漫画家まどの一哉ブログ
「ペドロ・パラモ」フアン・ルルフォ 作
自分にとってラテンアメリカ文学の苦手なところは、人物名の印象が皆同じになってしまって、誰が誰やら分からないまま読んでしまうというところだ。この小説の場合時間が順を追って進まないのでなおさらだ。街の悪党ペドロ・パラモの人生が主な内容だが、それよりも前半のペドロ・パラモの後を追って寂れた街にやって来た息子のはなしが面白い。すでにペドロ・パラモは死んでいて、わずかに街に残った女たちとの交流があるのだが、生きているつもりでいた目の前の人物が実は幽霊だったりということがくり返されて、喪失感が重なってゆく。
ところでペドロ・パラモの悪党ぶりや愛する女への葛藤など物語の内容はあるのだが、なぜか直接頭に入って来ずに、悪魔的なイメージに占領されてしまう。なるほどマジック・リアリズムの嚆矢とされる作品だ。
「牛乳屋テヴィエ」
ショレム・アレイヘム 作
舞台や映画でおなじみ「屋根の上のバイオリン弾き」の原作であることを知らずに読みはじめた。主人公テヴィエは牛乳屋だが、牛乳配達だけしているわけではなく作り手なのである。生乳の他チーズもバターも生クリームも作る。お得意は街の金持ちだ。そして家には娘ばかり6人もいるのだ。
今や日本人にもおなじみのウクライナ。ソビエト政権成立のころウクライナに暮らすユダヤ人一家。イディッシュについてなんの知識も思い入れもないが、それを意識しなくても父親と娘たちの世代間の考え方の齟齬を描いて、世界中の人が見て読んで面白いものになっているわけです。屋根の上でバイオリンは弾かない。
親父さんからすれば自分が娘のためにいい縁談をまとめてきてやったと思っていても、娘と恋人は「ぼくたち結婚することにしました」ってそりゃいったいどういうことだ?といった具合。これが全編主人公テヴィエの語りで書かれており、それがまったく田舎の農家の親父さんの口調なので面白い。とはいっても自分の趣味とはちょっと違う作品。
読書
「星に降る雪/修道院」
池澤夏樹 作
「修道院」:非常に美しい通俗小説。あまりにもスラスラ読める。さらさらと流れていくような読書感覚。青い海と眩しい太陽そして朽ち果てた修道院。すべて日本人が簡単にイメージできる範囲で美しい地中海の島が描かれている。親切な宿や村の人々。そこで知った壊された礼拝堂をたった一人で再建しようとした孤独な男の話。それらもみな分かりやすく、言わば定番で読者が容易に想定できる範囲だ。
この孤独な男はなぜ礼拝堂を修復しようと思ったか。それは過ぎ去った女友達とのみだらな快楽の日々であり、そして男友だちも巻き込んで起きた争いと殺人の悲劇の果て。彼の修復行為は過去に犯した罪に対する償いであったのだ。信仰にたいする深い洞察はなく、きちんと辻褄の合った悲劇が明らかにされるわけだが、童話のようにわかりやすくまとまっていてなんの違和感もない。
「星に降る雪」:雪山で雪崩に遭遇し共通の友人を失った男女が、主人公の職場であるニュートリノ観測所で出会い、忌まわしい雪崩事件後の思いを、まずセックスしてから語り合うお話。
「鰐の聖域」 中上健次 作
未完結遺作。和歌山県新宮市の被差別部落出身の若者。大して働かないくせに女だけには不自由しないろくでなしの主人公。渓流に潜ってヤスで鮎を突くのが楽しみ。普段は目的もなく車を乗り回したり、女の尻を追いかけたり、喫茶店でだべったりしている。たまにガソリンスタンドで働いたりする。周りいるのは「路地」とよばれる部落出身の男達。限られたパイを奪い合う土建屋グループを軸に、その女達。金融屋と暴走族上がりの社員達。などなど。
