漫画家まどの一哉ブログ
「逝きし世の面影」
渡辺京二 著
(平凡社ライブラリー)
幕末期から明治期にかけて西欧からなだれ込んだ近代化の波。江戸期に熟成されたユニークな(今は失われてしまった)ひとつの文明があったことを検証する名著。
日本近代を描いた歴史書の中に、こんな視点で書かれたものがあったことを初めて知った。漠然とはわかっていても、文明というものは消えていくもので、それがわずか150年前の日本で起こっていたとは。
明治期、多くのお雇い外国人が驚いて絶賛した当時の日本社会の明るさ、簡素ながらも豊かで、人々は生活に満足しており、死を恐れず、美しい自然と調和したゆったりとしたリズム。自由でおおらかな暮らし。著者が何度も触れているように、近代史学の王道である治世者による支配と搾取を本質と見る観点からの反証は確かにあるにしても、外国人によるこれだけ多くの実例を無視するいわれはない。
自分などはやはり日頃から感じてきた、現代資本主義下の人生とは違った、もっと平和で落ち着いた、競争ということのない暮らしがあるのではないかという思いを裏付けられた気がする。
労働や信仰、子供や動物など様々な切り口で分析されていく当時の生活だが、なかでも不思議なのは「裸体と性」「女の位相」である。平気で半裸で往来を闊歩し、混浴はもとより女性の軒先での行水などTPOによってはまるで裸を意識しない。ところが銭湯で欲情してしまう実例もあるし、春画・春本も盛んだ。
遊郭へ売られた後も年季が明けるとふつうに結婚できるが、その実差別されていた実態もある。ただ本質的にはあまり隠し事をしない暮らしがあったようだ。
全ては近代化によって失われてしまった夢のような文明だが、個人を深化させるといった面は確かにあまりないので、おおらかで楽しいが、軽佻浮薄といえばそのとおり。はて何が良いのやら…。
「自由への道」6(魂の中の死)
サルトル 作
(岩波文庫 海老坂武・澤田直 訳)
舞台は捕虜収容所。捕虜となった共産党員ブリュネは党からの命令もないまま秘密裏に党勢拡大の努力を続ける。多くの裏切りやスパイ活動のなか、ついにブリュネは党より友情を選ぶ。文庫完結(未完)。
この巻(魂の中の死 第2部)においてコラージュ的方法は完全に影を潜め、登場人物はただ1人、マチウの友人だったブリュネに絞られる。
ドイツ占領下、ブリュネ以下フランス兵たちは貨物車で運ばれ、国内で解放されるのかと期待していた捕虜たちだが残念なことにドイツ内の捕虜収容所へ落ち着いた。極めて限定された男だけの社会だ。
第1部(分別ざかり)で登場したマチウを共産党へ誘う友情熱き男ブリュネがこの巻の主人公だが、いささか堅苦しいほどの真面目な男で、党員であることの意思が固くぶれない。しかも生活者としての個人的な幸福を放棄し、人生のすべてを共産党活動に捧げている。
なかなか彼の心情に寄り添って読んでいくのはつらいが、周りの捕虜たちは平凡な一般人であるため、サルトルの人間描写の味わいを充分楽しむことはできる。
しかしそんなブリュネが次章(奇妙な友情)では遂に党を離れ、裏切り者であったヴィカリオスとの死を賭した収容所脱出を敢行するから、ドラマとしては非常に効果的な性格設定だったのではないか。
「党なんてどうでもいい。おまえはおれのたったひとりのともだちだ」このブリュネのセリフが最も胸を打つシーンだ。
この大作はこの後まだまだ続く予定で、マチウとブリュネの役どころは逆転し、マチウを含めてダニエルやフィリップ、サラなども戦争終結までにはみんな死んでしまう構想だったらしい。第1部(分別ざかり)を書いた時とは大いに時代が変わってしまって、常にアンガジュマンを旨とするサルトルは、小説の内容にも方法にも身動きが取れないままあきらめたようだ。
