦命令を受けて戻るところだ。おりしも盧溝橋事件が起き、いよいよ本格的な戦争に突入するのだろうかという不安入り混じる会話が続くが、主人公は実は福岡にナイトショーの映画「白き処女地」を見に行くために帰るところなのだ。九州弁が実に心地よく響く。
「底付き」:1931年、相良と妻やすのの家では博多人形を売って暮らしている。花札勝負に明け暮れるルンペンプロレタリアートの旦那銀之助が大阪へ商用で行ったきり帰ってこないのを心配した見世(みよ)は相良夫妻宅へ相談に訪れたが、どうやら銀之助が運んだ博多人形は「ソコツキ」といわれる裏面に卑猥な細工を施した特殊なものであったらしい。もちろん「底付き」とは女性器に対する一種の秘語でもある。
「連絡船」;1941年、門司の下関対岸にあたるところに和布刈神社というのがあって、大阪日々新聞福岡支社で雇い員を勤める桜井は、恋人である未亡人の華子とたびたび訪れていた。そこは関門海峡の連絡船乗り場でもあるわけだが、「人は精神の、魂の、連絡船を持つべきであるが、数年このかたまるでそれを持たない」と思う桜井。華子も桜井もともに人生に落莫の風を感じて生きている。そんな中とうとう出征となった桜井は、家庭の窮迫で学業をあきらめることになったある少女の支援を華子に托そうとする。
この短編集には現代を舞台にした作品も多く含まれているが、自分が気に入ったのは戦前の話ばかりだ。ドラマがある。それに九州弁の小説が大好きなのだ。