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漫画家まどの一哉ブログ

   
読書
「狂気と天才」サルトル 作


大デュマの原作をもとに書かれた戯曲作品。主人公キーンは大人気役者ながら生活は乱脈で金遣いがあらく多大な借金をかかえる身分。ただし女性ファンは多く、デンマークの伯爵夫人やチーズ会社の社長令嬢などが恋に絡んで登場。また伯爵やプリンス オブ ウェールズも登場して、原作以上の三角関係・四角関係がくりひろげられる。といっても原作を知らないので、どのあたりが大デュマならぬサルトルの趣向かわからないが。

おもしろいのは主人公が舞台俳優なので、舞台上で演技の上でのセリフと、それを逸脱して桟敷席の登場人物に本音で喋っていることが重なってくる仕掛け。この時点で他の一般客にとっては舞台は破壊されているがウケている。という設定を実際この作品が上演された時にはどうやっていたのか、気になるところ。二重三重のメタ芝居だ。
自分が気に入ったのは付き人でありプロンプターでもある男との楽屋でのやりとりで、リズム感のあるセリフ回しがとてもおもしろく、これはサルトルの才能だろう。

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読書
「聖愚者ラヴル」
エヴゲーニー・ヴォドラスキン 作


15世紀ロシア北西部。墓地の傍の家で薬草と医術の技を祖父から受け継いだ若き医師アルセーニー。ペスト禍を逃れてきた娘を密かに伴侶とするも、出産の過程で母子とも亡くしてしまい、その贖罪の人生を歩む。しだいに医師としての名声は上がるが、栄達と安住を捨てエルサレムへ巡礼の旅に出発。やがて村に戻った彼は老いて聖愚者となる。

れっきとした現代文学であるが中世を舞台としているせいもあって、すこぶるオーソドックスな古典的名作のような味わいがある。聖愚者とは乞食僧のような良寛さんのような存在だが、主人公は子供の頃から浮世離れしていて、利己心が無く信仰篤く人々に尽くそうとする人格。平凡なわれわれの人生とはまるで違うが、あまりに純粋な生き方に思わず感情移入してしまう。

旅の途中では悪人も多く登場し、ストーリーも起伏に富んだものになっていて飽きさせない。共に旅する友人は預言者でしばしば現代社会の夢を見て、未来から自分たちの行く末をふりかえる。パン屋の目の前で盗んだパンを村人にこぼしながら分け与える他の聖愚者も愉快。モスクワはるか北のベロゼルスクからリトアニア、ポーランド、アルプスを抜けて地中海への旅も壮大で心踊る冒険譚でもある。

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読書
「火の書」
ステファン・グラビンスキー 作

ポーランドを代表する恐怖小説作家の怪奇幻想短編集。四大元素のひとつである火にまつわる不思議な物語を収録。住宅火災をモチーフにした話が多く、勇敢な消防士と悪魔的な火との戦いなどわくわくと面白く読める。
エンターテイメント的なわかりやすさもありながら、作者は神秘的なものを信じているので、そこは本気度というものが窺える。そのせいか幻想文学としての味わいがあってここちがよい。やはり作者が安全圏にいて単に趣味的に書いているのでは迫真性が足りず、こちらも付き合おうという気にはならないものだ。
その点が実はこの短編種は微妙なところもあって、作者の内奥からやむなく出てきたというよりはやや作為が感じられるものもある。これは巻末のインタビューやエッセイでも触れられている天下のポーと比べてのことだが…。それとも耽美性の度合いによるのかもしれない。たとえば聖なるものの顕現をテーマとしたエリアーデの迫真性と比べると、大衆的に仕上がっている感じだ。比べてばかりでなんですけど…。

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読書
「黄泥街」残雪 作


猛烈な陽射し、一転して長雨、強風。つねに蒸し蒸しとしたこの街に暮らす人々は大汗をかき、皮膚には疥癬をこしらえ、頭には虫が湧き、汚物は垂れ流し。ごみと腐臭の中にうごめく害虫・蜥蜴・蝙蝠たち。これらただひたすら不潔な世界で生きている人々の言動には理路がなく、会話はまったく成立しないまま続けられていく。

