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漫画家まどの一哉ブログ

   
青林工藝舎やセミ書房には旧「ガロ」のバックナンバーが全册揃っているが、自分も好きな作家の単行本に収録されていない作品を「ガロ」等から切りはずして長年持っている。単行本未収録作品はつげ忠男や三橋乙揶にもあり、菅野修のものはかなり多い。最近書棚を整理しているのであらためて確認してみたが、これらの切り置きは自分にとってけっして捨てられない貴重品である。
例えば自分の所有していた「ガロ」と単行本を見比べると
鈴木翁二作品なら以下のとおり。他にもあるかもしれない。

「五点やの狸」1971.6
「詩人の部屋」1972.11
「懸垂」1973.6
「夢を見た人」1974.6
「丘」1974.9
「けいこちゃんの好きなビールについての一考察」1974.10
「秋の負債」1974.11
「軌条の脇道」1974.12
「海のキラキラ」1975.2
「赤いゆびをしたシルウエット」1975.4
「ちきゅうのよかぜ」(少年存在学ノート)1991.10
その他『あした」「ウツクシイユウガタ」等の少年存在学ノート

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織田信長で有名な「敦盛」の「人間50年」とは、じつは寿命のことではないらしいが、それでも人間は50年生きたらかなり違ってくる。

若いうちは未来に見えない時間がいっぱいあって、過去から未来へと向かう時間軸のなかで生きている。典型的なサラリーマンや主婦の人生のコースはあるていど未来へ向かってレールが敷いてあるけれど、そうでなくとも将来はなにか良いことが実を結ぶかもしれない。という希望を持って生きていくことができる。

しかし50歳を過ぎるころになると、自分の能力的限界もとうにわかっているうえに、体力・知力とも衰えを見せ始める。徹夜を連続することはもちろん、集中して勉強して資格試験に挑むなども、なかなか追いつかない。そもそもは野生生物としての限界がきているのだ。
社会的に成功している一部の人を除き、平凡な人間は収入も余裕なく、もちろん返すあてのない借金などできず、家を借り替えようにも保証人もたてられず、とあれば今後なかなか人生を華開かせていくのも難しい。
加えて暗い話で申し訳ないが、病魔に倒れる人もおり、身の回りでもぽつぽつと死んでいく人も増えてくると、未来の時間の少なさにはっとする人も多いはずだ。

今まで時間の矢のなかで見えない未来があるからこそ生きて来れた、その生き方がもはや通用しない年代にさしかかっているのだ。
そこで未来を理由に生きることができないとすれば、考えを変えて、流れる時間のなかではなく、今この瞬間存在しているか、もしくは存在していない(死んでいる)のどっちかだと考えたい。自分が死んでしまう存在であることが、だんだんとリアルに感じられてくる以上、今この瞬間しかよりどころはないんじゃないか。前も後ろも向かずに生きていたい。

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東日本大震災以降しばらく、直接天災自体を恐れているわけではないが不安が増した。
もとより妻は更年期の双極性障害で離れて療養中であるが、その妻との連絡がうまくいかないだけで、おろおろする有様となり、やがて自分の依存性人格障害に思い至ったわけである。
また一人暮らしは多分に自己満足を含むことにも気付いた。どこでなにを買うとか、なにを食うとか、まことに些事だ。

思えば震災前のセミ書房で西野氏や斎藤氏と「架空」の編集を語っていた頃が懐かしい。同人活動特有のあの優雅な貧しさは、他に替えられない楽しさだった。残念ながら被災した斎藤氏の復活はもうしばらく待たなければならない。

そんななかでも「アックス」の掲載は途切れることなく続けて、短編もそこそこたまった。今はお伽噺を題材にした連作を行っているが、これをまとめて一冊とするか、あるいはお伽噺以外でまた作品集を出すか、編集長の手塚さんと合意しているわけでもなく、とりあえず描き続けているのだ。しかも相変わらず一作仕上げるごとに頭の中はカラッポで、毎回使い切った歯みがきのチューブからさらにしぼりだすように考えている。それでも現代物の長編を連載する夢はあきらめていなくて、これこそ漫画の神様が降りてきてくれるのを祈るばかりである。

50代が年齢的に危機的であるのは以前から言っていることだが、まさに増々混沌としてきた。世相を反映して収入はつらいものとなってきた。クライアントが予算を使わないためである。この歳で能力もないのに新たな得意先の開拓は不可能に近い。
さらに遠方で暮らす老親は心も体もいよいよ衰えが進み先が見えない。介護や入院の手配でなんども関西へ往復することとなろう。それを思えば40代までは平和なものだった。妻も健康であり自分も甘えていたと思う。

