漫画家まどの一哉ブログ
- 2025.05.12 「老女マノン・脂粉の顔」 宇野千代
- 2025.05.05 「具体⇄抽象トレーニング」 細谷功
- 2025.04.30 「プロレタリア文学セレクション」 荒木優太 編
- 2025.04.25 「近代の呪い」(増補) 渡辺京二
- 2025.04.21 「認知バイアス」 鈴木宏昭
- 2025.04.15 「冬物語」 シェイクスピア
- 2025.04.11 「十二月八日・苦悩の年鑑」 太宰治
- 2025.04.05 「自我と無意識」 C.G.ユング
- 2025.03.29 「家霊」 岡本かの子
- 2025.03.26 「人種は存在しない」人種問題と遺伝学 ベルトラン・ジョルダン
「老女マノン・脂粉の顔」
宇野千代 作
(岩波文庫・尾形明子 編)
自身の不遇な生い立ちから書き起こした社会派的作品集。6編の初期作品を集録。
よく知らないが後年の宇野千代を思うと意外なほどストレートなプロレタリア文学で、弱者女性の立場から社会の矛盾を断固追求する。編者によるとこれらの作品を、後年作者は無かったことにしているそうだが、これも人気作家の世渡りというものか。
「巷の雑音」:ローンでミシンを買って、これで弟の学費も出せるし故郷で伏せっている父親の助けにもなると、いかにも世間知らずの若者が見る儚い夢。そしてあまりの労賃の安さと、接客業への転身が描かれるが、主人公は社会に負けるつもりは全くないのだ。
「三千代の嫁入」「ランプ明るく」:作者の悲惨な少女時代がモデルだが、この父親のあまりのDV様に唖然とする。家族に快適な思いは絶対させない。家をきれいにすることの禁止から始まって暴力はもちろん、自分が病死する前に家の財産を全て処分して、家族に一銭も残さない。狂気の沙汰だ。
「老女マノン」:巻末のこの作品のみ一転して表現が美しい。「その日から、一日経ち一日経ち一日経ち、それが積もり積もったのにお前もそれからあのお婆さんも、同じように毎朝の化粧鏡に映る自分の顔が昨日と今日とそれからその次に次に無数に続く昨日と今日との間に少しの変わりもないものだと信じながら、つい長い月日を暮らして来てしまったのだ。」
「その闇の中に尻端折った役者たちの細い白い幾本かの脛と入り乱れ、小母さんの、同じように痩せた細い踝(くるぶし)が、大股に忙しく追いぬけて行くのであった。」
「具体⇄抽象トレーニング」
細谷功 著
(PHPビジネス新書)
具体と抽象を行き来する思考の基礎構造を解説。
日常的に具体的な視点ばかりで世界を見ている言わば横の視点に対し、それらを統一する上位の概念、縦方向の視点が抽象的なものの見方である。個別なさまざまな事象に追われているより、一段メタな立場に立って見ることの有用性は言うまでもない。
ところが人間の多数はもっぱら具体的な思考しかしないので、抽象的な見方を理解できない。例えば昨今の短絡的な政治家は目先の効果・利害と比べて、学術の世界の理念的な取り組みを無駄と断じてしまう。また大衆は政策の根幹となっている理念に目が届かず、一度決まった政策には文句を言わずに粛々と従う。
この種の弊害は最近目につくようになってきたので、この本もタイムリーなものだと思う。具体と抽象を行き来する同じことでも、数種類の切り口と図説を使って解説。抽象化とは一つの括りで一旦切り取ることなので、その後具体化に降りてきた場合のトラブルもある。ビジネス書として書かれているが、自分のようにビジネスに無関心な者でも役に立つ。(と、思われる)
「プロレタリア文学セレクション」
荒木優太 編
(平凡社ライブラリー)
小説のみならず実話や読者投稿まで混じえて、労働者大衆へ懸命の訴えを試みたプロレタリア文学の名品数々。
芸術性を二の次にしても資本主義社会の矛盾・真実を伝えるべく闘った作家たち。それでも時代を超えて残るものは、単なるリアリズムに留まらないさすがの芸術性を感じる。第一部・第二部とも印刷製本の現場に関わる作品が多い。この中には編者の企画で、プロレタリア文学の近くで並行していた作家も含まれている。
宮本百合子「雲母片」:巻頭のこの短いエッセイがいちばんみずみずしく、母と少女の穏やかな幸福感にあふれていてよかった。こころ温まる読後感。
片岡鉄兵「アスファルトを往く」:各地に伸びるアスファルト舗装。そこは自動車の極楽、失業者の針の道。ということで何か歌うように散文詩の如く区切り区切り書かれてるが、リズムが悪くて読みにくいことこの上ない。向いていないのではないか?
横光利一「高架線」:工事現場に一時的にできる大きな穴のなかに入り込んで暮らす浮浪人たち。さすが新感覚派というべきか、リアリズムを離れてイメージが広がる絵画的な印象があり、この方法で過酷な現場を描くのは無理ではなかろうか?
