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漫画家まどの一哉ブログ

   
読書
「南十字星共和国」ワレリイ・ブリューソフ 作


20世紀初頭ロシア象徴主義運動の指導者ブリューソフの短編集。
幻想文学といえばそうだが、幻想的なイメージ溢れるというほどの味わいはない。耽美で詩的な言葉に酔いしれるわけでもなく、不可解で理不尽な出来事に翻弄されたりもしない。トリッキーなショートストーリーに近いところもある。
夢や鏡をテーマにした数篇は、よくある設定にもうひとひねり加えて面白く作ってあるが、作者の現実主義者の側面が悪夢的な味わいを削いでいる気がする。

表題作「南十字星共和国」は架空の共和国で撞着狂という感染症が流行り、人々は思いと真逆の行動をとるようになって国家が破滅して行く物語。「姉妹」は妻を含めて三姉妹全員と性愛関係を深めるようになった男が逃げようとして逃げ切れず、舞い戻ってきて悪夢に襲われる話。「最後の殉教者たち」は革命政府に抵抗して集まった宗教者達が殺される中でも互いに身体を求めあっている話。
いずれも面白いがなぜか一直線の構成でひねりがなく、事態がだんだんエスカレートしていって、まだまだエスカレートしますという展開。直球一本勝負のような小説だ。

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読書
「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」
ジュノ・ディアス 作


オスカーはぶくぶくと太った女の子にまるでモテないオタク青年だ。SFドラマやアニメに対する蘊蓄はふんだんにあり自分でも小説を書いている。現実の女性に対するアタックはことごとく撃沈の結果となるありさまで、それでもドミニカの男かとバカにされるくらい、周囲はマチズモに支配されている。そんなオスカーの悪戦苦闘と悲しい結末を中心に、彼の母親やその親などが生きた独裁政権下の恐ろしい社会も描かれる。

私はオタク趣味がないので、SFやアニメのキャラクターやエピソードをふんだんに盛りつけられても特別な感慨はない。対するマッチョ層とオタクとの分かりやすい対比も両極端すぎて他人事といった気がする。それでも主人公オスカーのオタクっぷりのリアルさと語り口のうまさで、面白く読める。

作品を紹介する側からはこのオタク文化の面が専ら強調されているが、それ以外の姉や母親など女達を描いた部分が秀逸だ。
とくに母親の捨て子としての生い立ちから、華麗な肉体を武器として生き抜いていく青年時代。そしてギャングとの悲壮な恋愛など、マイノリティながらも自尊心を失わず毅然として戦い生きていく。そんな母親から全否定されながらも、同じく堂々と我が道を行く姉。いずれもオタク青年オスカーとは対照的な存在だが、こんな強い女達をよく書いたなと思うほど書けている。オタク文化をふんだんに盛り込んだことを標榜しなくても、この女達を描いたことだけで名作だと思う。

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読書
「死神の友達」 ペドロ・アントニオ・デ・アラルコン
 作

「死神の友達」:本来貴族の胤裔であるはずの主人公青年。悪意の犠牲となって靴職人として世を過ごしているところ、死神が友人として現れその魔力に寄って貴族社会への復活を成し遂げる。長年想いを馳せていた女性とも結婚を果たす。そこまでは納得ずくの楽しいエンターテイメントだが、後半主人公は死神とともに空飛ぶ車に乗って高速度で地球を周回。彼の死の秘密が明かされるとともに、世界は最後の審判を迎える。19世紀小説とは思えない破天荒な展開。

「背の高い女」:街で追いかけてくる背の高い不気味な老婆。こいつが現れると身近に不幸が起きる。この女は現実に存在しているのか?それともオバケなのか?取っ組み合いの格闘をするところなど、やはり現実の女なのだが超人的な能力を持ち、死ぬまでたたってくるという恐ろしい短編。

やっぱ幻想文学は楽しいね。アラルコンもわくわくだ。現実離れした荒唐無稽な話なのに、人間社会のリアリティもあってダレない。そしてニヒリズムでないまでもペシミズムははずせないスパイスですな。

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読書
「ロスト・シティ・レディオ」
ダニエル・アラルコン 作

内戦が続く中南米のとある共和国。
戦争で行方不明になった多くの人々。「ロスト・シティ・レディオ」はそんな人々からの捜索願を受け、紹介し、感動の再会までを演出する人気ラジオ番組だ。主人公ノーマはその声の魅力で国中の人々を引きつける女性パーソナリティである。
植物学者の夫レイは研究名目でジャングルに隣接する地方の村に定期的に滞在していたが、反政府勢力「IL」との関係を疑われ、収容所『月』に囚われの身となる。
内戦終了後10年。夫の行方を探し求める彼女の元へ、行方不明者のリストを持った一人の少年がやってきた。リストには夫の別名があり、やがて彼女が知ることになる彼の真実とは?

