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漫画家まどの一哉ブログ

   
読書
「とてもいい!」マヤコフスキー 作


長詩。全体としてとても元気がいい印象。マヤコフスキーは34歳。著者もまだ若いが国(ソビエト連邦)も若いよ。土曜社のマヤコフスキー叢書の一冊には巻頭に児童文学作家カッシリによる「ある日のマヤコフスキー」という講演会のルポルタージュが掲載されている。それを読むとマヤコフスキーはたいへんな人気者で、溢れる聴衆を前に見事なパフォーマンスを繰り広げるところは、なかなか達者なヒーローであり、少なくとも内気なおとなしい詩人といったタイプではない様子だ。

十月革命叙事詩だからスローガン的なシュプレヒコール的な口調をうまく生かしているのか、それとも伴わない結果を批判するのにアイロニーとして利用されているのかわからない。何れにしても著者を取り巻く世界は流動的だ。

「流れていた、いつもの通り、十月が、風になって。資本主義の風と同じ風が。流れていた、トロツキー橋を、自動車と電車。いつものレールをくねらせて。橋の下はネヴァ河。ネヴァを泳ぐクロンシュタットの船々……小銃たちのざわめきに、冬宮がよろめきはじめた。
(2段×4ページ略)
流れていた、いつもの通り、十月が、風になって。橋の上、レールをくねらせて、電車はその疾走をつづけていた。もはや、社会主義のもとに。」

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読書
「夢魔は蠢く」東雅夫 編


明治から大正にかけて書かれた文豪たちによる怪談小話のうち、夢を素材としたものを選んだアンソロジー。
夏目漱石の「夢十夜」をそもそもの始まりとして、この方法に倣って色々なものが書かれたのではないか。幽霊が出てくるわけではなく、現実のようなそうでないような輪郭のはっきりしない出来事。水野葉舟の「響」などもまさにそうだが、本書には登場しない内田百間をその完成形とする、夢の中を彷徨うような描写は誰でも一度はやってみたいもので、多くの作家が試みたのではないだろうか。

それらとはまったく違う正岡子規のものはエッセイの形をとったもので、かえって面白かった。葬送に関するあれやこれやの迷いなど面白おかしく、ネタとしてはありがちなので先に書いたもん勝ちのような気がする。

付録の絵物語、坪内逍遙「神変大菩薩伝」はどう見ても現代なら漫画に仕立てられたであろう見事さである。赤い糸で結ばれていたとか、ワイヤレスの神通とか言葉が現代的で愉快。絵も逍遙。

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読書
「遊覧日記」武田百合子 著

娘の写真家武田花と巡った物見遊山記録。写真付き。
東京でも上野や浅草など山手線の東半分はこの日記が書かれた昭和61年頃でも既に古びたうら寂しい雰囲気に満ちている。
花屋敷・蚤の市・観音温泉・上野東照宮・藪塚ヘビセンターなど、おしゃれなものは一切出てこない。使い古された設備や何年もその仕事に携わっている人々など、新しくならないところが安心できる。

自分が子どもの頃親に連れられて目にしていた都会は、色や匂いや印象のみが記憶に残っているが、そんな子供の頃の感覚がよみがえる感覚だ。目にしたものを内面を含まずに見事に描写する武田百合子の筆力に吸い込まれてゆく。

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読書
「一条の光/天井から降る哀しい音」耕 治人 作

命終三部作「天井から降る哀しい音」「どんなご縁で」「そうかもしれない」
昭和60年頃、80歳に届こうとする作者夫婦。妻の認知症が進み、作者自身も病を得て入院することになった最晩年の生活を描く。

作者は私小説作家と言っても別に無頼派ではなく、長く出版社にも勤めたし、遊び呆けるわけでもなかったのだが、家計・家事一切を妻に任せきりで、また妻が自分のことは構わずに夫に尽くしてきた後ろめたさがあったのだろう。妻の認知症が進むのもみんな自分のわがままのせいと自身を責めてしまうようだ。そうやって懸命に妻の介護に励むわけだが、その自責の念の裏側にもやはりエゴイズムがあるのではないか。と言えなくもないがそこを責めても仕方がないだろう。人間そんなもんだよ。

