漫画家まどの一哉ブログ
- 2016.10.04 「残酷な女たち」 マゾッホ
- 2016.09.27 「貸本マンガ史研究」第2期04 特集●水木しげる
- 2016.09.21 「水いらず」 サルトル
- 2016.09.09 「すばらしい新世界」 ハクスリー
- 2016.08.29 「崩れゆく絆」 アチェベ
- 2016.08.09 「ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ」 キルメン・ウリベ
- 2016.08.04 「悲しみを聴く石」 ラヒーミー
- 2016.07.25 「断片的なものの社会学」 岸 政彦
- 2016.07.18 「天体による永遠」 ブランキ
- 2016.07.12 「雪の練習生」 多和田葉子
「残酷な女たち」 ザッヘル・マゾッホ 作
かの有名なマゾッホの短編。思いのほか面白い。別に官能小説ではなくちょっと愉快な空想篇といったものだが、出てくるのが往々にして毛皮を身にまとった猛烈に強い女。それを慕う男に若者は登場せず親父や爺さんばかりで、常に私を奴隷にしてくださいと懇願してヒドい目に遭わされるといったパターン。これが可笑しい。
やや長めの「風紀委員会」 主人公女帝マリア・テレージアが国家社会の風紀紊乱を憂うるばかりに自らも夜の街に密偵に乗り出すというありえない設定で、後半問題となった美人のお針子の家へ疑惑の人物たちが偶然にも全員こっそり集まってしまうという展開は、まさに伝統的な喜劇の定番。昔の通俗小説のお手本のようだが下品なところがないので楽しく読める。
と思ったら「醜の美学」では体つきは背むしの小人だが心は明るく人気者の画家を主人公に、教養と精神的な豊かさがいかに人間的魅力を生み出すかを丁寧に描いている。こんなちゃんとした話も書けるじゃないかマゾッホ。
「貸本マンガ史研究」第2期04 特集●水木しげる
「総員玉砕せよ!」を反戦漫画の見本として知識人が評価してしまう現象を梶井純が批判している。しかし水木作品は基本的にエンターテイメントの方法で描かれており、芸術ではないのだからある種のパターンとなっているのも仕方がない。そしてたいがいの知識人は漫画に対してパターンでしか読めないから保坂正康などが評価してしまうのも仕方がないと思われる。
旭丘光志が「劇画はジャンルとしては優れているにもかかわらず、まったくおもしろくないのは、教養のない連中が描いているからだ」という水木の言葉を取り上げ、水木しげるの眼から見ると、それらの底の浅さ、美的造形の欠如などがありありと視えてしまう。と書いているが、まさしく現在市場に氾濫する漫画全般について言える的確な言葉だ。今後利用しよう。
幻想ロマンシリーズは読み返したことはないが、面白く読んだ経験があり。三宅秀典の解説が面白かった。まさか婦女子向け恋愛ロマンとして描かれていたとは思わなかった。
川勝徳重のリアリズムに関する論考。白土三平の風景描写について、森林にしても草原にしてもどれも同じような描き方と解説があるが、これは自分もそうで森林一般・草原一般といった装飾的な描写をする。自分の場合は好きでやっている。それにしてもなぜこんなに流麗で平易な文章が書けるのか。内容はもとより文を追う快感がある。
(敬称略)
「水いらず」 サルトル 作
この短編集は若輩の頃読んだことがあったが、当時この面白さはわからなかった。人物が生き生きとしていて会話も楽しいし、地の文も興をそそる飽きさせない語り口。ストーリーもちょっぴりあって退屈しないように出来ている。これだけ作品自体が面白いものを後年の実存主義の萌芽としてあれこれ関連付けて評価するなんて無意味ではないか。主義があるから小説に価値があるわけではあるまい。むしろなんであんなわけのわからん哲学に生涯を費やしたか。もったいないことだ。
たとえば表題作「水いらず」では、二人の女性の交流とダンナとの別れや復縁をあれやこれや感情に沿って書いてあって、これがいちばん面白い。平凡な人間達の平凡な人生なので妙に過剰な自意識や観念がないのが気持ちいい。こんなふつうの女達をきめ細かくかけるなんて、それこそ理論をあやつるよりよっぽどたいした才能だと思うけど。
「すばらしい新世界」
オルダス・ハクスリー 作
ディストピア小説の古典。
表現としては単純な文体でマンガのような趣があり、最初はやや戸惑ったが読み進むにつれ気にならなくなった。ところどころ擬態語が混ざっていて、たとえば「どっかーん、どっかーん」とか「にこにこ、にこにこ」とか文中急に出てくるので、あれっ?と奇妙な感じがする。まさにマンガのようでやや脱力するが、これはこれでオモシロい。
