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漫画家まどの一哉ブログ

   

読書

「ミクロメガス」 ヴォルテール 作

フランスの啓蒙思想家らしいという知識しか持っていなかったヴォルテールが、こんな面白い小説をたくさん書いていたとは知らなかった。いずれも風刺と諧謔の楽しさにあふれた主知的な道楽のような作品で、自分の趣味には合う。

「メムノン」:メムノンはある日、これからは過度の欲求を禁じ、心静かに暮らす事が人間に幸福をよぶことに気付きさっそく実行する事にした。おりから往来で悲しむ女性に出会い同情し、その女性の家までついて行って身を寄せるほどにして慰めていると女性の夫が現れ、殺されるかカネを出せとすごまれるのだった。その夜は友人に誘われ、ほどほどにしておくならば良かろうと思いながら、べろんべろんに成る程酔っぱらってしまい、おまけにちょっとだけのつもりの博打で一人大負けし、ケンカで片目を失うといった悲惨な目に。博打の負けを支払うため翌日銀行にかけつけると偽装倒産していて街中大騒ぎ。あわてて君主に請願状を出すものの担当者は銀行家の味方でしかなかった。あわれメムノン。 そこへ6枚の羽を持ち、光り輝く頭も足もない守護霊が現れるのだが、そいつは常に見守っているだけで何の役にもたたないのだった。

「慰められた二人」:わが身の不幸を延々嘆き続ける貴婦人。哲学者は過去のもっと不幸な女王や貴婦人たちの例を話して慰めようとするが、いっこう泣き止まない。翌日哲学者はあわれにも自分の一人息子を失って気も狂わんばかりに嘆いていると、昨日の貴婦人が現れ、自分の息子を失った国王たちの一覧表を見せるのだった。

「ミクロメガス」:シリウス系星人のミクロメガスは土星の住人と連れ立って、小さな惑星地球へ旅してみると、その星はあまりに小さく、36時間で一周してしまった。足元の水たまりになにか蠢くものがいるとすくいあげてみると鯨だった。顕微鏡で覗いてみてはじめて人類らしきものを発見するが、まさかこんな小さなダニみたいな連中に魂や知性があるとは思いはしなかった。ところがその小さな生物がなにやら言葉を喋っているのに気付く…。

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読書

「逃げてゆく鏡」 ジョヴァンニ・パピーニ 作

やはり自分は人生や青春を描いたものより、ふとした怪奇や奇想・幻想を使って世界を切り取ったようなものが好きだ。しかし書店や図書館の棚ではけっしてメインではない。謎に答えのあるミステリーではないからだろう。1992年にボルヘスの選で発行された懐かしの「バベルの図書館シリーズ」よりパピーニ(1881〜1956・イタリア)の短編を読んだ。

「泉水のなかの二つの顔」:廃れた庭園のなかの死んだ泉水。7年ぶりにそこを訪れたわたしは、覗き込んだ水面に、もうひとり若き日の自分が顔をならべているのを見た。以来7歳若い自分自身と行動を共にする。傲岸不遜にも時代遅れの理論をとうとうと並べ立てて陶酔しているこの鼻持ちならない男こそ、若き日の自分自身なのだ。ついに我慢できなくなったわたしは、その若き日のわたしを水中へと沈めてしまう。

「完全に馬鹿げた物語」:ある日突然やってきた見知らぬ男は、自分の創った空想物語をぜひ聞いてほしいと朗読を始めるが、それは不思議にも寸分違わず私自身の半生記だった。困惑と狼狽の極に達した私は、その創作作品を全否定するとともにその男を追い返すが、男はあっというまに川へ身を投げてしまう。

「きみは誰なのか?」:読者や関係者から届く手紙を毎日心待ちにしていた作者。ある日ぱたりと一通の手紙も届かなくなったと思うと、その日から街中のなじみの人々が誰一人彼のことを知らなくなっていた。絶望の日々のさなか、ある夜彼はついに気付いた。「わたしは自分にとって他人が存在しない人間なのだ」その答えを発見した時から彼の日常は回復する。

このような摩訶不思議な小品を読むと、実は作者は自分が存在していることに根本的な不安があるのではないか?と疑わざるを得ない。この不安は自分も根底に抱いているのかもしれない。