行方不明の夫との幸福だった日々の思い出が、失われたものとして繰り返し描かれる。この彼女の切なさ。当局の捜査を逃れながらも、潜伏する協力者との接触を強いられる夫。その暗く緊迫した日常。そして村では青年達を筆頭に多くの人間が行方不明となっていく。残された母親や老人達の寂しさと悲しさ。誰の心も安らいでいない。内戦状態であることで作品全体がつらく張りつめたまま押さえられた色調で綴られていく。

出来事を時系列から解き放ち、10年の歳月が行きつ戻りつしながら進行するので、ていねいに読まなければ前後を見失いそうになる。しかし緊迫した状況の中、ミステリアスな仕掛けが少しずつ解き明かされていくのは興奮した。

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読書
「友は野末に」  色川武大 作

最後の無頼派といわれた著者の九つの短編と対談集。思い出話や昔話だが、こんなこと小説にならないだろうといった、なんてないことをうまく料理して読ませてしまう。すごく面白いわけではないが通俗小説の風味のようなものがある。

ただ子供のころから学校をサボって、思春期には立派な博打打ちとなっていた人だけに思い出話といっても普通の人間とはちょっと違う。風来坊のような青春だが、肩で風を切って歩いていたような風情ではなく、おびえながら仕方なく人と交わって寂しさをごまかしながら生きている様子だ。そんなすぐにでも折れそうなさ彷徨う心が感じられて馴染みやすい。名作「狂人日記」に繋がるものがある。

巻末の色川夫人のインタビューが、ナルコレプシー症でもあった作者の波乱含みの日常を明らかにしていてわくわくとする。

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読書
「一九八四年」 ジョージ・オーウェル 作

全体主義的未来の悪夢をきわめて正確に描いた傑作。私生活のすべてを党に管理・支配され、表面上の服従はおろか内心の自由まで徹底的に剥奪される洗脳プログラム。これがディストピアのお伽噺ではなく、今現在のわれわれの社会に即実行されそうなリアリティを持っているのが恐ろしい。

ザミャーチンの「われら」にほんのりあった芸術性は感じないが、その分全体主義社会に対する理解と認識が半端なものではなく、寓意や風刺というレベルを超えた迫真の背筋が凍る怖さがある。雰囲気優先で書いたようなあいまいなところがない。こんな大きな社会的テーマを徹底して計算された組立てで、あざとさもなく面白いストーリーに仕上げてあるのが信じられない。

途中反政府勢力のバイブルとして書かれた秘密文書がかなり長くそのまま記述されるが、エンターテイメントとしてはいささか苦痛なこの論文を乗り越えて読み進むと、ストーリーは絶望的なラストへ向かって急展開する。本編が終わった後に付録として、物語内で使用されていた言語体系「ニュースピーク」の言語学的分析があるが、ここまで架空の言葉に対して厳密に分析してその設定を楽しむのは、やはり小説と言う言葉を楽しむ分野ならではの仕業で、漫画家ではこうはいかない。

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読書
「夢のなかの夢」 タブッキ 作

ラブレー、スティーブンソン、チェーホフ、ドビュッシーなど偉大なる天才達は夜こんな夢を見ていたかも…。という設定で書かれた連作掌編集。
シュルレアリスムではなく夢日記とも違う。誰それは夢を見たで始まり、目が覚めたところで終わる。夢オチと言ってしまえば言えなくもないが、実にうまく出来ていて楽しい。
スティーブンソンは南海の島で山に登り、チェーホフはサハリン島で人間観察、ランボーは切断された自分の片足を抱え、ロートレックは背丈を自在に伸び縮みさせる。タブッキ自身がふだんから敬愛していた芸術家達、個々のエピソードをうまく織り込んで飽きさせないものとなっております。

