漫画家まどの一哉ブログ
- 2015.11.28 「貸本マンガ史研究 03」 特集:辰巳ヨシヒロと劇画
- 2015.11.26 「生物から見た世界」 ユクスキュル/クリサート
- 2015.11.25 「偶然の統計学」 デイヴィット・J・ハンド
- 2015.11.17 「差別語からはいる言語学入門」 田中克彦
- 2015.11.13 「空飛ぶ円盤」 C.G.ユング
- 2015.11.09 「野火」 大岡昇平
- 2015.11.06 「呪いと日本人」 小松和彦
- 2015.11.02 「怒りの葡萄」 スタインベック
- 2015.10.15 「人形愛/秘儀」高橋たか子
- 2015.10.09 「タタール人の砂漠」 ブッツァーティ
「貸本マンガ史研究 03」 特集:辰巳ヨシヒロと劇画
貸本マンガ史研究会発行
亡くなった辰巳ヨシヒロ氏の思い出をめぐりたくさんの方の追悼と、その業績に対する評価・研究がぎっしりつまった特集号。
自分は年齢的には貸本漫画の最後期を少し経験しているが、幼かったため有名な「影」「街」などの高学年向け劇画誌は知らない。漫画の歴史を検証することにさほど興味は無いが、過去の貸本漫画の表現にもおもしろいものはたくさんあるようだ。露骨に映画のカメラワークをなぞったような表現は今見ると珍しい。
それまでの児童漫画に課せられていた勧善懲悪・希望・ユーモアなどを振り払い、作者を含む当時の労働者青年にリアルに寄添うものを目指した「劇画」という一大実験だが、実は立ち上げ当初から実質的には終わっていたかもしれない?その過程が辰巳氏本人の言葉をはじめ、各研究者の論考で明らかにされていく。
ただ辰巳さんが「さそり」などガロに短編を連作する以前の貸本漫画作品は、リアルと言っても当時人気のアクション映画などの設定で描かれているので、所詮限界があるという気はする。さいとうたかをがトップを走る所以でもある。苦悩する労働者青年のリアルというのとアクション映画のようにリアルというのはリアルの意味が違う。
追悼文の中では最後まで辰巳氏に寄添った田中聡氏の壮絶な報告が胸をうつ。また八代まさこ氏が辰巳氏のファンだったのも以外だった。つげ義春氏の追悼文の末尾に、「死によって全てが終了するのではなく魂=波動は残る…」云々とあって、実に驚いた(笑)。
つげ忠男インタビュー、「貸本時代の水木しげるの画風変遷史」川勝徳重、も面白い。
「生物から見た世界」 ユクスキュル/クリサート 著
「還世界」とは聞き慣れない用語だが、環境世界がわれわれ人間が知覚している地球環境全体だとすれば、その逆に個々の生物に固有の閉じられた世界のようなものと考えて読んだ。なるほど世界を認識するための装置は生物によってそれぞれずいぶん違っていて、認識できない範囲のことがらは世界には存在しないことになる。
われわれはつい擬人化して考えてしまいがちだが、人間の知っている環境世界をどの生物も同じように認識していて、その中でその生物なりの生きていくための技術を総動員しているわけではない。
ここではダニやウニやクラゲやハエの例があげられるが、ダニの知覚は木の枝に昇ること、動物の臭いを感知して落下すること、動物の皮膚表面を認識することのみで構成されていて、他の世界を知らない。ダニにとって世界はものすごく簡単なものとなっている。部屋に入り込んだハエの脳内にはエサと照明以外のベッドや椅子などは存在しない。また鳥にとって動いていない虫は存在しない。キリギリスの雌にとって音を遮断された状態で鳴いている雄は目の前にいても存在しない。
というようなことは知らないわけではないが、ネットなどで愉快な動物達の動画なんぞを見て笑っていると、ついつい忘れてしまう。鳥でさえ意志や感情は人間と同じだと思うが、やはり世界認識は違うのだろう。
