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漫画家まどの一哉ブログ

   
読書
「狂気の愛」ブルトン 作
(光文社古典新訳文庫)


次から次へと女性に惚れ込んだ恋多き男アンドレ・ブルトン。それでも自分はこの人物に誠実さを感じる。この著作は数編のエッセイを集めたもので、恋の話で一貫しているわけではなく、またシュルレアリスズム詩的な表現もあってかなり難解なものだが、ブルトンの人柄が見える。彼は真面目だ。

なぜ愛し合う二人を人間の究極の理想形としてそんなにも熱く語らなければならなかったのか。愛が燃え上がっている期間を理想とするあまり、熱しやすく冷めやすい男として生きてしまったのではないか。それでも最後は自身の娘への愛と、自分亡き後の人々へのつながりで終わっている。

ジャコメッティとの交友関係や、街歩きの中でいろんな商品やオブジェから自動的に別の意味を掬い出してくるシュルレアリストの日常的精神活動が愉快だった。

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読書
「ドーキー古文書」フラン・オブライエン 作
(白水Uブックス)

アイルランド・ダブリンにほど近い海辺の町ドーキー。偶然出会った男は化学兵器によって人類絶滅を企むマッドサイエンティスト。また時間を自由に操作する方法も知っている。この危険人物の陰謀を阻止するため秘密裏に計画を実行する青年は、ふとしたことから死んだとされる文豪ジェイムズ・ジョイスに出会うことになる。

話が始まるやいなや海底の洞窟に連れて行かれて、古代キリスト教の教父アウグスティヌスの霊体に出会うという奇矯な設定(このアウグスティヌスがまた妙に俗っぽい奴でおかしい)。ここまでとんでもない事件から入りながら、この件はほったらかしで主人公の身辺へと話は収束していく。
また才媛である彼女が登場していかに事件を切回していくかと思いきや、その後ほとんど登場しない。マッドサイエンティストの企む化学兵器の構造も謎のままである。

このように冒頭振られた大きな伏線(伏してないけど)が回収されずに、凡庸な神父や呑気な警察署長、借金に苦しむ友人などが登場して話がスケールダウンしていく。かと思いきやなんと死んだことにされている国民的大作家ジェイムズ・ジョイスがひっそりと生きていて、主人公との交流が始まる。

そんなわけでどこへいくやら案内人なしの、行き当たりばったりで書いた感のある長編だが、とりあえず面白い。作者はベケットやジョイスに評価された才能だが、心地よい喜劇といった印象で、なんの心配もすることなく楽しむことができる。

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「日月両世界旅行記」
シラノ・ド・ベルジュラック 作
(岩波文庫)

奇想天外な科学的装置によりふわふわと天界へ。月世界と太陽の世界を巡る2編のユートピア小説。当時最先端の科学的知見や哲学的見解などを遠慮なく散りばめて構成。17世紀中期を奔放に生きたシラノ・ド・ベルジュラックだが35歳の若さで死んでいる。

月世界旅行記のほうはユートピア小説の基本形とも言える風刺小説で、キリスト教的権威が支配する不自由な世界を次々と批判していく。主人公は伝統的なクリスチャンの立場だが、それを論駁する無神論者の言うことの方が明らかに筋が通っていて、作者の真意がうかがわれる。

太陽旅行記は前半主人公が魔法使いとみなされ、追っ手からの逃走劇が繰り広げられる。この辺りは波乱万丈のエンターテイメントで楽しく読めるが、後半太陽世界にたどり着いてからは、やはり全方位の風刺小説である。なかでも鳥たちによる人間批判が秀逸で、「彼らは隷属を好む性向がきわめて強く、ひとに使えることができなくなることをおそれて互いに自分の自由を売り合っているのであります。このあわれな奴隷どもは、主人を失うことをおそれるあまり、何か思わぬことから自由な身になってはたいへんとばかりに、水の中、空気の中、火の中、地の下、いたるところに神をでっちあげるのであります。」まさに宗教の正体見たり。

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読書
「蹴り損の棘もうけ」
サミュエル・ベケット 作
(白水社)

ながらく作者によって再版が認められなかったベケット27歳の初期連作短編集。
ダンテ「神曲」やシェイクスピア(もちろん聖書も)その他古典からの引用やパロディ、ダブリン市内及び郊外の事細かな実際の様子などが絢爛豪華に散りばめられた饒舌体で、そのせいか観念的ではないのに難解で衒学的な体裁となっている。

