漫画家まどの一哉ブログ
- 2023.10.30 「木曜日だった男」 チェスタトン
- 2023.10.26 「沈黙」 遠藤周作
- 2023.10.24 「ノートル=ダム・ド・パリ(下)」 ユゴー
- 2023.10.14 「ノートル=ダム・ド・パリ(上)」 ユゴー
- 2023.10.06 「転落」 カミュ
- 2023.10.02 「死霊の恋/化身」ゴーチェ恋愛奇譚集 テオフィル・ゴーチェ
- 2023.09.26 「火山の下」 マルカム・ラウリー
- 2023.09.11 「ザイム真理教」 森永卓郎
- 2023.09.08 「圧力とダイヤモンド」 ビルヒリオ・ピニェーラ
- 2023.09.04 「死と乙女」 アリエル・ドルフマン
「木曜日だった男」
チェスタトン 作
(光文社古典新訳文庫・南條竹則 訳)
社会の破壊を企む無政府主義者の秘密組織。身分を隠して潜入した刑事が出会った七曜のコードネームを持つ奇人たちの正体は? ブラウン神父シリーズ以前のチェスタトン傑作長編。
徹底して荒唐無稽・奇妙奇天烈なお話。無政府主義者組織の面々がそれぞれかなり個性的な曲者で、ボスは「日曜日」と呼ばれる巨漢。メンバーの教授や博士、侯爵や書紀は「土曜日」や「月曜日」などのコードネームを持っている。
主人公の青年は次々とこれらの奇人たちと渡り合う展開になるのだが、いわゆるキャラが立ったエンターテイメント設定で飽きさせない。
これらの人物とだんだん膨れ上がる追いつ追われつの一大スペクタクルは、かなり現実離れしているので、ある種の幻想文学的風味と言えるかもしれない。言ってみれば漫画のような話だが文学的な味わいはあるので、ボルヘスの好みに沿うところかもしれない。
騒動がエスカレートしてゆくしかないストーリーををどうやって終わらせるのか?チェスタトンはそこまで考えていたのだろうか?という終わり方をする。
「沈黙」
遠藤周作 作
(新潮文庫)
1638年江戸期。キリスト教禁制により国交も途絶えたポルトガルより日本に潜入した宣教師ロドリゴ。彼が見た拷問と背教の真実とは…。残された書簡も交えて構成されたキリスト教文学の名作。
登場人物の中でユダの役割を演じるキチジローの存在が秀逸である。何度も裏切って司祭(パードレ)を罠に嵌めながら、自身の弱さを嘆き告解を願い司祭につきまとう。なにを考えているのかわからない。意志弱き人間だが、老獪な奉行イノウエや通辞に加えて彼がいることが大切だ。社会は単なる善対悪の対決ではない。
私は以前より踏み絵というものの迫真性がわからないが、司祭であるロドリゴ自身もキリストの姿を若き頃より敬愛し、潜伏キリシタンの村民も踏み絵を踏むことができない。このように神の姿・偶像への崇拝が非常に強いのはキリストの最後の過酷な姿が影響しているのかもしれない。
キリスト教は間違いなく普遍性を持った世界宗教であり、どの国に生まれようと人間であれば信仰することができる。全ての人間の悩み苦しみを救うことができる。しかしその正否は別で、ドーキンスの「神は妄想である」を結論とする自分からすれば信仰とは永遠の謎だ。
人間をはるかに超えた異質の超越的存在である神の絶対命令。死ねと言われれば死に殺せと言われれば殺す。この超越者の存在を確信する基準がわからない。やはり日常意識に先んじて体感する当然の存在なのだろうか。
ロドリゴが最後に得た結論。人間の苦難を前に沈黙を守り姿を現さない神。踏み絵を踏んでその神を裏切ったからといって、神は万人のものではなくあくまで個人のもの。カトリック教会全体が自分を非難しようと、踏むことを許した神が自分にとっての唯一の神であるとの結論は、なにか本質に近づいたような、少し目の開けた思いがした。
「ノートル=ダム・ド・パリ(下)」
ユゴー作
(岩波文庫 辻 昶・松下和則 訳)
魔女として追われる身となった無実のエスメラルダ。彼女を救い出したカジモド。ノートルダム大聖堂を舞台とした騒乱の行方は!?
