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漫画家まどの一哉ブログ

   
読書
「語るボルヘス」J・L・ボルヘス 著
(岩波文庫)

ボルヘスについては、その虚構の文献を作るような作風がどうも馴染めずもどかしさを感じていた。語っているボルヘス本人が透けて見えて、ロマンあふれる世界へ連れて行ってくれないのだ。
その点でこの講演記録はまさにボルヘスが語っているので、違和感なく楽しむことができた。取り上げられている5つのテーマはどれもわかりやすく、とっぴな解釈もなくて凡人でも楽しめる。

「書物」:古代では書物は崇拝されておらず、口頭に比べて死んだ言葉という扱いだった。これは目ウロコ。モンテーニュは書物は喜びを得るものと捉えていて、難解晦渋なものは投げ出すことにしている。これは自分も大いに同意。
「不死性」:「われわれ一人は、何らかの形でこれまで死んでいったすべての人間なのです」ボルヘスの信じている不死とは個人のそれではなく。宇宙的な広がりを持つ広大無辺のもの。死んでからもボルヘスであることは勘弁してくれという。
「エマヌエル・スヴェーデンボリ」:他界を自由に往き来したスヴェーデンボリ。彼の記録は幻想に侵されて正気を失ったようなものではなく、至極冷静に記録された旅行記のようなもの。あくまで知的営みであるところが面白い。
「探偵小説」:ポーは自身はアル中で神経症だが、書かれた怪奇幻想の世界は全く知性の産物であり迷妄状態が反映されたものではない。これは自分も常々思っていたところ。よって探偵小説とも自然なつながりがある。
「時間」:過去・現在・未来。時間を川の流れに例える伝統的な考え方。そして永遠の繁栄としての時間。時系列はひとつではないかもしれない…。結論はないけどいろいろと思いは巡る。

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読書
「かくれんぼ・毒の園」ソログープ 作
(岩波文庫)

ソログープは19世紀末から20世紀初頭において花開いたロシア象徴主義の前期を代表する作家。神秘的・幻想的な作風だが、この短編集は子供が主となる作品が多くファンタジーのような風味がある。しかしペシミスティックな世界観のせいか冷たいお伽噺といった感触である。どの子供も悲しい運命を背負って生き死にする。

個人的には子供の話が苦手なので、子供が登場しない「毒の園」と戯曲「死の勝利」がよかった。
毒の園」:毒のある植物で育てられた息から毒を吐く女の悲劇。この設定はなんとなく既視感があるが、この作品が嚆矢なのかわからない。
「死の勝利」:魔女のたくらみにより、王妃と魔女がまんまと入れ替わってしまうが、よく考えたら変装はあっても、さしたる魔法を使っているわけでもない。正体がばれて刑死してから蘇って執念深くも王を誘うところはなるほど魔女である。ただし彼女はほんとうに王様を愛してしまったというこれも悲劇である。このように典型的な設定としての古き王室限定の舞台は、読むほうもあまりリアリズムを気にせず記号的に楽しめて便利だ。ただし作中、アウトモビル(自動車)とか、暗いから電気をつけるとかちょっとしたおフザケあり。

この文庫本は1937年の岩波文庫初版に1952年の創元文庫版を付け加えたもので、なるほどちょっと古風な訳文があるが、これも楽しみであります。

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読書
「イワーン・イワーノウィッチとイワーン・ニキーフォロウィッチとが喧嘩をした話」
ゴーゴリ 作
(岩波文庫)

19世紀前半、ロシア地方都市の小地主やお役所の毎日はまことに呑気なものである。ここに登場する二人の仲良き小地主がふとしたことから諍いを起こし、長年にわたって決裂する。両者の訴訟騒ぎの間で翻弄される裁判官や警察官ののんびりした仕事ぶりや、二人を仲直りさせようとする住人たちの画策などを描いたユーモア小説。訴状を咥えて遁走する豚も登場。

悪人はひとりも出てこない。おかしなくらい譲り合ってようやくお茶を一杯いただいたり、履くと必ず犬に噛まれるズボンなど、愉快な小ネタをたくさん交えながら話は進行。それでいて地方都市のリアリズムはしっかり手放さないので、現代の我々が読んでも十分に楽しめる。ユーモア小説なので、なんとなく最後はあっと驚かせて仲直りというオチかと予想していたら、さすがにゴーゴリ、社会派写実小説の巨人だけあって、なんともやるせない寂しい現実が待っていた。

とは言っても自分は「ヴィー」などの怪奇短編の方が好きだが、怪奇とコメディは隣り合ったものだからな。この文庫の1刷り目は1928年である。

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読書
「破れた繭」耳の物語1 開高健 作
(岩波文庫)

開高健の自伝小説前編。幼い頃から戦中・戦後の貧困生活、学生の身でありながら結婚するまでを語る。

私にとって開高健はあまり親しんでいる作家ではなく、「日本三文オペラ」のように面白いものもあるが途中で投げ出したものもある。描かれていることの多くがもっぱらの現実で、逃れられない現実がこれでもかと連続する印象だ。私のように自身と現実の間に多くの妄想が挟まっている人間にとってこれはつらい。たいていの青春体験小説を読んでも「ああそうなの」くらいの感想しか持てないのがふつうだ。ところがこの作品は何気なくふと読んでみた数行で脳内にじんわりと快感が走り、連続する言葉の魅力に掴まった。

