漫画家まどの一哉ブログ
「犬と独裁者」
鈴木アツト 作
(而立書房)
スターリン下の弾圧の時代、なんとか自身の作品を舞台に上げるため苦闘する作家ブルガーコフを描いた戯曲作品。2023年公演。
ブルガーコフを主人公にしたこと自体が非常に興味深いが、それだけに難しいと思う。なによりブルガーコフが稀有の幻想文学者であり他の何者でもない人間でならねばならず、単にスターリンの独裁に苦しみもがいている表現者一般で終わってはならない。
その点ではもうひとつブルガーコフならではの人格が描かれているとも思わないが、幻想性という面ではソソという名の幻覚的人物が現れるのが面白い。ソソは最初、犬のような人間のような存在だが、次第にロシア語を覚えプーシキンの詩を暗唱するようにり、革命と暴力を讃えブルガーコフの運命を翻弄するような存在となっていく。
やはりソビエトという新しい社会で詩人は何を書くべきかという問題があるが、ラスト近くで革命やテロリズムなど話が大きく広がって、実際舞台を見ていたら大いに興奮したかも知れない。
周辺人物は少数で、妻と元妻の確執が多く描かれるが、個人的にはこの辺りの下世話な内容はほんの少し匂わせるくらいでよかった。スターリンが電話のみで登場するが、なかなか面白いのでもっとたびたび出てほしい。
「海の乙女の惜しみなさ」
デニス・ジョンソン 作
(白水社EXLIBRIS 藤井光 訳)
現代最高のアメリカ人作家と評価される著者の遺作短編集。
一人称で書かれた文体が生き生きと感情豊か。出来事がすべて面白く、追うように読まされてしまう。
「アイダホのスターライト」:アルコール依存症治療センターに入所中の主人公が、あらゆる知人に手紙を書く。どうやら家族揃って破滅型なようだが、手紙の宛先は支援者からドクター、パウロ法王、サタンにまで及び、感謝と戦いの告白が続く。
「首絞めボブ」:刑務所で暮らす自分とイカれた同僚連中の生き様を独白。「アイダホのスターライト」と並んでワイルドな世界を、これもやや乱暴な言葉で描いて愉快。
「墓に対する勝利」:都会を離れて牧場で暮らしているらしい老作家。その生存を確認するために訪れると、彼は死者の幻と共に生きていた。並行して病院で死を迎えようとする知人の最期の日々が描かれ、やがて皆死んでいく思い出の日々。生との端境で死とともに生きる。これがいちばんの傑作だ。
「ドッペルゲンガー・ポルダーガイスト」:エルヴィス・プレスリーには実は死産した双子の兄弟がいて、本当は生きていたその兄弟が、本物のエルヴィスと入れ替わっていた。この大胆な仮説を信じ、自身の詩作を放擲して謎の証明に人生を費やす才能ある詩人。この分身と亡霊の種明かしは語り手自身にも及ぶ。ミステリアスにかなり仕込まれている。
「ホーム・ラン」
スティーヴン・ミルハウザー 作
(白水社 柴田元幸 訳)
奇想短編小説の名手ミルハウザーによる短編集。幻想味溢れる作品以外にも現実的なもの、観念的なものなど多彩。
「私たちの町で生じた最近の混乱に関する報告」や「Elsewhere」など、街全体に不思議な事態が少しずつ起きてだんだん如実になってゆくという展開は、ショートSFの定番かもしれない。
「息子たちと母たち」は久々に実家を訪ねてみると老いた母が認知症らしいという珍しく現実的な作品だが案外良い。
「十三人の妻」:自分の十三人もの妻のそれぞれの個性と自分にとっての役割を順に紹介。といってもその妻たちは現実離れしたかなり観念的な存在で、常にほかの若い男と一緒にいる妻や、剣を隔てて触れ合うことがままならない妻はまだいいとしても、宙に浮かんでいる妻や、起こらなかったことの総和である妻、記憶にはあるが不可視の妻など、あまりに逸脱していておもしろい。
「若きガウタマの快楽と苦悩」:ガウタマとはゴータマ・シッダールタであり、ブッダが王子としての身を捨て国を捨て、求道者として目覚めるまでの物語である。この作品がいちばんワクワクと読めた。彼は父親である王によってかなり過保護に囲われ、城の領域外の世界へ出られず生老病死から遠ざけられている状態。大掛かりな映画のセットの中に置かれているようなもの。これがありえないほど極端で空想的なので、この作品を砕けた気持ちで読むことができる。
「昼と夜 絶対の愛」
アルフレッド・ジャリ 作
(幻戯書房ルリユール叢書・佐原怜 訳)