オーウェル「1984年」、ザミャーチン「われら」など、暗黒の未来社会は徹底的に管理された完璧な全体主義社会だが、この作品はいっそう暗黒さがきわだっている。
胎生は否定され人間はみな人工授精によって壜の中で生まれ育ち、親子関係は卑猥なものとされる。生まれたときから5段階の階級に分けられていて、下層のものは教養や知識を嫌い単純労働に喜びを見出すように脳に条件づけされてしまう。また多胎児政策により同じ人間が労働用に大量製産されている。大人は麻薬ともいうべきダウナー系の薬剤を常用していて毎日は不平不満もなく多幸感のまま過ぎ行くのだ。
これでは大掛かりな叛乱は起きようがないし、物語は少数の異分子達によって進行するが、あんのじょう悲劇的な結末に至るのだった。
1932年の作品であるが、未来社会のディストピアぶりが実にこってりとよく考えられている。丁寧できめ細かい。特殊な設定を理屈っぽく説明するのではなく、人物の自然な会話や行動を通して暗黒社会さもありなんと納得させられる。物語を進行させる数人の異分子達は英雄ではなく心弱き平凡な人間で、彼等のダメさ加減と敗北がわかりやすいエンターテイメントのパターンを回避できている。そこがよかった。
「崩れゆく絆」 アチェベ 作
現代アフリカ文学の古典。
ふだん小説を読むときは、登場する人々の暮らしを読む側もある程度共有しているものだが、1900年代イギリスに植民地化される以前のナイジェリアの社会となるとちょっと想像がつかない。背景となっている村の日常風景をわからないまま読むという不思議な感覚があった。しかしあれやこれや村の出来事がくりひろげられるうちに、なあんだ我々と変わらない、自然とともに生きる古い農村の暮らしが見えるようになってきた。
主人公の父親はあまり働かず飲んで歌って毎日を過ごす男で、やはりこんな男はどの世界にもいるもんだ。その反動で主人公は克己心あふれた強気ひとすじの男性主義者で、優しい態度やこころの弱い部分を全否定して闘争的に生きていく。早晩悲劇を迎える偏った人格で、なかなかつらいものがある。
物語の最後の方でようやくイギリス人宣教師を先頭にした植民地化政策に古い村が壊されていくが、それまでは冠婚葬祭や争いごとや裁判やさまざまな精霊と迷信が支配する伝統的な村の暮らしが描かれていく。万物に神が宿る世界。最後になっていよいよ世界史が動き出す。
「ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ」
キルメン・ウリベ 作
スペインは北部バスク地方の言葉で書かれた小説。かつてバスク地方の叙事詩といったものもあまり無く、現在バスク語を話す人間はスペイン国内の3割くらいといった状況らしい。
とはいってもこれはバスクの歴史でもなんでもなく、作者がバスクの地元からニューヨークへ旅する途中で心に浮かんださまざまな出来事を徒然なるままに書き綴って、親子3代の暮らしを振り返るという内容だ。しかもストーリーはまるで無くあちこちで聞いた実話をすこしづつ繋いでいく、エピソード小説といった類いのもので、やや奥行のあるエッセイのようだ。
そもそもは地元の画家と建築家の友情深き交流の後を追って、かれらの縁者をたずねた話から始まるが、かつて出会ったいろんな人から聞いて書き留めた話へと限りなく繋がっていくので、あまり人物名を覚えていても仕方がないような気がする。作者の実家が漁師で、わざわざスコットランドの北方ロッコール島やデンマークの先っちょスケーエンまで出かけていく遠洋漁業の話がおもしろい。
その他もろもろ実話ばかりだが、この時代スペインがフランコ独裁政権下であり、バスク独立闘争があったことは基本です。
「悲しみを聴く石」 アディーク・ラヒーミー 作
戦禍のアフガニスタン。英雄として讃えられていた夫は、首に銃弾を撃ち込まれたまま植物人間と化して帰宅。妻の手によって毎日カテーテルから栄養を注ぎ込まれている。妻はコーランの教えにしたがって数珠をたぐりながら正しく祈りを捧げているが、約束の2週間を過ぎても夫はまったく目覚める気配はない。砲撃の音を近くに聞くなか、戦争は街に迫り、やがて銃を手にした男達がやってくる。
話しかけてもなんの反応もないこの極限の状態で、妻は初めて夫に愛や性や生活に関わるほんとうの思いを語りはじめる。それまでの生活がDV状態なのだから、夫が植物人間というこの設定があって初めて女性の思いを明らかにすることができるのだ。これが現代アフガン女性の人生というものなのか。
旧弊残る男性社会のなかに生きるイスラムの女達が何を考えて生きているか。あたりまえのことだがそれは世界中の人々となんら変わらない。
「断片的なものの社会学」岸 政彦 著
世の中全体とはなんだ?
