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漫画家まどの一哉ブログ

   

読書
「西海原子力発電所/輸送」 井上光晴 作


福島第一原発事故以前に書かれた原発小説だが、事故後を知る我々にとって驚くべきリアリティを持っている。
「西海原子力発電所」では反原発の劇団シンパと原発職員の謎の焼死をめぐって、原発地元の街中にいろんな憶測が飛び交い、「輸送」では輸送中断崖から落ちたキャスクによって起きた放射能事故後、安全宣言を信じて戻って来た街に様々な異変が続発する。といった具合に直接的な社会問題はあるにはあるのだが、それはあくまで下地のようなものである。


井上光晴の魅力は社会に横たわる根源的な不確かさを、そのままにグレーで夢幻的なイメージで描き出すところ。その妙味はなんといっても会話にあって、いくら話しても齟齬ばかりが大きくなり、伝わらないもどかしさ。同意を得て話が進むということがなく、ただただ懐疑ばかりが膨らんでいく。なにかしら良くない出来事が進んでいるようだが、噂話にすぎないかもしれずはっきりしない。しかもその会話はモザイクのように様々な場所でいくつも繰り広げられ、全体で一つの塊となって話が成立する仕組みだ。非常にミステリアス且つスリリングであって解決もない。


社会派的なテーマがあってもなくても、我々にとって社会全体のイメージがつかみどころのない悪夢のように描かれており、これが井上光晴の世界であり全作品がこうであって、私にとってはたまらないゲージツなのです。

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読書
「社会契約論」 重田園江 


副題は「ホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ」これら4人の社会思想家を繙きながら、社会契約のなんたるかを解き明かす研究。読みやすい文章で今さら本気で社会科学をする気もない自分にぴったりの解説書。ちなみに自分は若年の頃、本家ルソーの「社会契約論」は手に取ったがとうぜん解らなかった。ホッブスは読んだことないが、巻末に紹介されている文献の中では長尾龍一の「リヴァイアサン」は楽しく読んだ。


闘争に明け暮れる自然状態に置かれた人間が、どうして社会契約を選択するに至るか?平和がいいのは解っていても、どうして相手を信用することができるのか?ここにある飛躍がホッブス問題である。このなぜ政治共同体が生まれたのか?という問題設定がまことにスリリングで興味深くわくわくとする。


中核となるルソーの一般意志について著者は難解である旨再三ことわっているが、これは案外わかりやすい。他人と同じように自己を尊重されたいという相互性の観点から説かれると納得しやすい。利己的な個人が共同体の中に先ず自己の利益を見出し、自分も他の大勢と同じ権利を得たいと思うこと。他人の幸福の為に働く、その他人の中に自分も混じっている。これが特殊意志ではなく一般意志であるのは理解できる。


わからないのはロールスの原初状態と無知のヴェールだ。これは思考実験として語られているのか?自己について何の情報も持たない、特殊個別的な個人から隔てられているゆえに、社会的公正を選択せざるを得ない原初状態。この設定から出発するのは自分にはどうしても無理だ。抽象的すぎる。

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読書
「文壇五十年」 正宗白鳥 著


1879年生まれで1962年まで生きていた正宗白鳥が見た近代文学裏面史。正宗白鳥はほんの少し読んだことがあるだけだが、その印象どおりまことに冷静な筆致で主に明治文学草創期のようすが語られる。


いちばん意外なのは田山花袋「蒲団」の影響の大きさである。いわずと知れた自然主義文学の革命的作品だが、藤村・鴎外・漱石など名だたる文豪が「蒲団」から影響を受けているというのだ。島村抱月などヨーロッパから帰った者が、海外文学の素養をいかしてどんな画期的な名作をものにしたかというとそんなことはなく、結局影響を与えたのは花袋の「蒲団」なのだった。これは実際に文壇に身を置いた著者ならではの実感だ。つまりこの自己暴露小説を読んで皆「あんなものでいいのか」と驚いたというかバカにしたのである。あんなものなら自分にも書けると言って広がり出したのが近代日本の身辺小説なのだ。チェーホフやモーパッサンよりこの暴露小説のほうが影響力があるのが、どうしたって日本だなという気がする。それでいて白鳥は「蒲団」じたいはたいしておもしろくもない小説だと言っているのである。