「マクロプロスの処方箋」
カレル・チャペック 作
(阿部賢一 訳・岩波文庫)
遺産相続争いの鍵を握るのは誰か。遺言書が書かれた時代から300年の時を経て当時を知る女が現れる。
戯曲を読むときになかなか辛いのは誰が誰やらわからなくなるところだが、この作品では問題の女性がいくつもの変名を持っており、それが生きてきた各時代ごとに違うのだから大変だ。
尤も彼女が不老不死の薬効を得て時代を越えて生き抜いてきたことは、話の途中でもだいたい想像つくから悩むことはない。各相続人の父親・曽祖父など同じファミリーネームの人物の話題も頻出して注意が必要だが、しっかり把握できなくとも困ることはない。もちろんしっかりわかっていれば、より楽しく読めるが…。
不老不死の秘薬の謎に迫る怪奇幻想といった内容ではなく、チャペックらしい風刺劇。長く生きることによって得た豊富な経験と知識を生かし、人間はようやく幸福を得られるのか。それとも迷いと苦しみの連鎖に終わるのか。不老不死から起きる当然の命題だが、正解はないとしても、なんとなく幸せとは遠い人生が待っていそうだ。
「自由への道」5(魂の中の死)
サルトル 作
(岩波文庫 海老坂武・澤田直 訳)
ドイツ軍はついにパリを占領し、マチウの隊を率いる将校は逃亡。あくまで抵抗を続ける小隊に参加したマチウはついに銃の引き金を引く。
第2部「猶予」から第3部「魂の中の死」へ入った時点で時代はやや進んでいて、すでにドイツ軍はパリに入城。郊外では続々と逃げ出す人々の列が続き、長時間の移動に疲れたジャックとオデッサや幼子を抱えたサラの今後が案じられる。
夜に乗じて逃げ出した将校たち。話の大半は将校に捨てられたマチウの属する部隊のなすすべのない弛緩したようすだ。大甕にワインを満たして酒浸りになったり、それでなければウロウロしているばかりだが、こういう劇的でないシーンを描くとサルトルの筆はめっぽう面白い。戦争文学の中でもこういう描写は珍しいのではないか。
ところがまだまだ抵抗と闘争を続ける部隊が現れ、友人ピネットの自棄的な戦闘意欲につられてマチウはこの戦う部隊に参加してしまう。緊張感高まる鐘楼での狙撃作戦。意外にもマチウは意欲的にドイツ兵を撃ち殺し、ますます戦意は高揚する。
この展開がいかにも唐突かつ不可解で、あのインテリでどこにも帰属しない宙ぶらりんのマチウがなぜ突如率先して人を撃つか、文庫解説によると自分自身で時代と戦争を引き受けようとするのかもしれないが、解説されても納得はできない。
もうひとつこの巻で魅力的なのは、ゲイとして美少年フィリップを狙うダニエルだ。フィリップに出会って性的欲動に突き動かされながら、それを隠してまんまと自宅に誘い込み、慎重に慎重にことを運ぼうとする。爪を隠した猛禽のようなダニエルのいやらしさ。背徳的で息を飲むスリリングな進展。
「自由への道」4(猶予)
サルトル 作
(岩波文庫 海老坂武・澤田直 訳)
チェコ・ズデーデン地方をめぐってヒトラーの要求と対峙する英・仏。ラジオから流れるヒトラーの演説にフランス中の人々が耳をそばだてる。大きな政治が人々の運命を翻弄する。
ズデーデン地方に多くドイツ人が暮らしていることを理由に、割譲を要求するヒトラー。その正義の方便は非常に勝手な自己英雄化であって、聞くだに不愉快なものだ。現在のプーチンやトランプの言い草を彷彿とさせる。すでにユダヤ人に対するヒトラーの蛮行を熟知しているフランス中の人々が、ヒトラーの演説を聞くためにいやいやながらもいっせいにラジオにかじりつく。戦争となればパリ陥落は避けられない。