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読書

「僕はどうやってバカになったか」 マルタン・パージュ 作

愉快愉快。つねづね多様な学問研究に頭を使い、もっぱら思索にふけって毎日を過ごしてきた主人公は、ある日気付く。知性に縛られて生きるより、バカであるほうがはるかに楽しい。

先ず手始めにアル中になることを目指し、酔っぱらいの指南も受けたが、ビール半分で病院に担ぎ込まれる始末。その次に自殺講座の受講生となったが、自殺方法を学習するや嫌気がさしてしまう。やがて彼は精神分析医に相談に行き、ウーロザックという安定剤の処方を受け、結果人格改造に成功。 大学講師の仕事に辞表を出し、精神を刺激する大量の本を処分。アジアの労働力を搾取する多国籍企業の商品を買わないことやエコロジストであろうとする事を放棄し、初めてマクドナルドを使い、ナイキやアディダスを身に着け、ゲームセンターへ浸るのだった。知り合いの伝手でブローカー会社の社員となった彼は、キーボードにコーヒーをこぼす失敗の結果、とほうもない大儲けの取引に成功し、一躍大金を入手。免許もないのに外車を買い、スポーツジムで肉体を鍛え上げ、とうとうかなりひどいバカになることに成功したが…。

ここで主人公が行っていることは、あらゆる凡人にとってフツーの、いや憧れのライフスタイルだが、少しでも知性や精神性とよばれる怪しげなものを抱えている人間には、身に覚えのあるいささか恥ずかしいおかしさがある。知性ひとすじも確かにバカだが、はたしてこの人格改造は幸福なのか?我々は所詮二股かけて歩いている。

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読書

「ジョゼと虎と魚たち」 田辺聖子 作

文庫本に収録されている短編はどれも三十代なかばくらいの働く女が、相手の男ととの微妙な心の距離感をつぶやいたもので、それなりにおもしろい。たとえば昔の恋人である男や、これから別れようとする男、親戚にあたる十代の若い恋人。みんな侠気を前面に押し出す暑苦しい男ではなくて、どことなくぼんやりしたような、いい意味でスキがある、こちら(女)の気持ちもつい緩んでしまうような男ばかりが出てくる。 熱愛ではなく、これから付き合うのかどうするのか、中途半端な気持ちのままいわゆるまっとうな結婚・子育てから一歩身を引いた女たちの生き方に、そんなんもありかと納得してしまう。

そんな短編群とちょっと違う表題作「ジョゼと虎と魚たち」が、やはりひときわ面白かった。 主人公のジョゼは子供の頃脳性麻痺と診断された脚の不自由な25歳の女。ばあちゃんと暮らしていたが、ある日坂道をジョゼを乗せた車椅子が転がり下りだしたとき、坂の下で車椅子を止めて救ってくれたのが大学生の恒夫だった。 外出が少なく実際の経験もテレビで見た経験もごちゃまぜになってしまうジョゼ。サガンの小説に憧れて自分の名前をクミからジョゼに変えたのだった。 やがてばあちゃんも亡くなり、ひとりぼっちになったジョゼだが、そのころからジョゼと恒夫はほんとうの恋人になった。

身障者であるからなのか、ジョゼが恒夫に下手に出ていないのがよくって、「こら管理人」とか「アホ、死ね!」とか強気に喋るが、恒夫は心のおおらかないいヤツでぜんぜん怒らないばかりか、ジョゼの気持ちを全部肯定してあげるんやな。屈折したジョゼにぴったり寄添っていけるいいやつなんよ。そんなやりとりが面白くて、ジョゼは恒夫が大好きなのに、ふだんは不機嫌な命令口調。恒夫は「なんでこないボロクソに言われなあかんねん」とぼやきながらのドライブや動物園や水族館でのデートが、読んでいてとても心温まる。このふたりの心のつながりが伝わってくる。 同棲している小さなアパートでふたりで寄添って寝ているとき、ジョゼの感じる「アタイたちはお魚や「死んだモン」になっている」という完全無欠な瞬間の幸福観にこころ打たれた。