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読書
「パロマー」 カルヴィーノ 作

カルヴィーノはどうも観念的な言葉をあやつる趣味があって、せっかく小説は面白いのだから素直な物語を書いてくれればいいのにと思う。これが遺作。
パロマー氏という一文化人が日常生活の中で発見した自然や街や社会の様々を段階的に語ってゆくという設定。段階的というのは最初は視覚に忠実に描写しているが、しだいに思念的・瞑想的にふくらんでいくというカタチをとるもの。
たとえば庭に来る昆虫や鳥、ヤモリやクロウタドリのようす。また街で並んでまで手に入れる肉やチーズについて。これくらいなら多少言葉を費やしても愉快なエッセイの範囲で楽しめる。
ところが世界や宇宙について考え始めるといかにも哲学趣味で、世界をみつめる自分という内側の存在と外側の間にある「私」という存在とか、そんなハナシになっていく。哲学に置けるこの種の言葉の置換えや積み重ねが認識の深化だとはまったく思えず、不毛だとまで言わないが趣味の問題だと思う。言葉を使った遊び方の種類が違うのだという気がする。

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読書
「バルザックと小さな中国のお針子」ダイ・シージエ
 作

文化大革命の中国。山村へ再教育に出された二人の青年と村のお針子の少女の、禁じられていた書物の世界をめぐる恋と友情の物語。

なにが青春なのかはさておき、これはまぎれもない青春小説だと思う。爽やかな読後感。
本来なら相応に学問の道へ進むべきであるはずの男子ふたりが、下放政策のため山岳地帯の農村へ追いやられ、本を禁止された世界で肉体労働を課されている。しかし体力はある。世界に対する発見は新鮮なものだ。運命の激変で雌伏の時間を強いられたが、それでも人生はスタートしたばかりなので、まだまだたっぷりある未来へ向かって常に臨戦態勢のような元気を感じる。とうぜん悟ったようなところや一歩退いて観るようなところはなく、ふりかかる苦難には全力で取組む方法しかない。これが若いということか。

作者は著名な映画監督でもある人だが、そうか、私と同世代の中国人作家はちょうど文革の下放政策の犠牲者なのか。有為なる青年から教育をはぎとるとはなんとおろかな政策であったことだろう。
最後の方で登場する村の医師がバルザック作品と翻訳者を熟知している人間で、主人公の青年とお針子の少女を助ける。人種や政治性を越えて普遍的な人間性に到達しようとする、これこそが教養というもんだ。

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読書
「心臓抜き」 ボリス・ヴィアン 作


もちろん作為なのだが作為的には感じない、ごく自然体で書かれたシュールレアリスム小説といった風情。特異な設定の中でも会話が理屈っぽくなく、素直な感情のやりとりで馴染みやすい。

それでも出来事はある種シュールの典型といった奇妙な具合だ。
たとえば主人公の精神科医がなぜ突然田舎のお屋敷で出産に立ち会い、その後世話をする事になるのか、はっきりした理由が書いていない。妊婦の叫び声を聞きつけたからといっただけ。
舞台となる村では人を人とも扱わない残酷な仕打ちが日常化していて、老人市では見せ物的に老人が売り買いされたり、大工や蹄鉄工のもとで働く徒弟の小僧は酷使されて死んでもほったらかし、川に落ちた物を歯でくわえて拾い上げる仕事があったりする。
また村唯一の教会は大きなタマゴ型のドームであり、司祭は教会内にリングを設営して自らボクシングの試合をくりひろげる。この司祭は神様を贅沢品と考えていて、民衆が神様に幸運を祈ることを厚かましいことと非難する。

さてお屋敷で生まれた三つ子は成長するにしたがって、空中浮遊に至る魔法的な遊びに熱中。子供達のまわりからあらゆる危険因子を取り除いて隔離しようとする母親の異常な心配と過保護が進む。
主人公の精神科医は村での不毛な生活にだんだんと身も心も任せきり抵抗しようとするそぶりはない。現実の世界から見ればすべて虚しい営みばかり。希望的なことや生産的なことは起きない。基本的にネガティヴな世界であるところにこの小説の快感がある。

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