漫画家まどの一哉ブログ
- 2024.08.11 「ポトゥダニ川」プラトーノフ短編集
- 2024.08.05 「魔の聖堂」 ピーター・アクロイド
- 2024.07.22 「パリの夜」革命下の民衆 レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ
- 2024.07.14 「文盲」アゴタ・クリストフ自伝
- 2024.07.11 「イエスに邂った女たち」 遠藤周作
- 2024.07.09 「父の娘」たちー森茉莉とアナイス・ニン 矢川澄子
- 2024.07.05 「ザ・ロード」 ジャック・ロンドン
- 2024.06.28 「小説作法」 小島信夫
- 2024.06.10 「母なるもの」 遠藤周作
- 2024.06.03 「義とされた罪人の手記と告白」 ジェイムズ・ホッグ
「ポトゥダニ川」プラトーノフ短編集
アンドレイ・プラトーノフ作
(群像社・正村和子・三浦みどり 訳)
貧困の中でも悪意なくただ正直に生きることしかできない。そんな人々のあまりに極端な人生…。
「ポトゥダニ川」:戦争から帰ったばかりの青年ニキータ。貧困のなかで医師を目指すリューバと愛し合い結ばれるが、あまりにピュアな男で、彼女の幸せばかりを考えている。自信と覚悟というものがないのか、ある日彼女が寝ながら涙しているところを見て、絶望のあまり家出してホームレス生活に入ってしまう。若いとはいえ、ガラス細工のような男だ。しかし真面目で無垢で嘘がないので、いい夫だと思う。貴重な人材だ。
「セミョーン」:彼は子供ながら長男で、彼のあとにどんどん弟・妹が生まれるものだから、毎年お産する母親を手伝って幼い兄妹隊の世話や家事を一手に引き受けている。いわゆるヤングケアラーかもしれない。父親は仕事ばかりだが、そもそもこの父親が子供を作りすぎるのではないか?昔はそんなもんか…?
「たくさんの面白いことについての話」:主人公は頭の切れる開明的な男で、新しい科学的知見をもとに貧しい村を大改革してゆく。しかしこれはリアリズム小説ではなく、全体的に大味な構造で、ある種の寓意小説のようなものである。電気の正体を求めて宇宙へ飛び立ったりSF的な展開もあるのはソビエト揺籃期ゆえの作品か。しかし世界全体と人生とはなにかを一気に把握しようとするプラトーノフのスケールを知ることができる。
「魔の聖堂」
ピーター・アクロイド 作
(白水Uブックス・矢野浩三郎 訳)
魔教の企みを隠したままロンドンに建てられた7つの教会。少年をいけにえとする呪いが、現代社会で犯人不明の連続殺人事件となって現出する。新進気鋭の現代英文学。
科学を信じず魔教を信仰する教会建築家ダイアー。彼を主人公とする過去の物語。そして少年の遺体が教会で発見され、事件を追う警視正ホークスムア。彼を主人公とする現代の物語。
この2つの物語が交代に登場する仕掛けになっているが、この過去と現代のつながりは、わかりやすい形では書かれていない。個々の話自体は独立して面白い。
現代劇のほうはテレビドラマを見ているように安心して読める。ただ警視正ホークスムアがしだいに呪いの謎を解き明かすわけではないので、カタルシスは得られず迷宮と挫折が待っている。エンターテイメントの痛快感とは真逆の結末。
それより過去劇。魔教を信じる教会建築家ダイアーが、日々更新される科学的知見をものともせず、ひとつひとつ呪いを仕掛けた教会を建てようとする話はかなり珍しい設定で面白い。科学の推奨者である師匠、ライバル建築家、図面を描くのに苦闘するたった一人の弟子、その他個性的な脇役が諸々登場して愉快な書き様。幻想文学のふりをしているが不思議なことは何ひとつ起こらない、世俗的な喜劇のようなものだ。
したがってこの作品は過去劇と現代劇の2つの別々の作品といった印象であります。
「パリの夜」革命下の民衆
レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ 作
(岩波文庫・植田祐次 編訳)
フランス革命で騒然とする夜のパリを歩き巡り、虐殺と混乱を綴った渾身のルポ文学。
そもそもこの作品。最初は自身を「観察するふくろう」と名乗って、「ばらばらにされた死体」や「女装の若者」など毎夜出会う風変わりな出来事を、暇を持て余す「気ふさぎ婦人」に報告するという体裁で書かれていて、そのまま続けてもらったら楽しい日記文学だった。
ところが時代はフランス革命の真っ只中となり、バスチーユ監獄襲撃から始まって物騒な出来事が次々と起こり、呑気な夜の散歩どころではなくなる。
そうなると恥ずかしながらフランス革命に関する知識が乏しい読者(私)としては、細かい推移についていくのは無理というもの。そして事件はひたすら悲惨な殺戮の繰り返しとなる。これも革命ゆえ仕方のないことなのか…。
作者レチフは貴族階級には批判的、王権やブルジョアジーには親和的なようす。彼にとっておおいに憎むべきは下層階級で、彼らは社会的視野ももたずひたすら利己的で、おもしろがって残虐非道な殺戮をくりかえす許されざる輩。身分が下層ゆえかどうかはともかく、こういった人間はいつの世でもいるようだ。
たとえば漫画で読むフランス革命のようなもので、あくまで小説であるにしても、ルイ16世が断頭台に送られるまでの推移が理屈抜きで分かる。ただあたりまえだが背景となる政治の動きはこちらが学習しないとわからない。
「文盲」アゴタ・クリストフ自伝
アゴタ・クリストフ
(白水Uブックス・堀茂樹 訳)
本ばかり読んでいた幼い頃から、ハンガリー動乱期に乳飲み子を抱えて亡命。働きながら「悪道日記」を書くまでの波乱を描いた自伝。
自伝と言っても数行読み出すやいなや、大きなドラマを読んでいるようなダイナミズムを感じるのはなぜだろう。貧しい家で育ちながらも本を読むことに明け暮れているだけで、まだ何も起きてはいない。それでも語りには動きがあり、自伝文学と小説家クリストフはもう始まっている。
やがて若きクリストフ夫婦は赤ん坊を抱えてスイスへ亡命するが、この土地(スイス)で使われているフランス語が読めるようになるまでがたいへんだ。音が理解できても表記からはその音が思い浮かばない。労働者であったハンガリー人の作者が母語以外で作品を書くまでの苦労が大いに語られる。「文盲」とはフランス語が読めないという意である。
それにしてもスイスの時計工場で働きながら職場で提供される昼食が、ハンガリーのものとまるで違っていて一口も口にできないとは。同じヨーロッパとは言えそんなにも違うものかと驚いた。
ハンガリー始めソビエト政権下の東欧諸国の歴史について私は不勉強。
「イエスに邂った女たち」
遠藤周作 著
(講談社文庫・1990年)
新約聖書に登場する数人のマリヤ。そのエピソードを描いた14点の名画図版をはさみながらイエスの足跡を追う。
イエスの教えが師匠ヨハネと違うところは、神を厳しい父のような存在ではなく、やさしく赦してくれる母として見ているところ。遠藤周作は新約の記述からより正確な事実であろうところを読み取って考えてゆく。
イエスの母マリアも最初は平凡な女性で、縁者ともどもイエスの振る舞いに困惑するが、しだいに我が息子を信じることとなる。
有名なマグダラのマリアも単なる尻軽な女ではなく、ほんとうに信頼できる男性を求める真剣で熱烈な重い女なのだ。男たちは薄情にも逃げ出したが、彼女はイエスの墓にまで付き添った。
ベタニアのマルタとマリア姉妹の逸話も二人の間で板挟みになり、どちらをも立てようとするイエスの計らいが面白い。遠藤周作の見立てはさすがに小説家ならではの人間味があって愉快だ。
