漫画家まどの一哉ブログ
「かつて描かれたことのない境地」
残雪(ツァンシュエ)作
幻想文学好きの自分としては、ポーやホフマンに繋がる者としてエリアーデやブルガーコフを愛読するところだが、この残雪も欠かせない作家だ。カフカ的という言葉でしばしば寓意的な小説が意味されるが、これは小説の意図を理解しようとする悪癖からくる解釈であって、不必要な評価だ。残雪こそ本来的な意味でカフカ的世界に寄添う作家だと思う。と言うより残雪はカフカと並んでまったくオリジナルな幻想世界を持つ作家である。
なにかしら常に暗闇の中を歩くような、周囲の状況が曖昧で判然としない、まさに夢の中の出来事のような作風。理不尽な状況。これこそ世界に投げ込まれている人間の生々しい感触ではないか。
「ライオン」:動物園からライオンが逃げ出して街の中にいるはずで、非常に恐ろしいのだがはっきりしない。ある人の家でライオンが飼われているのを見たとか、ある人が襲われて死んだとか噂を聞くが、なんとなく街のどこかにいそうだというだけで日常が進んでいく。
「少年小正」:山中の野草を食べることで超人的な能力を身につけた先生は、部屋の中で大きな模型飛行機を少年に作らせるが、その飛行機の中には甲虫のたくさん入った細口壜が仕込まれている。彼の父親は不思議なことに飛行機を壊さずに、その細口壜を取り出すことができる。飛行機は完成しても飛ぶことはなかった。
「そろばん」:故郷の者だという見覚えのない男に連れられてホテルで会話してみると、故郷は水害にあったという。もともと炭坑の街だったが彼はまったく故郷のことを覚えていない。いつのまにかポケットに小さなそろばんが入っていて、どうやらそれが唯一の故郷と繋がる証拠らしい。彼は地下室に連れていかれ難詰されるのだった。
どうにも納得いかない状況ばかりが連続して、出口がない日常がくりかえされる。
「転△生」 甲野酉漫画全集1
甲野酉作品はそのおとなしい地味な表現ゆえに、ひょっとして私漫画のような文学的な世界を予想すると違うのである。いかにも漫画ならではの面白さで構成された短編ばかりで、幻想的で奇怪な事件が起り、解決されないままさらにエスカレートして終わるといった作風。わかりやすい漫画的記号によるデフォルメやキャラクターデザインがなくても、漫画ならではの楽しさを得ることは可能なことが解る。「受験霊」「ある病院にて」など、とぼけた妖怪や精霊が出てくる話が愉しい。
学校という空間は、人間関係の距離の取り方や社会の中での自身のポジショニングなどを、露骨なカタチで浮かび上がらせるところだからだろうか。甲野酉作品には学園ものが多い(学園ものという言い方で想像されるモノとはかなり違うけれども)。作者は社会と独特な距離感を持っていて、まるで自分が仮面をつけた存在であるかの如く、自身をも社会をも客観視している。この立場から見た世界が活きてくるのが学校という題材なのかもしれないが、ほんとうのところはよくわからない。
ところで学園漫画は教室の机・椅子を正確なパースで描くのが面倒そうですが、教室という設定を最初に解らせてしまえば、あとはほとんど背景がなくても全く不自由しないことに気付きました。
購入はnisinosorao@yahoo.co.jpまで
読書
「ピサへの道」七つのゴシック物語1 イサク・ディネセン 作
不思議なことや奇抜なことがあれば幻想文学かというとそうではなくて、幻想文学のつもりで読んでないのに何やら不思議な感覚を得るというぐらいがよい。この短編集はそのあたりがちょうど心地よく、落ち着いた味わい深い描写を楽しむことができる。ストーリー上の大きな仕掛けは要らないくらいだが、なんとどの作品も最後にどんでん返しがあって驚いてしまう。
「猿」:猿をはじめ、院長がいろいろな動物を飼っている修道院。ある貴族の若者が古城に暮らす令嬢に結婚を申し込むが、彼女は非婚主義を貫く。この結婚話をぜひとも成功させようと修道院長は企画する。このなりゆきは面白いが猿は全く出てこない。と思ったら最後に意外なカタチで猿登場!