20世紀文学を導いた、シュールレアリスムの先駆けとなるフランス前衛文学の始祖ジャリの小説作品2題。
「昼と夜」:自身の兵役体験を描いた小説だが、大半は病者として陸軍病院に入院しているで入院小説と言ってもよい。しかも兵役にしても患者としても事実自体への拘泥はあまりなく、基本的に観念小説。軍隊や病院で起きていることはわかるのだが、描写は現実を離れて夢幻的に飛躍してゆく。
したがって通常の意味での小説とは違うものだが、その文章の品と格調たるやさすがに俗がなく、難解ながらも身の引き締まる思いだ。
たしかに軍隊というところが愚鈍化された場所であるにしても、作者にとって小説として書くべきはそもそも観念やイメージであり、読者も凡庸な頭で現実を読み取ろうとすると殴られる。
「絶対の愛」:解説を読んで初めて話の流れがわかった次第。主人公をイエスに見立てて母親マリアとその周辺の物語だと解釈して読んでいた。主人公が実質的に神でありオールマイティな存在なので、なにが起きていても不思議ではない。とはいえこれも現実的なことはあまり起こらず、文章は基本的に幻想的味付けで彫琢されてなければならない具合なので、通常の小説作品とは異質すぎるほど異質である。一読しただけでこの構成を理解するのは自分には無理というもの。3読くらい必要だ。
幻想表現の内容自体に踏み込まない拙い感想だがこれが限界であります。
「大尉の娘」
プーシキン 作
(光文社古典新訳文庫・坂庭淳史 訳)
ロシア近代文学の父プーシキン最後の傑作。史実を元に組まれた波乱万丈の冒険ドラマ。
愛と冒険を描いたエンターテイメントの基本を抑えた見本のような作品。簡潔な文体がすがすがしく、世界名作文学ながら話は矢のように進む。
愛するマリヤを敵の手から救い出すべく突き進む青年貴族グリニョーフ。彼のゆくところピッタリ寄り添って離れない世話役の爺。このコンビがいい味を出している。敵役の敵将もいかにも野蛮だが人間味のある男。恋のライバルでもあり、最後まで悪さをする寝返った卑怯者。などなどキャラクター揃えも典型的なものだが、役割のためにこしらえたとは思えない説得力がある。
表題でもある大尉の娘マリヤはあまり活躍しないかとおもいきや、最後にあらぬ疑いをかけられて逮捕された恋人グリニョーフを救うべく奔走する。結局は最高権力者である女帝陛下の力を借りるところは、読者大衆も満足の王道的世界観というものだろうか。
「ハルムスの世界」
ダニイル・ハルムス 作
(白水Uブックス)
スターリン政権下の弾圧により獄死した前衛作家ハルムス。世界に先駆けて書かれた実験的不条理文学。
ナンセンスをベースとして書かれた小話のようなものといえばそうだが、笑い自体を目的としていないため置いて行かれたような感覚があり、まさにそこが不条理文学の味わいか。手を替え品を替え、かなり多彩な手法が使われており、文学としての成り立ちを破壊してしまう不届きな面白さがある。
解説によれば関係性の欠如、意味や理由のない偶然的存在。といった人間の不条理的側面を捉えた作品群なのだが、読んでただちにそれを感じるかというと案外人それぞれだと思う。作風から言ってそれほど大袈裟な理解でなく、単に笑っていればいいようなものも多い。そもそもなにを不条理と捉えるかが人によって違うだろう。
それより代表作「出来事(ケース)」のようなきわめて短い小話よりも、ある程度長さがあって既存の小説のスタイルを持っていた方が逆に不条理感を感じる。傑作コレクションの「朝」など9ページ近くあり生活感もある内容だが微妙に納得できない不思議な展開であり、これくらいのバランスが妙味というところだ。
「巨匠とマルガリータ」(下)
ブルガーコフ 作
(岩波文庫)
巨匠を救出するため魔女となって飛び回るマルガリータ。懸命に捜査するも悪魔たちにはとうていかなわない警察。一大スペクタルを経てやがて訪れる平和で幸福な終焉。
悪魔たちの大掛かりなイタズラに対して警察が徹底捜査を開始するが、もちろん真相にたどり着くことはできない。あたかも刑事ドラマのような展開になって意外な楽しさがある。魔女となったマルガリータが、復讐に燃えて巨匠の作品を粗末に扱った編集者や評論家の家を荒らしまくるのも愉快だ。
また、この作品には主人公である巨匠の書いた小説内小説があって、ヨシュア(イエス)を処刑してしまったローマ総督ポンティウス・ピラトゥスの懊悩を描いた作品。この作品もイスカリオテのユダの殺人を巡って推理ドラマのような内容になっていて静かな興奮をそそる。