「偶然の統計学」 デイヴィット・J・ハンド 著
絶対にあり得ないと思えるような奇跡的な偶然の出来事。これが実は人間の思い込みによる錯覚で、統計学的には案外あり得る確率であることを解説。そして様々な勘違い・思い込みの罠を分類してゆく。この種の偶然と確率について数学の素人にも解りやすく書いたものはいくつか読んだが、これはおもしろかった。
大数の法則ならぬ「超大数の法則」によれば、膨大な実例の中ではめったに起らない偶然も必ず起きる。なるほど「運」について考えれば、正規分布という言葉を知らなくてもあの山なりのグラフを思い浮かべて、中央の盛り上がったところが最も平凡な可もなく不可もない状態だとすれば、両極端に最高に運のいい人と悪い人がいる。これら極端な例は話題になるので目立つが、多くの人は平均的な事例を体験しているだけなのだ。これは「運」について自分がかねがね感じていたもの。それほど人類の数は多く、「超大数の法則」が発生している。
また「選択の法則」というものがあって、ことが起った後からならどうとでも理由付けできるということで、その際そうならなかった多くの実例を省くことができる。また実は普段から気付かないだけでよくあることを無視する。神秘的な偶然も、あたかも「運命」だったかのように事後に選択的に糸をつないで納得してしまう。運命論の正体は事後選択である。
「近いは同じ」の法則は、神秘的な偶然の一致といっても、一致の範囲が任意に広くとられていて、それくらいなら普通にあってもおかしくないものを珍しいことにしてしまう。ユングのシンクロニシティには多くこの種の実例がある。このユングや「偶然の本質」で有名なアーサー・ケストラー等のESP実験を遠慮なくニセ科学よばわりしていておもしろかった。
(年に6回以上事故が起った交差点に監視カメラを設置すると、翌年には事故は6回以下になった。ESP実験で優秀な結果を残した者を集めて、さらに実験すると2回目以降は数値が下がった。これらは実は6ばかり出たサイコロを集めて降ると、2回目は平均値が6以下になるのがあたりまえというのと同じで、最初に大きな数値を揃えれば必ずそうなる。これも「選択の法則」の一種。ナルホド!)
「差別語からはいる言語学入門」
田中克彦 著
1970年代に広がった差別語糾弾運動。これをそれまで日本語の正統的なものを決定してリードしてきた文化人・教養人などのエリート階層に対して、人民が初めて自己主張した稀なる出来事と考えるところから本書はスタートしている。時代的な理由もあろうが、この対立構造が今ひとつわからない。そんなに民衆と文化人は使う言葉が違うだろうか。線が引けるだろうか。民衆が文化人の使う言葉をまったく楽しまなかったとも思えないが…。
それはそれとして、そもそも音として意味をもっていた民衆的な日本語・ヤマトコトバに、文化教養階層がむりやり漢字を当てはめていくことにより生じる変化が、差別語の発生の問題をヌキにしても興味深い。
エッセイ風の愉快な語り口だが、あくまで言語学なので差別語の背景にある社会的要因そのものには踏み込まない。たとえば片手・片目などのカタという語は、ふたつとも揃っているソロイという概念があってこそ生まれたもので、あまり外国語にはなく、発展して片手間・片田舎など半端なものを強調するような使われ方になっているなど。
その他、オンナ・北鮮・ハゲ・屠殺・カタテオチなどいろいろ登場して、その成り立ちが明らかにされる。
「空飛ぶ円盤」 C.G.ユング 著
冷戦下いよいよ第3次世界大戦および核戦争による人類の破滅かという状況で、無意識に抱いている危機感がU.F.Oを幻視させたのではないか?という論考(違うか)。