ほかにも文壇で話題の文豪がとりあげられるのだが、たいていこの口調で「たいしてなんとも思わない」という感想である。感激して評価しているのは歌舞伎役者の一部の演技のみで、かといって話題作をこきおろしているわけではなく、まことに冷静なものである。あまり社会的政治的スタンスをとるタイプではない人であるが、戦中から戦後にかけての激動はどこ吹く風みたいなようすで、今後の小説はがらりと変わるのではないかと言いながら、やはり昔話に花が咲く感じである。

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読書
「日本人と日本兵」 一ノ瀬俊也
 著


サブタイトルに「米軍報告書は語る」とあるように、太平洋戦争下にアメリカで発行された兵士向けの情報誌から、日本軍および日本兵がどう見られていたかを探る、たいへん珍しい研究である。前提として当時の日本軍は万歳突撃にみられるようにファナティックであり、軍隊としての合理性を欠いていたとされていることがあって、著者はけしてそうではないことをこの米軍報告書から解き明かしてゆく。この日本軍イコール狂信的という断定が、そんなに一般的であるとも自分は思わないが、やはり基調としてそう見られているらしい。


しかし当然近代兵器を駆使して戦っているのであり、陣地を築いて攻防を繰り広げているのだから、狂信的なだけで済むわけがないのだ。そうやって戦争が続いて行くなかで、太平洋戦争の前半から後半にかけて日本軍の作戦もアメリカの物量に対して徐々に変化していくようすが分かる。その基本は洞窟作戦である。最大の難敵は米軍の戦車であり、最悪爆弾を抱えて地中で待ち伏せなど、最終的には狂った作戦もとらざるを得なかったようだ。もちろんそれは軍幹部の兵士の命に対する評価があまりに軽いことによるけれども…。


死ぬまで戦えと言われていても、実際にはやすやすと捕虜になって、あらいざらい喋ってしまう者も多くいたようで、これも国民性だとすると面白い。

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読書
「つげ義春1968」 高野慎三 著

「ねじ式」を中心に当時「ガロ」編集者であった高野さんとつげさんの交流を綴る。ある程度は知っていることながら、自分はまだ子供だった1968年。つげさんや忠男さん、滝田ゆうや石子順造らの連日のマンガに対する真摯な集まりを、ほほえましく思うことはできなかった。なにか非常に悲痛な感じがして読書はしばしば中断した。たぶんそれはこの時代に、このメンバーだったから生まれた繰り返しのきかない1回きりの出来事だったからではないか。戦後という状況を常に基本にされる高野さんはだが、もはや戦後ではなく、闘争の季節も終わろうとするころ、当時の「漫画主義」同人の雰囲気は読んでもわからない。自分など後輩ながらわりと近いポジションにいるとはいえ、ちょっと近寄りがたい世界な気がする。この感想は自分でも謎だ。


本書ではつげさんが「ねじ式」発表に至るまでのつげさんの構想と、発表後の世間の騒ぎ方に対する疑義がくりかえし語られている。高野さんの言うように「ねじ式」そのものが作品として完成度に甘さのあるものかどうかは自分にはわからないが、この作品に他分野のインテリが好き勝手な解釈をつけて盛り上がっていることへの不愉快は、まさに同意するところ。それはそもそも大好評だった旅シリーズが、読者にわかりやすいがために、マンガ表現にいかなる革新が起きているのか理解できない人達の格好の遊び場とされたのではなかったか?
その事態はマンガ評論という分野で今でもまったく変わっていない。安部慎一や鈴木翁二、菅野修などつげ義春以降の作品群が到達した表現より、相変わらず与し易い簡単な表現ばかりを喜んでいながら、つげ義春だけは神様扱いというのはどう見ても怠慢ではないか。とは言え私はそもそも漫画評論という分野は専門外なのだ。はっはっはっは。

