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漫画家まどの一哉ブログ

   
カテゴリー「読書日記」の記事一覧

読書
「夢小説」 
シュニッツラー
 作

医師フリトリンは、愛していながらも実は揺れ動いている妻アルベルティーネの本心を打ち明けられて、夫婦間の愛に虚無的なものを覚えた。彼を慕っていた患者宅の娘を袖にして、下町の娼婦と一夜を共にするが、それでもまだ心は晴れない。

そんなとき旧友のピアニストに再開し、秘密の仮想舞踏会が開かれていることを知る。旧友に頼み込んで合い言葉を教えてもらい、自身も仮装してこっそりとその仮想舞踏会にまぎれ込んでみると、男達はほとんど仮面をつけた僧服姿。そして女達は顔に仮面と薄いヴェールをつけたほかは一糸まとわぬ姿のまま、ダンスパーティーが始まったのだった。

そのとき医師フリトリンは一人の女性に「ここにいては危険だからすぐに逃げるように」と再三忠告されるのだが、全裸の女性にそんなことささやかれても冷静でいられないよねえ。結局フリトリンが闖入者であることはバレるが、その謎の女性が身代わりとなって、彼は暴力も受けずに会場から追い出されただけですんだ。

その後懸命に謎の仮想舞踏会の正体を探ろうとするが、身の危険をおぼえるだけで結果は得られず、しかも謎の女性は死を持って報われたかもしれず、謎は謎のまま再び日常が始まろうとするのだった。

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読書
「真昼の暗黒」 
アーサー・ケストラー 作


アーサー・ケストラーといえば「偶然の本質」などスピリチュアル研究者だと思っていたが、こんな壮絶な内容の小説を書いていたとは。まさにソビエトにおいてスターリンの独裁体制が確立してゆく、その粛正の恐ろしさをブハーリンの運命をモデルに描いた社会小説。革命後の政権にあって枢要な役割を演じた主人公ルバショフ(ブハーリン)もナンバー・ワン(スターリン)の容赦ない権謀によって独房に監禁されている。始めから終わりまでこの独房生活が話の中心だがまったく退屈しない。壁をコツコツとたたく回数でアルファベットを現す秘密の暗号があり、独房同士はこの方法で通信することが出来る。監獄での出来事は一斉に伝わるのだ。


主人公ルバショフと同じ革命世代の幹部は、反革命的計画を自白することによって、まんまと極刑を免れる方策を彼に示唆した。だが時代は既に変わっていて、革命前夜を知らない若い指導者達は彼ら旧世代を一掃する意味で容赦なく死刑を宣告していく。若い世代の信念はこうだ。「歴史の中でたった一国立ち上がった社会主義国ソビエト。これはほんとうの世界革命が成就するまでなんとしても倒れてはならない。ナンバー・ワンのもとに結集しプロレタリア独裁・共産党政権を絶対守り抜かなければならない。」だが、そうやって死守した国家はもはや後世に残すべき意味のない醜悪なものに成り果てていたわけだった。連日連夜の尋問で主人公が自白に至る過程はリアル。そして暗黒裁判へと進む。


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読書
「文藝春秋・短編小説館」


1991年発行の当時「文藝春秋」に掲載された作品を集めた短編集。作家は丸谷才一、安岡章太郎、藤沢周平、大江健三郎、吉行淳之介、村上春樹、三浦哲郎、田久保英夫、大庭みな子、遠藤周作、河野多恵子、瀬戸内寂聴、古井由吉、日野啓三、吉村昭。


この後あれよあれよという間に何人も死んでいく。多くが晩年の作品だ。

さすがに才能豊かな作家も晩年になると想像力が失われてしまうのか、小説といっても身辺雑記的なものが多い。この短編集の中でも安岡「叔父の墓地」、吉行「蝙蝠傘」、瀬戸内寂聴「木枯」など全くその類いでエッセイというならば申しぶんないのだが、これを小説といわれると違和感がある。伝統的に私小説という分野があるにしても、自己の生き様に迫るといったギリギリ感もない。もっとも安岡の文章は自分にとっては絶品というやつだ。


河野多恵子「怒れぬ理由」なども、あまりにも細々とした私生活が描かれていて、他人にとってはまったくどうでもいいハナシだ。社会階層も私とは違っていて困ったもんだ。ただ作者特有の霊魂観がおもしろくて要約すると、「霊魂は多分に無機的な電気の一極のような性質を持っていて、縁あった生者が故人のことを思い出したり語ったりすると、それに反応して電流が通じる。これを感知できるのは生者の側だけである。生者がしだいに亡くなって故人を偲ぶ人が誰もいなくなれば、霊魂は消滅する。」というものである。


