漫画家まどの一哉ブログ
- 2020.10.05 「鉄の時代」 J・M・クッツェー
- 2020.09.30 「水晶内制度」 笙野頼子
- 2020.09.24 「忘却についての一般論」 ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ
- 2020.09.22 「サブリミナル・インパクト」 下條信輔
- 2020.09.17 「路地の子」 上原善広
- 2020.09.14 颱風(タイフーン) レンジェル・メニヘールト
- 2020.09.10 「会いに行って」靜流藤娘紀行 笙野頼子
- 2020.09.03 「カフェ・シェヘラザード」
- 2020.08.29 「砂漠が街に入りこんだ日」 グカ・ハン
- 2020.08.27 「工場」 小山田浩子
過去日記がよく書けていたのでそのまま再掲する。
(mixi過去日記)2012.08.16アパルトヘイト廃止直前、騒乱の南アフリカ。癌を抱えて死を目の前にしながら、一人留まり続ける白人老婦人のモノローグ。はるかアメリカに移住した愛娘への手紙という体裁で語られる。
長年にわたって築かれた白人による支配を恥じることによって矜持を保つ老婦人カレン。しかし現実は彼女の思惑を越えて、強烈なしっぺがえしを与え続ける。反アパルトヘイト闘争のなかで、政府・警察によって追われ、殺される黒人少年たち。彼らは戦いの絆の中で死をも厭わないが、それは人間としての感受性を全て放棄した悲しい鉄の心だった。
物語は、ある日主人公カレンの家にふらりと現れたホームレスの男との、奇妙な同居生活を中心に進む。彼にとってはこの騒乱も存在しないかのごとく、ただだらしない日常がつづくのみである。
こう書くとまるで社会派小説のようだが、主人公の語り口はあまりにも個人的で、詩的言語の連続であり、人生そのものに対する深い洞察が、イメージのまま語られるので、まったく社会派小説ではない。でないと自分は読まない。
と、ここまで(mixi過去日記)の再掲であるが、今回読んでみると立派な社会派小説であり、そのうえ主人公カレンが語りすぎることにより、容赦ない現実とかけめぐる内心の相乗効果が生まれて行く。これぞ小説の醍醐味ではあるまいか。
「水晶内制度」笙野頼子 作
(エトセトラブックス)
日本国内に独立する女だけの国「ウラミズモ」。原発と少女データを経済力として、したたかに生き延びるこの国で、新たに神話を書き起こす作家である私が見たものは?驚異のディストピア小説。
第1章はおなじみ作者独特の自由で諧謔味あふれるカオスな饒舌体で書かれており、いよいよ悪夢の始まり。何が起きているのかわくわくとする。
ところが第2章以降は一転、落ち着いた語り口となり、第3章にかけて女人国「ウラミズモ」の成り立ちを裏付けるための神話書き起こし作業が滔々と進行する。これが思いの外長く、もちろん作品自体がこの神話から成立しているのだが、ここまで精密な組み立てはなくても良い気がした。読めばそれなりに納得して読んでしまうが、ミーナ・イーザ(イザナミ)やオオクニヌシ(オオナンジ)とスクナヒコナの関係など、大きな枠組みだけ説明して貰えば充分だ。
それより男はごく少数奴隷的に飼われているだけであり、女は安心して暮らせるがレズビアンは禁止。分離派と一致派のペアのふた通りの暮らし方。鼻持ちならないエリート女子学生など、薄気味悪さ満載である。
ところで作中しばしば触れられる作家である私の、男性優位の文壇での実話に基づいた戦いだが、これはかの有名な1990年から2000年代前半にかけての純文学論争と当時の笙野の扱いをもとにしている。とはいっても現代日本文学にあまり興味がなく、文壇にも疎い自分はまったく知らなかった。また論争相手の大塚英志が属する人気漫画の世界も関心がなく、圧倒的に笙野作品の方がおもしろいと思う。
2003年センス・オブ・ジェンダー大賞受賞作品。
「忘却についての一般論」
ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ 作
(白水社 EXLIBRIS)