基本的に開高はあらゆる現実に対応出来る気力・体力の持ち主で、困窮する中でも好奇心旺盛に学校の勉強もするし、さまざまなバイトも次々と経験する。へなちょこなところがない。妄想では生きていけない戦後の現実があるとはいえ、体験型のタフな作風というタイプを感じる。
とは言ってもこの自伝小説がほんとうに面白くなるのは、フランス語の私塾のようなところで谷沢永一と出会うころからであって、その後の谷沢主催の同人誌の集まりで向井敏や牧羊子が登場するといよいよ加速。牧羊子の計略?により妊娠・結婚へとなだれ込むあたりは爆笑級の面白さ。自分は大阪出身で土地勘もあるので楽しく読めた。そういえばサントリー文化というものがあったなと思い出したが、後編で触れられるかもしれない。

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読書
「ポンス・ピラト」ほか R・カイヨワ 作
(景文館書店)


ローマ皇帝支配下ユダヤ人地区の総督ポンス・ピラトは、イエス・キリスト逮捕の報告を受けて悩む。はたして簡単に無実のイエスを処刑してしまっていいものだろうか。イエスが刑死されずに生き延びた場合、今日に続くキリスト教は生まれなかったかもしれない。歴史のもしを再現する小説。

ピラトは官吏としては平凡な男で、文人であり、優柔不断ではあるがまっとうな正義感を持っている。ただ、事なかれ主義者としても今回の件は判断がむずかしい。

ひとつはメネニウスの進言。囚人のうち一人が恩赦を受ける祭日にあたり、民衆はイエス以外のほうを選んだ。よってやむなくイエスを処刑するというもの。責任を免れるとともに、一般受刑者と同時に処刑を行いイエスの聖性を除去する。手を洗う儀式も行って穢れも除去。いかにも政治的な方法。

また預言者マルドゥクは未来を知っていてイエスの処刑を示唆する。処刑によりローマの権力を超えてはるかに強力な教えが誕生すること。これはやむをえない未来。十字軍の運命やそれを描いたドラクロアやボードレールの文章まで予言するからおもしろい。

そしてユダ。ピラトに言いよる裏切り者のユダは、じつはキリスト教の誕生を画策する男であって、イエスが十字架に架けられて殉教することによって初めて神の子・救い主となる。無実の罪で犠牲となることで、人間の贖いが成立する。ユダとピラトの汚名によって人間は救われると、ピラトに処刑を求める。このユダの真意には驚いた。他にもユダをこう描いた作品はあったかもしれないが自分にとっては新鮮だった。

訳文なのでほんとうのところはなんとも言えないが、文章のリズムが良くて思わず読み進んでしまう。カイヨワが小説を書く人とは知らなかった。表題作ほか短編。

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読書
「モロイ」サミュエル・ベケット 作
集英社

ベケットをして不条理文学と紹介されるのはけっして間違いではないのだが、カフカやカミュのそれとは著しく違った感触がある。不条理と言われた場合、素直に考えればわれわれが置かれているこの世界の道理のなさ、運命の気ままさに翻弄される様を思うが、ベケットの場合この世界自体は穏やかである。反対に主人公本人がまったく非合理で無計画で、なにをやっているのか何故そんなことをするのか皆目説明がつかない。大概は足が不自由でそのハンディは仕方がないにしても、お金もなく、思考も緩慢、欲もなく希望も絶望もない。かと言って悟っているわけでもない。常に不潔でのろのろとしていて、現代資本主義世界では生産性のなさを非難されてしまいそうだが、本人は楽しげである。
通常の意味での人間存在のあり方が無化されている。しかし虚無主義といったものとはちょっと違う。ただただナンセンスであり、精密に描かれたバカボンの親父のようなものだ。

さて第1部で主人公モロイの無軌道ぶりが描かれたあと、第2部に変わると意外にも主人公は刑事ジャック・モランに変わり、なにかしらモロイが事件になっているようだ。これはベケットにしては珍しい展開でわくわくとしたが、始まってみるとこのモランという男がモロイに勝るとも劣らぬ脱落者で、なんのことはないいつものベケットだった。家庭内では行動に脈絡のない小人物。だいたい捜査に行くのになぜ長男を連れて行く?遠くなのになぜ歩いていくのか?結局この男も生活者一般から落ちこぼれてしてしまう。最終的にはやはり足を患い、なぜか庭で暮らす困窮生活。併録の短編作品「追放された者」「終焉」の人物もみな同じだ。作中過去作の主人公(自分の読んだ中ではワットやマーフィ)の行く末が案じられているのが面白かった。

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読書
「魔法使いの弟子」ジョルジュ・バタイユ 著
(景文館書店)