シュルレアリスムではしばしなそうだが、残雪はイメージ本位の作家で、絵画的な世界描写が延々と展開されてゆく。ストーリーの進展というものはほとんどなく、章立てられているもののさほど違いがあるわけではない。ストーリーの進展がないばかりか、会話というものが成り立っておらず、人物は各自勝手なことをしゃべっているだけで、この事態のままこの小説を読み通すのは一般的にはかなり苦行であるが、引き込まれてしまえば抜け出すことはできない仕組みになっているのだろう。
初めから終わりまで悪夢の中にいるようで、つねに息苦しい残雪作品のなかで、処女作とも言えるこの作品はまだかろうじて息はできる。少しスキがある感じだ。このスタイルを見つけた最初の作品だからかもしれない。

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読書
「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」
森達也 著


生粋の文系を自認する筆者が、主に生物学者を中心に最先端の科学者に生命の根源的な謎を問いかけたインタビュー集。福岡伸一・池谷裕二・竹内薫などおなじみの顔ぶれも。ビッグバンから始まった宇宙において、偶然であるにしてもあまりにも不思議な人間の誕生、そして自分の死。人間原理に陥ることをできるだけ回避しながらも、最新の分子生物学・脳科学・理論物理学は素人の疑問にどう応えるのか。

いくら文系の人間だからといっても、科学者に質問するのにあまり馬鹿なことは聞けず、あるていど勉強していなければならない。私など興味本位につまみ食いするだけで系統立て学習することができない人間からすると、森達也はさすがにたいへんよく勉強している。それでも全体を通して得られる感触はすごく納得出来る雰囲気で、ああやはり文系から探る理系の著作はこの範囲なんだなと思う。ここから先は各分野を専門的に研究していかなければならず、我々は周辺でうろうろするしかない。それでも少しは蒙は開かれた。

近ごろは遺伝子主体の話ばかり聞いていて、団まりなの階層生物学の話はやっと細胞本位の話がきけて快感だった。藤井直敬の社会的脳科学、身体性を超えて外部との相互作用によって意識が生まれてくることも新鮮だった。
福岡伸一や池谷裕二は相変わらずのおもしろさ。

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読書
「ナジャ」
アンドレ・ブルトン
 作

シュルレアリスム運動の渦中にあるブルトンが、魅力的で不思議な女性ナジャと過ごした忘れられない数日を語るドキュメント。
この作品自体は実話であってシュルレアリスムの名作というわけではないが、当時のブルトンや仲間たちの生活がわかって面白く読めた。ブルトンが真面目で誠実な人間であることが文章自体からも伝わって来る。美は痙攣的なもの。ナジャがしだいに正気と狂気の間を行き来するのが、まさにブルトンの理想とするシュルレアリスムの体現であるわけで、それだけに惹かれもすれ切るに切れない凄絶な体験となったのだろうか。その意味ではやはりこれはシュルレアリスムの名作なのかもしれない。

書かれてから35年も経って自身高齢でありながら、すでに親しまれている作品に綿密詳細な改定を施すとは、いかにこの作品がブルトンにとって重要か、ナジャとの体験が貴重か、わかろうというものだ。

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読書
「散文詩」ツルゲーネフ 作


「老いたる言葉」というタイトルで死の前年まで書かれたものが、改題してまとめられた晩年の小品。

ごく短いものばかりで必ずしも全てが詩文というわけでもないが、エッセイ・小話も含んで味わい豊かな作品集。みずみずしい情景描写で子供でもわかるように可愛らしいが、世の中に対する風刺や警句もあって大人を納得させる。

やはり病を得て過ごす老境というものか、全体にペシミスティックな悲しい色調がただよう。病を得て寂しい境遇のまま後は死んでいくだけ、人生とはなんと儚いものだろうか…。いくつもの長編名作を書き上げたツルゲーネフだが、個人的には幸福・円満といった人生でもなかったようで、死を前にした人間がどうしても抱く恐れ・虚しさ・孤独といったものがひたひたと流れて心に沁みこんでくる。それが落ち着いた調子となって馴染みやすい。
身辺雑記ではなくれっきとした創作で、さすがにうまい。