さてなんと言っても年末に、初の長編漫画「西遊」が発行できたことは他に代え難い喜びでアリマス。西野さんやワイズ出版の岡田さんに感謝したいです。この本は来年もぜひじりじりと売れていってほしい。と、切に願うものでアリマス。

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鳩山さんはパンを描くのがうまいな。旨そうなパンに見える。
逆柱氏の「茶番なカッパ」増ページだけど面白かった。水木キャラが活かされていてイイカンジ。
具井さんの「オオスガさんのこと」日常といったものはドラマのような事件性はないが、ちょっとした出来事はある。それをそのままに描ける人は少ない。この作品はじつに淡々とそんなリアルが描かれていて上手いと思う。
松井雪子「マヨネーズ姫」この少女は可愛らしくて気に入ってしまった。ドルも売っている。
南さんの「ロボとピュー太」で死後の世界に対する新たな見識を得た。

私は「月の輪」を掲載。サラリーマンの金太郎の話です。楽しいよ。
作者近況で「西遊」1月発売と言ってるけど、もう売ってます。

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ついに出ました。
時空を超えた、生と死と愛の長編漫画「西遊」全1巻。
現代日本から、遥かいにしえの中国大陸を駆け巡る悟空一行の運命やいかに!?
解説・あとがき・オマケ漫画もついてるよ。

14日には都内、15日には地方書店にも並ぶと思われます。
タコシェや高岡書店ではサイン入りのものが、少し早い目に並ぶかもしれません。
アマゾンなどネットでは既に買えるようです(アマゾンの画像は赤いオビが正解)。

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●写真そのままのリアルさをかっこいい表現としていると、資料写真全部自前で用意しないと、パクリやパクリや言われるらしい。元の写真からオリジナルな絵にできてないから。
●自分の漫画は検索画像をモニタから肉眼で紙に写すこと多し。その時点で大いに歪んでしまうのは、精神が歪んでいるからであろう。ヒヒヒ。
●手塚治虫「火の鳥」、永島慎二「フーテン」、それに石ノ森に岡田史子。昔日のCOMの青年コミックは資料写真なんか使っていない。私もぜひそうありたい。
●永島慎二は人物から背景まで調和のとれたオリジナルなデフォルメされた画質で出来ていて、実写から遠く離れて完成されている。
●アシスタントが先生そっくりの絵を身につけることによって、他ではツブシがきかなくなるくらいの方が、漫画自体は魅力的だ。
●漫画の中で、あまり「正確な図」というものがない方が面白いよ。パースなんか狂ってるくらいが調度イイかもしれないよ。誰しも脳内は偏ってるもんじゃないのか?と、極端なことを言ってみたりする。
●さすがに「アックス」ですね。とか言われそうだな…。

以上、本日の一連のツイート。
まもなく店頭に並ぶ長編漫画「西遊」だが、ストーリー進行のスピードに合わせておおいに描き飛ばしている。こんな立派な本になるのなら、もちっと丁寧に描けばよかったか?
でもどうせデッサンは歪んでるし、描きたくない細かい箇所はテキトーだし、これが自分の画風なのだ。どうしても自然にこうなるのだ。これでいいのだ。

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幻燈展初日のイベント、山田勇男氏と原マスミ氏による対談「つげ義春とシュールレアリズム」を聞いてきた。つげ義春のシュール作品に対する山田氏の思いといったものを、原氏が聞き役として受け止めていくといった進行だった。

両氏の体験でもあるが、ダリであったりデルボーであったり、若い頃始めてヨーロッパのシュールレアリズムに出会いショックを受ける。だがなぜその作品に自分が感銘を受けるかは、いつまでたっても謎のままで、この解らないというところにその作品が自分にとって大切なものになっている理由がありそうである。

ところがヨーロッパのシュールレアリズムは、やはり我々日本人にとってはその成り立ち自体がリアルではない。我々は普段の彼らの生活を知らない。もちろんシュールレリストたちもけっして裕福であったとは思われないが、生活レベルでの表現となると、われわれ日本人にとってはどうしてもリアリズムではなく、虚構の上での遊戯に感じられてしまう。

