漫画家まどの一哉ブログ
- 2025.03.17 「明治深刻悲惨小説集」
- 2025.03.07 「心は存在しない」 毛内 拡
- 2025.03.03 「論理的思考とは何か」 渡邉雅子
- 2025.02.27 「老化負債」臓器の寿命はこうして決まる 伊藤 裕
- 2025.02.25 「熊楠と幽霊」 志村真幸
- 2025.02.22 「エティオピア物語」下 ヘリオドロス
- 2025.02.17 「エティオピア物語」上 ヘリオドロス
- 2025.02.12 「まちがえる脳」 櫻井芳雄
- 2025.02.08 旧約聖書「創世記」
- 2025.02.01 「初恋」 トゥルゲーネフ
「明治深刻悲惨小説集」
斎藤秀明 選
(講談社文芸文庫)
1890年代流動する社会の中で、虐げられ捨てられてゆく人々の末路を描いた一連の「深刻小説」。自然主義以前の豊かな娯楽性と共に作家のゆるぎない批判精神を見ることができる。
10編の短編のうち多くは、素直で美しく若き女性がその不幸な境遇のため悲惨な最期を遂げるというもので、必ずアンハッピーエンドだとわかっているだけ読むのも辛いものがある。例えば田山花袋「断流」では生きるために奴隷的労働のあげく身を売らざるを得ない主人公に対して、善意溢れる寺の和尚も「世の中の罪だ」と繰り返すのみ。
また徳田秋声「薮こうじ」、小栗風葉「寝白粉」などは新平民である主人公たちへの言われなき差別をとりあげ、作者の世間への憤りをあらわにする。そんな中で自分が最も面白いと思ったのは広津柳浪「亀さん」で、知的障害者である青年と、彼を利用しようとする蟒蛇(うわばみ)と呼ばれる娼婦あがりの悪女という珍しい設定。どちらもあわれなものである。
ところで8編は文語体だが、読み物としてのリズムがあって読む楽しさに溢れている。中でも小栗風葉は音楽のように心地よく、やはり音読を聞きたい代物だ。また川上眉山、泉鏡花などにある江戸言葉(べらんめい)の口調がなんとも歯切れ良くて気持ちが良い。
江見水蔭「女房殺し」は口語体だが派手さのある特異な文章。樋口一葉「にごりえ」は人情味溢れるさすがのドラマ作り。
「心は存在しない」
毛内 拡 著
(SB新書)
ふだん我々が心と感じているものはなにか、脳の働きから解説する。
読み終わっての感想はやはり心は存在しているんだなというものだった。例えばストレス応答が強い情動喚起となり感情を生成、生き残るための記憶が強く脳に刻印される。この強い感情が心を感じる時である。さまざまな外部刺激に対して自己を一貫して一定のものに保とうとするホメオスタシス。これが心が働いている状態である。
これらは全て心や意識というものが脳の働きによって感じられることの解説であって、なんとなく普段から感じていた感覚と合致し納得がいく。心というものをほぼ感情と考えているからといって脳の働きでないわけないのであるから、ようやくその証明を得た感覚だ。心はしっかりと脳が働いていることであり、生きていること同意だと思う。
「論理的思考とは何か」
渡邉雅子 著
(岩波新書)
論理的思考と呼ばれているものを論理学・レトリック・科学・哲学に分類。その上で国によって違う思考法の4つの型を明らかにする。
じつは論理学というものが苦手で演繹と帰納はどうしても混乱してしまう。ここにアブダクションも加わってくるのだが、科学的発見における「仮説」という解説で理解できたように思う。またレトリック(説得)も日常的な蓋然性の範囲になるのでわかりやすい。純粋な論理学がいちばんつまずく。
国によって異なる論理的思考。アメリカ型の直線的で効率重視の経済的思考は、なるほど今回のトランプ政権の露骨な取引を見ていると頷けるかもしれない。対してフランスの慎重にけして急がず万人を救おうとする政治的思考のほうが誠実だ。
また日本人の経験の共有や道徳性を涵養することを目的としている感想文的思考については、どうりで人権を思いやりのことと勘違いしてしまう理由がわかった気がする。
「老化負債」臓器の寿命はこうして決まる
伊藤 裕 著
(朝日新書)
老化とは実年齢を越えて傷んでしまう遺伝子の負債であり、この負債を返済するための方法を紹介する。
どうしても損傷してしまう遺伝子を、その配列を超えてコントロールするエピゲノム変化。実年齢より進んでしまうエピゲノム年齢。人それぞれの経験の違いによって遺伝子の損傷の具合も違うが、この経験とは労働環境や食事など体に直接的なものの話か、それとも精神的なものも含むのだろうか?