司教補佐クロード・フロロは聖職者でありながらエスメラルダに一方的な愛を寄せるが、彼女が嫌がって強く拒絶しているのにもかかわらず、相手の心情を全く顧みない。自分の苦悩と絶望を滔々と語り憐れみを要求するなんともエゴイスティックなものである。しかも彼女の容姿ばかりに惚れ込んでいて人格全体を愛そうとしているわけでは無論ないのだ。しかしこんな男はざらにいることを作者は意図して書いている。
カジモドがエスメラルダをかくまい、大聖堂へ宿なし組の大群が押し寄せる決戦の大舞台となったとろで、章立ては突然バスチーユ城砦奥の間でのルイ11世の決算報告書裁定の場面となり、これが不必要に長い。要は宿なし組の討伐を決定するのが目的だが物語のバランスで言うとここまでルイ11世を描かねばならないのか疑問だ。
しかし実はこれもユゴーが現代流のエンターテイメント作家ではないことの現れかもしれない。いよいよエスメラルダが縛り首にされようとし、カジモドが大聖堂からそれを発見する時点で、ふつうに読者サービスするならば危機一髪の劇的クライマックスを期待するところ。しかしユゴーはあくまでリアリズムを貫きご都合主義的な快感を追わない。それまで運命的な母と子の別れと出会いまで演出しておきながら、このラストの非情なさりげなさはなんだろうか。しかしこれは我々が現代劇のお約束に慣れ過ぎているだけで、ほんとうはこれでいいのかもしれない。
「ノートル=ダム・ド・パリ(上)」
ユゴー作
(岩波文庫 辻 昶・松下和則 訳)
15世紀パリ。ノートルダム大聖堂の鐘番であるせむし男をめぐる数奇な運命の物語。
「ノートルダムのせむし男」として知られる傑作長編。文庫本上巻の半分までは詩人にして劇作家のグランゴワールを中心に話が進む。彼の創作による聖史劇が上演される裁判所大広間にさまざまな人物がなだれ込み、群衆を巻き込んでの大騒動になるのだが、かなりのドタバタ劇で楽しい。
いっかな見てもらえないまま聖史劇は終わり、主要人物せむし男のカシモドやジプシーの踊り子エスメラルダなども登場するが、貧乏詩人グランゴワールの悪運とその夜の放浪が描かれて物語の4分の1は終わる。
そのあと幕間の息抜きのためかノートルダム大聖堂の歴史や15世紀のパリの様子、印刷術の発明により文化の担い手が建築から印刷物へとシフトすることなど蘊蓄が披露される。面白く読めるがかなりの長さだ。
さていよいよ主人公カシモドの話。身障者として生まれた彼だが、子供のうちから動物や悪魔の子呼ばわりされ容赦のない差別を受ける。そして情に熱く美しい若き踊り子エスメラルダ。彼女もジプシーゆえの蔑視経験は言うまでもない。だがこの2人、実は幼き頃より運命の糸で結ばれていた?!
ロマン主義文学の魅力満載の面白さ!以下下巻へ!
