漫画家まどの一哉ブログ
- 2020.02.22 「黒いダイヤモンド」 ジュール・ヴェルヌ
- 2020.02.18 「新実存主義」 マルクス・ガブリエル
- 2020.02.13 「犬と負け犬」 ジョン・ファンテ
- 2020.02.10 「ベスト・オブ・ドッキリチャンネル」 森茉莉
- 2020.02.04 「シュルレアリストのパリ・ガイド」 松本完治 著
- 2020.02.04 「アラバスターの壺/女王の瞳」ルゴーネス幻想短編集
- 2020.02.04 「青きドナウの乱痴気」 良知力
- 2020.01.21 「演劇とその分身」 A・アルトー
- 2020.01.18 「とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢」 ジョイス・キャロル・オーツ
- 2020.01.16 「第四の手」ジョン・アーヴィング
「黒いダイヤモンド」ジュール・ヴェルヌ 作
(文遊社)
私は小学3~4年のころ「空飛ぶ戦艦」「地底探検」「海底2万マイル」などシリーズで出ていたヴェルヌの作品を楽しんでいた。それ以来のヴェルヌ。
舞台がかつて炭鉱で栄えた街であったとしても、炭鉱生活への想いが断ち切れず深い深い穴の奥に小屋を建てて一生をそこで暮らしている家族という設定はあんまりではなかろうか。そんな人間がいるだろうか。
新しい炭層の発見を目論む主人公たちと、それを邪魔しようとする謎の住人のサスペンスが始まったと思いきや話は中断し、新炭層開発後発展した地下都市の様子が語られ、その後やっと謎の解明は再開される。この展開はやや奇妙で、なぜ一気にスペクタクルへと向かわないのか。やはり地底深くで生まれ育ちまだ一度も外の世界を知らない少女が育っていくところを書いておきたかったのか。またその少女とともにスコットランド湖水地方の風光明媚を延々と紹介するシーンもどうしてもいれておきたいという心積りだったか。
結局最後に謎の悪人の正体は判明し、死を迎えて物語は終わる。エンターテインメントの定石どおりに話は進むが、私にとってエンターテインメントがつまらないのはその辺の人畜無害さ加減なので、やや退屈な面もあった。しかし地下世界が好きなのでなんとか通読することができた。
設備もランプから電灯へと移り変わってゆく。石炭をエネルギーの主力として産業が発展していった時代を感じる。
誤植
p187 彼は一国も無駄にしなかった。(○ 一刻も)
p191 おれから15分のちに(○ それから15分)
「新実存主義」マルクス・ガブリエル 著
(岩波新書)
無世界主義で話題の著者が心腦問題の自然主義に対して反論。その限界とこれからのあたらしい哲学を提案する。
心や意識が腦のどこにあるのか、心とは腦の働きとして全て物理的に置き換えられるものなのか。この問題を解き明かしていくいわゆる自然主義の取り組みは、私がうっすら知っているよりはかなり先鋭的なようだ。著者が全力で反駁する内容を読めばその自然主義の限界も頷けるが、素直に言って内容的にはいまさら当たり前のような気がする。
なるほど腦科学がさらに進めば、意識のひとつひとつがニューロンのどのような発火と連なりによってもたらされているか同定することができるかもしれないが、だからといって機械的にニューロンが働いたから人間がなにかしらの概念を獲得したとはとうてい言えない。
人間の精神が概念を持っていることは、人間が自然主義に決定されることを超えて自由であり、人は自身で未来を選択することができる。
そんなことはあたりまえで、いくらニューロンと意識が厳密に同定されたからといって、例えば社会学や歴史学の種々考察が神経細胞から自動的に生まれたとは考えられない。まさかいまさら実存主義をリニューアルして論駁しなければならないほど自然主義とはトータルで拘束的な思想なのか。そのあたりが詳しくないので哲学の世界とは、こんなあたりまえのことを厳密に考えていかなければならないのかと驚いてしまう。
やはり無世界主義についての論稿の方を読んだほうが面白かったかとも思うが、やはりそれも同じようにフルアクセルで1m進むような徒労感があるかもしれない。向いてない。
「犬と負け犬」ジョン・ファンテ 作
(未知谷)
成人した3男1女を持つ脚本家の主人公と妻。ある雨の日どこからきたのか1匹の汚れた大きな秋田犬がやってきて住み着くようになる。このバカ犬をめぐる子供達の巣立ちと夫婦の物語。
はじめてファンテを読んだが息をつがせぬ面白さ。ごく日常的な世界なのに静かではなく、ちょっとしたくすぐりのような演出が連続して退屈しない。バカ犬を転がし役としてまるでコメディのような事態が頻出するが、当事者にとっては笑い事ではないのだ。