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読書
「目まいのする散歩」 武田泰淳 作


著者晩年の作品。病を患う身ゆえに奥さんと二人でする散歩の日々を綴る8篇の小品から成るエッセイ。野間文芸賞の名作ということだが、これをしも小説と呼ぶことは自分には抵抗がある。エッセイと言えばよいではないか。評価する側が日常から飛躍する力がないのではないか。と、ひとこと言いたくなるが、中身はとってもおもしろい。とは言ってもこれは奥さんの武田百合子の行動が、この作品のおもしろさの7割くらいを締めている気がする。


当時二人は東京赤坂に住んでいて、百合子の運転する車(ブルーバード)でわざわざ明治神宮や代々木公園まで出かけて散歩するのである。都心の暮らしは便利なものだ。それでも同じ現代社会とは言え、今この時代の作品を読むと、デジタル革命以前の暮らしがなんだかのんびりする。代々木公園の売店で百合子が買うアーモンドポッキーを「チョコレートを塗ったごく細い棒状のメリケン粉焼き」と表現しているのがおかしい。


「笑い男の散歩」:「うすらバカ」「うすらトンカチ」などという悪口は、悪口ではなくて、わけへだてなく、われわれ人類の上に与えられた神様の批評のように思われてくる、というのが名言だ。


「鬼姫の散歩」:この鬼姫とはテレビアニメ「サスケ」に登場する少女忍者だが、泰淳夫婦が「サスケ」を見て楽しんでいたことは意外で愉快。


作品には若いときの散歩や、ロシアでの散歩も登場します。

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読書
「椎の若葉に光あれ」葛西善蔵の生涯

鎌田慧 著


破滅的私小説の代表選手葛西善蔵。
この著者のルポルタージュはさほど好みでもなかったのだが、この評伝はやわらかな手ざわりでよかった。


エゴイズムも才能のうち。葛西は自分が善かれと思っていることでも他人はそうは思わないというところに、まるで気がつかない自己中心的な人物で、しかもそれが裏表のない純真さで現されるのだから周りが扱いに困るのもムリはない。迷惑だが憎めない奴。この評伝一冊で葛西の一生がよく分かるが、葛西について書かれたものは他にもいろいろとあるようで、まさに没後も愛される葛西善蔵なのだ。ここには牧野信一や嘉村礒多など自分の好きな作家も多く登場しておもしろく読めた。自分はいわゆる私小説は大好きだが、それは作者の苦闘に共感して涙しているわけではなく、なんちゅうおもろいやっちゃ!という興味本位な感慨であっていささか邪道かもしれない。


それにしても文中多数引用される葛西の文章は美しく、ユーモアもあり、まことに心地よい。この技術あってこそ成立している困苦の作品世界。もちろん実際に葛西が経験したことを題材に書いているのだが、実は虚構がいっぱい混じっており、それはいかにも悲惨な私小説を仕上げるための創意工夫であって、信じ込んでいる読者からすれば一杯食わされているのである。


作家の倉橋由美子は、小説はナマの素材に手を加えずそのまま出されたものよりも、調理師の技巧が加わったものこそ読みたいと言っていて、自分もそのとおりだと思っていたのだが、この葛西の技術を駆使したでっちあげられた私小説は、その意味ではどういう扱いになるのか迷ってしまう。

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読書
「老いるということ」 黒井千次 著

古今東西の文学に描かれた「老い」をとりあげて考えたエッセイ集。ラジオ番組で毎回放送された内容に加筆したもの。


はじめに出てくる古代ローマの哲人キケローの「老いについて」は自分も読んでみたが、ここで説かれる老年の落ち着いて満ち足りた境地はあたりまえ過ぎておもしろくなかった。失われた若さに応じて欲を捨て、諦念に至るのを良しとされても、これでは大味すぎるハナシで、われわれ凡俗の身はもう少し具体的な様々の惑いがあるのが実際だ。