もちろん老化負債返済はストレス解消が鍵だから心の持ちようもあるだろう。また100種に達する体内ホルモンのホメオスタシス(生体恒常性)の働きが大切なようだが、結局われわれが取るべき行動は、巷間耳にする食事・運動・睡眠など各種健康法だった。そして生活のルーティンと少しばかりのワクワクを!
「熊楠と幽霊」
志村真幸 著
(インターナショナル新書)
民俗学の巨人熊楠の体験した心霊体験は果たして真実か?合理的な立場を離れなかった熊楠の人間的な生き方が見えてくる。
留学時代は超常現象を全て否定していた熊楠が、郷里和歌山に帰り那智熊野で暮らし始めてから幽体離脱や予知夢などさまざまな霊的体験を語り始める。その動機を頭痛など自身の身体と精神状態への不安や、父親の期待を裏切った悔恨から解き明かしてゆく極めて興味深い論考。人間くさい熊楠が見えてくる。
結婚して子供も産まれ生活が落ち着いてくると、心霊現象への興味も薄れてくるが、それでよかったと思う。なんと言っても私の熊楠に対する印象は歩く百科事典というか、思想的な深みよりも広く浅く(浅くと言っては失礼だが)膨大な資料を蒐集・網羅する超人的な人間で、心霊研究もひたすら世界中の著述や事例を披露することに邁進する。
体験した夢のお告げやテレパシーにしても、誰にでもある自己愛や承認欲求のままにいかにも不思議な体験があったように披瀝されるが、それが驚異の博覧強記を伴う他の事例とともに語られるので説得力を持つのかもしれない。
水木しげる「猫楠」も登場。熊楠本人の猫イラストも愉快。
「エティオピア物語」下
ヘリオドロス 作
(岩波文庫・下田立行 訳)
舞台は紀元前6世紀末、ペルシャ支配下のエジプト対エティオピアの戦いの中で捕虜となった二人の運命は? 古代ギリシャで書かれた本格物語小説。
筆が慣れてきたのか、前半の盗賊どもからの逃避行などに比べると俄然面白くなってきた。特にエジプト太守の妻でありながらテアゲネスに色目を使う姦婦アルサケの魔手が良い。色事を企むあの手この手など悪者らしくて楽しい。主人公があまりに美男美女なのでこの種の揉め事がすぐ起きる仕掛けだ。
一転してナイル川を背にしてのエジプト対エティオピアの戦争も、装備や戦略の解説もていねいで軍記物としての面白さに溢れている。両軍特色があり、特にゾウやキリンも登場するエティオピア軍の奇想ともいえる戦いぶりは愉快だ。
捕虜となった二人だが、エティオピアの評定衆たちが捕虜を犠牲として神に捧げることに反対する人権派。これで解決。
「エティオピア物語」上
ヘリオドロス 作
(岩波文庫・下田立行 訳)
紀元後3世紀、古代ギリシャで書かれた本格物語小説。
誰もが目を見張る絶世の美女カリクレイア。勇猛果敢な美男の青年テアゲネス。ひと目見た時から愛し合うこの二人を主人公に、舞台はギリシャからエジプトまで。地中海を移動し、折り重なるように現れる盗賊・海賊の類。まさに波瀾万丈以外のなにものでもない。
主人公の二人は何度も離れ離れになり、彼らを支える囚われの青年や大神官の老人なども交えて物語は複雑化する。作者ヘリオドロスが神職を投げ打ってでも書きたっかたこの小説。根っからのストーリーテラーであったのだろう。今から見ると特段の特長も感じないが…、さてつづきは下巻で。
「まちがえる脳」
櫻井芳雄 著
(岩波新書)
なぜ人は間違えるか? 脳の信号伝達をニューロンと神経回路から解き明かし、AIとはまるで違う脳のシステムに迫る。
