漫画家まどの一哉ブログ
読書
「日本人と日本兵」 一ノ瀬俊也 著
サブタイトルに「米軍報告書は語る」とあるように、太平洋戦争下にアメリカで発行された兵士向けの情報誌から、日本軍および日本兵がどう見られていたかを探る、たいへん珍しい研究である。前提として当時の日本軍は万歳突撃にみられるようにファナティックであり、軍隊としての合理性を欠いていたとされていることがあって、著者はけしてそうではないことをこの米軍報告書から解き明かしてゆく。この日本軍イコール狂信的という断定が、そんなに一般的であるとも自分は思わないが、やはり基調としてそう見られているらしい。
しかし当然近代兵器を駆使して戦っているのであり、陣地を築いて攻防を繰り広げているのだから、狂信的なだけで済むわけがないのだ。そうやって戦争が続いて行くなかで、太平洋戦争の前半から後半にかけて日本軍の作戦もアメリカの物量に対して徐々に変化していくようすが分かる。その基本は洞窟作戦である。最大の難敵は米軍の戦車であり、最悪爆弾を抱えて地中で待ち伏せなど、最終的には狂った作戦もとらざるを得なかったようだ。もちろんそれは軍幹部の兵士の命に対する評価があまりに軽いことによるけれども…。
死ぬまで戦えと言われていても、実際にはやすやすと捕虜になって、あらいざらい喋ってしまう者も多くいたようで、これも国民性だとすると面白い。
「つげ義春1968」 高野慎三 著
「ねじ式」を中心に当時「ガロ」編集者であった高野さんとつげさんの交流を綴る。ある程度は知っていることながら、自分はまだ子供だった1968年。つげさんや忠男さん、滝田ゆうや石子順造らの連日のマンガに対する真摯な集まりを、ほほえましく思うことはできなかった。なにか非常に悲痛な感じがして読書はしばしば中断した。たぶんそれはこの時代に、このメンバーだったから生まれた繰り返しのきかない1回きりの出来事だったからではないか。戦後という状況を常に基本にされる高野さんはだが、もはや戦後ではなく、闘争の季節も終わろうとするころ、当時の「漫画主義」同人の雰囲気は読んでもわからない。自分など後輩ながらわりと近いポジションにいるとはいえ、ちょっと近寄りがたい世界な気がする。この感想は自分でも謎だ。
本書ではつげさんが「ねじ式」発表に至るまでのつげさんの構想と、発表後の世間の騒ぎ方に対する疑義がくりかえし語られている。高野さんの言うように「ねじ式」そのものが作品として完成度に甘さのあるものかどうかは自分にはわからないが、この作品に他分野のインテリが好き勝手な解釈をつけて盛り上がっていることへの不愉快は、まさに同意するところ。それはそもそも大好評だった旅シリーズが、読者にわかりやすいがために、マンガ表現にいかなる革新が起きているのか理解できない人達の格好の遊び場とされたのではなかったか?
