漫画家まどの一哉ブログ
- 2014.03.03 「日本人のための世界史入門」小谷野敦
- 2014.02.24 「宇宙はなぜこのような宇宙なのか」青木薫
- 2014.02.20 「道草」 夏目漱石
- 2014.02.12 「イワン・デニーソヴィチの一日」ソルジェニーツィン
- 2014.02.04 「牡猫ムルの人生観」E・T・A ホフマン
- 2014.01.15 「アダムとイヴ/至福郷」 ブルガーコフ
- 2014.01.06 「上海」 横光利一
- 2013.12.23 「暗室」吉行淳之介
- 2013.12.16 「倫敦塔・幻影の盾」夏目漱石
- 2013.12.05 「淫女と豪傑」武田泰淳
「日本人のための世界史入門」 小谷野敦 著
通史としての世界史をあっという間にギリシャから現代まで駆け抜ける入門書。地中海から中国、新大陸までをまんべんなく振り返ると、えてしてメリハリのない教科書的なものになりがちだが、ふんだんに雑学を雑えて退屈しない仕掛けになっている。
素人にとって歴史の楽しみは、やはりドラマを観るように英雄の足跡を追いかけるところから始まる。ところが学問として歴史をやるとなるとそうではなく、キリスト教史や労働運動史・民衆史など非常に細かい話になってしまう。もちろん生産力や生産手段の発達など下部構造なんたらかんたらの話などもあるだろうが、それを理解することだけが歴史を深く理解したというのでは、人間の多様な営みを見失ってしまうかもしれない。
つまり歴史に通底する深い意味が必ずあるかというと、案外そんなことはなくて、歴史とは様々な偶然の連なりであるらしい。たとえば皇帝と王の違いも、はっきりとしたものがあるわけではなくあいまいである。ルネッサンスとはなにかと言われると、おおざっぱに人間主義復活と言えるというだけのことだ。ムリに意味付けすることはないのだ。歴史とはたまたまそうなったというだけのことで、たまたまその時の支配者の性格のせいで、こんな事件が起きたと考えても間違いではない。ブルジョアジーの興隆や労働者階級の発達が、生活や文化に変化をもたらしたにしても、具体的にはそれと矛盾することなく人間の雑多なその場その場のふるまいが、多彩な歴史を繋げてきたのだはないか。
その意味で素人の歴史好きもべつに間違いではないのだ。
「宇宙はなぜこのような宇宙なのか」人間原理と宇宙論
青木薫 著
たまには素人向けの科学読み物を読んでスッキリするのが自分の趣味。どんな分野でもそうだが、専門書は歯が立たないのでこれくらいがよろし。副題にある人間原理というのは、宇宙が人間の存在を目的として創られたと考える宗教的な立場で、現在の一般科学からは最も嫌われる思考法。この人間原理が目的論とは違った意味で近ごろは見直されているというので、興味深く読んだ。
「宇宙はなぜこのような宇宙なのか」という問いかけは、早い話あれこれの物理定数は、なぜそのような数値なのかという問いとイコールであるらしい。そもそもその数値にいろいろなコインシデンス(偶然の一致)があって不思議な気がするのが、この疑問のスタートだったのだ。この問題を人間原理で考えると、宇宙は人間に認識されるために出来ている。あるいは認識する目的を持って認識できる存在としての人間を作り出した。と考えてしまう。なぜ宇宙は人間が生まれるのにちょうど良い環境を作り出しているのか。
ところがこれは観測選択効果とよばれるものの見方で、観測者である人間に都合の良い立場からの発想にすぎない。宇宙がたったひとつであるならば、そう考えるのもムリからぬ話だ。自分はかつて多宇宙に関する読み物をおもしろく読んで、うすうす気付いていたのだが、やはり宇宙は我々が属する宇宙以外にも無数にあるらしい。それならば、我々が認識する主体として存在している、あるいはあれこれの物理定数を持っているのも、たまたまなだけであって、そうではない宇宙もたくさんあるのだ。したがって観測選択効果に惑わされることなく、我々が特別な存在ではないこと。「宇宙はなぜこのような宇宙なのか」も、たまたまそうであるというだけのことだと解るのである。むにゃむにゃ。
読書
「道草」 夏目漱石 作