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読書
「誰のために法は生まれた」
木庭顕 著


近年よく見かけるようになった、中高生たちと質疑応答をくりかえして専門分野のテーマを解き明かして行く企画。「近松物語」「自転車泥棒」など映画名作、ローマ喜劇・ギリシャ悲劇の脚本、そして現代日本の判例を素材に先生(著者)が投げかける質問に生徒たちが答えながら各章が進む。けっして子ども向けではないし、子どもでも理解出来るかたちで大人の認識をより深く新たにして行く好著。

例えば映画「自転車泥棒」を見て泥棒はなぜ悪いことかを考えるときに、それを倫理の問題として突き詰めるのではなく、あくまで個人の権利(占有)が集団や組織によって脅かされるという現実に沿って考えていく。これがこの授業で法を理解して行く方法である。
この占有というのがキー概念で、単に自分のものとしている以上に物との関わり方の質が重要視されていて、日常生きる上で正当に親和的に大切にされて個人に馴染んでいる、そういった関わり方をしているほうを大切にしていない(例えば暴力的に扱っている)ほうより優位とみなす考え方だ。これがデモクラシーの基本となるべき考え方で、占有している個人はしばしば国家や利害関係のある組織・集団によって脅かされる危険にある。だからこの占有を守って行くために、集団から個人を守るために法は考えられなければならない。

このように抽象的ではなく古く紀元前のギリシャ時代から人間社会が経験してきたことを思考の中心に置くのが法について学ぶことである。なかなかこの占有ということを思い知るのには時間がかかる。一冊読んだだけでは茫漠としたままだった。

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読書
「五足の靴」五人づれ 著


明治40年(1907)、与謝野寛(鉄幹)・平野萬里・北原白秋・吉井勇・太田正雄(木下杢太郎)の5人が連れ立って、北九州・長崎・熊本を旅した連載紀行文。誰とは名乗らず「五人づれ」の筆名で交代に書いたもの。

旅行記をそんなに読む方ではないがこれは面白かった。それは参加者が鉄幹以外まだ若く元気が漲っているからだろう。大人の紀行文にありがちな落ち着きがない。なにせ学生服で歩き回っているらしく、甲板波洗う船に揺られ、日も暮れた山中で迷い、三池炭鉱のエレベーターに乗って坑道を見学。風流というより冒険譚じみた雰囲気がある。それでもさすがに情景描写は詩情溢れる美しさで味わい深く、ところどころに挟まれる詩作品もたのしい。また5人で交代に書いているので、気付かないなりにも文章に変化があって飽きさせないのだろう。

阿蘇山の噴火口を覗き見るも、当初興奮していたがすぐ慣れてしまって、現代人(明治人)の昔の人々に比べて自然に対する崇高の念の失われていることに気付くところがよかった。

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読書
「日常的隣人」吉田知子選集Ⅱ

「日常的母娘」「日常的夫婦」「日常的親友」など「日常的~」というタイトルでさまざまな人間関係を描いた短編連作集。

自分の中では、吉田知子は土着的なシュルレアリスムの作家という認識なのだが、そんな幻想性を離れてこれだけ現実世界をアイロニカルに書ける作家だとは思わなかった。世俗に強いところがあるからこそ「お供え」のように現実を揺さぶる不思議な話が書けるのかもしれない。もちろんこの連作の現実世界だってどこか奇妙なことはこっそり忍び込まれていて、突然日本語がヘネヘネ語に変わってしまったり、病気になりたがる人だらけで500メートルごとに救急病院があったりする。夫婦・母娘・親戚など世の中のめんどくさい人間関係を嫌味たっぷりに弄んでくれて痛快な猛毒小説といった印象。

これらは野生時代に連作されていたもので通俗的な読み物なのかもしれないが、充分味わいがあるし、巻末の純文学「人蕈」との違いはそんなには感じなかった。

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