「転落」
カミュ 作
(光文社古典新訳文庫・前山悠 訳)
自信に満ち溢れて悠々と生きていたはずの弁護士の男は、いかにして落ちぶれたか。その半生を本人が滔々と語る一人称小説。
語り手の男は弱き者のため献身を惜しまぬヒーローとして喝采を受ける毎日。その誇り高き姿は、実は自己愛を動機とする浅はかなものであることがしだいに明らかにされる。ほんとうに困難な人を思いやっているのではなく計算ずくで、周りの礼賛に酔いしれているのだ。
この前半から3分の2くらいまでの進行が、どちらかというと冗長でやや飽きてくる。彼の薄っぺらな人格はすっかりお見通しでなのだから、もっとどんどん進んでくれてけっこうだ。カミュにはいつもそんな感想を持ってしまう。
男はこの悠々たる人生がしだいに自身でも不安になり、この嘘で仕上げた自分に疑問と不安を抱き始めるが、これはたぶん年齢と共に起きてくる現象であろう。誰だってそうだ。そして死が近づくにつれてこの大嘘を抱えたままで黙って死んでしまうのは耐えられない。このあたりからこの作品は一気に加速度をつけて面白くなる。しかしこれは「転落」というほどのことではないと思う。
文庫解説によると当時サルトル・カミュ論争が盛んで、この論争に負けたカミュの鬱屈と憤懣が作品に影響しているらしい。私は小説家としては圧倒的にサルトルを推すが、マルクス主義に寄り添った実存主義なるものは端的につまらないので、カミュにも同情してしまう。
「死霊の恋/化身」ゴーチェ恋愛奇譚集
テオフィル・ゴーチェ 作
(光文社古典新訳文庫・永田千奈 訳)
19世紀後半フランス幻想文学のエース、ゴーチェの恋愛をテーマにした代表的3編を収録。
久しぶりにゴーチェを読んで、さすがに安定した面白さだった。文庫解説によるとゴーチェは単に作家であるだけでなくジャーナリスティックな仕事を多くした人で、芸術分野の公的な役職にもついている。そう言われてみれば、ゴーチェの作品は冷静に計算された落ち着いた作風であり、社会的異端者による狂気を孕んだタイプではない。この点は以前は気付かなかった。
この本は全て男性主人公が魅惑的な女性に恋をする話である。これはこの時代のこの手の設定の定番、あるいは上流有閑階級が舞台であるせいかもしれないが、女性への恋がほとんど容姿への執着であり、いかに優れた他に類を見ない絶世の美貌であるかが筆を尽くして語られる。それだけで主人公の男性にとっては一生をかけてその女性の愛を得る理由になるのだ。
これは女性のトータルな人格を無視した、あまりにも失礼な女性観と言えるが、はたしてまだまだ社会がそういう時代だったのか、小説ゆえのおなじみのパターンだったのかわからない。
「死霊の恋」は悪霊・吸血鬼譚、「アッリア・マルケッラ」はタイムスリップ譚で、どちらもその後の怪奇小説のベースとなった作品かもしれない。「化身」のラストは果たしてハッピーエンドなのか、呪術使いの邪心ある医師のみが得をしている気がする。
「火山の下」
マルカム・ラウリー 作
(白水社)
1938年メキシコ。酒に溺れて破綻した生活を送る元英国領事。その破滅に至る1日を匂い立つ文体で綴る悪夢的傑作長編。
主な登場人物は主人公の領事と一度別れたが戻ってきた妻のイヴォンヌ。そしてイヴォンヌが一時身を寄せていた領事の弟ヒューの3人である。領事は最愛の妻が戻ってきたのに、一度自分の元を去った彼女に対して素直な喜びを表現できない。感情面でまだまだリスタートに踏み出せないのだ。
領事はアルコール中毒でありながらも日常生活はなんとか送れるのだが、身の回りの認識にところどころ幻視幻覚が混ざり、彼の行動を追って読んでいるだけでこちらも酔っているような感覚になる。
何をするにも先ず一杯飲まないと始められないし、言動は基本的にダウナーで、行動原理に合理性が乏しく迷走感満載だ。
この領事の浮遊感に魅入られてしまい、現実離れしながら生きていく楽しさと確実に破滅へ向かうであろう虚しさに引き込まれて止まらない。たとえば弟ヒューの人生を振り返ったエピソードも多く登場するが、これは素面の人間の格闘でありいわば普通である。それに比べて酒と共に生きる領事が現実を失っているのにそのまま話の主軸であるのが奇跡的であり、これも一種の幻想文学の傑作と言っていいかもしれない。
「ザイム真理教」
森永卓郎 著
(三五館シンシャ)
頑なに財政均衡主義を守り、税収削減を一歩たりとも許さない財務省。長年に渡り日本人を支配してきた財務省のカルト戦略を明らかにする話題の書。