その事態はマンガ評論という分野で今でもまったく変わっていない。安部慎一や鈴木翁二、菅野修などつげ義春以降の作品群が到達した表現より、相変わらず与し易い簡単な表現ばかりを喜んでいながら、つげ義春だけは神様扱いというのはどう見ても怠慢ではないか。とは言え私はそもそも漫画評論という分野は専門外なのだ。はっはっはっは。
読書
「目まいのする散歩」 武田泰淳 作
著者晩年の作品。病を患う身ゆえに奥さんと二人でする散歩の日々を綴る8篇の小品から成るエッセイ。野間文芸賞の名作ということだが、これをしも小説と呼ぶことは自分には抵抗がある。エッセイと言えばよいではないか。評価する側が日常から飛躍する力がないのではないか。と、ひとこと言いたくなるが、中身はとってもおもしろい。とは言ってもこれは奥さんの武田百合子の行動が、この作品のおもしろさの7割くらいを締めている気がする。
当時二人は東京赤坂に住んでいて、百合子の運転する車(ブルーバード)でわざわざ明治神宮や代々木公園まで出かけて散歩するのである。都心の暮らしは便利なものだ。それでも同じ現代社会とは言え、今この時代の作品を読むと、デジタル革命以前の暮らしがなんだかのんびりする。代々木公園の売店で百合子が買うアーモンドポッキーを「チョコレートを塗ったごく細い棒状のメリケン粉焼き」と表現しているのがおかしい。
「笑い男の散歩」:「うすらバカ」「うすらトンカチ」などという悪口は、悪口ではなくて、わけへだてなく、われわれ人類の上に与えられた神様の批評のように思われてくる、というのが名言だ。
「鬼姫の散歩」:この鬼姫とはテレビアニメ「サスケ」に登場する少女忍者だが、泰淳夫婦が「サスケ」を見て楽しんでいたことは意外で愉快。
作品には若いときの散歩や、ロシアでの散歩も登場します。
「椎の若葉に光あれ」葛西善蔵の生涯
鎌田慧 著
破滅的私小説の代表選手葛西善蔵。
この著者のルポルタージュはさほど好みでもなかったのだが、この評伝はやわらかな手ざわりでよかった。
エゴイズムも才能のうち。葛西は自分が善かれと思っていることでも他人はそうは思わないというところに、まるで気がつかない自己中心的な人物で、しかもそれが裏表のない純真さで現されるのだから周りが扱いに困るのもムリはない。迷惑だが憎めない奴。この評伝一冊で葛西の一生がよく分かるが、葛西について書かれたものは他にもいろいろとあるようで、まさに没後も愛される葛西善蔵なのだ。ここには牧野信一や嘉村礒多など自分の好きな作家も多く登場しておもしろく読めた。自分はいわゆる私小説は大好きだが、それは作者の苦闘に共感して涙しているわけではなく、なんちゅうおもろいやっちゃ!という興味本位な感慨であっていささか邪道かもしれない。
それにしても文中多数引用される葛西の文章は美しく、ユーモアもあり、まことに心地よい。この技術あってこそ成立している困苦の作品世界。もちろん実際に葛西が経験したことを題材に書いているのだが、実は虚構がいっぱい混じっており、それはいかにも悲惨な私小説を仕上げるための創意工夫であって、信じ込んでいる読者からすれば一杯食わされているのである。
作家の倉橋由美子は、小説はナマの素材に手を加えずそのまま出されたものよりも、調理師の技巧が加わったものこそ読みたいと言っていて、自分もそのとおりだと思っていたのだが、この葛西の技術を駆使したでっちあげられた私小説は、その意味ではどういう扱いになるのか迷ってしまう。
「老いるということ」 黒井千次 著
古今東西の文学に描かれた「老い」をとりあげて考えたエッセイ集。ラジオ番組で毎回放送された内容に加筆したもの。
はじめに出てくる古代ローマの哲人キケローの「老いについて」は自分も読んでみたが、ここで説かれる老年の落ち着いて満ち足りた境地はあたりまえ過ぎておもしろくなかった。失われた若さに応じて欲を捨て、諦念に至るのを良しとされても、これでは大味すぎるハナシで、われわれ凡俗の身はもう少し具体的な様々の惑いがあるのが実際だ。
「ドライビング・ミス・デイジー」や「八月の鯨」なども自分は未鑑賞の作品だが、人生の紆余曲折を乗り越えた後の穏やかで幸福な老年だ。ある程度の生活費に余裕があって認知症にならない状態であれば、到達は可能かもしれない。
