漫画家まどの一哉ブログ
- 2011.08.08 「ワールド・ハピネス」
- 2011.07.03 「アックス夏祭り」
- 2011.06.30 「アックス81」
- 2011.06.12 文学フリマ
- 2011.05.30 個人的不安問題
- 2011.05.27 ショートムービー上映会と田中六大展
- 2011.05.09 肉体労働とは何か
- 2011.05.06 つげ忠男に会う。
- 2011.05.01 ヘンリー・ダーガーを見た。
- 2011.04.28 アンドレーエフと承認欲求
自分はとくに固執している音楽があるわけではなく、楽曲がよければ喜んで聴くほうである。たとえばLittle Creatuersなどヴォーカル以外はよい。耳なじみのあるヒット曲連発のサカナクションなど、キャッチィでよい。The Beatniks(高橋幸宏&鈴木慶一)は伝統的でよい。それよりSalyu×salyu(サリュー・バイ・サリュー)は知らなかったがロック魂のない自分にはいちばんよかった。古くはジュディマリでよく聴いていたYUKIをナマで見れたが、いちばんの人気者だった。若い頃聴いていた音楽を今まったく聴かないが、YMOはあいかわらずで楽しい。メロディラインにブラスを使っていて少しモッチャリしておかしかった。自分は軽く踊るふりをして、じつは腰をいたわってユル体操していたのだった。アンコール時にサーチライトが低くたれこめた雲を照らしていた。
シマトラさんや鳥子さんは漫画の1ページという体裁の作品だが、あらためて漫画家だなあと思う次第。私のうちわ絵もストーリーを含んでいるもので、私も含めて話がないと絵が描けないという資質だ。杉山さんの作品を見ると、小さな1枚の中にこれでもかと情報が細かく描き込まれているが、たぶん自分ならその情報量を数コマの時間の中に広げてしまうだろう(質的には杉山作品の情報は時間に置き換えられる種類のものではないけれども…)。
偏見で言うがこれがアックス以外の商業誌漫画家の展示であれば、いつもの人気キャラクターがまるで表紙絵のように1シーンを演じている様子といった作品になる気がする。そのへんが大いに違う「アックス夏祭り」。漫画家の絵を描く才能を発見することができる。17日まで。
http://seirinkogeisha.sblo.jp/
http://www.seirinkogeisha.com/
http://www.billiken-shokai.co.jp/
ベンチウォーマーズ・日本海わくわくコミック・西岡兄妹・漫画雑誌架空・北冬書房・蒼天社・山坂書房・サクラコいずビューティフルと愉快な仲間達・などの皆さんと交流できて楽しかった。漫画家のイタガキノブオさんとお会いすることができた。
このようなミニコミが一堂に会するイベントは、デザインフェスタやコミティア等いろいろあり、歴史のある大会では大金が動き、中には大枚を得る人達もいるようだが、利益のほうはあまり本気で考えなくていいんじゃないか。売れるに越したことはないが、全くのアマチュアとセミプロがいて、後者のほうが売れるわけでもないし、計算できない。しかし参加すると人生の1ページを埋めることができる。埋まった方が埋まらないより意義がある。
ガロ系漫画を描いていても、その経済効果はあってなきようなものなので、やはり生活の支えとしては考えられない。もちろん考えてもいいのだが、そんなことより描きたいものがあるほうが大切だ。などとぼんやり思いながら、新作の登場人物を考えているところです。
もとより妻を信頼し、不安を払拭すべく努力する。それしかないことは分かっている。より自身を分析し、なにかしら堂々としたものを掴みたいものだ。そのためにもこうやって、内情を公開して気持ちを整理し、出来れば友人のアドバイスを受けよう。捨て身で望まなければ、乗り越えられない。ここが正念場だ。つづく。
