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漫画家まどの一哉ブログ

   

読書
「王の没落」イェンセン 作
(岩波文庫)

16世紀激動のデンマーク。暴君クリスチャン2世に寄り添って生きた迷える傭兵ミッケル。ミッケルとはただならぬ因縁の軽佻浮薄な青年アクセル。しだいに衰える哀しき人生の物語。

作者は20世紀のノーベル賞作家。
文庫前説によると、この時代の北欧は分離併合を繰り返す戦乱の時代。しかしそういった大きな歴史は描かれず、移りゆく時代の中で主人公たちの迷いや暴力や人生の選択をたどっていく。スウェーデンを大量虐殺によって侵略したのち敗北したクリスチャン2世も、物語の後半になってようやく悲しい姿で多く登場する。

主人公ミッケルの若き時代から老いて死ぬまでが話の主軸である。やや投げやりなのか感情のまま行方定まらぬ人生だが、クリスチャン2世の運命が下り坂にかかる頃、ようやく王の側につく役割となる。
同じ傭兵仲間の青年アクセルは、受け継いだ秘宝の存在を誰にでも気軽に喋ってしまう浅慮な性格。女性に対しても移り気で無責任。当然かもしれないが彼の人生も悲惨な結果となった。そして力を失った凶王クリスチャン2世は、幽閉された城内で毎日を精一杯生きているのだった。
やはりこれは歴史小説ではなく、人生の哀しみを巧みに絵にした作品ではないだろうか。

外科医ザカリアスによる脳手術により、機能が拡張され膨れ上がった脳を持つ奇形児など、この発想はやはり現代文学だ。

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読書
「人間の限界」霜山徳爾 著
(岩波新書 1975年)

限りある人間の営みを、まなざし・歩み・漂白など様々な局面から、古今の名言を手掛かりに切り取った随想集。

著者霜山徳爾(1919-2009)は著名な臨床心理学者であり、フランクルの「夜と霧」の翻訳者でもあるが不明にして知らなかった。
本書は専門の臨床心理学の知見も活かしながら、必ず終わる人生の意味と限界を、手・足、立つこと・歩くこと、地平・蒼穹など、多様な条件下で問い直し最後の告別まで至る覚書である。

古今東西の典籍を引用しながらしだいに思いを深めていくが、とうぜん革新的な結論に達するわけではく、長い歴史の中で人間がなんとなく残してきた思いの輪郭をなぞるだけかもしれない。しかしそれもまたありだ。

次々と引用される過去の幅広い著作・名言の豊かさと美しさ。それらを組み込んで語られる一文の心地よさが格別で、心に沁みる名文だ。私が言うのもおこがましいが歴史に残る名随筆だと思う。
古い本だが読んでみないと分からない。

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読書
「爆弾魔」スティーヴンソン
(国書刊行会)

上流階級ながらいささか困窮ぎみの3青年。それぞれ思い切って現実社会での冒険へと飛び込むが、爆弾騒ぎに巻き込まれる中で、気丈で破天荒な経験を持つ女性ばかりと出会う。

巻末解説にもあるとおり、スティーヴンソンとその妻ファニーとの合作のせいか、波乱万丈の冒険体験は女性ばかり。世慣れぬ凡庸な青年男子はいいように翻弄されるという筋立て。
この女性達の体験が開拓時代のアメリカ荒野、キューバの奴隷社会など、日常を離れた世界で繰り広げられ、その展開の自由自在さが心地よく、さすがにスティーヴンソン。読んでいて脳が解放されるばかりだ。

登場する女性がパターン的な添え物でなく、個性的で行動的で主役であるのも古典としては珍しく、家庭内で収束する良妻賢母的な女性の生き方とは正反対。この女性像も実はファニー・スティーヴンソンの社会に対する内心の不満の表れかもしれませんね。

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読書
「星の時」クラリッセ・リスペクトル 作
(河出書房新社)

地方からリオへやってきた瘦せぎすで貧困な女マカベーア。不遇な身の上だが自身の不幸を意識せず、欲望も持たず、コーラとホットドッグで生きてゆく。ブラジル文学。

語り手は一人称で登場する男性作家ロドリーゴという設定で、語られるのがマカベーアという女性の生涯。「マカベーアは」「彼女は」という主語で彼女とその周辺が逐一見てきたように語られるが、本来それは物語の作者の視点だからこそ可能なはず。ところがときどき「ぼくは」という主語で語り手の作家自身の日常が顔をだすという不思議な感覚に当初とまどった。