この顔ぶれの中では一番若い村上春樹「トニー滝谷」がいちばん小説らしい小説で面白かった。

村上春樹「トニー滝谷」:ジャズミュージシャンの父親にトニーという名を付けられた主人公。テクニカルイラストレーターの腕を活かしてひとりぼっちの人生を歩んできた彼。初めて惚れて結婚した女は狂ったように洋服を買ってしまう女。彼女が亡くなった後、残された山のような洋服の中で本当の孤独が胸にせまる。

三浦哲郎「添い寝」:温泉地で働く巴。彼女の仕事は70歳以上の老人男性限定で一晩添い寝するという変わったものだ。朝起きると隣の老人が冷たくなっていることもある。そんなある日、むかし東京の出版社で働いていたときの同僚が訪ねてくるが、彼女はまったくさばさばしたものである。人生の変転を描くもユーモラスな一品。

遠藤周作「取材旅行」:作者は取材のため土地の人間ですら知らない戦国時代の城跡や屋敷後をめぐる。若き秀吉が仲間の蜂須賀小六たちと奮闘した、小牧・犬山あたりの小城主達とのかけひきが明らかにされて興味深い。


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読書
「モーパン嬢」 
テオフィル・ゴーチェ 作


詩人ダルベールは理想の女性を追い求めてやまない青年だ。女性に対する美学には大変厳しいものがある。ロゼッタは完璧には理想の女性ではないが充分魅力的な女性で、彼らは付き合ってはいたが、本心では愛し合ってはいないことがだんだんと明らかになってきた。そんな時に現れた騎士テオドール。彼はロゼッタがずっと心慕っていた永遠の恋人であり、ダルベールにとっては男ながら虜にされる程の魅力的な紳士だった。それもそのはず騎士テオドールとは、実は男勝りの令嬢マドレーヌ・ド・モーパンその人なのである。しかも連れている小性すらが男装の少女なのだ。この摩訶不思議な恋愛模様の結末やいかに!


というわけで、ほんとうは恋愛ものはさしたる興味もないのだけど、展開が面白くて読んでしまった。ふつうの地の文もあるが、手紙の形式で書かれた章や、セリフで綴られた章など、手を替え品を替えの工夫満載だ。主人公のモーパン嬢が男に変装しているので、バレやしないかとこちらはドキドキする仕掛けになっているのだ。


この時代(19世紀フランス)に男性的な気質を持つ女性を登場させたゴーチェの人間観が鋭い。女同士のキスや触れあいなどのからみもあるが、結局モーパンはダルベールに身体(処女)を捧げ、ベッドシーンの描写もちゃんとある。

実はこの小説、長過ぎる序文がくっついていて、そのなかでゴーチェは昨今の文芸評論家の道徳家主義を猛批判している。小説や芝居には強姦も殺人もあってあたりまえで、説教臭いこと言うな。といった論旨。そんなわけでこの作品もしっかり性愛を描いているのです。でもあんまり売れなかったそうです。とほほです。


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読書
「信長 あるいは戴冠せるアンドロギュヌス」

宇月原晴明 作


ローマの変態皇帝ヘリオガバルスによって奉じられた牛頭人身の両性具有神バール。このシリアの荒ぶる古代神は、尾州津島の牛頭天王(ごずてんのう)と同体であり、1千年後織田信長によって奉られたのではないか?そして実はヘリオガバルスも織田信長も両性具有者(アンドロギュヌス)だったのではないのか?ベルリンで謎の日本人青年の訪問を受けた前衛詩人アントナン・アルトー。二人はこの信長伝説を証明するべく、しだいに親交を深めていく。だが実はそこにはナチスとヒットラーによる罠が仕掛けられていたのだ。


ナチスが台頭するドイツと、戦国時代の日本を往還して進行する奇想天外なストーリー。東西の古代神話をひもときながら仮説どうしを結びつけていく作業は、しょせんエンターテイメント上のこじつけであり、そのまま語られても退屈なものになりがちだが、どうしてナチとアルトーのスペクタクルなんかも取り混ぜてあって、なかなかに面白い。

それよりも半分以上を占める信長vs戦国大名のせめぎ合いが、ふつうのエンターテイメント歴史小説として出色の出来でわくわくする。司馬遼太郎と山田風太郎の忍法帳シリーズを合わせたような楽しさがあった。