おそらく明日はわが身と誰もが思える内容で、ケアマネやヘルパーの世話になりながら毎日をくぐり抜ける様はただただリアルで、日本が高齢化社会に踏み出した初期の実感が得られる。もちろんドキュメントとは違う小説としての愉しさがある。
最終的に妻は特養ホーム、自分は病院で離れ離れに暮らす日々となるが、妻を焦がれ妻がヘルパーに付き添われてお見舞いに来るのを楽しみに待つ気持ちは痛いほどわかる。たとえ相手が自分のことを誰だかわからなくなっていても。

そしてこの苦闘の記録を、病後80歳になった段階で味わい深い作品に仕上げたことに驚く。

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読書
「老いの生きかた」鶴見俊輔 編

ついに自分も老いになじむようになったか。というわけでもないが、以前から興味あるテーマ。鶴見俊輔が、キケロ・モンテーニュ・サルトルから中勘助・富士正晴・鮎川信夫・金子光晴・室生犀星・野上弥生子など古今東西の著名人の老いに関する発言を選んだアンソロジー。当然この選択は鶴見俊輔の老いに対する見方が反映されている。

総じて老いてもかなり元気な人々という気がする。食が細り、目や足が衰えてくるとどうしても気力が落ちると思うが、取り上げられている著名人が当然だが我々凡人よりはるかに脳力が高いので、肉体やその欲求が衰えても日々の知的活動がなんら減衰することはない。この辺りがまったく別世界のような気がする。もう少し日々の小さな絶望と虚しさに触れてほしかった。

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読書
「塩の道」宮本常一 著

たまに宮本常一を読むとやはり面白いな。晩年の講演集3編。なるほど塩なんてものはなくてはならないものながら栄養にならない。よって祀られていないらしい。そんな生活必需品でありながら塩が製塩される沿岸部からどうやって内陸まで運ばれていたかなど、公の記録として残っていないのが意外だ。牛や馬に草を食べさせながら運んで行ったというのが面白い。サツマイモのように役人が企画したものと違って、トウモロコシなど民衆が広めたものは何も記録が残っていないようだ。その辺りを足で歩いて探っていくのがこの分野の醍醐味だな。

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読書
「八月の光」フォークナー 作


主人公の一人とされている若い妊婦が素直でポジティブな明るい性格で、彼女が中心となって展開するのかと期待したが、残念ながらあまり登場しない。やはり主人公である孤児院出身の黒人の血が流れる白人の男が、生まれてから犯罪者となって死ぬまでに物語の大半が割かれており、愛を知らない人生で実に殺伐としたものだ。

そしてもう一人の主人公である教会をクビになった牧師。教会をクビになっても自分が牧師であることは捨て去ることができない。この神との責務を絶対に果たそうとするカルヴァン主義者の精神性はよく分からない。そういえばこの牧師と親しい工場労働者の青年も、土曜日も誰とも遊ぶことなく一人工場で自分に課したノルマを働く非常に内気で真面目な男で、牧師とは似たような人格だ。これが根っからのプロテスタントというものか。

長編小説ではよくあるが、新しい人物が登場するたびにその生い立ちから現在に至るまでを丁寧に追いかけて一章分くらい使う。話に深みが出て当然面白くなるが、ときどき子供の頃はもういいから、今のことを話せよと思ってしまう。多くの人間が登場するが、実に多様な顔ぶれで、貧しい自分の人生経験から彼らの内面を理解することはちょっと覚束ない。フォークナーの中ではこの作品が一番わかりやすく、他のものは多少難解なところがあるらしいが、なるほど王道を行くような人間ドラマで、エンターテイメントとしても遠慮するところがない。