ユングについては全くの素人で、さすがに元型や集合無意識についてはどこからか聞いたことはあるものの、おそらく間違って覚えている。
無意識が個人的なものに限られている限りは理解しやすい。また人間が見失っている動物的本能、または魂の叫びからの働きと考えて、危機感が幻視を誘うというのはなんとなく解る。ただここで基本となっているのは元型という概念だから、元型いずこにありや?という部分を深く理解していないと茫漠とした話になってしまう。集合無意識というものをぼんやりと聞きかじってしまっているので、ここでいう無意識は集合無意識のことかな?と思うとますます理解が遠のいて、ふわふわとさまよってしまう。
ところでユングがこの論考を執筆中にも、つぎつぎとU.F.O体験は報告され、まさに論旨を裏付けるものもあれば、幻視とは全く別にレーダーにも写真にも捕らえられてゆくが、当然それらは心理学とは一線を画するものとされる。それはそれとして考えて元型に基づく幻視体験はあるものだということである。
「野火」 大岡昇平 作
話題の映画を見て、どうも原作と違った感じを得たので再読してみた。
映画はまさに戦争の悲惨さ残酷さを容赦なく描いていて、グロテスクだがよく伝わる出来映えだった。ところが原作にはそれにとどまらない違った何かが描かれていたはず。
読みだして先ず気付いたのは小説は一人称で書かれていることだ。すべてが主人公の内面を通した出来事であり、それはレイテ島の風景や陽の移り変わりさえも、主人公の内面に映った姿なのだ。印象は刻々と変化する。
小説の主人公は生きる望みのない中で何日も独りさまよううちに、それまでの日常では経験しなかった大いなる存在=超越者=神の目を意識してゆく。神に見られている感覚。人肉を食べるか否かの切羽詰まった状況でもそうだが、そこまで至らなくても死を目前にした孤独な状況で、人間の脳は外界との現実的な関係を逸脱するのではあるまいか。これは文学的な表現ではなく、脳の誤作動としてあるのではないか?という気もする。
主人公が他の日本兵達とめぐりあって、レイテ島脱出の希望が出てくると神に見られている感覚は消え、日常の感覚が復活するというのも納得できる。
最後の章でこの作品は帰国後、精神病院に暮らす狂人のわたしが書いたものという設定が紹介される。神は何者でもないと思いながらも、もしあれが神の配慮であるならば神に感謝するというわたし。極限状況に置ける超越者の存在をどうとらえるか。わたしと超越者との1対1の関係。あくまで一人称の問題が小説作品にはある。
「呪いと日本人」 小松和彦 著
近世以前の支配者は政体のみならず天変地異などの自然現象、農作物の出来不出来にまで責任を負っていたからたいへんだ。災害の原因も怨霊の呪いであることが充分考えられる以上、悪霊調伏のため陰陽師や修験者を用いての祓い清めの儀式も盛大に執り行われる。その際排斥されるべき「ケガレ」の役目を引き受けるのが、ふだんから汚れ仕事を受け持っている非差別民だった。学生の頃から天皇制は被差別部落の存在によって構造的に支えられている云々はよく聞かされていたけど、
この呪いと「ケガレ」の役割を知っておくべきだった。
このように政治的な方法としての呪いの意味はあったとして、それとは別に個人対個人の恨みによる呪いは永遠に不滅で、現在も藁人形に五寸釘は廃れない。人は何故か人智ではかりしれない非合理なことに運命を預けるのが好きだから、直接報復する手段がない場合、呪いも偶然効果を発揮するかもしれないものね。もうこれしかない。
「怒りの葡萄」 スタインベック 作
砂あらしとトラクターの進出によってオクラホマの住処を奪われた小作農の一家。新しい農地を求めてはるばるカリフォルニアまで中古トラックにマットレスや家財道具一式を積んで移動する。しかしたどりついた夢のカリフォルニアは既に大規模資本の支配下にあり、多すぎる農民達は低賃金で使い捨てにされるのみだった。
