漫画家まどの一哉ブログ
- 2021.05.03 「恐ろしき媒(なかだち)」 ホセ・エチェガライ
- 2021.04.30 「とどめの一撃」 ユルスナール
- 2021.04.26 「デイジー・ミラー」 ヘンリー・ジェイムズ
- 2021.04.22 「ガラスの動物園」 テネシー・ウィリアムズ
- 2021.04.20 「仮面の陰に」あるいは女の力 ルイザ・メイ・オルコット
- 2021.04.15 「戦いの後の光景」 フアン・ゴイティソーロ
- 2021.04.07 「軋む心」 ドナル・ライアン
- 2021.04.01 「オネーギン」 プーシキン
- 2021.03.29 「日本蒙昧前史」 磯崎憲一郎
- 2021.03.23 「神保町「ガロ編集室」界隈」 高野慎三
読書
「恐ろしき媒(なかだち)」ホセ・エチェガライ 作
(岩波文庫・1928年初版)
一家の主人と同居する主人の恩人の息子。世間では主人の若き妻とのあらぬ疑いをかけられ、噂はさらに疑念をよぶ。平和だった一家が、根も葉もない噂によって破滅へと至る三幕劇。
スペインの作家エチェガライの1881年作品。
一家の主人、若き妻、同居する恩人の息子はいたって善良で上品な人々であるのに比べ、主人の弟家族は下卑た連中でいわゆる無責任な世間そのもの。登場人物はこの2家族だけだが、スキャンダルを好む世間と誤情報によって、善良な一家がじりじりと崩壊してゆく様子に目が離せなく、心痛む。
まことに世の中とは下品なもので、無償で恩人の息子を同居させているなど、奇特な善行は気に食わないのである。ここでは弟家族がその代表として登場。典型的な徳なき凡人で情けない限りだが、これが現実というものだろう。そして自分の中の小さな疑いをついに消し去ることができず、そのとりこになってしまった一家の主人も悲しいかな人間の典型である。
誤解が誤解を生んで正義が報われないまま終わるタイプの悲劇。
読書
「とどめの一撃」ユルスナール 作
(岩波文庫)
バルト海沿岸の地方都市で反ボルシェビキ闘争に身を投じるエリックとコンラート。そしてコンラートの姉ソフィーのエリックへの届かぬ愛。内戦下の青年の愛と悲哀を描く。
この話にはモデルがあり、ユルスナールは事実を忠実になぞったとのことだが、文庫解説にもあるとおり元となった実話にはソフィーのエピソードはほとんどなく、この作品でのソフィーの役割はあたかも当時実らぬ恋に悩んでいたユルスナール本人の投影らしい。そしてそのソフィーの内心の変転と絶望がこの作品の主軸となっている。
ただ相手のエリックのほうでも自分がソフィーの求愛を拒絶しているかどうかはっきりせず、心は揺れ動く。ここに二人の意地や嫉妬、怒りと信頼、そして喜びと悲しみが描かれるわけだが、さすがユルスナールの細かい心理描写は、私のような人間心理に疎い者には読んでいても忠実には理解出来ない。ただ最終的にソフィーが敵である赤軍へ味方して破滅するので、やはりこの物語は充分悲劇である。
読書
「デイジー・ミラー」
ヘンリー・ジェイムズ 作
(新潮文庫)
旧弊にとらわれず、誰とでも自由に大胆に付き合うアメリカ人女性デイジー。彼女に魅せられた青年はスイスの町からローマへと彼女を追う。いったいデイジーとはどういう女性なのか?