作者の自伝的小説。幼い頃養父であったが今はすっかり縁が切れている男がふと訪ねてくる。親類のあいだでもかかわらないほうがよいとされる強欲な人物なのだが、主人公は断りきれずに家にあげてしまう。案の定金の無心なのだ。これも主人公ははっきりと断りきれないまま数円の現金を渡すことになる。この関係がずるずると続く。そんな夫の煮え切らない態度を妻が快く思わないのは仕方がない。夫婦はつねに相手のはっきりしない本音をさぐりながら不満をつのらせていて、理解し合うということがない。やがて妻の父親や、かつての養母までも彼の懐をあてにしてやってくるようになる。
書かれていることはこれだけで、人生によくあることの内でもかなり憂鬱な出来事だ。内心を赤裸々に描いた自然主義文学の名作ではあるのだろうが、よくこんな鬱陶しいことをコツコツと書いたなと思う。とにかく他人にとってとても面白いと思える題材ではない。生活の実際的なことにとんと意識の働かない文学者の日々の悩みを描いたのだ。ただこれを無闇に芸術家の魂の問題として納得することは自分にはできなかった。
そもそもすべて主人公に度胸がない故に起きてくる問題であって、最初に腹をくくって嫌なやつにははっきり断ればよい。また、妻には何をしてほしいか、待っているのではなく常に気持ちをオープンに自分から接していれば、夫婦間ももうすこし快活なものになるだろう。ひとえに主人公に覚悟というものがなく、問題に正面から向き合うことから逃げているのがいけない。芸術家だからどうだというほどの問題ではない。私小説の世界には伝統的に破格のダメなやつがいて自分は大好きだが、漱石はちょっと風情が違っていて、ダメ人間というわけではないが、こんな鬱陶しいことを偏執的に細かく書いてしまえるほどにめんどくさい神経の持ち主なのだ。
「イワン・デニーソヴィチの一日」
ソルジェニーツィン 作
もっと悲惨で過酷な囚人の労働現場を予想していたら、なんとも楽しい生活の報告だった。捕虜=スパイという罪名でラーゲリへ送られた主人公はじめ、スターリン時代の虜囚はみな理不尽な理由で収容されているわけだが、たとえば高杉一郎「極光のかげに」のようなものを想像しているとまるで違う、いたって明るい生活の記録だ。
それは主人公がインテリではなく平凡な農民であるからだろう。そもそもラーゲリでの扱いがさほど非人道的なものではなく、屋外での労働が極寒であることは間違いなくとも、死なない程度ではあるし、朝から日暮れまでであるし、レンガ積みの労働現場での創意工夫、人材の適材適所、すみやかに丁寧に仕上げた仕事の喜び(囚人として強制されている労働とは言え、やる気を出して取組めばそれは喜びに変わる)など現代日本のブラックな現場と比べてもたぶんマシなほうではないだろうか。
班行動を基本とした団体生活は、われわれ日本人にとって慣れ親しんだもので、寮生活でなくとも学校現場で幼い頃から鍛え上げられている。全く違和感がない。人徳ある班長のもと力を合わせて班メンバーの利益になるように食堂や仕事場で立ち回る主人公の誠意もよくわかるというものだ。いかにして食事を多く獲得するか、看守の目を盗んで個人用の道具を持ち運ぶか、タバコを手に入れるか、頭は常にフル回転である。
そして就寝にあたって主人公は、「ああ今日もいい一日だった」と幸福をかみしめるのである。
「牡猫ムルの人生観」
E・T・A ホフマン 作
我が敬愛するホフマンの最長編小説。主人公の牡猫ムルは「長靴を履いた猫」を心の師と仰ぐ秀才猫である。オルガン技師であり奇術師でもあるアーブラハム師匠のもとで平和に暮らしているが、生来の知的好奇心と持って生まれた明晰なる頭脳を駆使して、師匠の書棚にある人文書を次々と読破し、自分でも数篇の詩作をモノするほどの英才だ。近所の学究猫グループに入るやたちまち頭角を現し、毎夜屋根の上での交流・合唱にも余念がない。また魅力的な牝猫ミースミースをめぐる恋の駆け引き。憎っくき恋敵との決闘。夭折した親友の葬儀など、その一生が目まぐるしく繰り広げられる。そして友人の尨犬ポントーがムルに書斎とは別の実生活での生き抜く知恵を教えてくれる。この尨犬ポントーたしかに俗物なのだが、ではムルはどうかというと、やはり平凡な知識人(猫)としての枠から出ない凡庸な人物(猫)なのだ。