いちばん興味を持ったのが、耕治人の晩年の3部作「天井から降る哀しい音」「そうかもしれない」「どんなご縁で」で、長年作者を支えてくれた老妻の認知症が進んでいく暮らしを描いたもの。有名な作品らしいが自分は知らなかった。
芥川や太宰は若くして老いの物語を書いたが、彼らにとって老年とは確定した人生の最終結果であり到達点であった。また「楢山節考」に登場する老女おりんも、老年の最終形態を既に決定していて、山に捨てられることを望む。比べて耕治人が描いた現在の老年は、終わりの見えない現在進行形というかたちをとっており、この長く続く老いの生き様がやはりもっとも実感として納得できる。以上内容のまま。
「人間不平等起原論」 ルソー 著
さあ今から18世紀の社会思想史を研究するぞというわけでもないし、この世界の名著にコメントできる能力もないわけだが、ルソーやヴォルテールなどこの時代の尖った人達の雰囲気を楽しみたい気持ちがあって、昔買った本を読んでみた次第。
やはりその頃未開の民族が続々と発見され報告されていたのか、そして彼らの生活が昔から変わることなく、不平等が膨らまないままに幸福に営まれていること。この事実がルソーをして、ヨーロッパの現代文明を必然的な進化と考えさせなかった。これは戦争中水木しげるが体験した南の島での現地人との楽園生活とも通じると思う。平和で競争がなく平等で変わらない村の暮らし。
ルソー曰く鉄と小麦に恵まれていたヨーロッパにおいて、他に先んじて文明が発達するのはやむを得なかったとしても、はたしてこの進歩は人間を幸福にしているのか?これは水木さんも再三マンガに描いているテーマだ。
その結論はさておくとしても、ここに敵対するはライプニッツに代表されるキリスト教的オプティミズムであり、我々のどんな社会も結局は神が望んだことであり、結果的には全てが善であるのだ云々。だいたいルソーは被害妄想の人でペシミスティックなおもしろさがあるから、これらの意見とは相容れないでしょう。とは言ってもライプニッツだって愉快な奴かもしれないし、どのみち自分は研究なんて出来る性格ではないから、このあたりはせいぜい道楽気分で楽しみたいものだ。
読書
「脳内麻薬」 中野信子 著
サブタイトルは「人間を支配する快楽物質ドーパミンの正体」。一般的にも有名になったドーパミンだが、生温く考えていてはいけないスゴイやつのようだ。人生に喜びを与え目的に向かって突き動かすとともに、逃れられない依存・中毒をも引き起こす。われわれはどうやらこの報酬系の脳内物質にあやつられて生きているらしい。動物にとってドーパミンが脳内に放出されて感じる快感はなにものにも勝るようで、実験ではマウスは食欲よりも性欲よりも、ドーパミンのご褒美を選んだのだから。
以前仕事で薬物対策のマンガを描いたとき、覚醒剤は脳を変えてしまうので自分の力ではどうにもならないと資料から読んだのだが、なるほど性欲や食欲にも打ち勝つほどの快楽ならば、自身ではどうにもできないわけだ。
ところで昔、「快楽物質エンドルフィン」という本があったが、エンドルフィンも鎮痛作用のある脳内麻薬様物質オピオイドの一種で、ランナーズハイの要因であるらしい。そうだったのか。
本書では薬物ばかりでなく依存症全般に付いてひとつづつ解説してあるが、ドーパミンは他人から承認されることなどの社会的報酬に対しても放出されるらしいから、人生は依存の罠でいっぱいだよ。
「日本人のための世界史入門」 小谷野敦 著
通史としての世界史をあっという間にギリシャから現代まで駆け抜ける入門書。地中海から中国、新大陸までをまんべんなく振り返ると、えてしてメリハリのない教科書的なものになりがちだが、ふんだんに雑学を雑えて退屈しない仕掛けになっている。
素人にとって歴史の楽しみは、やはりドラマを観るように英雄の足跡を追いかけるところから始まる。ところが学問として歴史をやるとなるとそうではなく、キリスト教史や労働運動史・民衆史など非常に細かい話になってしまう。もちろん生産力や生産手段の発達など下部構造なんたらかんたらの話などもあるだろうが、それを理解することだけが歴史を深く理解したというのでは、人間の多様な営みを見失ってしまうかもしれない。