翻ってつげ義春作品であるが、あきらかに貧乏な、拭けば飛ぶような紙と木で出来た家を舞台とした、生活のリアルそのものがある上でのシュールレアリズムである。これこそが伝統的なシュールレアリズムの歴史を勉強していても得られない、つげ独自の世界であり、われわれは始めて日本人の生活感に密着したかたちでの無意識を見たのではないだろうか。

無意識というものは無意識故にわからないというのは当然だが、だからこそ作品はわからないままに意味があって、わかってしまえばそれは意識となり作品の魅力は失われてしまう。無意識のわからなさをそのままに漫画として意図的に表現し得たつげ義春の作品世界が、いかにすぐれているかわかるというものである。

というような結論が導きだされた濃密な時間だった。ように私は思った。

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後藤さんの「アニタ」の中でカラスがでてくるが、こいつが人間の味方で、なんとなくワクワクしてしまう。逆柱さんは同じ線の太さで人物も背景も処理できていてうらやましい。相変わらずカッパがいい味出してる。話がたのしみだ。具伊さんはリアルが描ける人で、演劇の話より巻末の介護施設の話が好きだ。おおいに楽しみだ。菅野さん「筋子2」はいつもどおり?死の影が漂う。これだけ死の臭いがする漫画は「筋子」以外に無い。おおいに楽しみだ。
わたしの短編もよろしくです。

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77年春、神経症で人格障害の孤独な毎日だったが、ある日ふと思い立ってひさしぶりに調布の鈴木翁二さんを訪ねてみた。あいにく留守のようでその時はそれで帰り、自分の四畳半アパートでだらだらとしていたその日の夜、とつぜん翁二さんから電話が入った。なんとせっかく描き上げた漫画原稿を飲んでるうちに紛失し、明日の朝までに8ページもう一度描きあげなければならないとのこと。自分は眠かったのでコーヒーを一杯飲んで目を覚ましてから、大崎駅で翁二さんと合流したら「遅かったね」と言われた。

一度新宿かどこかの駅で茶封筒の紛失物がとどけられてないか確認したがムダだった。
京王線で西調布へ。さっそく翁二さん家で作業開始となった。自分はベタやホワイトを手伝い、ところどころ畳の目などを描いたりすると「芸術的じゃないか」などといわれた。お寺の名前をいくつか書かねばならないが、寺の名前知らないか?などきかれた。午前中になると青林堂の渡辺和博氏から進行状況に付いて確認の電話が、おなじみのぶっきらぼうな口調で来る。

やがて原稿完成。疲れた体ながら翁二さんを自転車の後ろにのせて駅へ。電車を乗り継いで青林堂へ付き、近所の喫茶店で原稿受け渡しとなったが、翁二さんはこの期に及んでもこの部分をどうしたかったこうしたかったと仕上がりにこだわっている。実は自分がベタを塗り忘れた箇所があり、それは本を読む少年のズボンなのだが、その意味でトレペ上に追加の指示を入れてもらうと、掲載された誌面では少年のズボンは2色刷りのアカベタになってしまった。それが「むべ咲く哉」という短編である。

青林堂を出て、牧神社にいくという翁二さんと別れた。
(無頼派の思い出1は2010/7/14)

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まえから気付いていたことだが、はっきりと自分に該当する病名をみつけた。「依存性人格障害」である。私のように子どもの頃、母親から過保護・過干渉で育てられた人間は、成長の過程で独立した人格を形成できない。どうしても母親に依存した状態で性格が形成される。母親はいつまでも子どもを手放さないので、子どもは心地よい保護された状態に安住し、大人へのステップを登ることができない。これは私が高校入学時にその精神的未熟さ・幼児性のため高校生活についていけず、パニックから神経症への転落というカタチで身をもって経験している。

その後長年の努力で仕事も配偶者も手に入れたわけだが、これで生来の人格障害が快癒されていると思いきやそうではなく、今度は対象が妻というカタチで温存されていくのであった。相手に依存していないと自分の存在理由を確立できないという点では同じで、妻の人生を支えるように寄り添って、頑張ってきたつもりだが、これは言い方を変えればつきまとっている・干渉していることと同じだ。つねに相手の気に入るように自分の欲求をも合わせて、相手から見放されることを異常に恐れているのである。

そんな私であるが、現在妻は双極性障害のため別宅にて静養中であり、鬱状態の時にはろくにコミュニケーションがとれない。そうなると私は「見捨てられ恐怖」に陥ってしまい、孤独と不安感でおろおろとするのであった。

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