主人公の女性はまったく部屋から出ないのだから、スタティックな小説かと思いきや、彼女の周りをめぐる役人やジャーナリスト・活動家などの動きが不穏で目が離せない。ひとつひとつの章が非常に短くここと思えばすぐあちらで出来事が起きるが、ストーリー全体は精緻に組み立てられており、いろんな人物の運命が時間が前後する中でみごとに結びついていく。
数奇な運命や謎解きが着想豊かでおもしろく、なぜ彼女は自閉的な性格となったか、足に恋文をつけた鳩は誰が飛ばしたかなど、全体を振り返ってみればややご都合主義かもしれないが、順不同で繰り出されると気にならない。閉ざされた部屋から見える外の世界と、その世界で現実に起きていることの落差が効果的だ。また彼女による詩篇も数篇挟まれており彩りを添える。
内戦自体を描いたものではないので、その悲惨さはあからさまには出てこないが、銃をとらない人々の生きていくためのやりくりが、次の出来事を生んでいく連鎖の妙味。解説にもあるとおりヒューマニスティック作品で、暴力はあるが心底悪いやつは出てこず、心温まる読後感となっている。
「サブリミナル・インパクト」
下條信輔 著
(ちくま新書)
ふだん自覚できない無意識の情動的な認知。潜在する心の働きが我々の意識に先んじて働く様子を消費や政治、創造性など様々な視点で分析する。
やはり意識して考えていることより、快・不快の感情がベースにあるだろうとは思っているが、自分が無意識のうちにどの程度思考のバイアスを受けているか知っておきたい。
コマーシャリズムでとられている商品を消費者の脳に記憶させる方法や、マスコミを操作して誘導する政治的報道など、現代社会ですでに多用されている潜在的情動への刷り込みも、良し悪しは置くとしても今後避けられない発達を続けるであろうこと。これには納得せざるをえない。
きわめてオリジナルに見える発見・発明・クリエイティブも、社会全体で感じている暗黙知を背景にして生まれてくる仕組みはおもしろかった。
「路地の子」上原善広 著
(新潮文庫)
大阪府松原市。昭和まっただ中。被差別地域である路地から、包丁捌きの腕と才覚で食肉業界をのし上がった男のルポルタージュ。
私も大阪出身だが遠く離れた北河内なので、物語の舞台である松原市が屠畜業盛んな土地であることは全く知らなかった。ただ大阪で暮らしていると、被差別部落の噂はどこからともなく聞こえてくる。解放同盟vs共産党の確執も、解放同盟を批判するビラやチラシを目にしたことはあったと思うが、こういういきさつだったのか。このルポの中で少しだけ登場する怪物政治家上田卓三のポスターは日常的に目にした。私が一時的に努めた八尾の小新聞社の社長はよそ者だが、解放同盟の批判記事を書いて家を取り囲まれたそうだ。
不幸な生い立ちの人間が多い被差別地域で、社会のあり方自体に問題意識を抱き改革を目指す人間もいるが、主人公のように社会構造的視野というものがなく、自身の努力と才覚で成り上がろうとするタイプもいる。したがって共産党にも解放同盟にも属さない代わりに、ヤクザや占有屋などとも同じ距離で近づきになる。
したがってこのルポは被差別部落解放の戦いの歴史では全くなく、アウトローと政治の世界を生々しく描いたもので、時々はこういうものを読みたくなる。芸術性は不要だがうまさに気づかないうちに読んでしまう文章がよい。
昨今家畜泥棒の事件も耳にするが、なるほど牛をさばける職人が1人いれば、あっというまに商品として売ってしまえるものらしい。
颱風(タイフーン)
レンジェル・メニヘールト 作
(幻戯書房)
20世紀初頭、パリに集う日本人たちとある事件をめぐるいかにも日本人的な対応。黄禍論高まる中で書かれたハンガリー作家による大ヒット戯曲。
国民が利己主義を捨て、国家のために犠牲となることを厭わない美しき民族。とてもじゃないが野蛮な西欧文明国家ではありえない特別な国。異国の中にあっても世界に目をふさぎ、日本スゴイの自己陶酔に酔いしれる。集団主義で精神主義。そんな日本人がまとまって登場。
いかにも誇張されているとはいえ、相も変わらぬ日本人の有様はまったく的確で、ヨーロッパの辺境、アジアに近いハンガリー人にもこんなにも的確に把握されているとは。その意味では日本人は当時から奇妙だがわかりやすい存在だったのではないか。
芝居自体はたいへん面白く退屈しないようにできております。
「会いに行って」靜流藤娘紀行
笙野頼子 作
(講談社)