悪魔たちのような異形の者、超人的な能力を持つ者が揃っていると、漫画を読むようなくだけた楽しさがあって、いつまでもこれらのキャラクターとじゃれあっていたい気持ちになってしまう。世界名作文学なのに珍しい。
こうやって書いてみると私が楽しんでいるのは全くブルガーコフのエンターテイメント術に乗せられているわけで、では世界名作文学ならではの読み応え、感銘するところはどこかというと、簡単にはわからないのだった。
「巨匠とマルガリータ」(上)
ブルガーコフ 作
(岩波文庫)
突如モスクワの街に現れた3人の悪魔。繰り出される魔術に翻弄される人々と詩人の運命は?ブルガーコフの代表的幻想長編小説。
再読。(以前は池澤夏樹個人編集-世界文学全集で読んだが、ほとんど忘れている。)
冒頭、幻視とともに悪魔の親玉が現れ、痛ましい電車事故であわれ編集長の首が飛ぶ。この非常事態を同席して目撃した宿なし詩人は懸命に警察に犯人(悪魔)逮捕を訴えるが信用されず、挙句の果ては精神病院送りにされてしまう始末。
遠慮のないほど、ただならない事件の連続で飽きさせない。この辺りの様々な奇怪な出来事の出し入れは、通俗的エンターテイメントを遥かに凌ぐ面白さ。なにせ読者が予想できるであろう展開は皆無なのだ。悪魔たちキャラクターの魅力もなおさらで、特に人語を操る巨大な黒猫が秀逸である。
社会や人生について直接的なテーマが感じられることもなく、悪魔に翻弄される人間たちの狼狽をひたすら見ることになる。主人公かと思われた宿なし詩人は精神病院内で巨匠と名乗る文学者と知り合い、ここで初めて真の主人公が登場。しかし上巻ではまだこの箇所のみで、恋人マルガリータの活躍も本格的には下巻を待たなければならない。
はたして悪魔たちは何の目的で現れたのか?巨匠とマルガリータの運命やいかに!?全ては後編で!
「芽むしり仔撃ち」
大江健三郎 作
(新潮文庫)
大戦下、感化院の少年たちは閉鎖された村に収容されるが、疫病の発生と共に取り残され捨てられてしまう。大人のいない村で冒険的に生きる少年たち。著者デビュー2作目の暗黒空想小説。
トロッコで谷を渡るしか往く方法のない閉ざされた村。15人の不良扱いされた少年たちと、圧倒的に無理解の残虐な大人たち。そしてひたひたと迫る疫病。
などなど日常のすぐそばから語るのではなく、現実離れした特殊な設定を用意して書かれた一種のディストピア小説のような作品で、人物の立場も分かりやすく、連続する事件を追って読める。
この初期長編にのちの作者ならではの個性的文体と言うものがあるのかどうかは分からない。捨てられた15少年や疫病の発生などわかりやすい典型的なエンターテイメント設定だが、色調は暗く悲惨で気楽には読めない。そこが読み応えかも。
大人たちから極悪人扱いされている少年たちだが、いたって純粋で幼い児童たちだ。その逆に大人は子供たちをいじめる暴力的な権威者でしかない。不良少年と言えど子供を保護し更生させていかなければならないと、大人が全く考えていないのは、実は伝統的な日本社会の姿ではなかろうか。
「ほとんど記憶のない女」
リディア・デイヴィス 作
(白水社・岸本佐知子 訳)
1ページに満たないごく短いものを中心に、従来の小説の枠を越えた破格の小品集。話の外へ出るメタな構成を持つが、けしてエッセイでもない不思議さ。
「フーコーとエンピツ」:地下鉄や出先でフーコーを読みながら、どこがわかりにくいかなど、具体的にメモを取っていく。そのメモの内容とそうしている自分の日常を同じだけ書いて、ひっくるめて小説になっている。
「話の中心」:書いた小説がなぜ面白くないかを分析しながら、話自体が進行する。ふつうに話を追っていると、ここはこうした方が面白くなったのではなどと反省されて、また続いてゆく。
「くりかえす」:旅することは書くことである。読むとは旅することである。旅することは翻訳することである。その他の要素も入れて組み合わせて考えていくと、いく通りかの回答が得られる。またその要素を別のものにしてもいいらしい。
極めて珍しいメタ小説と言えるものがあるが、そうでない体験記や旅行記などを含めても、総じて怜悧で分析的でやや愉快な色調なので、楽しい読書体験ができる。