ニューロンは他のニューロンからシナプスを介して信号を受け取るが、それには信号を送るほうのニューロンが発火(スパイク)しなければならない。しかしニューロンは自力では発火できないので、そもそも最初の信号はどうやって発生しているのか?この自発性の謎が未だ解決されていないことに驚いた。
ニューロンが送る信号が次のニューロンに伝わる確率は30回に1回程度。そこで多くのニューロンが同期発火して確率を上げている。この同期発火のタイミングはどうやって決まるのか?これも謎のようだ。その他樹状突起も軸索もそれぞれの方法で、脳は総動員して情報を伝えている。たしかにアナログだ。
健康に過ごしていた人の脳が、調べてみると水頭症で脳は25%ほどしかなかった。脳を半分削除した人もしばらくすると健常な活動を取り戻す。脳の部位によって働く内容は固定されているわけではなく大いに融通が効くらしい。また経験した全ての事象を完璧に記憶している(しかも画像として)人の実例など面白かった。
プラセボ効果の実験。自分の受けた治療が偽薬ではなく本物の薬だと信じた人は病状が回復し、実際に脳内でニューロンの発火が変化したりエンドルフィンが生産されたりしているのだから、まさに「病は気から」!
その他、右脳左脳神話や男脳女脳神話など脳に関する迷信も解説し、素人でも楽しく読めた。
旧約聖書「創世記」
(岩波文庫・関根正雄 訳)
旧約「モーセの6書」のうち、その巻頭を飾る天地創造とカナン(パレスチナ)を巡る族長の物語。
有名なアダムとイブやカインとアベル、バベルの塔などの逸話はごく簡単にさらりと描いてあるだけ。神(ヤハウェ)に選ばれし者ノアの箱舟のくだりがやや詳しく語られ、同じく神に選ばれしアブラハムが登場し、ソドムの滅亡へとストーリーが膨らんでゆく。いよいよ族長の物語が始まるのだ。
そうなるとイサク、ヤコブ、ヨハネと代を追ってゆくに従って人間臭い、権謀も術数もある物語となる。ヨセフなどはなかなか強かな人間だし、女たちも誰の子を産むか未来への計算もある。また一人エジプトで生き延びたヨハネの涙など、感情に訴える演劇的な演出もあって読み物としておもしろい。
それにしてもやはりキリスト教の神(ヤハウェ)とは恐ろしいものだ。常に人間を見張り時には厳罰を与えるが、それは地域ごと全生物抹殺という容赦のないもの。同じ宗教と言っても仏教の全ての人間を慈愛と安心で包む阿弥陀仏や、老荘の無の思想などとはまるで違う。神への絶対の愛が常に試されている厳しさ。そして神に選ばれていることは無批判に前提となっている。
「初恋」
トゥルゲーネフ 作
(光文社古典新訳文庫・沼野恭子 訳)
少年が初めて恋に落ちた侯爵令嬢。思いを寄せる数人の男性が常に集まる中、彼女が選んだ意外な人物とは…。
16歳の少年にとって21歳の女性はかなり年上の大人に見えるかもしれない。実際彼女との間にほんとうの恋愛があったわけではなく、それだけならほのかな初恋話として微笑ましく終わったであろう。ところがおとなしい少年に対して彼女は男性陣を相手に臆するところのない元気で溌剌とした女性。加えてダンディな彼の父親、下品な彼女の母親などクセのある人物の登場で俄然劇的な物語となっている。
予想どおりトゥルゲーネフはドラマ作りの名手で、小説というジャンルを超えてこれぞ迫真のドラマだという読後感がある。話がおおいに動く。妙な言い方だが、エンターテイメントのツボをはずさない純文学といったところか。19世紀の西欧文学など皆そうかもしれないが、トゥルゲーネフの場合ストーリーを引っ張るキャラクターが自分の気に入るだけかもしれない。