それにしても父としての神ではなく、全てを赦してくれる母親としての神は、人間誰しも必要とするものかもしれない。なにしろその全てとは自分がやったこと、思ったことのみならず、無意識の領域まで含んだ完全に自分の全て。はっきり言って神が人間の妄想(ドーキンス)であっても、なぜ人はそんな超越した存在を必要とするのか、その気持ちはわかるというものだ。
「父の娘」たちー森茉莉とアナイス・ニン
矢川澄子 著
(新潮社・1997年)
父、鴎外の溺愛を受けて育ち、鴎外が亡くなった年齢から作家となった森茉莉。離れた父親に見つけてもらうために日記を書き始め、やがて性愛に至るアナイス・ニン。「父の娘」として生きた二人を追う。
森茉莉が好きで読み始めたが、恥ずかしながら著者矢川澄子のことをよく知らず、その知性あふれる格調高い文章に驚いた。短いものでも脳内に電流が走る思いだ。
森茉莉は54歳でデビューした初めから森茉莉以外の何者でもない完成された世界を持っていて、これも全て鴎外に溺愛され完璧なる幸福で満たされた世界で育ち、びくともしない自己肯定感を得た結果である。過保護がこれほど人生にプラスになっている例はめったにないのではないか。そもそも我々凡人とは環境が違うが、鴎外亡き世界に不安はなかったのだろうか。
アナイス・ニンも自分は全く知らず、その世界文学の名作とされる日記作品を読んでみなければなんとも言えない。ただ父親を慕うあまり近親相姦者となり、同時に多数の男性とも関係を結んでいく奔放な生き方にはあまり関心が持てない。
「父の娘」といえばそうだが、森茉莉とあまりに違い、併録する必要はなかったのではないか。
「ザ・ロード」
ジャック・ロンドン 著
(ちくま文庫・川本三郎 訳)
大陸横断鉄道に無賃乗車して旅を続けるホーボー(放浪者)たち。著者若き頃の実体験を綴ったスリリングなアメリカ放浪記。
ジャック・ロンドンを読むたびに同じことを思うが、やはり部屋の中でじっとしていられない、体が先に動いてしまう行動型作家ならではの作品だ。
ホーボーと呼ばれる鉄道タダ乗り放浪者の存在はまったく知らなかったが、文庫本図版を見る限り列車の連結部や客車の下、天井など、かなり危険な部分に飛び乗り・飛び降りを繰り返している命懸けの旅である。それでも物乞いを続けながら自由に彷徨う喜びには換えられないというわけ。
日本でも山頭火や井月など彷徨う人はいるが、ホーボーは仏教的な無常感ではなくいかにもアメリカ的な明るさがある。ヨーロッパでもこんな奔放な訳にはいくまい。やはり新しい国ならではのフロンティア精神の余波のようなものかもしれない。
とりあえずジャック・ロンドンを嚆矢としてヘミングウェイや日本では開高健にしても、基本的に体が丈夫な作家の描く世界という認識であります。
「小説作法」
小島信夫 著
(中公文庫)
小説を書くとはどういうことか。古今の作家と自身の創作の秘密をめぐってその謎を解き明かすエッセイ集。
小島信夫はなんとも不思議な作家で、いかにもこういうことを書いたというわかりやすいイメージを得られない。本書の融通無碍な行方知らずの文体もなにやら細い脇道を彷徨うようでどこへ連れて行かれるのやらわからない。だがその謎は小説の面白さを解き明かしていく過程でしだいに明らかにされる。
脇道へ逸れること、つぎつぎと話が脱線していくことを厭わず、むしろそれを優先して拾っていく。そこをあえて大切にする。トークや講演などを読んでいると、けっして理路整然としていないわけではないが、非常に細かい頭の中の揺らぎが手に取るようにわかり、しかもそれが面白いのだからこれは作家の資質ならではなのかもしれない。
カフカの作品ではその時代の精神構造を具体化するような、いかにもほんとうに生きているような人物は造形されず、それはKなる象徴的な人物によって代表される。この言わば抽象的な表現にもかかわらず、時代精神や人間性はひしひしと伝わってくる。それはやはりカフカが批評家ではなく小説家であるせいで、イメージから出発してそのまま論理を介在させずに展開してゆくからこそ成立するのだ。それでなくてはわれわれは楽しむことはできない。