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読書

「二十世紀旗手」太宰治 作

井伏鱒二のエッセイをいろいろと読むと、親交のあった太宰のことがよく出てくる。太宰が腹膜炎の治療のため使ったパビナールという薬の中毒(いわゆるヤクチュウ)となり、精神病院へ強制的に入院させられたという有名な逸話も井伏のエッセイにあった。そんな太宰の精神がもっとも激烈に揺れ動いていたころの作品群。

激情というものを如実に赤裸々に現そうとすれば、あたりまえの文章じゃだめだ。落ち着きすぎる。アクセル全開なんだから。かつて漫画家の鈴木翁二はその荒々しい描線のいわれを、たぎる心のスピードにペンが追いつかないからと言ったが、小説でそれをやったのがこれらの太宰作品か?

創生記:「われとわが作品へ、一言の説明、半句の弁解、作家にとっては致命の恥辱、文いたらず、人いたらぬこと、深く責めて、他意なし、人をうらまず独り、われ、厳酷の精進、これわが作家行動十数年来の金科玉条、苦しみの底に在りし一夜も、ひそかにわれを慰め、しずかに微笑ませたこと再三ならずございました。」

二十世紀旗手:「さいさきよいぞ。いま、壱唱、としたためて、まさしく、奇蹟あらわれました。ニッケル小型五銭だまくらいの豆スポット。朝日が、いまだあけ放たぬ雨戸の、釘穴をくぐって、ちょうど、この、「壱唱」の壱の字へ、さっと光を投入したのだ。奇蹟だ、奇蹟だ、ばんざい。ばからしく、あさまし、くだらぬ騒ぎやめて、神聖の仕事はじめよ。」

HUMAN LOST:「私は享楽のために、一本の注射打ちたることなし。心身ともにへたばって、なお、家の鞭の音を背後に聞き、ふるいたちて、強精ざい、すなわち用いて、愚妻よ、われ、どのような苦労の仕事をし了せたか、おまえにはわからなかった。食わぬ、しし、食ったふりして、しし食ったむくいを受ける。」

わたしはこれら助詞を省いて音速で駆け抜ける文体を読むと、現代前衛漫画表現の一種を思い出す。それは安部慎一や鈴木翁二ではなく、菅野修の初期作品から発展し、コマを時間にしばらず言葉とイメージを自由に氾濫させたそれである。それにしても太宰のこれら作品群は、轟音であるとともにじつに心地よいリズムに満ちあふれていた。

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読書

「ヴィヨンの妻」太宰治 作

しまった、新潮文庫の「ヴィヨンの妻」収録作は手持ちの岩波文庫「ヴィヨンの妻」と7割ほどかぶっていた。でも読み返した「ヴィヨンの妻」。やはり傑作である。

妻は夫が飲み屋にこしらえたツケとくすねた五千円を返済するために、その飲み屋で働き始めるが、そういった妻の明るいくよくよしない性格がダンナと対照的で、この小説が感じのいいものになっている。 夫の小説家はカネも払わないくせに、だらだらとこの店に編集者や連れ込んだ女たちと飲み続けるが、そのようすが彼女の目を通して、おもわず吹き出してしまう道化者に描いてあるのが愉快だ。 新聞に夫を批判して人非人などと書いてあるのを夫に聞かされ、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」と、さらりと言って終わるところが救われる。

私小説といっても作者自身がダラダラと自分の不品行を語るのではなく、健気な妻の語り口を通してネタにしてあるので、直接作者の内面や苦悩を聞かされずにすむのがたのしい。いまさら自分が褒めるのも恐縮だが、人に読ませるお話としての素材の扱い・調理方法が抜群にうまい。名人だ。私小説だからといって作者の生々しい心情をそのまま皿にのせて出されると、自分などはもう閉口してしまう。まあそんな閉口する作品がそれはそれとしてどんなふうに調理されているか、今後読んでいくつもり。

 

蛇足:太宰を尊敬して描き続けた安部慎一の漫画でいうと、「美代子阿佐ヶ谷気分」は調理されているが、「悲しみの世代」は素材そのままで、自分は「美代子〜」のほうが好きということです。

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読書

 

「脂肪の塊」

モーパッサン 作

 

自分にとってモーパッサンとは、実体験を元に書いた怪奇幻想短編が非常におもしろい作家だが、これは違う。リアルなはなし。

 