主人公マカベーアはあるべき幸福を初めから知らないまま、無欲で与えられた人生を生きて行く人間。見かけも発言も薄く空気のような存在だ。一時の恋人や恋敵など、肉体的にも精神的にも欲望のままにエネルギッシュで虚妄にまみれた平凡な人間も登場するが、その正反対に思えるマカベーアにも案外実在感を感じた。ここまで極端でなくともこういう人間もいるものだ。そしてそんな彼女でも隠れている性欲は強いものがあるというのも、命あるものとしての納得感があった。

語り方の二重構造を気にしなければ、充分平易で素直に読める。マカベーアの人生は悲劇ではあるが平穏で、これは読み手が人生の基準をどこに置いているかで印象が違ってくる気がした。

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読書
「田園交響楽」ジッド 作
(新潮文庫)

キリスト者としての使命感から、孤児となった盲目の少女を引き取った牧師。批判的であった妻も協力するが、少女が成長するにつれしだいに牧師自身も気づかなかった愛が見えてくる。

ジッドは信念を持ったプロテスタントであるが、この作品の中でもカトリックとの相克・問題提議が多く見られる。牧師の長男が頑なな性格で律法による信仰を旨とする立場をとり、プロテスタンティズムに疑義を投げかけるが、それでも自身の自由な愛と信仰を捨てない牧師。これらの問題提議がパウロやキリスト自身の言葉を引きながら繰り返される。「もし盲目なりせば、罪なかりしならん」(キリスト)対して「いましめによりて罪さらに猛しくなれり」(パウロ)などなど…。
そして1匹の迷える子羊(盲目の少女)を救うために、他の子羊(自身の子供達)を山に残すのは正しいのかという問いも、妻からの問題提議として物語のはじめから未解決だ。
前半「第1の手紙」を、そのあたりを巡りながら読んでいると、なんだか不穏な雲行きが…。

そして後半「第2の手紙」になると、実は牧師自身も気づかず、彼の妻は見抜いていたほんとうの問題。彼による少女への恋愛、少女から彼への愛がしだいにあきらかになり、信仰の問題と重ねてどんな解決を選ぶのが人として正しいのか、混乱のなかでいっきに悲劇へと突き進んで終わってしまう。文学作品としての面白さここにあり。これはジッドの人生をモデルに作品化されているとのことだが、実際のジッドの人生の方がかなりたいへんだぞ。

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読書
「恐ろしき媒(なかだち)」ホセ・エチェガライ 作
(岩波文庫・1928年初版)

一家の主人と同居する主人の恩人の息子。世間では主人の若き妻とのあらぬ疑いをかけられ、噂はさらに疑念をよぶ。平和だった一家が、根も葉もない噂によって破滅へと至る三幕劇。

スペインの作家エチェガライの1881年作品。
一家の主人、若き妻、同居する恩人の息子はいたって善良で上品な人々であるのに比べ、主人の弟家族は下卑た連中でいわゆる無責任な世間そのもの。登場人物はこの2家族だけだが、スキャンダルを好む世間と誤情報によって、善良な一家がじりじりと崩壊してゆく様子に目が離せなく、心痛む。

まことに世の中とは下品なもので、無償で恩人の息子を同居させているなど、奇特な善行は気に食わないのである。ここでは弟家族がその代表として登場。典型的な徳なき凡人で情けない限りだが、これが現実というものだろう。そして自分の中の小さな疑いをついに消し去ることができず、そのとりこになってしまった一家の主人も悲しいかな人間の典型である。

誤解が誤解を生んで正義が報われないまま終わるタイプの悲劇。

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読書
「とどめの一撃」ユルスナール 作
(岩波文庫)

バルト海沿岸の地方都市で反ボルシェビキ闘争に身を投じるエリックとコンラート。そしてコンラートの姉ソフィーのエリックへの届かぬ愛。内戦下の青年の愛と悲哀を描く。

この話にはモデルがあり、ユルスナールは事実を忠実になぞったとのことだが、文庫解説にもあるとおり元となった実話にはソフィーのエピソードはほとんどなく、この作品でのソフィーの役割はあたかも当時実らぬ恋に悩んでいたユルスナール本人の投影らしい。そしてそのソフィーの内心の変転と絶望がこの作品の主軸となっている。

