漫画家まどの一哉ブログ
読書
「戦う操縦士」サン=テグジュペリ 作
(光文社古典新訳文庫)
ドイツ軍に占領されつつある北フランス。軍の偵察機を操り決死の低空飛行を敢行する著者。意味のない作戦を完遂した彼は、身を捧げて人々とともに生きる喜びを発見する。
フランス軍は既に機能不全でこの危険な偵察飛行になんの意味があるのか。不毛な作戦と戦争遂行のために自ら破壊される村や自然。糧もなく村を追われて逃げまどう人々が描かれ、主人公が嘆息するように戦争の馬鹿馬鹿しさ虚しさが伝わってくる。これはまぎれもない真実だろう。
しかし後半過酷な作戦をなんとか成功させて帰路に着くと語り手(著者)の思いは明らかに変わり、自分がこの部隊・この仲間・国民・国家とともにあること。その一員として身を捧げつくすことに人間存在の意味を見いだす。これも確かに真実であって、人は社会的存在であり他者とともに生きてこそ実存を得られると思う。
この前半と後半の変わりようはけして背反することではなく、共同体のために努力することも確かに生き甲斐だ。著者は戦争の最前線でからくも生き延びからこそ、この境地を得られたのだろう。
しかし侵略者から国を守ることは正義であるにせよ、大きな目で見れば戦争自体は圧倒的に虚しく不毛な行為で、我々は国家権力の判断しだいで翻弄される存在であり、支配と被支配の関係が無化されることもありえない。
著者の実体験の大きな感動がこの冷たい事実を覆い隠しているのだと思う。
実体験に離れず描かれた方法で、文章自体は平易でわかりやすいが、表現の技巧を楽しむところは少なく自分としては物足りなかった。とくに後半の人間のあり方に関する熱を帯びた著述は、もはや小説とは別のものになっている。
読書
「死者の百科事典」ダニロ・キシュ 作
(創元ライブラリ)
旧ユーゴスラビアの作家。不思議な出来事の中に人間の愚かさをテイストして、格調高く仕上がった短編の数々。
手を変え品を変え、変幻自在な語り口で描かれた幻想譚だが、どの作品も登場人物の視点に入り込むことからは一歩退いた、基本的に冷静な客観的な叙述という感触がある。過去文献を紐解くような、なにかしら研究書のような味わいは、違うかもしれないがボルヘスのような印象がある。
表題作「死者の百科事典」は、無名の人生を生きた市井の人々の詳細な伝記集であるし、「師匠と弟子の話」も詩人で哲学者もある師匠の聖書解釈の業績を惨憺たる手縞をもって追いかける自称弟子の話。中編「王と愚者の書」は密かに進められる反キリストの運動を追った書が、そもそも誰の著作を始まりとし、いかにして長い年月を経て人々に受け入れられたかを明らかにする。
この作品など、その文献や人物をしっかり把握しながら読んでいくと、かなり面白い出来だと思うが、残念ながらいささか根が享楽的な自分には上滑りな読み方しかできなかった。
そんなわけで書をめぐる冒険集のような味わいがあり、他の短編もみんな面白いのだが、反面図書館で歌って踊ったらいけないような気の抜けなさがある。
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「アンチクリストの誕生」レオ・ペルッツ 作
(ちくま文庫)
自分の息子がアンチクリストだと信じ込んだらどうするのか。幻想味溢れる豊かな着想とストーリー展開。手練れのエンターテナー、ペルッツの短編集。
「アンチクリストの誕生」:ここに登場する悪党3人組の設定の面白さ!細身の剣を持ち貴族のような出で立ちだが、頰に膏薬を貼った赤ひげの粗野な男。相方の司祭のような格好で始終うすら笑いでちょこまか動く落ち着かない小男。そして二人のボスは黒一色をまとった長身蒼白の口をきかないサーベルの達人。まるで劇画から抜け出たようなエンタメの王道をいくキャラクターではないか。
主人公の靴直し屋とその女房の過去や、アンチクリストとして生まれた赤ん坊の運命など、気が気でない展開に目が離せない。ページをめくるのが怖かった。
この表題作以外の短編も、月に呪われていると妄想する男爵「月は笑う」、降霊術で生きている人間を呼び出したらどうなるか「ボタンを押すだけで」、捕虜として療養所で暮らす何年もの間、たった1日の新聞のみを与えられたら…「一九一六年十月十二日火曜日」など、奇想ばかりでみな面白く、しかも文章は格調高く読んでいてこころ豊か。おお、これぞ不朽のエンターテイメント。
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「デミアン」ヘルマン・ヘッセ 作
(新潮文庫)
ストリーウス少年を後悔と苦悩から救い人生の導き手となる友人デミアン。
やがて青春のところどころに現れるデミアンが体現する理想の生き方とはなにか。
