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漫画家まどの一哉ブログ

   
カテゴリー「日記」の記事一覧
この前読んだ「霊魂だけが知っている」のなかに、こんな話がある。
ある死んだ知人の名前をコンピュータに打ち込んだ時、スペルを間違えるとスペルチェッカーが働いて、正解例が提示されるんだけど、それが「死んだ」「埋められた」「地下室」などなんで、これは死者が霊界から通信したがっているとその人は思った。
それでソフトウエアコンサルタントが調査した結果、過去の検索例とバグが原因と分かったのだが、この調査結果についてイギリス心霊研究会は、こじつけがあると発表。
著者もびっくり、「そっちをこじつけととるのか!」という話だが、それで自分がふだん感じていることに思い至った。

人間はスジの通った、論理的な、整合性のあるハナシは嫌いで、そういったものを打ち破るものが好きだ。
論理を見つけて解放感を得るタイプの人も少数いるが、そんな人は1割くらいで、多くの人は論理的な結論には納得しない。それは感情を抑えてしまうからで、実は求めているのは感情が高ぶることなのだと思う。
心霊現象について言えば、科学的な説明を聞いてもなんとなく腑に落ちないが、スピリチュアリストからカルマを理由にした説明を受けるとすとんと納得する。それは論理にいくつも穴があるからで、この穴が人間を納得させる。穴が大事。穴があるから感情の部分で理解することができる。
というふうに感情で理解したいのが人間という者で、非常にクールな論理的な説明をする人より、ただ熱意だけが見える人間や、「モーゼの指令を今確信した」と自信をもって言い出すような人間のほうが期待されている。昭和の大衆のカリスマ「イノキ・ナガシマ・ナガブチ」などの無茶ぶりが心に火をつける。
人は感情の動物。せいぜい人の気持ちを大切にしよう。

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現在「月刊架空」では連続して安部慎一原作の漫画化が行われている。西野空男と斎藤種魚の作品がそれだ。なるほど内容はべったりとアベシンだ。いつもの私生活と宗教的思索、青年時の父親との葛藤など、原作に忠実に展開されているようだ。

しかし自分は不思議な違和感を感じた。人によっては漫画になっていないという意見もあるが、いやいやアベシンが自分で描いてもこうですよ。この展開になると思うよ。
この違和感はどう考えても、唯一無二のアベシンのネタなのに、唯一無二の西野空男や斎藤種魚の漫画世界で描かれているからだよ。

それで別のことを考えたが、ひょっとしたら漫画というものは、人物やらデフォルメやらセリフやらコマ展開で出来ているのではないのかな?
実は漫画を漫画たらしめているものは技術や方法ではなく、言葉には置き換えられないような、もっと描き手の身体そのもの。汗の匂いや、歩き方、声質、笑い方、肌の色、寝る姿勢のような言わば本人のDNAそのもの。技術や方法である程度までは描けるとしても、読者が感じているのはそこじゃない。読んで面白いのは他人が学習出来ない部分。つまり全ての漫画は自己流でしか描くことが出来ないのだ。

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mixi日記より

たぶん77年か78年ころかな、阿佐ヶ谷の高瀬コーポにアベシンを訪ねたことがある。(「消えた漫画家」の中でチラと触れてあったかな?)前の日に夫婦喧嘩をして、ものを投げたらアパートの玄関ドアにあたって、ガラスにヒビが入り、とっさに喧嘩のことを忘れて弁償のことで頭がいっぱいになった。なんて話を聞いた。「まどのくんの絵は粘りがあっていい」といわれた。
ちょうど氏が「高橋信次の宗教法人GLA」に凝り出したころで、悪霊についてレクチャーを受けたがよくわからなかった。そのGLAのカセットテープを一日中かけていると、「隣近所の人からあそこは宗教に入ってると思われちゃうよ」と笑いながら話していたのがどう考えても変だ。
後日鈴木翁二さんに安部さんは宗教に入りましたよと言うと、「そうなんだよ、なんでもすぐ飽きるから、そのうち抜けると思うんだけどね」とやや心配していた様子だったが、その後てんで抜けなかったのはみなさんもご承知の通りだ。
インタビュー記事を読むと、その宗教がアベシンから長い年月を奪ったことに、ようやく本人も気付いているようだが、どっこいこの前読ませてもらった漫画原作は、モーゼや法然の生まれ変わりがどうだのこうだのと、相変わらずだった。