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読書
「時間の非実在性」ジョン・エリス・マクタガード 著
永井 均 訳・注解と論評


1908年に発表された時間論の古典的論文。本文自体はごく短いもので、それに対する訳者の丁寧な解説と論評の方にボリュームがある。文庫本一冊の内容はほぼ同じことを繰り返しきめ細かく掘り下げているのだが、正直理解できたかというと怪しい。

A系列という過去・現在・未来のつながりと、B系列という出来事の前後関係。この2種類の時間のあり方が入り組んで現れてくることは、そんなに違和感なく追っていくことができる。
問題は「端的な現在」といわれるもので、意識の内発的な現れとしてそれしかありえない、そうとしかありようのない現在という感覚。未来の想起も過去の記憶も、すべて現在の意識でしかないこの現在と、A系列(過去・現在・未来)との矛盾と言われると、何が矛盾なのか納得できない。

ただ、もし「端的な現在」が記憶や予測を持たなければ、時間という感覚はないかもしれない。それが時間の非実在性を証明するかどうかはわからないが…。

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読書
「類推の山」 R・ドーマル 作


昔持っていた白水社の小説のシュールレアリスムシリーズで面白く読んだ記憶があるので、また文庫で読んでみた。
たとえ話の類であったはずのエベレストより高い類推の山。その山の実在を信じて冒険へ旅立つ主人公たち。山は空間の歪みによって普段とらえられない洋上にあり、先にたどり着いた人々が麓に村を作って暮らしていた。村の一員となった主人公たちはいよいよ年月をかけた登山へ出発する。未完。

出発前の未だ計画を練っている段階での、現実の中に不思議な山の話が割り込んでくるあたりが面白い。シュールレアリスムの醍醐味がある。これが島にたどり着いて、閉ざされた特殊な世界に限定されてしまうと、ふつうの幻想冒険文学になってしまって人畜無害感を感じてしまう。悪い意味で安心してしまうのだ。その意味では未完でちょうどよかったかもしれない。

誠実で楽しい文章。付録の覚書は登山に関する名エッセイ。

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読書
「魔の山」トーマス・マン 作

世界名作文学。主人公の青年が山地のサナトリウム(結核療養所)で過ごすうちに、次第に成長してゆく様を描く教養小説。ということだが、この教養小説という分野があるとすれば、自分は青年というものを特別愛さないのであまり興味を持てない。
ましてこの主人公は頭は悪くないが、いたって凡庸な男で、加えて無類のおしゃべりであり、黙っていればいいのにというような時に無駄に観念的で追従的な言葉遊びを披露する輩だ。どうにも好感が持てない。

この青年が療養施設でいろんな人間に出会うが、精神的な深みのない人間なので恋のくだりなども全く面白くない。やや面白いのは人文主義者で自由と民主主義に絶対の信頼を置くヒューマニストのイタリア人文筆家で、彼が青年に滔々と教え諭す理念は読み応えはある。
またそのライバルとなる暴力革命によるキリスト教社会主義を礼賛するイエズス会教徒の男は明らかにダークサイドに魂を売っていて、よくぞこんな人物を造形したなと感心する。

しかし総じて納得がいかないのは、小説の中で直接思想信条を語りまくる書き方だ。革命期の社会を舞台にして大きなドラマが動き、その中でいろんな階層の登場人物がそれぞれの立場を表明するならわかる。そうやってより物語も濃密になるから。
ところがこの作品の場合、療養所や散歩道の途中などで座ったままいきなり社会思想の論戦が開始されるので、読者である我々がなぜその話を聞かなければならないか必然がない。これならなんでもアリではないか。

その他、雪山スキーで遭難しかけたり、心霊実験で霊魂を呼び出したり、多少エピソードも盛り付けてあるが、なんでもアリのちぐはぐ感を抱いた。作者は執筆に長い時間をかけ過ぎたと思う。

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