これだけの奇想小説だが、あくまで娯楽のために計算されて仕掛けられているので、奇書といった感じはしなかった。小説における文体は漫画における画質と同じで、エンターテイメント小説には個人的に受け付けないものが多いのだけれど、この文体は気持ちよく読めた。と、これはあくまで個人的な話。



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読書
「モルヒネ」 ミハイル A. ブルガーコフ
 作


ブルガーコフは短く書き散らしたものでも、メモのようなルポでも、なんでも面白い。短い中にも変化があって、セリフも多様で飽きない。この短編集は、白軍が敗退し、まさにソビエト連邦が立ち上がろうとしている混乱の時期を生きた彼の全人生が背景となっている。地方勤務医としてスタートし、就職したソビエト政治人民委員会政治啓蒙機関文学部門(リト)解散に至る頃までの苦難の経験の数々。作者が見たものは社会の矛盾や人間の卑小なあり方。それがつねに風刺の対象となっているのです。


「話す犬」:長編「犬の心臓」でも人語を操る犬が出てくるが、ブルガーコフはこのモチーフが好きなようだ。サーカスの舞台に登場した話す犬に驚いて高値で買い取るが、残念ながらだまされているのだった。


「ある医師の異常な体験」:ブルガーコフは基本的に反革命軍の軍医だったわけだが、戦乱の中で身分が保障されるわけではなく、その時の勢力に従いながらあちらこちらへ放浪する。藁を積んだ二輪馬車に揺られながら、北カフカス・チェチェン地方を行く話。


「カフスに書いたメモ」:作者はモスクワで職を得るため、リト(政治人民委員会政治啓蒙機関文学部門)に応募して書記として採用される。これが事務所に2人しかいない状態で、職を得るのが早い者勝ちなのがヘンだ。あとからも数人詩人が応募して定員となるが、はたして給料はちゃんと出るのか?まるでいいかげんなソビエト黎明期。


表題作「モルヒネ」は以前別の訳で読んだが、本人の中毒体験をもとにした痛々しい話で、やっぱり名作だ。



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読書
「短編小説日和」 西崎憲 


英国異色傑作選というサブタイトルがついているだけあって幻想味豊かな小品集。

いわゆる文豪ではない作家が多く、自分などは初めて読む作家がほとんど。自分の苦手なオチでびっくり的作品もあるにはあったが、多種多様で楽しかった。

ところで文庫巻末の短編小説論は大枠はつかみながら、面白さの根幹には迫っていない気がした。この論考の中にあるように、AI(人工知能)に文学的構造をもとにある主題を与え、短編小説を書かせて、それを例えばチェーホフ風にアレンジさせることは簡単にできるかもしれない。ただその場合、作者は誰になるのか?などという問題より、作品自体が絶対面白くならないと思う。なぜならそれは経験知しか材料がなく、プロットや文体以外の予測がつかない部分が何もないからだ。小説も漫画もそこが面白いのだし、他人には容易に解説できない(作者本人にも)部分がキモなのです。


「豚の島の女王」ジェラルド・カーシュ:無人島で新種の人類かと見紛う不思議な遺骨が発見される。孤島に漂着したサーカスのフリークス達は、いかなる最後を遂げたのか。異色の発想。


「看板描きと水晶の魚」マージョリー・ボウエン:水晶で出来たうつくしい魚の置物が2体あり、河に放すとキラキラと泳ぐ。ジェームズ卿は看板描きを殺害して水晶の魚を奪ったのだが、婚礼の日に殺されたはずの看板描きに自分も殺された。と思うと死んだジェームズ卿は川岸で女と看板描きの行方を見ているのであった。なんとも夢幻的な世界。


「小さな吹雪の国の冒険」F・アンスティー:おもちゃ屋でスノードームに見入っているうちに、おとぎの国に迷い込み、囚われの身となっている王女を竜から救い出すこととなるファンタジー。竜と対決するのに弁護士としての訴訟能力を最大限発揮しようとする主人公と、王女様とのズレっぷりがおかしい。


「輝く草地」アンナ・カヴァン:なぜ危険なロープと滑車を使ってまで、切り立つ崖に生い茂る雑草を刈らねばならないのか。荒涼たるカヴァン的心象風景。


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読書
「神の裁きと訣別するため」 アントナン・アルトー
 著


ラジオドラマとして放送されるはずであった「神の裁きと訣別するため」。そしてゴッホについての熱い思いを語った「ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者」を併録。この2作がほんとうにアルトー最後の作品だ。