「ドライビング・ミス・デイジー」や「八月の鯨」なども自分は未鑑賞の作品だが、人生の紆余曲折を乗り越えた後の穏やかで幸福な老年だ。ある程度の生活費に余裕があって認知症にならない状態であれば、到達は可能かもしれない。


いちばん興味を持ったのが、耕治人の晩年の3部作「天井から降る哀しい音」「そうかもしれない」「どんなご縁で」で、長年作者を支えてくれた老妻の認知症が進んでいく暮らしを描いたもの。有名な作品らしいが自分は知らなかった。
芥川や太宰は若くして老いの物語を書いたが、彼らにとって老年とは確定した人生の最終結果であり到達点であった。また「楢山節考」に登場する老女おりんも、老年の最終形態を既に決定していて、山に捨てられることを望む。比べて耕治人が描いた現在の老年は、終わりの見えない現在進行形というかたちをとっており、この長く続く老いの生き様がやはりもっとも実感として納得できる。以上内容のまま。

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読書
「人間不平等起原論」 ルソー 著

さあ今から18世紀の社会思想史を研究するぞというわけでもないし、この世界の名著にコメントできる能力もないわけだが、ルソーやヴォルテールなどこの時代の尖った人達の雰囲気を楽しみたい気持ちがあって、昔買った本を読んでみた次第。


やはりその頃未開の民族が続々と発見され報告されていたのか、そして彼らの生活が昔から変わることなく、不平等が膨らまないままに幸福に営まれていること。この事実がルソーをして、ヨーロッパの現代文明を必然的な進化と考えさせなかった。これは戦争中水木しげるが体験した南の島での現地人との楽園生活とも通じると思う。平和で競争がなく平等で変わらない村の暮らし。
ルソー曰く鉄と小麦に恵まれていたヨーロッパにおいて、他に先んじて文明が発達するのはやむを得なかったとしても、はたしてこの進歩は人間を幸福にしているのか?これは水木さんも再三マンガに描いているテーマだ。


その結論はさておくとしても、ここに敵対するはライプニッツに代表されるキリスト教的オプティミズムであり、我々のどんな社会も結局は神が望んだことであり、結果的には全てが善であるのだ云々。だいたいルソーは被害妄想の人でペシミスティックなおもしろさがあるから、これらの意見とは相容れないでしょう。とは言ってもライプニッツだって愉快な奴かもしれないし、どのみち自分は研究なんて出来る性格ではないから、このあたりはせいぜい道楽気分で楽しみたいものだ。

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読書
「脳内麻薬」 中野信子 著


サブタイトルは「人間を支配する快楽物質ドーパミンの正体」。一般的にも有名になったドーパミンだが、生温く考えていてはいけないスゴイやつのようだ。人生に喜びを与え目的に向かって突き動かすとともに、逃れられない依存・中毒をも引き起こす。われわれはどうやらこの報酬系の脳内物質にあやつられて生きているらしい。動物にとってドーパミンが脳内に放出されて感じる快感はなにものにも勝るようで、実験ではマウスは食欲よりも性欲よりも、ドーパミンのご褒美を選んだのだから。
以前仕事で薬物対策のマンガを描いたとき、覚醒剤は脳を変えてしまうので自分の力ではどうにもならないと資料から読んだのだが、なるほど性欲や食欲にも打ち勝つほどの快楽ならば、自身ではどうにもできないわけだ。

ところで昔、「快楽物質エンドルフィン」という本があったが、エンドルフィンも鎮痛作用のある脳内麻薬様物質オピオイドの一種で、ランナーズハイの要因であるらしい。そうだったのか。
本書では薬物ばかりでなく依存症全般に付いてひとつづつ解説してあるが、ドーパミンは他人から承認されることなどの社会的報酬に対しても放出されるらしいから、人生は依存の罠でいっぱいだよ。

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