今まで以上に世界の動向を描いて物語に厚みが増している感じだ。モンタージュ的・コラージュ的手法もやや変わって、各登場人物の動向を連続的にしっかりと描き、戦火を避けるために貨物列車で運ばれる障害者シャルルたちや放浪の末破綻する反戦ブルジョア青年フィリップの動向に目が離せない。
翻って、マチウやダニエルなど第1部で主に登場した人物は、この切羽詰まった状況に中でも常に観念的で、覚悟という意味ではもどかしさが残る存在だ。マチウは動員されたのに相変わらず別の女性と交渉を持ち、仕方なく召集の汽車に乗る。しかし戦争を前にしてはインテリも労働者も同じで、なにも出来ることはないかのもしれない。
当事者チェコ政府をかやの外の置いた徹夜の四者(英・仏・独・伊)会談でひとまず戦火は避けられるが、人々の喜びがつかの間のものであることを我々読者は知っているのだ。
「自由への道」3(猶予)
サルトル 作
(岩波文庫 海老坂武・澤田直 訳)
いよいよ戦争が迫り、マチウをはじめ一部男性には動員が発令される。招集されて慌ただしく動く人々。登場人物がさらに増えてコラージュ的に展開される第2部「猶予」。
第1部までは主人公マチウやダニエル、マルセルなどを語り手として綴られていた文体が一気に変化する。マチウもマルセルも大勢の中の1人に退きめったに登場しない。
新たに下半身不随で障害者施設で暮らすシャルル、文字が読めず召集令状の意味もわからない出稼ぎ人グロ=ルイ、反戦主義で家を飛び出した裕福な階層の少年フィリップなど、興味深い人物たちが増えて目が離せない。夜のマルセイユに蠢くプロレタリアート。船長に身体を売る女性管弦楽団ベイビーズ。舞台はパリを離れパリを目指す人々が右往左往する。
なにより実験的なモンタージュ的・コラージュ的文体で、改行すら無視して次から次へと突然人物が変わり、慣れないうちはとまどうばかりだ。
しかし戦争へ向かう落ち着かない世の中で人々の全景を、空気自体を描き出すにはこの方法は正解かもしれない。
サルトルの人間を描く筆力が魅力に溢れていてやめられない面白さ。たいしたもんだ。
「自由への道」2(分別ざかり)
サルトル 作
(岩波文庫 海老坂武・澤田直 訳)
作者自身をモデルにした長編小説。主人公マチウの行動がいよいよ周辺の人物にも影響して破綻へと向かう。
マチウは妊娠した恋人マルセルの堕胎が喫緊の課題なのに、教え子イヴィックの後ばかり追いかけ、進学試験に失敗したイヴィックが故郷に帰ってしまうことを嘆いている。この有様ではロクな結果にならない。
友人でありながら敵役のダニエルは何故マチウを追い詰めようとするのかわからない。また隠し事をしないはずのマルセルが何故密かにダニエルに会うのか?ダニエルのどこが救いの大天使なのか、今ひとつ納得できない。マチウを気遣って結婚はしたくないが子供は産んでみたいなら、そう言うしかない。言わない挙句の破綻は救いようがない。
このマチウとマルセルの破綻のシーンは凡庸なマチウが全否定されてやりきれない。絶望しかない。まったく辛いものだ。
事態が切迫してくるにつれ全人物の会話シーンが迫真の出来で目が離せなくなってくる。芝居っ気がなく鬼気迫るものがある。見事なものだ。
またゲイであるダニエルのモノローグシーン。カミソリで男性自身に手を加えようとするものだが、自分の手と道具に対する粘りつくような過剰な意識とその繰り返し。これもめったに見られない興奮をそそる表現だ。恐ろしいものだ。
「小林多喜二」21世紀にどう読むか
ノーマ・フィールド 著
(岩波新書)
「蟹工船」をはじめ近年読み返される小林多喜二。その生涯を丁寧に描いて熱烈で魅力的な人間像に迫る。