著者が社会学者であることを読んでいる我々が忘れてしまうほど、市井のただなかでモノを見る。学識豊富であることが壁(限界)になっていないという希有な才能かも知れない。
例えば散歩中に見かけたビルの窓からエレベーターを待つ人を見つけたなど、まったくなにげないなんの意味もないが、なにかふと気になることを書き留めている。ここまで小さなことをわざわざ文字にすると、人間の日常感の由来のようなもの、ごく微弱な電波をセンサーに引っ掛けながら、そして自分も発信しながらこの社会ができているような感覚を再発見する。
発見されなかったヘンリーダーガーがいたかも知れない世界や、そもそもダーガーがいなかった世界。ということを知られない世界。そんなふうに視点をゼロから拡げて考えてみて初めて気付くことがある。
著者はこどものころ、道ばたに落ちている小石を拾ってきて、その色や形を飽くこと無く見つめていたという。このなんでもないものを凝視する才能がこのエッセイ集を成り立たせているようだ。
もちろんふだんのフィールドワークで、流しのギター弾きのおっちゃんやセックス産業で働く女性などのインタビューもあり、われわれがしらない世界の話をきく楽しみもあるが、もっとなにげない平凡な出来事から全て繋がっている。
さて著者と同じように世界を感じるかどうかは人による。ということは人の数だけ世の中全体があるのだ。
「天体による永遠」 オーギュスト・ブランキ 著
パリ・コミューンに至るフランス革命史をよく知らないし、稀代の革命家とされるブランキのことも全く知らないで読んだ。ブランキ晩年の獄中にて書かれた宇宙論。
この著作が書かれた1871年の時点で宇宙についてどれくらいの知識が共有されていたかわからないが、スペクトル分析の結果遥か宇宙の彼方でもその組成は同じであることはわかっていて64元素の一覧表まで添付してある。
宇宙が無限であるにもかかわらず、構成元素は100あまりで、したがって宇宙を構成する無数の恒星はほぼ同じようなものであって、そのまわりを回る惑星の距離や性質も似たようなもの。そうなると地球と同じ環境の惑星が無数にあるということになる。
ここからは無限論のはなしで、われわれとまったく同じ地球がまったく同じ運命を持って、まったく同じ個々の人生が永久にくり返されているという世界観が展開される。これがベンヤミンが震撼したペシミズム。そしてニーチェの永劫回帰が容易に思い起こされる。
ままならない人生と世の中が永遠にくり返されているのは、そうやって俯瞰すれば確かにニヒリズムでありペシミズムであるが、個々の人生にとっては一回きりとしか感じられないのだから、この今の人生がたとえ2620回目だったとしてもどうということはないはずと思う。この人は何度も投獄されていて、人生の大半を獄中で過ごしているから、この世界観にたどりついたのではないか?と浅薄なことを考えてしまう。
「雪の練習生」 多和田葉子 作
しろくま三代記。しろくま(ホッキョククマ)といっても人間と同様に暮らし、初代のクマはライターであり、サーカス時代からの自伝を書いてベストセラー作家となる。編集長はセイウチである。ソビエトから西ドイツへ亡命し、憧れのカナダ暮らしを経て東ドイツへと彼女の運命は激変する。
二代目トスカの話はサーカスの担当訓練士の女性の伝記という形をとって語られる。この第2話を読んでいる限りは人間が主人公なので、ふつうの文芸作品を読むスタンスで落ち着いて読める。
最後に三代目男の子クヌートが赤ん坊のころからだんだんと世界を理解していく様子がクマ目線で描かれる。動物園での閉鎖された暮らしがなんだか寂しい。
とにかく人語を操って人間と同様に暮らすクマ達と言う童話のような設定なので、それでありながら見せ物としてサーカスや動物園で暮らしてもいるし、人間扱いされているのやらいないのやら、たいへん不思議な読後感がある。とにかくシロクマなのでかわいらしくって仕方がない。