主人公は世間的にはちゃんとした人間に見られているが、その実自分の時間を恋人より大切にするマイペースな男で、おそらく作者自身がモデルと思われるが、彼が2度の結婚を経て死に至るまでが自嘲的に描かれている。したがって全編ユーモラスではあるが微苦笑といったような味わいである。

ここに後の「ワット」や「モロイ」など主要作品に登場する、やることなすこと合理性と進捗を欠きどこへ向かうのやらわからない男たちの原型を見てしまう。本作ではまだ主人公本人に知的で明確な意識があるが、後の作品ではこの自意識が無化され描写も削ぎ落とされて、あの不条理で虚無的な世界へと結実していったのではないだろうか。この作品では人物はまだ確かに我々の側にいるが、やがて感情移入の不可能な混乱する奇妙な人間を発見する、その糸口のような作品に思う。

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読書
「鷹」石川淳 作
(講談社文芸文庫)

「鷹」「珊瑚」「鳴神」の中編三作。どれも作者の長編伝奇小説を短くまとめたような作品。1950年代、もはや戦後が終わっていよいよ逆コースが強化されようとする世の中。異世界を根城に集うアウトロー達と支配を企む権力者との戦いが始まる。エンターテイメントの方法で書かれた社会派幻想小説。

長編「狂風記」でもそうだが石川淳はスラムやゴミの山をアジールとする反権力アウトロー達が、世界を混乱に落とし込んだあげく戦いに破れて散っていくといった設定が好きなようだ。「六道遊行」「至福千年」なども時空を超えて一癖も二癖もある登場人物が活躍する壮大な物語だが、自分はこの一見むちゃくちゃ面白そうな伝奇小説群が今ひとつ面白くなく、どうしてだろうと考えてしまう。

独特のリズム感のある戯作的文体で、通俗を装っているが芸術がバレている。これはよい。ところがキャラクターはエンタメの定番的な役どころを揃えていてやや類型的な感じがする。とくに姉御肌の若い女ボスが出てきて「どうだい。ちっとは身の程をおもい知ったろうね。」などと言われるといかにも古いなと感じてしまう。ややべらんめえ口調の乞食少年などもその類型だ。ここはさすがの石川淳も時代の壁を超えられなかったか、人物はもっとリアリズムでよいのに…。
またストーリーで読ませているにしては幻想的なこと不思議なことがむやみに起きるので、なんでもありとは思わないが、ちょっと気持ちが引いてしまう。エンターテイメントのふりをしているが、実はそうではないのか、どこで読ませるか難しいところだ。国枝史郎や夢野久作の言わば通俗に徹して時代を超えてしまう方法ではこの印象はない。石川淳はなにかアクロバット的なことをやらかしているのではなかろうか。謎だ。

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読書
「タルキニアの小馬」
マルグリット・デュラス 作

地中海の避暑地に長期バカンスを楽しむ友人夫婦たち。毎年訪れる場所だが今年はことのほか暑く、やや飽きが来た感じである。事件といえば山の上で地雷処理作業中の青年があやまって爆死し、その祖父母が爆破で壊れた作業小屋に留まったまま死亡届にサインをしようとしないこと。また素敵なモーターボートを操る男が主人公たちに同行し、主人公の女性に想いを寄せるようになる。
ものごとが大きく動きだすこともなく、日頃の人間関係上のいろいろな思いが対話体の表現でつづくが、決裂に至るような重大事にもならずに終わってしまう。

個人的にはほとんど興味を惹かれない内容だが、この対話体の読みやすさにつられてスルスルと読んでしまった。彼らがしゃべっていることが面白いかといわれるとまったくそんなことはないのだが、不思議な感覚だ。

女中にしては自己主張の強い女中が出てきて、主人公たちからは悪し様に言われているが、彼女のどこがいけないかまったくわからない。ここでの作者デュラスの意図がわからない。

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読書
「千霊一霊物語」
アレクサンドル・デュマ 作
(光文社古典新訳文庫)

果たして切られた首にまだ意識があって喋りだす事はあるのか?奇怪な殺人事件の現場に偶然集まった識者や名士の面々。科学的見解を元にすべての怪現象を否定する医師を狂言回しに、それぞれがかつて経験した不思議な心霊現象を披露していく。
このような形の短編集を枠物語というそうだが、海外文学でときどき出会う。登場人物の一人に作者デュマがいて聞き取り役となっている。

さすがにどの話も面白く上質の怪奇短編でああだこうだいうこともない。ホフマンからノディエへと伝わった怪奇幻想文学が、ノディエのサロンに集う後輩デュマの手にかかって、芸術性を捨象した分かりやすいものとなった。精神性や耽美的な味わいといったものはないが、これがデュマの役どころだろう。19世紀フランスの大人気作家デュマの生粋のエンターテイメント作品が、現代のわれわれにも文句なしに楽しめるのはなぜだろうか?