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電子出版とやらがいよいよやってきました。どうなんでしょうか。

とりあえず大手出版社は、出版社→取次ぎ会社→配信会社→書店→読者という既存の流れを守ろうとしているみたいだ。大手出版社と大手取次ぎと大手書店は一蓮托生の間柄だから、みんなが生き残ろうとして、それぞれマージンを取ることを考えて、最終価格が設定されてしまう。そんなことが可能だろうか?
実際必ず必要なのは配信会社であって、それ以外の紙の本を扱う業種は役目がないんじゃないだろか?
利幅のことを考えると、できるだけ中間業者を入れないで配信するのが一番だもの。

膨大な過去の文化遺産が本で残されているし、1ページずつめくって読むというカタチは消えない。要はそれが紙媒体でなくてほんとうによいか?だが、たぶんすぐ抵抗は無くなると思う。そのうち寝転がって読めるような、軽くて薄くて曲がるiPadが発売になるだろう。そして透過光もだんだん眼にやさしいものが開発されるだろう。

かつて写植版下がMacに移行する頃、知り合いの会社の写植オペレーターは「大丈夫、Macになっても仕事はありますよ」と楽観し、別の版下屋はあわててMac導入にふみきったが、数年後両社とも無くなってしまった。
技術革新によって職人が失職するのを進行形で見た。渋谷HMVが閉店しCDの世界が終わっても、レコード針の会社が生き抜いたように、全滅することはない。しかし規模の縮小は避けられない。
「大丈夫、紙の本は無くならない」とは、みんな言うところだが縮小はまぬがれないかもしれない。「自費出版」を手がける版元と同じように、簡単に自作を電子書籍として配信してくれるサービスも人気な様子。版元から書店まで、紙の本を扱うことに拠って生きている人々が、たくさん職を失う時代がいよいよ来た。

人間が80年生きるとして、こういうイノベーションによる産業構造のパラダイムシフトに何度も出会う世の中だ。などとわざとアホみたいな経済用語を使ってみたが、いろんな仕事が減っちゃって、みんな介護産業に行くしかない。それにしても俺が社会に出た頃は、会社にFAXすらなかったよ!信じられない!

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現在わたしは「月刊架空」で「西遊」という漫画を連作している。この作品はそもそも「架空」が毎月出るということになった時、ぜひ協力したいが「アックス」連作とは別に、毎月短篇を考えるのはしんどい。ここはひとつ連載にしよう。しかもオリジナルな設定から構想するのも大変だから、はじめから決まっているものを借りようと考えた。

それで始めた「西遊」シリーズだが。これが自分でも予想外に面白いものとなってしまった。これはまずい。なにがまずいかというと、こんなに面白いならそもそも「アックス」で連載するべきだった。「これでは手塚編集長に怒られちゃうんじゃないの?」とは斎藤種魚さんの弁だが、自分もそう思っていたのだった。自画自賛。

そこで近い将来「アックス」では現代劇で不思議不思議な長編を描いてみたいと、空想するところだ。あらかじめ構成を考えてしまうと、自分の場合すぐ短編化してしまうので、「西遊」を手本に最初の設定だけ決めておいて、なんとかできないか。
いや、ぜひなんとかしたいところだ。なんとかして、どうにかしたいものだ。たぶんどうにかできたら、なんとかなっているだろう。なんとかさえなれば、いずれどのようにでもできるし、ならないところはならないにせよ、なるところはなるようになっているだろう。

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昨日はセミ書房で「月刊架空」の編集作業に立ち会った。

現在編集部には福岡の安部慎一から漫画の原作原稿が続々と送られてきていて、昨日も新着3通を見せてもらった。いずれも原稿用紙1枚に1作という分量だ。じつは漫画の原作といっても、長年「アックス」に掲載されている「田川ローカル」他の小説作品とまったく変わらなくて、とくに漫画原作の体をなしているわけではない。

しかもこれが旧漢字・変体仮名まじりの崩し字で、そうとうに読みにくい代物。若い世代は知らないだろうが、崩し字には法則があって、アベシンのように習っていないと扱えない。なるほど「アックス」編集部は毎回この達筆と格闘していたのか。

私は書道は無知だが、幸いかつて大学の先生たちに混じって、日本の初期社会主義研究に参加していたことがあり、明治大正期の文献になじみ、肉筆筆記体の読み解きにも少しだけ経験があったせいか、なんとか3作訳することができた。