多喜二はプロレタリア文学作家として作品を通して労働者の解放を願ったのであり、作品はその運動のためのプロパガンダであるから、この評伝もそこは絶対はずさない。しかしプロレタリア文学で今現在残っているものはテーマは別として小説自体が面白く、作者の才能がみずみずしく溢れているものばかりだ。私もそれがあるから読んでしまう。
また多喜二の魅力は作家としての才能だけではない。熱血漢というかバイタリティあふれる人物で、銀行員としての仕事も創作も共産党運動も全力でやる。会社でも有能で人あたりがよく職場のみんなに慕われ、左翼活動の結果やめざるをえなくなっても、泣いて別れを惜しまれたとは、全く知らなかった事実だ。近代文学のなかでこのパーソナリティはめずらしいのではないか。
真面目で有能な人間だから一途に労働運動に取り組んでいくが、そんな多喜二が獄中にあるうち、プーシキンやバルザック、ディケンズなどに触れて、小説世界の広さと可能性に目を開いていくのが当然といえばそうだが、生きてれば作家としての才能をもっともっと開いていっただろうと思うと惜しい。
「自由への道」1(分別ざかり)
サルトル 作
(岩波文庫 海老坂武・澤田直 訳)
作者自身をモデルにした長編小説。パリの街と彼のまわりにうごめく友人・知人たち。
主人公マチウは一介の高校教師であるにしては、ふだんから知人の間でなにかしら一目置かれているようだ。だがそれがなぜかはまったく見えてこない。マチウが後のサルトル自身のようにアンガジュマンするようなシーンもなく、はっきりしない人物である。それどころか妊娠した恋人マルセルの堕胎費用を捻出する為に走り回っているありさまだ。しかし思想を抱える者とはこういう人格なのかもしれない。
比べて友人・知人たちの方が性格も行動もわかりやすく好感が持てる。なかでも対抗的な位置にいるダニエルは、マチウのように言葉を操る人間ではないが、同じ夜の街をうろつくにしても感情や態度ががはっきりしていて魅力的な人物だ。
後半登場する友人のブリュネがマチウに共産党への入党を薦めるが、ブルジョア出身の立ち位置を捨てられず、思い切りの悪いマチウ。しかし自分のことを気にかけてわざわざ励ましに来てくれた友人への感謝の思いに胸がいっぱいになる。やはり思想家も人情はある。この2人の会話シーンがいちばん面白かった。ここがサルトルの小説の大きな魅力だ。私にとっては。
この第1話の時点ではナチスの影が迫る大戦前のフランス社会はどこへやら、内容はもっぱら私生活周辺から出ない。
「アーモンド」
ソン・ウォンピョン 作
(祥伝社・矢島暁子 訳)
脳の中のアーモンド(扁桃体)が原因の失感情症の少年。自分の感情も他人の感情もわからないまま生きてきた彼は、自分とは対照的な荒れ狂う少年と出会い、しだいに人間として成長していく。韓国ベストセラー小説。
感情をもたない主人公の少年は怪物と呼ばれて育つが、その様子を興味本位に面白く扱っているわけではなく、落ち着いた静かな調子でその不思議な生活が語られていく。しかしストーリー展開はわかりやすく派手な部分もあって、母や祖母が襲われたり、やくざ者の住処に飛び込んだり、やや通俗的な味わいも。そのせいか連載漫画を読んでいるようなわかりやすさと面白さがあって飽きさせない。
これは映画製作者でもある作者のサービス精神であり、けっして作品の品位を下げるものではない。失感情症の少年も友人となった不良たらんとする暴力的な少年も、若者たちは深い愛情をもって描かれていて、主人公に感情がないということを忘れてしまうほど感情移入してしまう。やはり彼らがまだまだ未熟で、まさに今一瞬一瞬に成長してゆくところに心が動かされる。
そしてそれは私個人が大人の目で見ているわけではなく、私の体験しなかったことを彼らに教えてもらっているのだ。