漫画家まどの一哉ブログ
- 2025.12.22 「英語と日本語、どうちがう?」 鴻巣友季子
- 2025.12.19 「とんこつQ&A」 今村夏子
- 2025.12.15 「街と犬たち」 バルガス・ジョサ
- 2025.11.15 「少女病」 田山花袋
- 2025.11.11 「ノア・ノア」タヒチ紀行 ポール・ゴーガン
- 2025.11.06 「アルテミオ・クルスの死」 フェンテス
- 2025.10.24 「ミゲル・ストリート」 V.S.ナイポール
- 2025.10.20 「賢者ナータン」 レッシング
- 2025.10.12 「愛の妖精」 ジョルジュ・サンド
- 2025.10.04 「セビーリャの色事師と石の招客」 ティルソ・デ・モリーナ
「英語と日本語、どうちがう?」
鴻巣友季子 著
(NHK出版・学びのきほん)
翻訳大国日本だがまだまだ理解されない翻訳の役割と本質。英訳家の立場から英語と日本語のそもそもの構造的違いを明らかにする。
英語はさっぱりわからない自分が海外文学を楽しめるのも翻訳家のおかげ。常日頃から翻訳家の方々の仕事には敬服するばかりだ。著者は文芸作品翻訳の上の苦労や留意点を紹介しながら、英語と日本語のそもそもの違いを繙いてゆく。
日本語では英語で必ず登場するyouなどの機能語としての人称代名詞を使わなくても、文脈自体に意味や意図が満載されている。「今日、車?」だけで通じる。
また主語優勢な英語に対して主題優勢な日本語。「わたしはアイスクリーム」「あなたは、ショパンよね」などなど。「~は」 といっても違う。英語は律儀だ。
日本文学にはもともとなかった三人称全知視点。人物の行動から心理まで語り手はお見通しだ。「私ーあなた」の関係性をベースにした日本語ではこの神の視点が苦手だったようで、心理描写を含まない客観視点が精一杯だ。それでも「~らしく」「~のような」などの主観が混じってくる。
自分がもっとも奇妙に感じる時制の問題。話者が過去のことを語るが、そこで語られる人物は未来に思いをはせていると…、「彼女は6時には支度ができていただろう」「なんて素敵な彼だっただろう」などの不思議な訳文ができてしまう。
「とんこつQ&A」
今村夏子 作
(講談社文庫)
父親と小学生の息子が営む中華屋に勤める私。最初「いらっしゃいませ」も言えなかったが、何種類ものカードを読み上げることで対応。やっと馴れた頃、輪をかけて鈍い女が雇われた。他短編。
異色作「むらさきのスカートの女」を読んで、なんと奇妙な小説かと驚いたが、これは同じ傾向の問題作。ポケットから溢れるほどの客対応カードを用意している主人公と、命令されなければ何もしないで壁にもたれている新人。コントのようだが表現は文芸だ。
非日常というほどではないが、なにかしら不穏でナンセンスな出来事が膨らんでゆき日常感が揺らいでいる。しかしほのぼのとしていてユーモラスなのである。この特殊な作風で貫き通して欲しいが、他の短編は暗いリアリズムで「良夫婦」などはなんと卑怯な人たちかと読んで気持ちもどんより。
「街と犬たち」
バルガス・ジョサ 作
(光文社古典新訳文庫・寺尾隆吉 訳)
1950年代ペルー。全寮制の軍人学校に暮らす10代の少年たち。厳格な規律の裏側で繰り広げられるいじめや放蕩。そして軍事訓練中に起きる悲劇。ジョサ渾身のデビュー長編。
全寮制の軍人学校と聞いただけで、およそ自由のない窮屈な日々が想像できよう。主に語り手である文才ある白人少年というのが作者の分身であろうと思って読んだ。〈奴隷〉と呼ばれるおとなしいいじめられ役の少年やプロボクサー級の能力を持つ悪魔的少年。その他およそ10名の地下グループでの飲酒・喫煙・淫蕩・暴力などなど。入学前からの女子との交際。そして軍人である教官たちの人生も。