そのうち1つは例の宗教家生まれ変わり伝説の妄想作品で、とても世に出せない。1つは静かな日常風景。1つが妻との愛を語る作品で、これはよかった。
だが、この原作を漫画化するのは、やはりアベシンの文法がいちばんいいような気がする。アベシンからにじみ出る時間の流れ、人物の挙動。あの唯一無二の漫画世界。それは分かっているのだが、今回架空同人2名が苦闘して成果をあげているのだ。俺もできたら頑張るよ。

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音楽というのは、ただいろんな高さの音が連なっているだけなのに、聴いて悲しかったり、楽しかったりする実に不思議なものだ。これこそ純粋芸術というやつか?たとえば現代のピアノ曲の中には、その一つ一つの音の関係が、純粋に美しいものがある。感情ですらない。
それにくらべて言葉というのは全く具体的なもので、歌の文句はいやでも生々しい人生の局面が反映される。青春もあるし、恋愛もある。
この正反対とも思える音と言葉を、同時に鑑賞するのが自分には至難のわざというのが前回の日記の話で、そういう人も多いようだ。

さて別の話。
青春時代に親しんだ曲を、宝物のように愛し続けて、もうそれ以降のミュージックシーンとやらは、興味が持てないよ。という人も世間には多くて、それはそれで幸せ。ただ新しい曲をいくら聴いても、「やっぱり昔のお気に入りが一番」となってしまうのは、もったいない話だなとも思う。
その点、自分のように砂を噛むよなショボイ青春を送った者は、あまり人生と音楽が絡んでないから自由だ。なんでも聴きます。でもサカナクショ…とか申請カマッテチャ…とかだけじゃ追いつかないけどね。ジョン・ケージのピアノ曲がとっても美しいのは人生を遠く離れるからだという気がします。

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音楽は人並みにいろいろと聴いてきたが、昔から分かっていることがひとつあって、自分は楽曲と同時に歌詞内容を聞き取れない人間だ。これは日本語で歌われている曲の話だが、もちろん音は耳というか、脳に入ってきているのだけど、それはあくまで音階であって、言葉の意味内容を把握できていない。
つまり音と同時に意味を認識することが苦手で、歌声は楽器のひとつとしての役割となってしまう。音楽を聴いている時に、言語脳が働かないらしい。
だからたいていの曲は日本語でなくてかまわない。ていうか、曲のメッセージを聴いて、曲を気に入るということがなくて、あくまで楽曲のおもしろさで選んでいる。もともと自分の人生と音楽を絡み合わせるタイプではないのも、その辺に理由がありそうだ。(この項つづく)

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まもなく参院選が公示されるが、自分の住む街ではつい昨日まで市議選の真っ最中で、今日が投票日だ。その市議選だが、あいも変わらぬ街宣車による名前の連呼で、うるさいことこの上なかった。単なる名前の連呼など、なんの意味があるのかと言われ続けているが、自分が小学生の頃からまったく変わっていない。ということは、この方法が一番効果があって、他にないのだ。

不思議なのはそんな選挙運動のさなかでも、選挙のプロによると候補者が今、当落ラインのどのあたりにいるか、正確に分析できるらしいことだ。民意といわれてもバカにされた話。

しかし皆が皆、候補者の制作内容を聞き、吟味し、あるいは論を闘わせ、闘わせるにあたっては相手の意見を良く聞き、自分でも熟考し、冷静に清き一票を投じるかといえば、そんなことは絶対にない。

したがって大音によって名前を有権者の脳内に刻み込むのが、いちばん有効な選挙活動。また投票日が近づくと「必ず投票にいきましょう」コメントのみが乱発される。これが正しい代議制というものである。

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オーソドックスなブログを始めました。
mixiでは告知、twitterは瞬間的なつぶやき、そしてここでは、できるだけ脳内だだもれにしたい。その脳内であるが、当然我が儘な内容であるはずだ。
自分はむかしから系統だった学習が苦手で、カリキュラムに乗っ取って履修していって、一定の成果に至るといったようなことは、普通免許と水泳教室くらいしか経験がない。いわゆる学校の勉強といったものは退屈の最たるもので、ついぞ勉強しなかったが、大人に成ってからも「ああ若い時ちゃんと勉強しとけば良かったなあ」などと後悔したことも一度もないので、人それぞれと思う。
それだけ興味本位、つまみ食い形式でものごとを見ているので、脳内露出といってもそんな、自分勝手なものになるはずであ〜る。

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