物語の大半は精神的な考察で埋められていて、主人公ストリーウスのクリスチャンとして堕落したり立ち直ったりが描かれる。空想上の理想の女性ベアトリーチェを思うことによる落ち着きや、神的なものと悪魔的なものを結合する「アプラクサス」なる神を見つけたりする。
結局最終的に得る結論が、「自分以外のものに振り回されずに、自分自身に忠実に自分が行くべき道を行き、自分がなすべきことをやれ。」ということだが、それではあまりにあたりまえな気がする。それだけ自分以外のものを理由に生きていることが多いということだろうか。
私自身は自己流で生きるしか方法はなく、他を省みる余裕もないので、この辺りは今ひとつ胸にストンと落ちるものではない。茫漠とした印象だ。
この結論を導くデミアンの母エヴァ夫人の家に集まっている連中も、修行者や占星術師や菜食主義者や道を探求する人々ばかりで、言い方は悪いがカルトのような、道に迷った未熟な人間の巣窟ではないか(偏見)。これではシンクレールに「話していることが古本くさい」と言い放たれた宗教家志望の友人ピストーリウスとどう違うのか。多角的に文献を渉猟しているピストーリウスのほうがまだ好感が持てる。カインのしるしを持つものという条件はイメージ以外になにをさしているのか、読み込めなかった。
このエヴァ夫人とデミアン、シンクレールのラストあたりのやりとりは既に神秘的な領域に入っていて、彼らの生き方のバックボーンが信用できない。また戦争は自然現象ではなく人間の愚行だということに至っていない。
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「ロボットと人間」人とは何か
石黒 浩 著
(岩波新書)
人間そっくりのアンドロイド開発の最先端をいく著者が、ロボットと人間の様々な交流・実験を通じて、人とは何かの輪郭に迫る。
会話中の細やかな表情の変化や手の動きまで表現できるアンドロイド。しかも自立して判断して会話に応えており、人間と相対しているのとほとんど違和感がない。面白いのは会話の成立・継続というものをかなり幅広く余裕を持って捉えていて、必ずしも一つのテーマをお互いの応答で掘り下げていることに限定しない。軽く相槌を打って形式的にでも会話が進行すればよく、実際質問の意味をわかっていなくても良しと見なす。いわれてみれば普段の人間の会話もそんなものかもしれない。
個人的には人間そっくりのアンドロイドでなくても、玩具的なかわいらしいマスコットロボットでも別にいいと思うのだが、アンドロイドであることによって、まさに人の成り立つ条件がわかってくる。
人は遠隔操作でロボットを操っていても、あたかも自分の体を動かしている感覚になってしまうようで、技術の延長・拡大により見えない場所、行けないところも自在に体験できる。しかも直接脳波でそれを実行できるとなると人間の体験に革命が起きる。
あらかじめ決められた動作を行っているだけでも、人はロボットに心を感じる。また、ロボットと話しているときのほうが心置きなく話しやすいなど、納得できる話である。
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「詩とは何か」吉増剛造 著
(講談社現代新書)
過去の鍵となる詩人の作品から詩の姿を見つけるとともに、著者自身の詩作をふりかえって、詩の生れ出る瞬間に肉薄する、迫真の口述筆記。
詩魂もなく著者の作品にも不案内な私だが、めずらしい読書体験を得た。
前半では詩の「様々な姿について」、ディラン・トマスやエミリー・ディキンソン、パウル・ツェラン、吉本隆明、石牟礼道子、啄木、透谷など。知らなかった作家も含めて魅力的に紹介され楽しい。
ところが後半「詩の持つ力とは何か」になると、著者独自の詩作過程、いかにして詩が立ち上がってくるかが語られ、それが音でもあり画像でもあり、はっきりとした形をとる以前のイメージそのものが明らかにされ驚いてしまう。
詩人はみんなそうではないだろうが、墨筆や鏨で紙に物理的痕跡を作って原稿用紙とするところから始まり、極めて微妙ななにもないところから芽生える原初の感覚を見つける。その類まれな創作術が理解できるかといえばそうではないが、なんとなくわかる。いや、やっぱりわからない。
これは多分に口述筆記だからこそ語り得た世界で、整理しすぎない文章だからこその著述だ。自分には歯が立たない。
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「離れがたき二人」
シモーヌ・ド・ボーヴォワール 作
(早川書房)
女性に対してのしかかる伝統的カトリックブルジョア階級の桎梏。唯一無二の友人と生き抜いた若き日の実体験をもとに書かれた未発表作。
友人アンドレ(女性)に対する母親の縛りがあまりに強く、全く自由がない生活に呆然とする。女の人生というものが初めから設計されていて、母から娘へと頑なに生活の些事から結婚に至るまで踏襲されなければならない。