ただ相手のエリックのほうでも自分がソフィーの求愛を拒絶しているかどうかはっきりせず、心は揺れ動く。ここに二人の意地や嫉妬、怒りと信頼、そして喜びと悲しみが描かれるわけだが、さすがユルスナールの細かい心理描写は、私のような人間心理に疎い者には読んでいても忠実には理解出来ない。ただ最終的にソフィーが敵である赤軍へ味方して破滅するので、やはりこの物語は充分悲劇である。

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読書
「デイジー・ミラー」
ヘンリー・ジェイムズ 作
(新潮文庫)

旧弊にとらわれず、誰とでも自由に大胆に付き合うアメリカ人女性デイジー。彼女に魅せられた青年はスイスの町からローマへと彼女を追う。いったいデイジーとはどういう女性なのか?

夜遅くとも平気で男性と遊びに行き、その非常識と奔放ぶりを非難されるデイジー。確かに極めて外交的・社交的な人格というのはあるもので、初対面でも誰とでも遠慮なく話し、行動を共にし、男女の垣根も低い人間はいる。
デイジーも自由な新しい女と言うよりは、極めて社交的な人間として繰り返し描写されている。世代や階層による女性観の違い・相克をテーマとしている面も少しはあるのかもしれないが、観察的な視点で描くという方法のためか、説明だけで一編の小説が終わっているフラットな印象。劇性が薄く、だからどうしたという感覚になってしまうかも。

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読書
「ガラスの動物園」
テネシー・ウィリアムズ 作
(新潮文庫)

裏町のアパートで3人暮らしの一家。ヴァイタリティ溢れる母親と倉庫勤めの息子。そしてあまりにも内気で引きこもりぎみの姉。姉のお相手探しのため青年紳士が夕食に招かれるが…。

以前から今ひとつ頭に入ってこないテネシー・ウィリアムズに再挑戦。ようやく面白く読めた。舞台(アパート)・人数(4人)と限定された設定。
若い頃から派手好きで人付き合いも多い母親がとにかく口うるさく、大人である息子に細かなことまで、それこそ箸の上げ下ろしまで干渉するので、これでは息子も父親の真似をして蒸発しようかというもの。
またあまりに自罰的で自信がなく、学校や職場で緊張に耐えられない姉の性格も、多かれ少なかれ自分を見るように思う人も多いのではなかろうか。



そういう意味では分かりやすく楽しみやすい作品。後半訪れる青年がこの姉の心を解きほぐして、彼女の自信を取り戻そうとしていくところも、なかなかに優しさと人間愛にあふれる展開で、静かな感動をよぶ。
なんだこんなにわかりやすいヒューマンストーリーだったのか。

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読書
「仮面の陰に」あるいは女の力
ルイザ・メイ・オルコット 作
(幻戯書房ルリユール叢書)

名門コヴェントリー家に新たに雇われた家庭教師ジーン・ミュア。彼女は身分・本心を偽りながら成り上がろうとするしたたかな女だった。「若草物語」の作者オルコットが男性名義で書いた煽情小説。

物語のはじめにこの新任家庭教師が野心を抱いたただならぬ女であることが読者には明かされてしまうので、そのあとは彼女の誠実な言動ひとつひとつが実は底意を含んだ演技であることを知りながら読み進むことになる。涙や笑顔も実は周到に準備された芝居なのだ。果たしてなにを企んでいるのかという疑念である。

実に巧みに一家の一人一人がたらし込まれていくわけだが、その悪計を破綻させるある証拠が密かに積み上げられており、最後に彼女がそれをどう乗り切って悪事(この家の乗っ取り)を成功させるのかが山場だ。悪が敗北するかもしれないが、こうなったらこの悪女を応援したくなる気持ちもある。実際世間には頭の回転が早く様々な能力に秀でていながら、倫理観だけは欠落している人間がいるから、ピカレスクはおもしろいのである。

「若草物語」は未読だがこちらの煽情小説はスリリングなエンターテイメントだった。煽情小説というと現代ではなにか性的な興奮を煽るものという意味に誤解されそうだ。ふつうにエンターテイメント小説といえばいいのではないか。煽情小説と言っても下品なところもなければ無駄に大げさな表現もなく、セリフも人間の心理を巧みに演出してあり、充分に古典名作文学だ。

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