よるひる店内や近くの公園で自分たちで手軽に撮っているので、そのテキトーな感じがいいのだと思う。脱力できてラクに観れた。それでもやはり漫画家の作ったものは、いつもの漫画作品と同質の個性を感じた。それは古泉作品のユルっとした日常感や、羽生生作品のストーリー感。そして堀さんのギャグや三本さんの紙芝居そのものである。
ショートムービーというものは編集の妙味があって、編集次第でよくも悪くもなるらしいが、自分にはその編集しどころは分からない。ただあまりプロっぽくガッチリ構成されているより、なにかしらヌケのある放ったらかしな感じや、意外な部分の長さなどがかえって新鮮で退屈しなかった。逆にプロの手が入ったものは、いかにもという感じで編集されていて、さすがだがつまらない気がした。
終了後近くでやってる田中六大作品展を三本さんと見学。雨まじりの阿佐ヶ谷の商店街は、情があって実にイイカンジ。会場の幻我堂はほんの小さなスペースだが、これまたいいカンジ。そして田中六大の絵画作品はいつもの古今和洋折衷の不思議な世界をお話付きで楽しめる。
日本の企業風土というものは基本的に同じものがある。肉体労働であるとないとにかかわらず、村落共同体の伝統を受け継ぐ、人生全体を捧げるものとして会社がある。みんな仲間だということにされるのはしょうがないとして、オフタイムの遊び方まで決められる。プライドをもたされるが、凡人でなければならない。そしてモノをいってはならない。とくに肉体労働者は言葉を扱う役割ではないというのが、西野さんの話にもあった。
これはつげ忠男作品に通じる話で、つげ忠男作品に多く見られる人物の無言のセリフ「……………」。肉体労働というものが、いかに語ってもしょうがない種類の行為かがわかる。黙ってやるしかないのだ。まさにアタマで理解してはならないし、アタマを使ってしまっては持続できないものなのだ。もちろん労働環境は日々改善されるべきだろうけど、そもそも労働という名で置き換えられる人生は、言葉が追いつけないどうしょうもないものだ。ということを説明ではなく実感として描くところに、つげ忠男作品の読み応えがあるというもんだ。
※ところで私も学歴はないのですが、輸入アパレル代理店の倉庫で箱を積んだり開けたりしていたのが、唯一の肉体労働?かな。
私が中学時代より最も尊敬する漫画家つげ忠男氏にやっと会えた。
新刊「曼陀羅奇譚」にサインをいただき、拙著「洞窟ゲーム」を受け取ってもらったが、毎号「アックス」で私の作品を読んでくれているとのことで、たいへん嬉しかった。
つげ忠男作品では冴えない中年男(青岸良吉)がよく登場するが、やはり一番リアリティを感じられる。たしかに無頼漢達はかっこいいが、身近には存在しないキャラクターなので、読者が実感するのは難しい。中年男とは人物造形のそもそもが違う。女性ファンから見ても冴えない中年男がいちばん魅力的であるらしい。忠男さんは自分の好きな映画俳優やプロレスラーを反映させているが、そこに自身が若い頃血液銀行時代に実際見知ったアウトロー達が混ざってくるのだろう。ところで忠男さんがいちばん好きなキャラクターは、サブでも銀さんでもなくリュウだそうだ。
最新作「曼陀羅奇譚」を読み返してみても、やはりキャラクター漫画なのだなと思う。忠男さんは大枠を考えたら、あとは描きながらストーリーを進めるらしいが、これは登場人物が勝手に動き出してくれる(喋ってくれる)から可能なのだ。それだけ各人物の造形がはっきりしている。読者にとってはエンターテイメント作品のように分かりやすい設定ながら、じつはそこにもう少し深い人間観が忍んでいるところがミソ。