「ノルデナイの大洪水」:国中の人の尊敬を集める枢機卿は、洪水で被災したノルデナイの街で支援活動に励み、取り残された人達に混じって救出までの夜を明かす。残された4人が交替に語る過去の人生は波瀾万丈だ。そしてそのまとめ役たる枢機卿にはとんでもない秘密があった。これもビックリ。
ストーリー自体も面白いがそれは大筋であり、この大筋以外の小筋などはなく、心にしみ込む語り口ばかりがある。登場人物も類型的なところがなく、ただならない人間性を描いていて読み捨てにできない。キャラクターといったお手軽なものとは無縁で情景描写も美しい。それでも物語があってオチがあるという不思議な手ざわりの二重構造を持った作風。これもアリ。
「困ってるひと」 大野更紗 著
重度の自己免疫疾患に見舞われて、数々の症状を併発。国内でも非常に珍しい難病の体験者となった著者の悲しくも明るい闘病記。
かのブッダ言うところの人間の4つの苦しみ、生・病・老・死。これらはみな自分の意志とは無関係にやってくるモノなのである。こればっかしはどうにもならない。そして病気というヤツは、これも自分の予測に反してやってきて、人生行路の諸段階を激変させてしまうのである。実に困ったもんだ。
その病気との闘いがあまりに明るいタッチで書かれており、わくわくと楽しい気分で読んでしまう。病いそのものはもとより、医者や福祉制度との格闘も様々だ。しかしその実非常に過酷な話であって、病院生活の後半、だんだんと自身の孤独を知り、恋する人を想うあたりは、どうしても本をなんどか中断しなければ読めなかった。それだけ辛く重い中身なのであるが、それさえもこんな明るい描写に変えてしまうところに、著者の資質とはいえ絶望を乗り越えた人の強さを感じた。
人間明るく笑って過ごしたほうが免疫力が上がって病気にならないもんだが、自己免疫疾患の場合、免疫がアップすると病気が悪化するならば、この矛盾をどうしたもんだろう。
「失われた地平線」 ジェイムズ・ヒルトン 作
冒険小説の古典ともいうべき作品らしい。インドから小型機をハイジャックされたヨーロッパ人4人がたどり着いたのは、チベットの更に奥深く崑崙山脈のむこうに閉ざされた謎の理想郷、その名もシャングリ・ラ。その僧院には200年以上生きる最長老のラマ僧を筆頭に、歳をとらない人々が暮らしている。彼らは戦争と殺戮によって滅びゆく現代社会をやり過ごし、その後の世の到来を待っているのだ。
ヨーロッパ冒険小説の基本設定がここにあるのではないか。東アジアの秘境に迷い込んで魔術的文明に触れるという着想は、インディージョーンズやスターウォーズなどを見ても同じものを感じる。昔は西洋にとってはオリエントと言っても中東までの話で、それより東は文化があることになっていなかったから、この発想は伝統的なものなのだろう。
さてこの冒険譚が面白いかとうとそうでもない。情景描写にはかなり凝った表現を駆使しているが詩情は感じられない。エンターテイメント全般に言えることだが、登場人物に気持ちが乗らないと、どんな事件が起きようが自分の知ったことかという気がして読むのを止めてしまうのだが、この作品に関してそこのところはギリギリだった。
読書
「単純な脳、複雑な私」 池谷裕二 著
以前は素人向けの脳科学読み物をいくつか読んで喜んでいた。この著者のヒット作である「進化しすぎた脳」も楽しく読んだ。その続編ともいうべき読み物で、前作と同じく中高校生への解りやすい講義録といった内容。これなら自分でもついていけるかも?
その前作でも驚いたのだが、なんといっても我々が意識するより先に脳が行動の準備をしているという点が興味深い。例えば手を動かそうと意識する0.5~1秒前に、脳の運動前野ではその準備が始まっている。われわれが意識するのはその後。しかも手が動いたという感覚が脳に生まれたその後で、動けという命令が出される。では自分たちの自由意志っていったいなんなんだ?という疑問が生じるのも当然のことで、この本も後半、この問題に踏み込んでからが面白い。どうやら脳は生存のために未来を先取りしているようで、我々が意識している時間の感覚は、無意識の世界ではちょっと違うようだ。そして自由意志とは結局脳の準備したことを行わない、否定というかたちにあるという結論も驚き。
また脳が揺らぎ(ノイズ)を持っていることによって、環境にフレキシブルに対応できるしくみも、人生がノイジーで揺らいでいる自分のような者にとってはなぐさめとなるオハナシだった(笑)。生命の複雑な行動も、案外簡単な法則がもたらしている結果であるのも、むかし巷間に話題となった複雑系の復習だ。ここでは創発というしくみが勉強できるぞ。と、まあ素人が思いつく感想なんてこんなもんで、実際はよく分かっていないのであります。
※ここで紹介されている不思議な実験が、ブルーバックスのサイトで動画で確認できて愉快愉快。http://bookclub.kodansha.co.jp/books/bluebacks/infopage/brain.html
「日本SF短編50 vol.5 1993ー2002」
日本SF作家クラブ 編
10人収録されているが、北野さんのものを数作読んだことがあるだけ。これで自分も現代SF経験が積めるぞ。