子供達も親の思いとはうらはらなダメ人間として描かれる。大学をやめたり徴兵から逃げたり、長女は家に男を連れ込んで同棲し、長男は黒人と結婚する(母親にとってはありえないハナシ)。努力とか克己とかいうことがなく全員低きに流れていくが、そうかといってことさら反社会的なわけでもない。警察沙汰にならないだけマシだ。この平凡さがこの話が身近に感じられる所以で読んでいて気持ちが良い。とは言っても皆がだらだらしていられるのは家にまだ金があるからで、この前提が違うと成り行きはまったく変わってしまうだろう。
それにしても子供とは言っても、成人した人間が親の理想とは懸け離れたかたちで巣立って家を出て行くのは当然のことで、この両親がそこに話し合いがないことに絶望的な思いでいるのは親の勝手な思い込みであると思う。
「ベスト・オブ・ドッキリチャンネル」森茉莉 著
(ちくま文庫)
1979~1985年にわたって書かれた人気のテレビ番組批評から選りすぐりを編集。森茉莉最後のエッセイ。
もちろん私も同時代を生きた番組群なのだが、私自身はあまりテレビを見るほうではなく、ましてドラマとなると全くと言っていいほど見ていない。したがって森茉莉の番組評にはそんなものかという感想しか持てないのだが、歯に衣着せぬ物言いでとても面白い。
大川橋蔵・小川宏・沢田研二・萩原健一・青島幸男・竹下景子・山口百恵・北野武・竹村健一・タモリ・B&B……ぞっこん惚れこんで賛辞を送るタレントから徹底して批判・糾弾するタレントまで様々。直感的好悪の部分も多いのだろうがなるほどとうなずけることもある。俳優のほんのちょっとした所作や目くばりなど、それとは気付かぬ細やかな演技によって作品は倍にもよくなるもので、このどこがどうだからと言えないくらいの理由があるのが芸術の秘密だろう。
テレビ批評以外にも父鴎外との思い出や、自身の文芸界での交流なども頻出していつもの楽しさがある。それにしても幼い頃人力車に乗せられている話から「ひょうきん族」や「刑事コジャック」まで出てくるのだから、森茉莉が生きた時代の変化の大きさに驚く。
「シュルレアリストのパリ・ガイド」
松本完治 著・編・訳
(エディション・イレーヌ)
ブルトン中心にシュルレアリスム運動最盛期の軌跡をMAPを見ながら振り返るパリ案内。当時の写真も豊富に、地図をくりかえし掲載して追いかける珍しくも楽しい一冊。
自分はシュルレアリスム運動に人一倍興味があるわけではなく詳しくもないが、興味に打ち勝てず購入。ネットで検索すれば当時とあまり変わらないパリの街の様子を楽しむことができるよう配慮もされている。しかしなんといっても実際のパリを経験しているのとしていないのでは実感が違う。体験していなければ街並みを正確に追ったとしても同じような表面的な印象に終わってしまう。それより本書の意図とは少し違うかもしれないが、シュルレアリスム運動史としておもしろかった。
ブルトンは真面目ないいやつだが、ちょっと一本気というか融通が利かないのか、もう少し緩やかな集まりすれば離合集散も少なかったと思われるが、やはり組織的すぎた。デスノスのナチズムと戦う姿は実に勇敢で悲惨だ。シュルレアリスム運動も遠い昔のことのような気がするが、最後の動きがあったのがブルトンが死んで3年後の1969年。スーポーが死んだのが1990年だから同時代と言えるのかも。
「アラバスターの壺/女王の瞳」ルゴーネス幻想短編集
ルゴーネス 作
(光文社古典新訳文庫)
ラプラタ幻想文学の源流、アルゼンチン文学の巨匠ルゴーネスの短編集。
ボルヘスやコルタサルに先んじた書き手だが、両者ともやや苦手な自分としてはどうか…。
幻想文学と言っても多種多様で、いかにも短編らしいストーリーのまとまりがあるとかえって幻想味が薄れてしまう。この作家の場合表現自体に悪夢的なイメージが氾濫するといった風情はないので、よくできた短編だとそこのところがいまひとつかなといった印象はある。むしろ短編より短い掌編のようなものが、逆に説明不足のよさ、なにがおきたのか訳の分からなさがあって、不思議な感覚が得られてよい。ぽーんと放り出されたような面白さ。
カバラや古代エジプト、あるいはマッドサイエンティストなど今ではおなじみの道具立だが、発想はオリジナルで手を替え品を替え出てくるのは、著者が自然科学に博識なためと思われる。
「青きドナウの乱痴気」良知力 著
(平凡社ライブラリー)
去年阿部謹也を読んで面白かったので、良知力も読んでみた。
1848年ウィーンに吹き荒れた革命と反革命の嵐を、当時暮らしていた民衆の視点から描いた社会史の傑作。
まず当時のウィーンの街の構造。城壁の内側と外側に住む人々にどんな違いがあるか、またさらにその外側のエリアに暮らす人々など、少しずつ学びながらしだいに3月や10月の騒乱に踏み込んでいく。
同じことでも歴史学の本で読むとどうしても宮廷と民衆の対立の構造、または周辺国の軍事的動向などを追っていくことになりがちで、理解の質が硬い。また革命というものを市民革命からプロレタリア革命への単線的な基本構造に当てはめてしまいがちである。