さてアーブラハム師匠の愛弟子である宮廷楽師クライスラーは、それこそ真の創造性を持った芸術家であり、侯爵家に出入りするもその狂気の一面が人々と相容れないところである。侯爵令嬢ヘートベガはクライスラーの激しい性格に触れるや、精神の平衡を失ってしまって激情と沈鬱をくり返すありさま。友人の美少女ユーリアが寄添っているが、彼女の母親顧問官夫人ベンツォンはクライスラーを遠ざけるため、彼を修道院へ幽閉しようと画策する。これらの人々の間で鍵となるのが不思議な人物アーブラハム師匠なのだ。
というわけで、この小説は猫界の話と人間界の話が交替に出てくる、波瀾万丈、収拾のつかない迷走性を持った物語。訳文ながらホフマンの語り口の上手さにはほんとうに快感がある。
「アダムとイヴ/至福郷」 ブルガーコフ 作
大好きなブルガーコフだが、戯曲を読むのは小説とはまた違って、どうしてもやや大味な感を受ける。内面に深く切り込むような作品でなく、社会の外貌を描くアイロニカルな作風だし、相変わらずとぼけた笑いもあって、いささかコント芝居のような印象を勝手に描いてしまう。ブルガーコフの友人ザミャーチンやチェコのチャペックの例をみても、社会主義黎明期は科学技術の画期でもあったのか、初期SFの設定がおもしろい。
「アダムとイヴ」:敵国の毒ガス攻撃によって一瞬にして壊滅したレニングラード。エフロシーモフ博士の開発したカメラから発する光線を浴びた数人の人々だけが生き残った。残された共産党員代表として統率を図ろうとするアダム。だが唯一の女性イヴの恋心はアダムからエフロシーモフへと移り変わっていく。そんな中、残された者の期待をのせて飛び立った仲間の飛行機が戻ってきたが…。
「至福郷」:天才技術者レイン曰く、時間は虚構で過去も未来も存在しない。この理論を実践するカタチで生み出された時間飛翔機。イワン雷帝を過去から呼び出し、自身は他の人間とともに2222年へとタイムスリップしてしまう。ところがその中に病的窃盗狂のミロフラーフスキーが混じっていた。はたして未来のソビエト至福郷の世界とは?
読書
「上海」 横光利一 作
やはりスタイリッシュというのがいちばん合っているのだろうか?これぞ新感覚派という作品。既成の概念に沿って物事を整理しない、視覚・聴覚・嗅覚の感じるままに描くという点では、みごとに面白さが出ていると思う。1925年当時の猥雑な上海の様子が手に取るように伝わってきて、文章の魅力・迫力を存分に感じた。もちろん当時の上海を知らないから言えるのであるが。
五感で感じられるものの描写は申し分が無いのだが、それは内面を描かない方法であるとも言えるわけで、人物のリアリティが感じられず読んでいて虚しかった。主人公は貿易商社のかっこいいビジネスマン2人で、こいつらが虚無主義者なのであるが、なぜ虚無主義者なのかがわからない。長身で体つきもよく、トルコ風呂やダンスホールに女友達もいる。そんなどこかニヒルな商社マンという設定は、よく出来たエンターテイメントの主人公でしかなく、相手役のヒロインには夜の街で働く頭のキレる女や娼婦へと身を持ち崩す哀れな女、はては中国の美人革命家まで登場するが、役どころ以上の生々しさがない。まさに娯楽映画としてみれば申し分ない配役なわけで、映画的という意味では、それこそ五感に直接うったえる新感覚派ならではの狙いどおりの出来映えであった。
それだけになにを読まされているのかわからなくなってくる。5.30事件の排日・排英騒擾の展開はなかなかにスペクタクルで、街はたいへんなことになっているので読んでしまうのだが、いかんせん登場人物に上滑り感があり、では社会派小説かというとこれも表面的。文体自体はリズム感も緊張感もあって楽しいのに、なんだろうこの不毛な感じ。マルロー「人間の条件」にも虚無的なテロリストが登場するがこんなじゃなかった。
読書
「暗室」 吉行淳之介 作
吉行なので言わずと知れた肉体関係の話だと思っていたら、はたしてそうであった。
それでも最初のほうのエピソードでは、主人公の青年時代に田舎の親戚の子だくさんの家で何日か静養していると、白痴に近い少女がひっそりと屋根裏部屋で暮らしているのに気付く。その少女は実はある有名な理学博士の妹で、若くして博士号をとった天才理学博士は、卑劣過ぎると噂される人間なのだ。