夜遅くとも平気で男性と遊びに行き、その非常識と奔放ぶりを非難されるデイジー。確かに極めて外交的・社交的な人格というのはあるもので、初対面でも誰とでも遠慮なく話し、行動を共にし、男女の垣根も低い人間はいる。
デイジーも自由な新しい女と言うよりは、極めて社交的な人間として繰り返し描写されている。世代や階層による女性観の違い・相克をテーマとしている面も少しはあるのかもしれないが、観察的な視点で描くという方法のためか、説明だけで一編の小説が終わっているフラットな印象。劇性が薄く、だからどうしたという感覚になってしまうかも。
読書
「ガラスの動物園」
テネシー・ウィリアムズ 作
(新潮文庫)
裏町のアパートで3人暮らしの一家。ヴァイタリティ溢れる母親と倉庫勤めの息子。そしてあまりにも内気で引きこもりぎみの姉。姉のお相手探しのため青年紳士が夕食に招かれるが…。
以前から今ひとつ頭に入ってこないテネシー・ウィリアムズに再挑戦。ようやく面白く読めた。舞台(アパート)・人数(4人)と限定された設定。
若い頃から派手好きで人付き合いも多い母親がとにかく口うるさく、大人である息子に細かなことまで、それこそ箸の上げ下ろしまで干渉するので、これでは息子も父親の真似をして蒸発しようかというもの。
またあまりに自罰的で自信がなく、学校や職場で緊張に耐えられない姉の性格も、多かれ少なかれ自分を見るように思う人も多いのではなかろうか。
そういう意味では分かりやすく楽しみやすい作品。後半訪れる青年がこの姉の心を解きほぐして、彼女の自信を取り戻そうとしていくところも、なかなかに優しさと人間愛にあふれる展開で、静かな感動をよぶ。
なんだこんなにわかりやすいヒューマンストーリーだったのか。
読書
「仮面の陰に」あるいは女の力
ルイザ・メイ・オルコット 作
(幻戯書房ルリユール叢書)
名門コヴェントリー家に新たに雇われた家庭教師ジーン・ミュア。彼女は身分・本心を偽りながら成り上がろうとするしたたかな女だった。「若草物語」の作者オルコットが男性名義で書いた煽情小説。
物語のはじめにこの新任家庭教師が野心を抱いたただならぬ女であることが読者には明かされてしまうので、そのあとは彼女の誠実な言動ひとつひとつが実は底意を含んだ演技であることを知りながら読み進むことになる。涙や笑顔も実は周到に準備された芝居なのだ。果たしてなにを企んでいるのかという疑念である。
実に巧みに一家の一人一人がたらし込まれていくわけだが、その悪計を破綻させるある証拠が密かに積み上げられており、最後に彼女がそれをどう乗り切って悪事(この家の乗っ取り)を成功させるのかが山場だ。悪が敗北するかもしれないが、こうなったらこの悪女を応援したくなる気持ちもある。実際世間には頭の回転が早く様々な能力に秀でていながら、倫理観だけは欠落している人間がいるから、ピカレスクはおもしろいのである。
「若草物語」は未読だがこちらの煽情小説はスリリングなエンターテイメントだった。煽情小説というと現代ではなにか性的な興奮を煽るものという意味に誤解されそうだ。ふつうにエンターテイメント小説といえばいいのではないか。煽情小説と言っても下品なところもなければ無駄に大げさな表現もなく、セリフも人間の心理を巧みに演出してあり、充分に古典名作文学だ。
読書
「戦いの後の光景」フアン・ゴイティソーロ 作
(みすず書房 1996年)
移民で溢れかえるパリを愛し、少女との裸の交流を妄想する主人公。細かいエピソードがモザイク状に折り重なる奇作。
1982年、パリ郊外の町ではしだいに移民が溢れて、知らない文字や言葉が飛び交うようになり、従来からの住人はもはや少数の側になるかの勢い。そんな町で暮らす男は、引きこもる妻とは別居同然の毎日で、ハツカネズミをポケットに忍ばせながら公園に出かける。神父を名乗り幼い少女達と交流を重ね、いやらしい裸の写真を撮るためである。そして家ではひたすら少女に裸身を責められる妄想を綴っているのだ。
全体像はごく短いエピソードを切れ切れに章立てした構成の間から立ち上がってきてわかるのだが、直接関係のない話題も挟まれており入り組んでいる。
それがわかりづらくて苦痛かというとそうではなくて、この自由な書きっぷりを追うのがだんだん楽しくなってくるから不思議だ。少数民族解放運動の地下組織とのあらぬつながりを疑われたりもして、面白く仕上げてある。
読書
「軋む心」ドナル・ライアン 作
(白水社EXLIBRIS)