この辺りの秘密は小島信夫作品が何を書いたのかはわからないがめっぽう面白いことのヒントになるかもしれない。小島はけっして抽象的ではなく、むしろ自然主義的なリアリズムを大切にするが、読んでいるとこれはほんとうにリアリズムなのかケムに巻かれたようなフワフワした印象を持つ。
「母なるもの」
遠藤周作 作
(新潮文庫)
隠れ切支丹の里やエルサレムを巡り、自身の屈折した信仰体験を赤裸々に語る。長編作品に劣らないキリスト教文学の傑作短編集。
長崎での講演会の後、ティーパーティーに参加していた外人神父が「基督教は我々にとって宗教じゃありませんよ。国や民族を超えた真理ですよ」と一言。なるほどキリスト教は宗教以上の絶対的なものなのだ。全く相対化しようとしない。これが世俗化されない本来の宗教の姿だとは思うが、これでは他宗教・他民族へのジェノサイドもなんの痛痒も感じないであろう。
著者は熱心なカトリック信者である母の教えのもと、幼き頃より信者として生きて来たが、その信仰人生は自身のもつ劣情や卑俗な一般性との矛盾と戦いであった。そしてこの葛藤の存在を見ようとしない日本のキリスト教社会に常に居心地の悪さを感じて来たようだ。エルサレムで出会った日本人学生の聖地巡礼団や指導する著名な日本人神学者などの、きれいなもののみを追いかける表面的な態度に著者は馴染めない。
かつて付き合いで入った青線の部屋で、娼婦の勧めたかき氷にすら汚さを感じて手も触れずに逃げ出した若き著者。その時は信仰を守ったつもりでも、彼女を蔑んだ行為はキリスト者としてどうだったのか?ただ汚れから離れて身を守ることが正しきクリスチャンなのか。この葛藤があるのが誠実さというものだろう。
エルサレムでもピラトの官邸やヘロデの館、カヤパの家など、イエスを裏切ったり裁いたりした人間の跡を追う。本来のカトリックとはかけ離れたものになっていた隠れ切支丹の跡を訪ねるのも、正当な信仰への後ろめたさと疑義を感じていたゆえかもしれない。しかしこれこそが敬虔というものではないか。
キリスト教のことなどなにも知らずにいうけど…。
「義とされた罪人の手記と告白」
ジェイムズ・ホッグ 作
(白水Uブックス・髙橋和久 訳)
自分を神に選ばれた者と信ずる頑なな信徒ロバート。いつのまにか不思議な力を持つ友人の意のままになり悲劇へと突き進んでいく。信仰の欺瞞と悪魔の企み。世界怪奇幻想文学の傑作。
熱心なキリスト信者である母の影響を受けて、狂信的とも言える信仰を振りかざす青年ロバート。母とは別に平凡な父親の元で育った兄ジョージを堕落した精神の代表であるかの如く執拗に批判し付け回す。一見ロバートのみが世間から仲間はずれにされても正義を貫く聖人のように見える。
しかしこの主人公ロバートが実は極めて臆病で卑劣な人間であり、だからこそ自分が神に約束された人間であると信じることで自分守っているのだ。なにせ彼の奉じる「道徳律廃棄論」では神に選ばれた人間は現世で徳を積む必要はなく、いかなる悪事を働いても末は天国が約束されているのだから。
この自己欺瞞的な生き方こそが悪魔に取り込まれるもってこいの条件であり、悪魔は友人のふりをして近づき、しだいに彼を連続殺人者へと仕立て上げてゆく。
悲しいかな人間とはなんと弱いものだろう。悪魔の振る舞いを通じて容赦無く展開される悲劇に息を呑む思い。悪魔の技は確かに不思議ではあるが、描写はあくまで現実的あり詩的でもシュルレアリスムでもなく地についた感覚で、サスペンスを読むように楽しめる。肩の凝らない通俗性がある。
全体の構造は単純と言えばそうだが、悪魔に操られて破滅へと突き進んでいく様子があまりに面白く(恐ろしく)、間違いなく怪奇幻想文学の埋もれた傑作である。もし世界怪奇長編小説アンソロジーがあるのなら外せない名品であると思う。