2部構成のうち第1部の終わりで事件(生徒の死)が起き、物語はいよいよミステーリーの如くにスリリングな展開となるが、それでも再三に渡って過去のエピソードなどが顔を出す。ここが一気にストーリー本意な流れを作らないジョサの真骨頂かもしれないが、許されるぎりぎりの長さだと感じた。平易な娯楽性があるとはいえ文庫本で630ページほどあり、我儘を言えばこの3分の2くらいの長さにしてほしかった。
「少女病」
田山花袋
語り手は小説作品が文壇で話題にもなり、ふだんは編集者として雑誌社に務める妻も子もある37歳の男である。彼は毎日の労働や家庭生活にこれといった喜びも見出せず、それどころかまさに苦役と感じており、唯一の楽しみが通勤時に歳若き可憐な女性を鑑賞することである。
毎朝通勤時に同じ道をゆく美少女や、電車の中で必ず出会う少女。あまりジロジロ見てはまずいので、気取られぬような距離の斜め前の座席を取ることや、満員時に少女の近くで髪の匂いを嗅ぐことの喜びなどなど、そのロリコンぶりが詳述される。
この男が書くものも少女小説ばかりだ。これが物笑いの種となっており、周囲からあいつは一種の病気だ。生理的にどこか陥落(ロスト)している。との診断を下されている。花袋自身がそうだというわけではないかもしれないが、「蒲団」と同年の作品であり、これも私小説なのかもしれない。一応タイトルどおり病理ということになっております。
「ノア・ノア」タヒチ紀行
ポール・ゴーガン 著
(岩波文庫・前川堅市 訳)
文明に毒されていない理想の自然な社会を求めて、初めてたどりついたタヒチでの生活。果たしてゴーガンは救われたのか?
解説を見てもゴーガンという人は、もともと株式仲買人におさまるような人間ではなく、かなりアクティヴな熱意溢れる冒険家で、もとよりゴッホとはうまくいくわけがないアクの強い人間だ。
タヒチもフランスが入植している時点でほんとうの非文明社会であるはずもなく、ゴーガンはかろうじてその残り火に触れたようなものだったのかもしれない。
読んでみると彼はかなりの文章家で、記述に格調があり楽しさもある。作家半分研究者半分といった具合で、民俗学的な視点で現地の宗教や慣習をレポート。自然豊かな島と言っても収穫量には限界があり、それゆえの供物としての人減らしなど、宗教行為の由縁を聞くと南海の楽園と言っても実は厳しいものだ。この最初の滞在は2年余り。野蛮になり賢くなったと自認するゴーガンだが果たして…。
「アルテミオ・クルスの死」
フェンテス 作
(岩波文庫・木村榮一 訳)
革命期メキシコ。貧困から身を起こして財を成した男の人生を、破格で自由な表現で綴る。ラテンアメリカ幻想文学を牽引する名作。
老いた主人公アルテミオ・クルスが死を目前とした病床にあり、脳内を駆け巡る混乱した意識のモノローグが繰り返し登場。冒頭からこの文章の魅力に捕まってしまった。
クルスが生きてきた時代を区切って一人称・二人称、客観的な語り手による記述があえて年代順ではなく配置されていて、いっそう作品のマジックが増す。
メキシコ革命を生き抜いていくので、戦闘・戦火の描写はあたりまえにあり、正当な叙述で読んでいても戸惑いはない。
彼の人生の中で妻と娘以外にも数人の女性が関係するが、そちらの話のほうが主人公が経済界で成り上がっていくことより大きな位置を占めている。けっして家庭的ではないクルスのような男性にとって、女性の存在が幸福でもあり苦しみでもあり、自己本位なものだ。
そうこうしているとまたまた病床で体の自由を失ってゆくクルスの、眩暈のするようなモノローグが始まる。死へ向かう人間の混濁した意識はこれがリアルなのだ。
「ミゲル・ストリート」
V.S.ナイポール 作
(岩波文庫・小沢自然・小野正嗣 訳)
1940年代カリブ海の国トリニダード・トバゴ。貧しいながらも仲間が集う小さな通りの人々を、大人になる前の少年の目を通して描いた短編集。
作者はノーベル賞作家とは言え、トリニダード・トバゴが舞台の小説などめったに読まない。それでもなんとなくカリブの暖かくのんびりした風を感じることが出来る。大人の男たちはたいして働くでもなく通りに集って噂話に花を咲かせ、子供たちも大人の仲間入り。世界中どこにでもある世界だ。