これは違うかもしれないが、母親は自分が儘ならない人生を歩んできた以上、娘にもそれを強要し、娘が自由に生きることを許さない。自分より上の人生を歩むのを引きずり降ろそうとする。これは嫉妬がその理由でしばしばあることと思う。
さてアンドレが恋い焦がれる男性パスカルも、自分のほうから老いた父親の願いを忖度して、婚約を希望するアンドレの思いを伝えようともしない。どちらも自分の人生は親の意思最優先である。これが伝統的な上流カトリック家庭の慣わしなのか。
それにしても何もかもが人格神との対立として把握される考え方に、どうしても不自然なものを感じてしまう。超越的なものに意思がありすぎる。これがキリスト教だと言われればそうなのだが、事態がいたずらに過激なっているような気がしてならない。
伝統的カトリックブルジョア階級の女性に他する抑圧。没落した家庭からスタートし、無神論者でもあるボーヴォワールであればこそ、この問題に気づくことができた。
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「ヴィルヘルム・テル」
フリードリヒ・シラー 作
(幻戯書房ルリユール叢書)
スイス建国の契機となった14世紀の動乱。弓矢の腕をもって悪代官を打ち倒し、民衆を勝利に導く英雄ウィリアム・テルの物語。
テルは確かに勇気と体力に秀でた英雄だが、あまり考えて動くタイプではなく、民衆の会議に参加してリーダーとなるような男ではない。目の前の困っている人のためには命も惜しまないし悪代官には屈しないが、神聖ローマ帝国皇帝には忠信をささげる案外保守的なところがある。
そのせいか3州が悪代官の圧政に反旗を翻し結束にいたるまでの経緯には全く関わらない。したがって物語が進行していく前半には意外にもほとんど登場しない。
この悪代官があまりにも絵に描いたような悪者で、虐げられた民衆には悪人はおらず、屈折した人物といえば男爵の甥が恋に焦がれて祖国スイスを裏切ろうとするが、逆に恋人に諌められるというくらいで、この恋人の女性も登場するや否や正論を説くが今ひとつどういう性格なのかはっきりしない。
かくのごとくこの作品は劇を見るものにあまりにも分かりやすく記号的に設定されており、人物の葛藤や迷い・懊悩などをリアルに描くことは省かれている。そのぶんストーリー本意で進むので楽しく読めるが、肝心のテルは物語の主軸からちょっとはずれたところで弾けている花火のような微妙な存在である。
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「アダムとイヴの日記」
マーク・トウェイン 作
(河出文庫)
アダムとイヴが出会い、お互いの理解が深まってゆく様子をそれぞれの日記を通して描く。ユーモラスで愛に溢れた小品。
「アダムの日記」最初の人類であるから、自分たちや動物たちや周りの世界がなんのためにあるのか二人とも何も知らない。アダムに至っては自分たちの赤ん坊が何なのかわからないし、イヴが泣いているのもわからない。超鈍感でおおざっぱな人間で、馬鹿なのかと思うほどだが男というものはそんなものかもしれない。もっともこれはユーモア小説。
変わって「イヴの日記」の方はうんと細やかな感情や、世界に対する好奇心、実験的な進取の気性に富んでいて生き生きとしている。自然を愛し動物を友とし、地球に生まれてよかった。最初は観察的に見ていたアダムのことがだんだんと好きになり、やがてお互いなくてはならない存在になっていく。その理由はもっぱら相手が異性だからというものだが、それ以上の深い愛が育っていく。
最終ページ。イヴに先立たれた後のアダムの一言が涙を誘う。
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「詐欺師の楽園」
ヴォルフガング・ヒルデスハイマー 作
(白水Uブックス)
小国の財政を救ったのは、不世出の贋作作家による架空の画家の業績でっちあげだった。やがて有名画家となった青年はこの悪事に巻き込まれ波乱の人生をおくることとなる。
実在しない過去の画家をでっちあげて国家ぐるみで高額を稼ぐという着想がそもそも面白いのだが、汽車を止められて車掌に現金を要求されたり、国境沿いの河原でスパイ容疑で拘束されたりと、仕掛けも展開も凝っていて興をそがない。
この天才贋作作家が絵に対して生来なんの愛も想像欲も抱いていないという根っからの詐欺師で、この人物の会話シーンが最も生き生きとしている。画家となった青年は手記を書いている時点で、既に死んだことにされて画業から離れているので、いたって虚無的な語り口だ。
ストーリーはたっぷりとあり、意外な展開が続出するくせに文章自体は落ち着いていて、ややノリが悪い気がするが、これも作者が詩人の資質を持ちながら詩人の高みから降りようとする文学運動の担い手であったからか(解説粗ら読み)、違うか…。