まるで横溝正史のようなおどろおどろしい話がこのあとどう繋がるのだろうかと期待していると、この話はこれっきりなのである。そしてけっきょく主人公と複数の女との愛をともなわない肉体のああだこうだだけがつながって行き、やはり吉行は得意なものしか書かないのかなと思った。
肉体以外の関係を持とうとしない男と女の心情を理解できる自分ではないので、ここからこの主人公の男(作者)の虚無と孤独を感じられるのかと言えば正直わからない。主人公は欲望のままに女の体を貪っていても、ああ楽しい楽しいというわけではない。相手の人格ごと愛することができないのだから、結局孤独感しか得られないのはあたりまえで、自慰行為と同じ理屈だ。そして実はほんとうは誰しもそうなのかもしれない…というところが実に吉行文学であるわけで、なんとも虚しい営みではある。
吉行の性的描写はエロチシズムとはまるで違う寒々としたものだから、耽美小説を読むようなノリでは歯が立たないのだが、この人間観に同意できるとすれば読む側の体質であるしかない。子供を作って人生を建設していくこととは真逆の、虚無を確認するためのようなセックスを読ませられて読んでしまう。それが楽しいわけではないから不思議なものである。
読書
「倫敦塔・幻影の盾」 夏目漱石 作
ご承知のとおり漱石はロンドンに留学していたわけで、この短編集はロンドンを舞台にした作品を集めたものかと思っていたら、ふつうに明治日本の話もあり、要するに初期作品集であるらしい。それでも紀行文形式でロンドンを描いた「倫敦塔」や「カーライル博物館」はおもしろかった。「カーライルの顔は決して四角ではなかった。彼は寧ろ懸崖の中途が陥落して草原の上に伏しかかった様な容貌であった。細君は上出来の辣韮(らっきょう)の様に見受けらるる。今余の案内をして居る婆さんはあんぱんの如く丸るい。」はっはっは愉快愉快。
「幻影の盾」は不思議な魔力を宿す盾をもって、敵味方になってしまった愛する姫君を救い出さんとする若き騎士の話。幻想文学の王道を行かんとするような設定だが、結局盾は話の中であまり役割がなく、やはり幻想文学は漱石の得意とする範囲ではないと思われる。
漱石はアーサー王と円卓の騎士の話をおもしろがっていて、「薤露行」も「幻影の盾」もこの有名な物語を下敷きとして書かれているらしい。元ネタを知っていたほうがスラスラ読めただろうと思う。ランスロットの名前くらいしか知らなかった。
これら海外を舞台にした作品と比べて、近代日本の生活を描いた作品は、なかなかに描写がしつこく、そこをまだ書くかという偏執狂的なこだわりようだ。漱石は現実に即した作風で観念的な世界は出てこず、心理描写も常識的に理解できる内容だが、あっさりとは書かれておらず、いくら言葉にしてもまだまだ足りぬといった粘着質が感じらた。でも読んでいて飽きるということはない。
「淫女と豪傑」 武田泰淳 作
少ない読書体験で申し訳ないが、武田泰淳はなにを読んでも面白いな。ここに集められた中国を題材にした短編は、近代的な人権思想に目覚める以前の、残忍で欲望に忠実な、動物的な生命力にあふれた人間達が登場して痛快なおもしろさに満ちている。淫女と言うより烈女であって、あっさりと人を殺してしまうから、いきおい作品も物語的になる。
そうは言ってもいちばん良かったのは「盧州風景」という作品だった。やがて儚く死んでいく一看護婦の大陸での暮らしが、盧州の風景描写とともに綴られるのだが、その描写がなんとも寂しく美しい。遥か故郷を遠く離れて生きていく医師と看護士。べつに野心があってそうしているわけでもなく、これが与えられた運命なのだが、まさに人生は漂白だなあと思わされる。大陸にいると大きな歴史の流れに漂う人間の運命が、よりまざまざと感じられるのかもしれない。主人公は淫女でも烈女でもないが、楊(ヤン)さんという同僚の看護士が対照的にたくましい女性で、この人にとっては盧州も地元だからだろうか。
巻末に「淫女と豪傑」という短い評論があって、同じ事件でも豪傑の側から書いたのが「水滸伝」、淫女の側から書いたのが「金瓶梅」ということらしい。やはり「金瓶梅」のほうがおもしろそうだ。