予想どおり非常に泥臭い中上作品。代表作を読んでいれば被差別部落と近代化の問題や、日本人の土着的な生き様など思い至るであろうが、この作品のみに限って言えば、主人公その他まったくリアルに地方に屯するヤンキー的な人達の風情で、文学的な内省や風景描写もなく、まさにヤンキーな日常そのまま。
これは偏見を持って言うが、都会の上流階級で育ちインテリジェンスを身につけた知的な人々から見れば魅力的などろどろした下層の地方生活者、あたかも面白い物語の設定のように感じるこれらの風情も、少しでも身近にそれを知る地方出身者にしてみれば、すぐにでも逃げ出したい堪え難いシロモノで、このヤンキーな人達がずっと同じ力関係で近くにいるからもう地元には絶対帰らないという地方出身者も多いらしい?(仄聞)
この後が書き継がれていればいよいよ本質に迫ったかもしれないが、ここまではあまりにリアルなヤンキーの日常で、どうしても嫌悪感を持ってしまう。まあ主要作品を読んでから言えという話かもしれない。
「上海の蛍」 武田泰淳 作
1944年、上海の東方文化協会で日本語の書物を中国語に翻訳する仕事をすることになった若き武田泰淳。理事長の家に下宿して始まった上海での日々を描く。事務所では中国・日本双方から集まった学者や職員が働いているわけだが、日中友和のためと称するこの事業自体が中国人から見ればありえないキレイゴトであり、中国人職員達は心の底では冷めていたのではないか。そこを詳しく論じる教養は自分にはない。
中国戦線を経験していた中国文学研究家の作者が、上海での新しい体験になにを思っていたか?直接的に語られているわけではない。ただ大らかに遠慮なく過ごした。酒さえ飲んでしまえば怖い者なしで、言いたいことは何でも言う。大声で叫び夜の街を練り歩く傍若無人のありさま。やはり日本人の特権でなにをやっても大目に見られていたのだろうか。多くは語らないが屈折した青年だった自身を晩年に書いた。これが遺作だ。
当時の中国には、なにを目的としていたのか自分には興味がないが、上海以外にも有名な日本の小説家が仕事で滞在していたようで、文学会議ともなると火野葦平や田村俊子、高見順、阿部知二らが顔を出す。そんなふう。
「日曜農園」 松井雪子 作
父親が突然蒸発してしまって借りたままになった市の家庭農園。女子高生の娘は農園を引き継ぎ、素人ながらほそぼそと野菜を作り続ける。農園を娘に任した母親はひたすらシェイプアップに励んで筋肉を育む。いつの日か父は帰ってくるのだろうか。
主人公の女子高生は農園にそう熱心なわけではないが、ネットで父親の足跡をたどるようにしながら少しずつ野菜作りに精通して行く。母親は夫の行方探しを諦めたわけではないが、普段はビジネスに集中。ふたりともひょうひょうと人生を受け流して行き悲嘆にくれるわけでもなく、読んでるこちらも気楽だ。
漫画もとってもおもしろい松井雪子さん。小説を初めて読んだが、漫画作品とはまったく違ったおもしろさ。いや、違っているかどうかなんて比較すら出来ないわけだが、漫画ならではのギャグやポップな愛嬌は影を潜めて、まっとうにリアルに主人公の日曜日が綴られていく。まあブンガクだから当然なのかもしれないが、味わいのある文章で気持ちが良かった。読んでいるとじんわりと心落ち着く。これぞ小説の快感といった具合。
3年ぶりの「架空」
斎藤潤一郎作品は常に、社会の底辺に潜むルサンチマンを社会的視点を抜きにして畸形化したようなもので、方法がストーリー説明的ではないのが確かにつげ以降の表現を受け継いでいる。会話とコマ運びも独特のリズムがあって心地が良い。坂道を上がってくる描写がおもしろい。