まあ私はさほど詩に詳しいわけではなく(というより昔はまったく苦手だったが)、アルトーの詩作を存分に楽しんでいるかというと、実はよくわからずに読んでいるのである。


例えば「ゴッホ」に関して言えば、アルトー自身が長年精神病院に収容されていて、医療に対する深い恨みがあるのだろう。医者という凡人を代表する存在が、社会の無理解と凡庸さを代表して、詩人や画家の首を絞めにくることが赦せないという怒りがまざまざと伝わってくる。つまりゴッホは狂人ではないのだ。それは自分もそう思うところで、狂気というレッテルを貼ったところで何を発見したことになるのだろうか。

アルトーは言葉を駆使してゴッホの作品を讃えるが、絵画作品であるからアルトーが言葉で表現していることは、あくまでアルトーにとってのゴッホにほかならないわけで、自分にしても誰にしたってアルトーの脳内にあることなんかわからない。かといってアルトーから詩的言語を奪って、分かりやすい論理的な評論にすれば、読みやすいだろうが2~3行で終わってしまうだろう。まさにこれがアルトー的世界の愉しみなのだから。


ところで「神の裁きと訣別するため」をめぐる書簡が収録されていて、この作品のラジオ放送が土壇場で中止になったことへの抗議や、労働に対する適切な報酬が払われていないことへの驚きと催促など、これはまた打って変わってリアルな話でおかしい。


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読書
「愛されたもの」 イーヴリン・ウォー
 作


高級な葬儀社を舞台にしているという点で珍しい小説。しかも主人公の青年は対照的に安物のペット葬儀社で働いているのだ。この男が詩人でありながら、まことにいいかげんなヤツというところに、この小説が暗くならない最大の要因がありそうだ。高級葬儀社の化粧師の彼女が他の男と婚約しても気にせず交際を求めるし、彼女が絶望の果てに自死を遂げても悲しみもせず、イギリスへ帰国する費用の捻出に利用する。この西海岸の無責任男のノリの軽さが、この作品を風刺小説に仕立て上げているのかもしれない。


弔われる死者を美しく修復する化粧師の彼女は、世間知らずというのか、まだまだ男を見る目を鍛えていく最中だったのに残念な結果となった。過去の名作を自分の詩作のように語る例の無責任男。また師に当たる化粧師の主任にも結婚を請われ、家に行ってみるとまるでマザコン。彼女が頼った新聞の人生相談コーナーを受け持つバラモン導師は実は二人のライターで、しかも馘首寸前。


そんなふうに彼女を取り巻く男たちが、みな悪事を企むような陰湿な人間ではなく、本質的にいいかげんな連中ばかりというのが実際ありがちで、なるほど世の中とはこうしたものか、皮肉なもんだなと思って読めば作者の思うツボ。それが楽しい。



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読書
「アムステルダム」 イアン・マキューアン
 作


功成り名を遂げた男たちが主人公。有名作曲家や大新聞の編集長、外務大臣まで登場。ある社交界の花形女性が急逝したあとに発見されたプライベート写真。これが大臣や編集長を失脚にまで追い込む大スキャンダルとなる。最後には相互殺人事件まで起きてしまうというサービス付き。


短いせいもあってなんとなく最後まで読んでしまったが、なにやらテレビドラマを見ているような気がした。我々のようなどこにでもいる半善人で構成された俗世間を舞台に、そのモラルが思わぬ形で崩壊していく狂気を描いたものらしいが、そういった崩壊は狂気ではなく単なる失敗ではないかしらん。

社会的地位のある人間ばかりが登場するが、この場合事件とはその地位が脅かされて失われることである。地位が失われざるを得ない行動をとっているから仕方がないのだが、読者は「なるほど成功者であっても転落することもあるのだなあ」と思うだろう。登場人物の内面ももっぱら仕事に関する悩みが中心である。しかしこの種の揺らぎや崩壊は誰にでもわかることであって、それなら何故わざわざ書いてあるのかと感じる。


たとえば主人公の一人である作曲家は新曲のインスピレーションを得るために、一人で湖水地方を山歩きするが、それも曲作りの悩みと心のリラックスと事件に対するもやもやをくりかえしているだけで、なんということはない平凡さだ。もちろん才能ある作曲家の創作の秘密などめったに追体験出来ることではないが、これも大新聞の編集長が仕事の上で悩むのと同じレベルでしか書いていない。

これが梅崎春生「幻化」のように、阿蘇山周辺を歩くときの得体の知れない不安や虚無感があると物語の読みがいもあるというもので、つまり読者誰もが納得できることではないことが自分は好きということです。


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