国の借金というものをわれわれ個人や企業一般のそれと同じに考えてよいか?このあたりは普段からよくわからない問題で、自分の知識では考えを進めることができない。
さて、財務省の吹聴する財政赤字というものは保有資産を無視しており、これを勘案すると日本はそれほど多大な借金を抱えているわけではないようである。(またその負債が国民一人一人の肩にかかっているかのように脅すのも姑息だ)
日銀(中央銀行)というものの理解が難しく、国債を日銀が直接買うことで何が行われたことになるのかがイメージできない。この負債は返済期限がくるたびに借り換えを繰り返し続けても問題はないらしい。
実際2022年にオーストラリアの中央銀行で純資産がマイナスになっていたが、中央銀行はお金を作る能力があるため支払いに何の問題も起きなかった。また日本で2020年に新型コロナ対策で80兆円もの赤字が出てプライマリーバランスがおおきく崩れても、ハイパーインフレも国債の暴落も起きていない。こういう具体例を示されると納得してしまう。
それならば増大する社会保障費対策と称して消費税を上げていくのは国民生活を無視した愚策であり、財政出動も少ししかしないのであれば我々の貧困化は避け難いものだ。これもザイム真理教による財政均衡主義の布教が徹底して国民に行き渡っている成果である。
本書では国民生活をかえりみないザイム真理教の活動の結果であり目的でもある富裕層の優雅な人生設計が紹介される。またこの本を出版することが困難であったエピソードも面白いが笑い事ではないのだ。
もとよりしっかり理解できているわけではないが、スラスラと楽しく読めた。
「圧力とダイヤモンド」
ビルヒリオ・ピニェーラ 作
(水声社・山辺弦 訳)
国民の多くが得体の知れない圧力に怯え、収縮や雲隠れ・人工冬眠などの手段で人生を捨ててしまう。ただ1人圧力者の正体に立ち向かった宝石バイヤーの運命やいかに?キューバ文学。
解説を読んで作者ピニェーラが生前はキューバ政権のスターリニズムに弾圧されて陽の目を見ないまま亡くなったことを知ったが、そうするとこの作品の主題である目に見えない圧力とは政権の弾圧のことだったかとも思う。
しかしそう単純にとらえなくても、この不思議な作品は楽しんで読むことができる。最初から地球を脱出した人々の話題まで出てくるが全く解説されない。
主人公は宝石仲買人でそれなりの会社の一員だが、宝石仲買人とは自身は庶民ながら富裕層と接触できる面白い立場だ。それを活かして噂の宝石をめぐる競合会社との争いをもっと描いて欲しかった。会社の社長一族まで登場しながら、話はどんどん外れて巨大なカードゲームビルや、人工冬眠装置などへ進んでしまう。
このあたり話全体のバランスで言うと、あまり話を広げず、宝石売買の通俗的おもしろさを保ちながら奇怪な圧力の正体に迫ることはできなかったか?なんとなく、とっ散らかった印象があるのでそう思ったが、作者はもっと大きな世界を考えていたようだ。空想力の勝利だ。
「死と乙女」
アリエル・ドルフマン 作
(岩波文庫・飯島みどり 訳)
ピノチェト独裁政権失脚後の不安定な政情の中、民主化を推し進める南米チリ。かつて自分を拷問した医師にめぐりあった女性パウリナのとった行動とは…。世界中で公演された傑作戯曲。
登場人物は3人のみの室内劇ながら息を呑む驚くべき展開。世界中に絶えることのない独裁政権が監禁した反対勢力者に対していかに非道な拷問を行うか。なかなか現代日本で暮らしていて身近に知ることはできないがこれが真実であろう。
またそれが平凡で善良な人間(この作品では医師)によってたやすく行われてしまうのも人間の真実である。
拷問・強姦を経て生き残ったパウリナの大胆な復讐劇が開始されるが、問題の医師はあくまでもしらを切り続け、民主化を目指す新政権で重要な役割を担う弁護士の夫はことを荒立てまいと必死。たしかにこの3人がいればこの舞台は充分出来上がる。起きていることはたったひとつだが実にスリリング。この緊張感がたまらない。
それにしても軍事独裁政権が倒れても、すっかり全部が民主化勢力と入れ替わるわけではい。旧政権側は単に少数派になっただけで議員は解任されたわけでもなく官僚たちも残っている。支持者勢力も温存されている。この条件で舵取りせねばならない民主化の難しさ。これが世界中で繰り返されてきたのだと気づいた。