つげ忠男作品を特徴づける河川敷のヨシ原。背丈より高いヨシ原の中を歩くときなど、まことにシュールな現実離れした感覚があるとのこと。そういえばあのザクザクッと描かれた大胆な一面の草原表現の効果で、つげ忠男作品はどんなリアルなものでも夢の中のような非現実感がある。あの線は抽象である斜線と具象である草原の中間を行くものではないか。我々はその効果に酔いしれるのではないか。
ところで氏は昔の原稿を紛失しているので、単行本未収録の「野の夏」や「道化」などは元原稿がないそうだ。大変残念だが雑誌から版を起こして、どなたか発行してほしいものだ。自分の切り置きも協力できます。
私のまわりの漫画家達にもファンが多いヘンリー・ダーガーを見てきた。この魅力を解説する能力は自分にはない。アールブリュットの発するイノセントな魅力というものは、手持ちの言葉ではとても追いつかないものがある。
個人的な感想では、まず線の弱々しさ、彩色の弱々しさにひかれた。人間社会を生き抜いていくパワーがなく、自分を守るすべをしらない赤ん坊が引いた線のようだ。そして描かれる少女達はみな人形のようであり、あるいは昔の少女漫画のようであり、悲惨で残酷な戦争物語を生き抜いている登場人物にしては夢の世界の住人のように重さがない。その証拠に巨大な花の中でふわふわと蠢いているではないか。
また時には半裸・全裸の少女達が、きわめて過酷な戦争の主人公であるというのは、昨今主流の戦闘系美少女の設定と、心理学的には同じではないのか?ところが裸の少女達にはペニスがついているから、この場合の美少女という位置づけはかなり微妙な、男女差がはっきりしない幼児期の精神性で成立しているのかもしれない。
ところで独り引きこもって「非現実の王国」を築き上げることは、多かれ少なかれ漫画家なら持っている気質だと思う。ヘンリー・ダーガーの作品は絵画ではなく、ストーリーのための線画であり、ところどころフキだしもあって、あきらかに漫画の領分だった。
まだ十四歳の時、僕は、僕自身に、「有名になるか、そうでなければ、生きるにはあたらない。」と宣告したものだ。僕は、「僕以前に成されたすべてのものが、僕自身の成し得るものよりも優れている、とは思われない。」と断定して憚らぬ。これは無数の人間の無差別な列伍に自己を置きたくないと思う者が、めいめい持っている根源的信条であるべきはずだ。すなわち、自己の卓異性にたいする信条は、想像力の源泉として役立つべきであり、また実に役立ち得るのである。
偉大!抜群!世界征服と名声の不朽!この目的に比べれば、永久に名も知られぬ人々の幸福など、すべて何の価値があろう?名を知られること__地上の諸国民に名を知られて愛されること。この夢想、この衝動の快さを何一つ知らぬ人々よ、利己心とでも何とでも勝手にしゃべるがよい。悩んでいる限りすべての抜群な者は、利己的なのだ。抜群な者は、言う、__君たち何らの天職をも帯びぬ人々よ、君たちは、君たちだけでやって行ったらよかろう。君たちは、この地上で、われわれよりもずっと安楽に暮らしているのだから。そして名誉心は言う、__今までの苦悩は徒労だったなんぞということが、あるはずだろうか。苦悩は、おれを偉大にせねばならぬのではないか。
なんて正直なんだ。もちろんさすがに自分の才能に自身があるにせよ、こんなに名声への欲求を露骨に語る人は少ないのではないか。彼の生い立ちに何があったか知らないが、承認欲求がただごとではない。
この承認欲求というやつはボクも多い方だと自分で思う。このあいだ精神神経科の医師にきいたが、ボクのように幼少時から母親の過干渉で、母親の満足する子供を設定されてきた人間は、ほんとうの自分を認めてもらってないという屈折をもっている。それが過度の承認欲求に結びつくのかもしれない。ほめられたいという心理は創作の原動力であることは確かだ。
それにしても偉大なる先輩漫画家と比較して、自分の実力の限界も知っているので、さすがにアンドレーエフのごとき無謀な欲望はおきない。アンドレーエフは若かったにせよ、正しかった。