アイルランドの田舎町で起きた殺人と幼児誘拐。街に暮らす21人のモノローグで事件のありさまがしだいに浮かび上がる。
会社経営を引き継いだ御曹司は資金をドバイの不動産に投資して会社を倒産させてしまうが、社会保険料を払っておらず社員などいないことになっていた。多くの失業者が苦闘する中で皆の信頼を集める青年は仕事を立ち上げようとするが、家には財産を散在して使い果たした父親がいて全てを冷笑するのである。
やがて父親は殺され、それとは別に保育園から幼児が誘拐される。
一人ずつ順不同のモノローグにより事件が次第に明らかになる仕掛けで、不景気にあえぐ田舎町の人々の鬱屈した心境が浮かび上がる。犯罪が明らかになってゆく過程はミステリーを読むような面白さがあり、すべて口語体なので読みやすいが、名前だけを記憶して21人もの語り手の人間関係を把握するには努力がいるので、そこがやや難点である。
読書
「オネーギン」プーシキン 作
(岩波文庫)
オネーギンは才ある青年でありながら、タチヤーナの求愛に真剣になれず無碍に断ってしまう。その後友人との決闘沙汰を起こし、行くへ定まらぬ人生の果てに、今度こそタチヤーナを愛そうとするが…。
19世紀文学の舞台となる恵まれた貴族社会にあって、多方面に才能があり社交界でも人気の青年が、やがてなにもかもに興味を失い虚無的な態度に傾いて行くのは、小説の上でも実際にもよくある現象だと思う。
このような主人公がやがてどのような大人になって行くかまで書かれることはあまりなく、青年のうちに破滅する役割が文学史上の通例だ。
プーシキンは自身が活動的で派手な人生を送るタイプであるからか、この作品の語り口は非常に面白く飽きさせない。一語一語が魅力的で、数行追うだけで興奮してしまう。まさに登場人物が時代を飛び越えて我々に迫る出来栄え。ひょっとしたら原文の韻文を現代語訳して散文に置き換えた効果というものがあるのかもしれない。
読書
「日本蒙昧前史」磯崎憲一郎 作
(文藝春秋)
高度経済成長後の70年代日本。グリコ・森永事件や大阪万博、五つ子ちゃん誕生から横井庄一さんまで。混乱を極める実際の様子を追って、行方知らずの日本の蒙昧に至る。
当時私がマスコミから伝わってくる範囲でよく聞いた事件ばかりだが、その内幕を知ると一筋縄ではいかない迷走ぶりで、なるほど現実とはこんなものかと納得がいく。五つ子ちゃんの山下さん一家もたいへんだが、大阪万博の立ち上がりのいいかげんさは、今も昔も変わらず、いかにも日本人らしくて驚いた。そしてジャングルに一人残された横井庄一さんの孤独はあまりにも辛い。
ところでこの作品はこれでもフィクションであり小説なのだ。たしかにノンフィクションやルポルタージュ小説とは明確に味わいが違う。書かれていることは事実であって、問題を定義するわけでもなく、おおげさに秘密を掻き立てるわけでもない。しかしこれが小説となると非常に珍しいなんとも不思議な感触がある。
「神保町「ガロ編集室」界隈」
高野慎三 著
(ちくま文庫)
激動の60年代につげ義春・林静一・滝田ゆう等革新的漫画を次々と生み出した「月刊漫画ガロ」。編集部の5年間をふりかえった一冊。
この時代の情況の持つ大きさがいかに現代と違うかがわかろうというもの。70年安保反対・反ベトナム戦争・学園闘争など高度成長の歪みや矛盾を体感せざるをえない中で、若き「ガロ」の作家も当然この情況を共有していた。切迫した情況が革新的作品を生んだ。ということが、やはりあるのだろうか。
情況的には現代の若者の抱える社会的困難も、当時に比べてけっして小さなものではないはずだが、社会的共有感が違う。今の若者は社会的存在の意味を知らず、第一に自分個人の生き方の問題としてとらえる傾向を感じてしまう。
漫画のみならず映画や音楽において著者の興味や交友関係の広さ・多彩さに驚くが、逆に見ればごく趣味的な狭い範囲のつながりであったかもしれない。それは著者が「ガロ」を離れて北冬書房「夜行」を刊行して以降さらに色濃く、やはり「ガロ」時代とは違った才能が集まってきたように思う。
ここからは私事であるが、私が読者として「ガロ」と出会ったのは「カムイ伝」が終了する頃でありまだ著者が編集していた時代だ。そして私が投稿、及びデビューする頃には担当は南伸坊氏であった。その後なぜかほんの数回北冬書房の催しに参加したことがあり手元に写真が残っている。つげさんやシバさんをはじめ、清順監督や一衛先生が写っているものである。
「架空」創刊後はよく出向くようになった次第であります。