大田洋子「検束のある小説」:労働運動家の夫を持つ家政婦の女と、病身でお屋敷に暮らしながらも密かに労働運動を支援する若き淑女。そして浮気を繰り返すブルジョワジー夫の視野狭き妻。この3人が出くわして面白いが、こんな淑女実際にいるかな?
坪井栄「種」:活動家の息子が死んだ後も、名産品を持って地方からやってくる母親。活動家のみんなに心ささしい老婆が可愛らしく切ない。さすがに庶民を描いて温かい坪井栄。
葉山嘉樹「寄生虫」:4歳の娘に巣食って栄養を奪取するにっくき寄生虫。何匹でも引っこ抜いて懲らしめずにおくものか!かなり戯画的に書かれているがこれも一種の韜晦なのか?
「近代の呪い」(増補)
渡辺京二 著
(平凡社ライブラリー)
まぎれもなく西欧化であった近代化。その恵みと失ったものを検証する講演記録。
名著「逝きし世の面影」で近世(江戸期)の日本の幸福な社会を世に知らしめた著者ならではの視点で語られていてさすがだ。昨今オリエンタリズムあれど、どう見たって近代化イコール西欧化であったことは事実。特に人権思想と科学技術への目覚め。
その人権思想が世界人類に普遍的なものと我々は思っていたが、現在進行しているガザ爆撃などを見ると、西欧人の視野はアジア・中東人にまで及んでいなかったようだ。著者も批判するとおり中国現政権は西欧の人権思想を否定しているのだからもっての外である。
悲惨なフランス革命から始まった国民国家。その国民国家と対峙するために大急ぎで幕藩体制から中央集権体制へ変わる必要があったことがよくわかる。これも江戸期ののんびりした幸福な社会を考察した著者ならではの解説だと思った。
「認知バイアス」
鈴木宏昭 著
(講談社BLUE BACKS)
日常生活に潜む思い込みや勘違い。認知のズレを招くさまざまな要因にはどんなものがあるのか?
人間が同時に注意できるものが限られていることや、マスコミ等で多く耳にすることを実際多いと思ってしまうなど、言われればなるほどそうだろうなと思うことばかりで、大きな意外性はないが納得できる。第一印象や自己決定感覚についてもそうだ。
しかし人間はじっくり熟慮するいとまなく、急いでとりあえずの判断をして生きていかねばならない。このヒューリスティックという概念は初めて知ったが、われわれの暮らし方と認知を考える上で基本となる概念だ。つまりどうこう言っても認知のズレは起こらざるを得ないわけだ。
最終章で、今まで実験してきた認知の間違いも、実際には実験時に考慮しなかった原因が現実にはあることなど、省みていて肯ける。長い人類史のなかでつい最近膨大に増えた情報量とその解釈のためのことばと抽象化など、そもそも人間の暮らしには必要でなかった。人は大自然の中で野生的に生きていたのだ。ここが基本。
「冬物語」
シェイクスピア 作
(岩波文庫・桒山智成 訳)
嫉妬に狂った王により命果てた妻。密かに生き延びた幼子。
運命の変転を描く悲喜劇。
嫉妬という主題はかなり多くの文芸作品で目にする気がするが、このシチリア王の嫉妬はかなり極端な設定だ。だんだん疑いの目が育っていくという経緯を経ず、物語が始まるやいなや妻の浮気を決めつける急な展開。妻が亡くなり赤ん坊が捨てられた後に、アポロの神託により妻の無実が証明される。すると王は手のひらを返したように涙ながらに反省するのである。
このわかりやすい前半の設定があって後半、ボヘミア国で生き延びた娘が王子の愛を受けて祖国へ帰るまでの紆余曲折の物語が展開される。面白いのは途中で時のコーラスというものが入り、月日が流れたことを観客に説明するのである。実は王の血を引く娘でありながらそれが証明されず、魔女あつかいされる悲劇だ。
この作品は「パンドスト」という種本があり、これをシェイクスピアが改変してハッピーエンドにしたもの。大衆娯楽として楽しめるかなり単純なものだが、捨てられた赤ん坊の王女を羊飼いと道化師が拾って育てたり、王女の証明にゴロツキ男が一役買っているところが、ちょっとした味付け。ボヘミアに海があっても誰も疑問としない。
「十二月八日・苦悩の年鑑」
太宰治 作
(岩波文庫)
終戦の日を挟み、戦前戦後の身辺を語った作品を中心に、太宰の国家観・人生観を垣間見る。
14編のうち「水仙」「花火」は既読であったが、この2作は破滅型の人間を描いて鬼気迫る秀逸の出来栄え。さすがに太宰だ。自分を天才画家と思い込み、夫を捨てて虚飾に溺れる女性。コンプレックスの塊でいい金づるにされて家計を破壊する長男。私小説でない作品の面白さは群を抜く。
その他掲載作は戦禍を受けてふるさと津軽へ一家で帰ることを中心に、一族中自分のみがいかに外れ者の情けない人間であるか、多くの支援者に迷惑をかけて兄弟たちにも顔向けできない失格者であるかを滔々と並べ立てるいつもの太宰流である。