まさに難民生活。爺ちゃん婆ちゃんからお父お母、叔父に妊婦に幼い子供達まで。結束して生きていかねばならない大家族の中で、父親は小作地を追われた段階で既に指示命令能力を失っており、かつての暮らしに思いをはせるばかりだ。自身の過ちから妻を亡くした叔父は、なにか不幸があるごとに自分の罪を責めていてまるでネガティブな存在。仮釈放の身で参加した長男がはるかに実用的なしっかりした人間だ。彼がある意味主人公とも言えるが、本当の主役は腹の据わった一家のまとめ役の母親。この母親の情の深さで作品が実に魅力的になっている。
元伝道師の男が同行しているのだが、この男がひとり社会や神や人生について始終考えていることを口にする役割であり、ぼんやりとではあるが民衆の立場を俯瞰して語ってくれる。
オクラホマ出身者=オーキーという呼称にもともとは差別的な意味合いはなかったのに、知らないうちに蔑称となる。難民の境遇は同情する部分はあるが、ことが地元民の生活に及ぶとすぐさま差別感情が芽生え、あいつらは人間じゃない云々へと容易にたどりついてしまう悲しさ。
スタインベックは妄想や観念のまったく入らないタイプの作家なのか、ルポとも言える社会派長編。登場人物は全員ごく平凡な民衆ばかりで、難しい言葉はいっさい登場しない。さすがにみんな生き生きと動く。読みやすくて読み応えあり。そして大きなドラマの結末はなく、小さなひとつのエピソードでお話は終わるという終わり方です。
「人形愛/秘儀」 高橋たか子 作
やはり高橋たか子は好きな作家で、カトリックで求道的な気質を持ちながら、エロチックで霊的幻想が溢れているところが良い。
大人に成りかけている少年を自分勝手な妄想で飾り立てる。
「人形愛」:夢の中で触れる青年の人形。現実世界では古風なホテルに滞在する受験勉強中の青年と知り合い、夢中の人形と混同して付き合っている。夢と現実が交互に語られるが、ラストで他人と主客が入れ替わるような作為が施されていて、とつぜん耽美抜きの幻想文学に変化する。
「秘儀」:郊外の廃屋に少年とともに忍び込み、自身が解脱と呼ぶ精神世界への飛躍を試みる女。蝋細工作家に少年の体のパーツをそっくり模倣したロウソクを作らせ、廃屋での儀式に使ったりする異常な性癖を見せる。この少年と彼女の関係が謎めいているが、少年に言わせれば彼女は「狂ってるんです」という扱いらしい。
「タタール人の砂漠」 ブッツァーティ 作
若き将校ドローゴが赴任した国境北端の砦は既に古びていて、今や戦術上その存在意義はほとんどないとされる代物。当初早々と離脱しようとしていたドローゴだが、数ヶ月するうちその荒涼とした山間と、その先に広がる茫漠たる砂漠の風景に見入られ、在任を決めてしまう。日々正確にくり返される砦での任務。都会での楽しい青春を省みず、目の前に広がる砂漠のむこうからいつか敵がせめてくるかもしれないという期待のみを糧に、砦でのルーチンワークに身も心も捕われてゆく。
恐ろしいことに現代社会の労働にも同じようなことはあって、社会の歯車である会社勤めに人生の貴重な時間を集中し、自ら他の可能性と楽しみを見る目を閉じてしまう。もしかするとそれは流れに身を任せただけのラクな選択であり、過労死するまで目が覚めない。しかし大半の人生はそうやって過ぎ去っていく。
幻想文学といえばそうだが不思議な感じはなく、眼前に砂漠が広がる砦での勤務は不毛で無意味に近いが、だからといって虚無を描いているわけでもない。シュールな味わいはなく、いかにも現実の社会を思わせる。架空の砦を描いているが寓意小説と呼ばれるようなデフォルメされたところもない。しかし実にたのしい。