笙野頼子が心中、師と仰ぐ藤枝静男を語る熱き思い。私小説の極北である「田紳有楽」を中心に、これがなぜ私小説なのかしだいに明らかになっていく。この論考自体が私小説。
藤枝静男は私にとっては「田紳有楽」と「空気頭」の作家で、その他私小説作品群にはついていけていない。この2作だけで自分的には得体の知れない天才作家である。その藤枝について奇才笙野頼子が語るのだからこれはもう期待せざるをえない。
ところが前半はもっぱら藤枝が師と仰ぐ志賀直哉と、論戦を張った中野重治の話に終始し、藤枝が志賀をかばう様子や「暗夜行路」についての分析にページが費やされる。違うんだ、志賀直哉はべつに興味がないんだ。ましてや中野重治についてもどうでもいいんだ。
後半ようやく「田紳有楽」と笙野本人の作家生活が絡んできて、台風直撃の最中うんうんいいながら筆が進み出すとまことに面白く、これこれこれだよ、この自由自在に炸裂する文章。これが読みたかったんだ。
しかし本当は私にとっては「空気頭」が最重要作品なので、もっと取り上げてほしかったな…。
「カフェ・シェヘラザード」
アーノルド・ゼイブル 作
(共和国)
ポーランドからナチの手を逃れ、ソビエトからも脱出したユダヤ人たち。メルボルンのユダヤ人街でカフェに集う古老達の凄絶な体験記。
ホロコーストを逃れたユダヤ人達がまさかオーストラリアで集い暮らしているとは知らなかった。この時代のポーランドやリトアニア、ソビエト政権の間で右往左往させられるユダヤ人達の物語は、今までもいろんな小説で読んできたが、この作品でもなかなかに複雑でわかりにくい。なかでもソビエトの動きにより奴隷だったり同士だったりするところなど変化も激しい。
近年有名な杉浦千畝の働きでポーランドを脱出。延々シベリア鉄道に揺られ、ウラジオストクから敦賀を経て神戸に至った人々の話は新鮮だった。シベリア鉄道では案外上客として丁寧に扱われ、神戸でもオペラを見に行くなど、ゆとりある暮らしぶりである。これは意外だった。
「水晶の夜」という言葉は知っていても、恥ずかしながらナチスの暴政が本格化する以前のポグロムについてはよく知らなかった。これもひどい惨劇だ。
大きな歴史の中の細かい揺れ動きをよく理解していなくても、個々の人物の抵抗と戦い、偶然の助けもあって生き延びていく激動の連続はあまりに面白く目が離せない。引き込まれるように読んでしまう。古老達の思い出を聞き取る若き語り手が、ときどきクッションとなって我々を現代に引き戻してくれる。
「砂漠が街に入りこんだ日」グカ・ハン 作
(リトルモア)
韓国出身の若き才能が母語を離れフランス語で書いた様々な人生の営み。日常と非日常の間を行き来する短編集。
オビ文にあるような「鮮烈、絶賛、大事件」とまでは思わないが、文章の瑞々しさのせいか読んでいて快感がある。なぜおもしろいのか不思議だったが確かにおもしろい。どの短編も日常あるあるや人生の共感を求めるものではないところが、個人的にはいい印象だ。
幼い頃から数台のテレビ・ラジオつけっぱなしの環境で育ち、イヤホンで唯一の聴覚を得る女性。いつのまにかホームレスとなり、使われなくなった高い塔の上から街の様子を見下ろして暮らしている男。
その他よく読むとどの作品もアイディアルで着眼点がおもしろく、ただ市井の人々をそのまま書くというところがない。平凡な人生もなかなかに非凡なのだ。
「工場」小山田浩子 作
(新潮文庫)
ひとつの街に匹敵する巨大工場。与えれた仕事はシュレッダー、文字校正、コケ観察など…どこか納得できないまま繰り返される不思議な日常。
大きなくくりでカフカ的と言ってしまえばそれでもいいんだけど、この微妙な違和感をおもしろく描くにはやはり技が必要で、この作者の場合すごく読み易い日常感たっぷりの素直な文体がいいのだろうと思う。
大きな河をまたいでバスが走る、住宅もショップもあちこちに点在する巨大工場。併催の作品でも職場のリアルがあれこれと繰り出されるが、こういう日常はこのありえないほどの大工場という設定に放り込むと、たちどころに逆転して謎めいてくる。
やってる仕事は大きな流れの中のごく末端の不毛感漂うもので、それでも繰り返される毎日はありがちな我々の労働現場に他ならず、おなじみの倦怠感はあるのだが、河をまたぐ大きな橋まで歩いてそこにしか生息しない真っ黒な鳥の群れを見たりすると、異世界に投げ込まれていることに気づくという按配だ。