川勝徳重作品は愉快なタヌキの漫画。いちばん面白かったコマは「このタヌキやけに固いぞ!!」というところ。同じ川勝徳重による赤瀬川原平論。桜画報の寓話性についてはたしかにそのとおりで、赤瀬川先生は宮武外骨を通過して漫画に接近した人だから、やはり風刺漫画のフォルムを使うのが面白かったのではないか。自分もアックスの特集で書いたとおり、「烏口」のころの絵がいちばん美しいと思う。
勝見華子作品は安部慎一へのオマージュである。背景を省略してトーンで処理することにより読みやすくなっている。惜しむらくはやっぱり最後にどーんと大コマで阿佐ケ谷の風景があって終わるのが、アベシン流の王道ではなかろうか。
新人の作品は泥臭くてシュールっぽくて、まるで60年代のガロを見ているようだ。なぜだろうか。ひとつの趣味だろうか。
私は短いものですが、かつてQJ用に描いた未発表作を掲載しています。
通販希望の方は川勝氏へDMなされよ。
今のところタコシェ・模索舍などにあるよ。
大学で教鞭をとるようなインテリの人が、ごくたわいもない漫画を名作だと喜んでいるのは何故なのか?かねてより不思議だったが。漫画を読む才能というものがあって、これは歌がうまいのが生まれつきなのと同じようなもんだ。知力は関係がない。ただ本人が気付いてないだけ。
漫画の多くは子どもでも読めるように分かりやすく記号化して描いてあるので、読む能力のないインテリでも簡単に読めて感動して評価してしまう。ところがそんな人はどれだけ知力があっても林静一やつげ忠男を見て理解することができない。これがゲージツセンスの問題なのだ。
教養がなくても安部慎一を読んで涙することは出来る。ところが安部慎一作品は記号やデフォルメを一切使ってないし、予定調和の世界でもないので、読めない人は教養があっても読めない。この漫画を読む能力が頭の良い悪いとは別の能力であるという点。画質の問題もあるけど。
追加:漫画は簡単に読めてしまうので教養ある方なら誰が大いに語っても良いが、つげ義春以降の作品群がまるで読めない人もいるし、つげ義春以降の作品群しか読めない人もいる。実際ありがたいのは何でも読める人である。
「獄中記」 ワイルド 作
言わずと知れたオスカー・ワイルド。
獄中記に期待するものと言えば、やはりこまごました獄中の日常か、もしくは自分もここまで堕ちたんだ、もうこうなったら覚悟を決めたぞ!みたいな極端な決意表明だが、ワイルドは後者だ。もっともさすがに大いに己が罪を悔い(別に同性愛性癖が悪いとは思わないが)世間に頭を下げることは徹底している。「自分の天才を信じきって青春を浪費してしまい、快楽から快楽へとはまり込んだ」とひたすら反省しているが、そこが魅力だったのにと思う人も多いかも知れない。
出獄後は芸術家としてストイックに生きるようなことを宣言して、ではなにが本当の芸術家か縷々解説する。彼の至った結論とは人間の悲哀こそが最高の情緒であり、芸術家は悲哀を知りほんとうの愛を知らなければならないということらしい。獄に繋がれる身となった自分の悲哀から発展して、ようやく貧窮や困難の救済としての人間愛に目覚めたのだ。エリート街道まっしぐらの身の上ゆえか、囚人となって初めてそこにたどり着いたのだろうか。「貧しき者は賢く、われわれよりも慈悲深く、親切で、しかも感受性が豊かである」とベタ褒めだが、これも出身階級ならではの勘違いだろう。
さらにその意味で芸術家をはるかに越えて優れた人物こそキリストであり、他者の悲哀に全身を投げ打って同情をよせることができるキリストの大いなる愛こそが至高のものであることが延々説かれる。巻頭で宗教を信じないと言っていることと矛盾するようだが、ここでは教会全体ではなくキリスト個人の人格を取り上げているので、問題はないようだ。
出獄後は寒村でひっそり暮らし、晩年は忘れられて困窮の中一人寂しく死んだそうだ。切ないねえ。