ところが城壁内に住む市民と言っても多様で、同じ職人と言ってもパン屋と肉屋は上級であり下層市民に対して横暴な商売をしていたなど、細かな差異があるのも初めて知った。市民には市民のプライドがあり郊外から流れ込んでくるプロレタリアートなど完全に見下している。宰相メッテルニヒは批判するが皇帝は大好きで、プロレタリアートは大嫌い。そんな市民軍が何を守ろうとしているのか。市民軍と国民軍との違い、徐々に勢力を増すプロレタリアートなど事態は単純には成り行かない。
反権力的な意思表示が、シャリバリ(猫ばやし)という笛や太鼓を鳴らしての楽しい大騒ぎから始まるのは古今東西ありがちなことかもしれない。また多くの学生は困窮しており、アカデミー兵団を作って下層市民と連帯するが、夏休みに帰省するとその後帰ってこないなど、さもありなんと思われる。次第に女性が目覚めて女性のみの軍隊を組織するなど興味深いが、そもそもウィーンの下層階級の暮らしが悲惨すぎるのである。
通読しておもしろいが、歴史全体を把握するのはたいへんだ。
「演劇とその分身」A・アルトー 著
(河出文庫)
60・70年代日本の前衛演劇界に多大な影響を与えた本書は、その世界の人々にとっては今更ながらの古典であろうが、私のように演劇・舞台芸術に縁のない人間にとっては、とりあえずアルトーの思想に知識として触れておくといった読書となります。
西洋の演劇が台本に基づいたセリフ本位の心理劇といった底浅いものになってしまっていることを批判。インドネシア・バリ島の演劇のように言語以外の身体的表現を多用した演劇空間に立ち返るべきではないか。そのための方法としてダンス・歌・パントマイムその他スペクタクルを活用、言語的な演劇から運動・形態・色彩・振動・姿勢・叫びを総動員した演劇へ。
アルトーはひたすら純粋に観念的に理想を膨らませるが、友人への手紙で本人も言っている通り「私のやりたいことは、言うよりやるほうが簡単である」というものなので、当時アルトーの見たバリ島の演劇含めて、過去に戻って彼の企画した実演を見るほうがほんとうは早い。
アルトーの言う「残酷の演劇」の残酷とはこの世に生きるリアリズムのような、生きることの覚悟のような意味と思われたが、違うかもしれない。
「とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢」
ジョイス・キャロル・オーツ 作
(河出文庫)
著者自選短編集。「ミステリ/ホラー/ファンタジーの垣根を越えて」という謳い文句で幻想文学的なものを期待したが、まっとうな通俗小説だった。文章は人物の心理描写含めてストーリー進行のために費やされているので、読みやすいが鑑賞するところはない。したがって2ページ読んだらゲンナリして本を閉じてしまうことも多いが、スリリングなシーンではさすがに目が離せない。
「とうもろこしの乙女」:少女監禁ミステリー。犯人は同じ学校の3歳年上のパラサイトぎみの秀才少女で、その歪んだ過剰な自意識がおそろしい。この少女の人物造形が作品の緊張感を生んで成功している。
「化石の兄弟」「タマゴテングダケ」:この2作とも活発で外向的だが誠実さのない兄と、病弱で内向的な芸術家肌の弟の対立と破滅という話。バルザックの人間喜劇「ラブイユーズ」を思い出す。
「頭の穴」:美容整形外科医が金に目がくらんで密かに頭蓋穿孔手術を行い失敗するミステリー。手術シーンが恐ろしい。手術を失敗した外科医が果たして逃げおおせるのか最後まで書いていないが、おそらく無理っぽい。
「第四の手」(上・下)
ジョン・アーヴィング 作
(新潮文庫)
主人公パトリックはゴシップTV局のレポーター。サーカス取材中にライオンに左手を食いちぎられ、その様子が全米に生中継されてしまう。屈指の技術を持つ変人外科医によって左手の移植手術を受けるが、移植された左手の元の持ち主の妻ドリスが、夫の左手を慕ってあらたに子供を作ろうとやってくる…。この設定で繰り広げられるコメディかなと思っていると、左手は再び切り離されて物語の前半が終わってしまう。
後半はプレイボーイの主人公の本気の愛と、迷いながらも少しずつ愛を受け入れようとする未亡人の心の動きを丁寧に描いて、最終的には心暖まる大人の恋愛物語だった。日本での取材シーンもあって面白かった。
しかし前半の奇矯な設定は後半になると何処へやら。あれだけ量を割いた外科医の人生も出てこない。未亡人ドリスも夫との思い出と子供への愛に生きる誠実な女性として描かれているが、そもそも移植された左手を亡き夫そのものと見なして、パトリックとの間に子供を作ろうとすることが異常な行動だ。せっかくの移植された手というおもしろそうな設定を途中で捨てて、純粋なるラブロマンスに収斂していくが、やはりほんとうは愛が書きたかったのだろうか。