この作風に関しては人によってはわざとらしい韜晦。或いは自己愛ゆえの感傷を感じて、批判的に見る人も多いだろう。それくらいのことで大袈裟な…というわけだが、そこは趣味の問題としておく。自分は好きでも嫌いでもない。
戦後太宰は軍閥官僚を批判し、それでも日本を愛することにおいては純粋だった旨述懐するが、これは平凡な民衆としては素直な気持ちだろう。こういう純朴で情緒的な視点であるため天皇制を相対化できない。これもやむなしか…。
「自我と無意識」
C.G.ユング 著
(レグルス文庫・松代洋一/渡辺学 訳)
ユング心理学を著者自身がトータルにまとめた入門書となるべき著作。
集合無意識といわれると捉えどころがない気がしていたが、人間は個人的生活より先に所属する共同体・集団の共通した暮らしがある。例えば気候の変化や獲物の取れる時期、種を蒔く時期、神事祭事などは無意識のレベルで共有されていてしかるべきで、そこまでなら集合無意識の存在も肯ける。ここを手がかりとしたい。
ペルソナの概念が面白く、社会的な存在としての仮の姿。これも集合無意識の圧力のなせるわざか、本来の個人としての自分を忘れてペルソナに支配されてしまう人がいる。過労死するタイプかもしれない。社会ではトップリーダー的な優れた男性が、家庭では子供のままで、すべて奥さんに頼ってくる例が多いそうだ。なるほどね。
しかし平時に無意識に動かされて空想するという状態がわからない。私個人は空想は全て意識的だ。夢以外に個人的無意識を体験していない以上、アニマとアニムスをはじめマナ人格に至るまで、雲を掴むような話で、納得できるできないの段階ではなかった。たぶん自分は今後とも無意識を意識することはできないだろうと思う。
「家霊」
岡本かの子 作
(ハルキ文庫)
さまざまな人生のひとつひとつを美しく照らし出す、魔法のような珠玉の短編4編。
ここまで華麗に彫琢された引き締まった文章は、なるほど作者かの子の短歌から引き継がれているのか。驚くほどの意外な修飾の連鎖に息を呑む。めったに読めない言葉の芸術を体験できる。
「鮨」:秀才だが食べ物に対する許容範囲が狭く痩せていく子ども。この男の子を救うべく母親が手ずから鮨をにぎって、ようやく卵も魚も食べられるように…。こういう繊細で特殊な少年を、作者はどうやって創作したのか。不思議な気がする。
「家霊」:ナマズやスッポンを食わせる店。零落した彫金師が、ツケも払わずに夜な夜などじょう汁を注文する。「あのーー注文のーーご飯付きのどじょう汁はまだでーー」このセリフ大好き。彫金の動作説明は身の引き締まる美しさ。
「見るものに無限を感じさせる天体の軌道のような弧線を描いて上下する老人の槌の手は、しかしながら、鏨(たがね)の手にまで届こうとする一刹那に、定まった距離でぴたりと止まる。」
「娘」:スカルボートを操る肉体派の娘。彼女を慕う腹違いのおもちゃやお菓子に夢中の少年。このコンビが楽しい。
「室子は頬を撫でても、胸の皮膚を撫でても、小麦色の肌の上へ、うすい脂が、グリスリンのように滲み出ているのを、掌で知り、たった一夜の中にも、こんなに肉体の新陳代謝の激しい自分を、まるで海驢(あしか)のようだと思った。」
「人種は存在しない」人種問題と遺伝学
ベルトラン・ジョルダン 著
(中央公論新社・山本敏充 監修・林昌宏 訳)
遺伝学の成果により人種概念の無効性を明らかにし、遺伝子を理由とした人種差別に異議を唱える。
ここで「人種」というのはかなり大きな枠組みで、アジア系・アフリカ系・ヨーロッパ系などのこと。日本人・韓国人・中国人などはもちろん人種ではない。その人種のDNAは99.9%が同型である。残る0.1%の違いが体格や肌や髪の色などを決定するらしいが、これは自然選択であって遺伝的形質が親から子へ伝わるようなことらしい。人種差より個体差の方が大きいのだ。
自分の属する人種の優位性を、遺伝子によって科学的に裏付けようとするのは完全に間違っている。しかし孤立した環境で長年生きてきた民族に、特徴的な遺伝的特質が生まれるのは否定できないので、「人種」という概念を狭くとらえられると、遺伝子を理由にされる危険はある。生物学的な厳密さを一般人に期待しなければならないところが難しい。
一般読者にも読めるように書かれているとはいえ、私にとってはさすがにハードな部分はあった。肝心のアレル(対立遺伝子)というものがよく理解できず(対立という言葉に引っかかる)、またマーカーとして利用されるスニップス(一塩基多型)も単純なことはわかるのだが、それ以上の展開はついていけなかった。この辺りはまたの機会に…。