漫画家まどの一哉ブログ
「母なるもの」
遠藤周作 作
(新潮文庫)
隠れ切支丹の里やエルサレムを巡り、自身の屈折した信仰体験を赤裸々に語る。長編作品に劣らないキリスト教文学の傑作短編集。
長崎での講演会の後、ティーパーティーに参加していた外人神父が「基督教は我々にとって宗教じゃありませんよ。国や民族を超えた真理ですよ」と一言。なるほどキリスト教は宗教以上の絶対的なものなのだ。全く相対化しようとしない。これが世俗化されない本来の宗教の姿だとは思うが、これでは他宗教・他民族へのジェノサイドもなんの痛痒も感じないであろう。
著者は熱心なカトリック信者である母の教えのもと、幼き頃より信者として生きて来たが、その信仰人生は自身のもつ劣情や卑俗な一般性との矛盾と戦いであった。そしてこの葛藤の存在を見ようとしない日本のキリスト教社会に常に居心地の悪さを感じて来たようだ。エルサレムで出会った日本人学生の聖地巡礼団や指導する著名な日本人神学者などの、きれいなもののみを追いかける表面的な態度に著者は馴染めない。
かつて付き合いで入った青線の部屋で、娼婦の勧めたかき氷にすら汚さを感じて手も触れずに逃げ出した若き著者。その時は信仰を守ったつもりでも、彼女を蔑んだ行為はキリスト者としてどうだったのか?ただ汚れから離れて身を守ることが正しきクリスチャンなのか。この葛藤があるのが誠実さというものだろう。
エルサレムでもピラトの官邸やヘロデの館、カヤパの家など、イエスを裏切ったり裁いたりした人間の跡を追う。本来のカトリックとはかけ離れたものになっていた隠れ切支丹の跡を訪ねるのも、正当な信仰への後ろめたさと疑義を感じていたゆえかもしれない。しかしこれこそが敬虔というものではないか。
キリスト教のことなどなにも知らずにいうけど…。