大槻ケンヂ「くるぐる使い」は悪い意味で文章がトッ散らかっている。宮部みゆき「朽ちてゆくまで」はさすがにベストセラー作家だけあって、さらさらと読みやすい文章で、文体に統一感があるのが大槻ケンヂの流れの悪い文体の後に読むとよく分かる。とは言ってもストーリーが解るというだけの文章で、鑑賞すべきところはない。いかんせん冗長過ぎて、日常生活の描写などいらないから半分のボリュームにしてほしい。
上記2作や篠田節子「操作手」にも介護ロボットが出てくるし、たしかにSFなのだろうが、自分としてはどうも違う。菅浩江「永遠の森」は博物館惑星でのバイオ・クロックなる最先端科学を駆使した話で、こういうのがSFだという先入観を自分は持っている。だがここに登場する学芸員スタッフを海外ドラマやアニメ化すれば、スカした声優達が繰り広げるお決まりの人物造型しか思い浮かばない。藤崎慎吾「星に願いを ピノキオ2076」もバイオコンピューターに寄生して生き延びようとする人工知性のはなしで、SFエンターテイメントの王道をいくようなおもしろさだった。
以上の作品より群を抜いて以下3作が文章を楽しむ快楽があった。ネタがおもしろいと言うのとは別に、文章がおもしろいことが必須だ。
牧野修「螺旋文書」:センテンスの短い文章がリズム感よく打ち出されてきて、同性愛の二人の関係がどの順番で繰り広げられているのか、目眩のするような不思議さ。緊張感と妖艶な雰囲気が心地よい。個人的にはここまででよく、宇宙から攻撃してくるテキスト群の設定は別の話にしてくれないか。
田中啓文「嘔吐した宇宙飛行士」:愉快愉快。細かい描写もみんな愉快。それでいて全然下品でない文体。大切な宇宙訓練の前日に大食い競争があるというムチャな展開が新作落語のような面白さ。この作品もサービスし過ぎで、この2日間だけで終わって欲しかった。
北野勇作「かめさん」:これが一連のカメ小説の嚆矢なのかな?この文庫本の中で、この作品のみが単にストーリーを追っていくだけではない文章表現になっていて、進行を気にせず世界を味わうことができる。すごくのんびりする。そしていつもどおり少し寂しい。
読書
「ビリー・バッド」 メルヴィル 作
商船から戦艦に徴用された青年ビリーは、少年の心を持った純粋無垢な愛されるハンサムボーイ。それ故に邪心ある者の嫉妬を買い、計略によって叛乱のぬれぎぬを着せられ、あげくの果てに殺人事件を犯してしまう。このような純真な青年が実際いるかどうかは別にして、悪意ある者の存在や、狭い社会での制裁のあり方など、人間社会に永遠についてまわる問題。さすがメルヴィル、社会派の筆が冴える。
実際メルヴィルが船に乗って外洋に出ていたのは25歳までだったそうで、その後「白鯨」その他数冊出版するが結局小説では食えず、47~66歳までは税関で検査官として働いているのだから、ふつうのまっとうな人間である。社会と人間が描けるタイプの作家だ。
今回は光文社古典新訳文庫で読んだが、メルヴィルのちょっと古風な味わいをうまく活かした訳文になっているそうでなかなか良かった。メルヴィルの文章はけっして面白みのあるものではなく、どちらかというと堅苦しいが、そこが良い。訳文しか知らないで言うのもなんだが、硬派な文章を読む快感がある。もちろん文章の美しさもある。またストーリーの本筋を逸脱して、船舶や船内労働に関する蘊蓄を傾ける所は「白鯨」に同じ。これも持ち味。
翻訳小説は旧訳にふだん馴染んでいて、新訳もよいが現代口調が過ぎると台無しにされた感じがする。
ようやく我々も「グランフロント大阪」に行ってきたぜ。けっきょくファッショナブルなものは何も買わなかった。自分は最新のビルや大型施設などがけっこう好きなのだが、このようなモダーンでインテリジェントなシティは、残念ながら私の学習した水木・つげ・辰巳ラインには描写方法がなく、もし今後エスタブリッシュな世界を設定したとすれば、ツルツルピカピカの質感を古くさい画法でどう描けばよいのか、おおいに苦闘するであろう(笑)。
ナレッジキャピタルという知的エンターテイメント空間なのだ。好きにしろ。
梅田スカイビルはまだ昇ったことない。
植物化計画中のマルビル。ここの地下にあるタワーレコードによく行く。
読書
「東京震災記」 田山花袋 著
明治期自然主義小説の代表選手、田山花袋による関東大震災ルポルタージュ。
ストーリー仕立てではないため盛り上がりというものはないが、都内各所の壊滅的な状況や、残された人々の戸惑う様子がくりかえしくりかえし描きだされる。言うまでもなくこの震災の悲惨なところは大規模火災にあって、いたるところ周り全体が火炎であり、熱風と煙の中で逃げ場は川にしかなく、結局そこでも多くの人が亡くなっているその様子が語られている。
また花袋は、東京のそこかしこにそれまでかろうじて残っていた愛すべき古き江戸の風情が、とうとうこの震災で灰燼に帰してしまったことを大いに嘆いている。しかし今後ほんとうの意味で東京が大都会へと生まれ変わるきっかけでもあることを期待してもいる。なにせ一面焼け野原でなにも残っていないのだから。
それにしてもさすがに花袋の文章が美しく、こんな文学的な表現で語られると、廃墟と化した東京でも実に魅力的に思えてしまう。震災のルポ自体より、自然や情景の描写に心うたれた。