たしかに激しい恋愛は人生において最も魅惑的な時間であり、偶然と運命に身を任せた、打算と計算を排除した本来的な喜びである。バタイユは次々と燃えるような恋愛をくり返した人だそうだが、たいがいの人はそうもいくまい。あっても一生に一度、わるくすれば一度も燃えるような恋愛を体験せずに生涯を終える人も多いと考える。そして人生の多くの時間は恋愛以外の、意図された生産に使われて終わるのも仕方のないことである。愛しあう二人が初期の燃え上がる心を、燠火のごとく静かに燃やし続けながら寄り添いあっていければ幸せであろう。

それにしてもこの原理を一体性という手がかりを元に社会全体へと敷衍していくのはどうだろうか。確かに原始共同体の宗教的な儀式における一体感と恍惚といったものはそれだろうが、硬直沈滞した社会が見失っていたものを突きつける意味はあるのかもしれない。

いずれにせよ人生は生きがいなどであがなえるものではないのは確かだ。

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読書
回想「子規・漱石」高浜虚子 著
(岩波文庫)

松山での出会いから終生の地まで。7歳年上の二人の文学者との交流を振り返る。

子規という人は自分の早世を悟っていたのか、常に何事にも積極的にエネルギッシュに生きた人である。「仰臥漫録」を見る限りでは病床にあっても食欲旺盛である。近代俳句・短歌をリードした人だけに慕ってくる後輩には口うるさき先生のような存在だったようだ。虚子こそ自分の後継者とみなしていたが、道灌山の話し合いで決裂。「もっと勉強せよ、なぜしないか?」と詰め寄る子規に、「自分は本は読みたくない。勉強する気はない」と虚子がはっきりと拒絶。人それぞれ向き不向きがあるから、本を読んで勉強するタイプでなければ正直にそういったほうがいい。

いきなり1500部売れた虚子編集の「ホトトギス」だが、漱石の「我輩は猫である」によってさらに部数を延ばす。もっとちゃんとした原稿料を払って正式な雑誌にしたい漱石と、あくまでも自分たちの書きたいものを書く同人誌としての位置付けを守りたい若手たちの間で両方の意をくんだ編集方針を続ける虚子。セミプロ漫画同人にからむ自分としても、この辺りの呼吸は両方の気持ちがわかる。
漱石が「猫」や「坊ちゃん」が評判になってからも、かなり親密に「ホトトギス」の同人仲間として参加していたのは意外だった。そんな漱石も朝日新聞の社員となった頃から、さすがにプロ作家として人生をまっとうする覚悟を決めたようで、虚子や「ホトトギス」との交流も減っていったようだ。

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読書
「大寺学校・ゆく年」
久保田万太郎 作(岩波文庫)

以前「末枯・続末枯・露芝」を読んだ時、しっとりとした美しい文章に心奪われたが、その情緒・情感はこの戯曲でも変わらない。失われつつある江戸言葉とはいえ、人物の感情に即したあまりにリアルなセリフのやり取りに創作であることを忘れるほどだ。実に細やかである。

とくに「大寺学校」は浅草下町で20年続いた私設小学校の記念式典と行く末にまつわる話で、校長や教師たちの心の動きは現代の私たちでも素直に共感できるものだ。
「ゆく年」のほうはこれも浅草下町で魚屋や旅館業を手がける一族の愛憎渦巻く話だが、こちらはほんとうのべらんめえ口調なので、そのまま感情移入は難しいかもしれない。やや古風な感触はある。

どちらも単なる人情話としてオチをつけたようなものではなく、時代の流れる中で、解決策もないままに不安ながらも人生の営みを続けていく市井の人々を描いて秀逸なものであります。

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読書
「ヒロシマの人々の物語」G・バタイユ 著 酒井健 訳
(景文館書店)

世界を驚かせたジョン・ハーシーのルポルタージュ「ヒロシマ」(1946)。このルポに触発されたバタイユがすかさず発表した論考。
原爆が一瞬にして大勢の人間の命を奪う恐ろしさに着目するも、毎年5千万人死んでいく人類全体のシステムへと話が展開していくところが奇妙な気がする。そのうち宗教者の瞑想やニーチェの永劫回帰など「感性のきわめて重要な体験」へと進んでいくとどこへ連れて行かれるのやらとまどってしまう。バタイユの使う独自の用語をこの小論を読んだだけで正確に把握するのは無理というもの。

訳者による丁寧な解説があってようやく助かった。この解説にあるようにバタイユの消費の概念「普遍経済学」の視点を知っていなければこの小論考はわからないかもしれない。とりわけ訳者が提出した北条民雄「いのちの初夜」を引用しての読み解きはきわめて有効で、人間であることが剥ぎ取られた悲惨な状況にあっても揺らぐことのない生命の存在に気づかされる。現代で言えば相模原の事件にみられるように、有用性から人間を判断することへの批判が明らかになる。

ところがバタイユのわかりにくさは、どうしてもヒロシマの原爆被害そのものへの論述を期待するからで、まさか「普遍経済学」その他の概念が展開されているとは思わないからではないか。原爆という圧倒的な悲劇を前にして、もう少し核兵器自体について語られるはずという思い込みがあった。そこが甘かった!

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