あまり役に立つことをしない男ばかり出てくる。売れない花火師、詩人、教養博士、資源ゴミ転売、年中車の下に潜り込んで機械をいじってはダメにしてしまう男がいちばん面白かった。市井の人々といってもややワイルドな連中だが、戦前の植民地時代はまだ世の中アバウトだったのかな?個人的には苦手な分野だが慣れると読める。
「賢者ナータン」
レッシング 作
(岩波文庫・笠原賢介 訳)
イスラムの名君・ユダヤの商人・十字軍の騎士。多彩な人間が集まる12世紀末のエルサレム。それぞれの宗教の理念を超えて平和をもたらす賢明な方法とはなにか。
ドイツを代表する啓蒙思想家であるレッシングが、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教をテーマに描いたとなると、なにか説教くさいパターンに落ちいっているのでは?と案じたが、さすがにもとより劇作家志望のレッシング。人間くさい連中の活躍で充分に楽しめる。
さすがに賢者と言われるだけあってユダヤ教徒ナータンは、ユダヤ教ばかりでなくキリスト教・イスラム教も、宗教の構造というものは同じであるという寛容な態度である。ここには作者レッシングの周辺他宗教も踏まえて全ての宗教を対象化してとらえる優れた視点があり、現在の我々読者から見ても清々しい思いだ。
統治者であるイスラム教徒サルタンも理解ある柔軟な人間。一人興奮しているのがテンプル騎士団の青年騎士で、彼の揺れ動く心がドラマを面白くしているようなものだ。その他、托鉢層や修道士など各派フリーな立場の人間がいい味出している。エルサレムはやはり多様性を尊ぶ寛容な街であってほしい。
「愛の妖精」
ジョルジュ・サンド 作
(岩波文庫・宮崎嶺雄 訳)
19世紀半ば、フランスの農村。仲の良い双子の兄弟と悪魔の如く嫌われる極貧の少女。みずみずしい彼らの交流と成長を描いた青春小説の白眉。
実際双子と言っても成長するにつれ少しは違ってくるもので、兄はひ弱で弟は頑健。性格的にも兄は未熟で嫉妬深く、弟は素直で誠実。この兄がいつまでたっても弟を離さず独り占めにしようとしている実に困ったやつで、弟と彼女の愛が成就しても最後の最後まで彼の問題が残る。しかしここがドラマの組立のおもしろさ。
もともとお転婆で、村人からは悪魔の如く蔑視されていた少女ファデット。本当は愛に溢れた賢い彼女が、はたして幸せになれるか心配でハラハラしながら読んだ。素直で清冽な10代の少年少女たちの細やかな心の動きを、わかりやすい表現で描いていて快感を得た。昭和34年の訳文だが充分に現代的で驚いた。
「セビーリャの色事師と石の招客」
ティルソ・デ・モリーナ 作
(岩波文庫・佐竹謙一 訳)
17世紀前半、興隆するスペイン文学に生まれた元祖「ドン・ファン」の物語。観客へのサービス精神たっぷりに書かれたティルソ・デ・モリーナの戯曲世界。他一編。
かなり大味な展開で、そんなにも簡単に多くの女性が騙されるのかという疑問を抱きながらも「ドン・ファン」の悪行はどんどん進む。観客にとってはこれくらいのわかりやすさが痛快だろう。口先だけで複数の女性に結婚の約束をして関係を持つが、その末路は幻想的な怪談となっていて驚いた。
話を面白く持っていくのは従者(下男)たる男の存在で、主人「ドン・ファン」の背徳ぶりをいちいち嘆きながら指示に従っているのが薬味の如く効いている。併録作品「緑色のズボンをはいたドン・ヒル」でも、登場する貴族それぞれについている下男の存在が、主人の奇行ぶりを際立たせている。
「緑色のズボンをはいたドン・ヒル」は、真正ドタバタコメディで新喜劇のようなもの。男装の麗人が巻き起こす複雑な恋愛模様と嫉妬や裏切り。恋愛関係がかなり複雑に入り込んでいるのでやっかいだが、ラストは簡単にめでたしめでたしになるのが安心して見ていられるという仕組みです。