バルザックでもそうだが、やはり造形する人物像にリアリティがあって心憎いところをついてくる。面白がらせるところも過度な刺激性に頼っていない。描写は無駄なく平易だがけっして子供向きではなく、リズム感があって文を追う楽しさがある。こういう作品が時代を越えてくる。やっぱり理想のエンターテイメントというわけです。

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読書
「夜と陽炎」耳の物語2
開高健 作
(岩波文庫)

自伝小説「耳の物語」後編。
牧羊子との学生結婚後、サントリー宣伝部でコピーライターとして日々の生計を立て東京へ転勤。夜の街を彷徨う毎日を経て作家デビュー、芥川賞受賞。フランスを拠点にヨーロッパ各地を取材。やがて戦火のベトナムへ。帰国後鬱状態を経て「オーパ!」の世界へ。

自分はあまりルポルタージュ小説を好むほうではなく、どちらかといえばインドア・妄想型の作風を愛する者だが、社会派小説やプロレタリア文学も好きだし、開高健の「自分の中には何もなく、ひたすら外へ向かう遠心力で書く文学」という動機も理解出来る。
ただ、ともすると世のルポルタージュ小説は文章としての魅力に乏しいものに出会うことがあって、まるで新聞記事を読んでいるのと変わらない寂しい印象だ。

ところがこの開高健の仕事はまさに魔術的な目もくらむ言葉の連続であって、1行読むだけで脳内に電流が走り、豪速球を腹にめがけてドシンドシンと投げ込まれるような、超絶技巧の生演奏を聞かされるような、超高級ウィスキーを流し込まれるような(飲んだことないけど)、暴力的に美しい散文詩。その魅力に捕らえられて離れられないものだった。
安っぽい言葉で言えばこれぞ芸術。ぬらぬらした夜の東京も、激烈な戦禍のベトナムも、アラスカのサーモンも確かに現実はあるわけだが、その真実を超えて作品の魅力はここにあった。

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読書
「カッコウが鳴くあの一瞬」残雪 作
(白水Uブックス)

表題作等ごく短いものと、やや中編をまとめた初期短編集。
後年の抜け出せない悪夢に比べれば、やや爽やかな風が吹いている悪夢といった感触。これは語り手が女性で恋愛をとりあげているところにも原因があるのだろう。それでも悪夢であることには変わりはなく、心地のいいものではない。もがいている感がちょっと薄いだけだ。

そしてもがいているのはけっして登場人物ではなく、読んでいるこちら側の役割だ。彼らはどういう場所で暮らしどういう立場であるのかはっきりしない中で、働きもせず寝たり起きたりしており生活感がまるでない。周りの人物との明快な意思疎通というものもなく不毛感が常に残る。いくつかの手がかりで像を結ぶことはできるが、それ以外は闇の中のようなものだ。

そんな状況でも彼らは泰然としており、この不可解な世界を解決する役目が読者の方に課せられてしまう。不条理の中で彷徨う主人公を読者という安全な立場から追いかけるのとは反対に、読んでいるこちら側が解決のつかない世界に追い込まれる。島尾敏雄やつげ義春など、他の夢を描いた作品と比べてもまるで快感がない。どこへもたどりつけない絶望をじわりじわりと味わうことができる。

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読書
「科学と宗教と死」加賀乙彦 著
(集英社新書)

人生最終コーナーを回って自身の死について考えないものはいない。思わぬ形で突然死んでしまうことは、身の回りを見てもざらにあることである。
著者は少年時に戦争を体験し、東京拘置所医務技官として死刑囚にも接し、長年のキリスト教研究の上で洗礼も受けている。死についての言葉にはさすがに重みがあるが、ここでは読みやすくサラリと書かれている。原爆や原発、仏教とキリスト教に関する話題も、そう目新しいことが書かれているわけではない。その点やや不満は残るが、真実というものは言葉にすると平易であり、多くの人によって語られてきたように感じるのだろう。

やはり直接の体験記が胸を打つ。奥さんを突然のくも膜下出血により亡くすくだりはさすがに切迫感がある。つらい話だが老父婦にはまったく他人事ではない。自分のまわりでもこういうことはあるが、子供がいるといないでは残された人生の感覚が違うかもしれない。さてどうなるやら…。

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