つまり歴史に通底する深い意味が必ずあるかというと、案外そんなことはなくて、歴史とは様々な偶然の連なりであるらしい。たとえば皇帝と王の違いも、はっきりとしたものがあるわけではなくあいまいである。ルネッサンスとはなにかと言われると、おおざっぱに人間主義復活と言えるというだけのことだ。ムリに意味付けすることはないのだ。歴史とはたまたまそうなったというだけのことで、たまたまその時の支配者の性格のせいで、こんな事件が起きたと考えても間違いではない。ブルジョアジーの興隆や労働者階級の発達が、生活や文化に変化をもたらしたにしても、具体的にはそれと矛盾することなく人間の雑多なその場その場のふるまいが、多彩な歴史を繋げてきたのだはないか。
その意味で素人の歴史好きもべつに間違いではないのだ。
「宇宙はなぜこのような宇宙なのか」人間原理と宇宙論
青木薫 著
たまには素人向けの科学読み物を読んでスッキリするのが自分の趣味。どんな分野でもそうだが、専門書は歯が立たないのでこれくらいがよろし。副題にある人間原理というのは、宇宙が人間の存在を目的として創られたと考える宗教的な立場で、現在の一般科学からは最も嫌われる思考法。この人間原理が目的論とは違った意味で近ごろは見直されているというので、興味深く読んだ。
「宇宙はなぜこのような宇宙なのか」という問いかけは、早い話あれこれの物理定数は、なぜそのような数値なのかという問いとイコールであるらしい。そもそもその数値にいろいろなコインシデンス(偶然の一致)があって不思議な気がするのが、この疑問のスタートだったのだ。この問題を人間原理で考えると、宇宙は人間に認識されるために出来ている。あるいは認識する目的を持って認識できる存在としての人間を作り出した。と考えてしまう。なぜ宇宙は人間が生まれるのにちょうど良い環境を作り出しているのか。
ところがこれは観測選択効果とよばれるものの見方で、観測者である人間に都合の良い立場からの発想にすぎない。宇宙がたったひとつであるならば、そう考えるのもムリからぬ話だ。自分はかつて多宇宙に関する読み物をおもしろく読んで、うすうす気付いていたのだが、やはり宇宙は我々が属する宇宙以外にも無数にあるらしい。それならば、我々が認識する主体として存在している、あるいはあれこれの物理定数を持っているのも、たまたまなだけであって、そうではない宇宙もたくさんあるのだ。したがって観測選択効果に惑わされることなく、我々が特別な存在ではないこと。「宇宙はなぜこのような宇宙なのか」も、たまたまそうであるというだけのことだと解るのである。むにゃむにゃ。
読書
「道草」 夏目漱石 作
作者の自伝的小説。幼い頃養父であったが今はすっかり縁が切れている男がふと訪ねてくる。親類のあいだでもかかわらないほうがよいとされる強欲な人物なのだが、主人公は断りきれずに家にあげてしまう。案の定金の無心なのだ。これも主人公ははっきりと断りきれないまま数円の現金を渡すことになる。この関係がずるずると続く。そんな夫の煮え切らない態度を妻が快く思わないのは仕方がない。夫婦はつねに相手のはっきりしない本音をさぐりながら不満をつのらせていて、理解し合うということがない。やがて妻の父親や、かつての養母までも彼の懐をあてにしてやってくるようになる。
書かれていることはこれだけで、人生によくあることの内でもかなり憂鬱な出来事だ。内心を赤裸々に描いた自然主義文学の名作ではあるのだろうが、よくこんな鬱陶しいことをコツコツと書いたなと思う。とにかく他人にとってとても面白いと思える題材ではない。生活の実際的なことにとんと意識の働かない文学者の日々の悩みを描いたのだ。ただこれを無闇に芸術家の魂の問題として納得することは自分にはできなかった。
そもそもすべて主人公に度胸がない故に起きてくる問題であって、最初に腹をくくって嫌なやつにははっきり断ればよい。また、妻には何をしてほしいか、待っているのではなく常に気持ちをオープンに自分から接していれば、夫婦間ももうすこし快活なものになるだろう。ひとえに主人公に覚悟というものがなく、問題に正面から向き合うことから逃げているのがいけない。芸術家だからどうだというほどの問題ではない。私小説の世界には伝統的に破格のダメなやつがいて自分は大好きだが、漱石はちょっと風情が違っていて、ダメ人間というわけではないが、こんな鬱陶しいことを偏執的に細かく書いてしまえるほどにめんどくさい神経の持ち主なのだ。