「脂肪の塊」:ここで言う脂肪の塊(ブール・ド・スイフ)とは主人公の娼婦のあだ名で、それほどに肥満しているというわけ。

プロシアの侵略から逃れるため、馬車に乗り合わせた一行のなかにこのブール・ド・スイフがいて、職業柄皆からは蔑視されていた。行路が難渋して時間がかかり、全員腹が減ってかなわなかったときに、ただ一人大量の弁当を持ってきていた彼女が皆を助ける。宿で一泊した翌朝、プロシアの士官に出発を止められたのは、その士官がブール・ド・スイフに体を提供するよう条件をつけたためだった。すると一行の態度は一変し、いやがる彼女にぜひとも犠牲になってプロシアの士官にその身をささげ、自分たちを出発させてくれという。あわれ犠牲になったブール・ド・スイフ。彼女はふたたび出発した馬車のなかで感謝されるどころかあらためて蔑みの視線をおくられてしまう。

と、ネタバレ。人間って勝手なものだよ。

 

「テリエ館」:これはある娼館に集まる娼婦たちと男たちのはなしで、館を切り盛りするマダムの計画のもと、ある田舎の少女の聖体拝受式に参加して帰ってくるまでのワイワイガヤガヤを描いた楽しい話。

西洋の娼家というとバルガス・リョサの「緑の家」など思い出すが、映像的にはルイス・ブニュエル監督、カトリーヌ・ドヌーブ主演の「昼顔」という自分の好きな映画作品の記憶を借りてイメージしながら読んだ。

(新潮文庫)

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読書

「ロボット」

チャペック 作

ロボットSFの嚆矢。1920年代の作品ながらロボットという設定がどうしても描いてしまう人間存在や社会と労働の問題は色濃く描かれていておもしろい。

おどろいた事にここで登場する人間そっくりのロボットたちは、機械仕掛けではなくバイオテクノロジーの産物だ。生命に簡単な発達を促す方法で、即席人間のようなものを大量に工場生産してしまう。彼らは感情を持たないし、死さえも恐れない理想の労働者だった。

やがて世界中に広まったロボットたちが人間に反旗を翻し、物語は残された少数の人間たちの末路まで行き着くところは、短い戯曲ながら大きな展開で、現代から見るとお約束だがそんなことは気にならないスピーディーなおもしろさがあった。 世界を支配したロボットたちだが、実はその寿命は20年しかないというところも、現代のレプリカントに受け継がれている設定で、やはりロボットは早死にするか永遠に死なないかのどっちかでなければ、人間の死の問題をあぶりだすことはできまい。

さてロボットたちが生き残ろうと思えば、開発者が残した創成のヒミツを知る以外解決の道はないのだが、その書類も既に灰燼と帰した最後に、愛に目覚めたロボットのアダムとイブが現れるところで話は終わってしまう。どうなりますやら。

自分はSFの黎明期のようなものは好きで、ウェルズはどれも面白いし、リラダンの「未来のイブ」やザミャーチンの「われら」など楽しかったが、その後発達したSFの世界にはどうもついていけないという古い人間だ。えらいすんまへん。

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読書

 

井伏鱒二の歴史小説

 

「さざなみ軍記」:今話題の平清盛ではなく、都を追われ落ちのびてゆく平家の敗走を三位中将の若き息子が書き残した日記。これを現代語訳したものという設定だが、滅びいく者の哀感ただようまことに美しい文章だ。闘って負けるということは死を意味するので、それが全体としての無常観を醸し出しているのかもしれない。そんな中にも、相手の首を腕力でねじ切る剛力の者が登場したり、たぶんに幻想味もあって心地よく酔える。

 

「ジョン万次郎漂流記」:有名なジョン万次郎が漂流してアメリカの捕鯨船に助けられ、日本に帰国後は通訳として活躍するまでを追った一代記。主人公万次郎の明るくポジティヴな性格が絶望的状況から人生を切り開いていくようすがよくわかる。よって楽しさがある。

 

「二つの話」:もし高速で運動すれば時間は逆行するという物理学理論にのっとり、過去へ旅するお話を子どもたちに提供するという設定。SF的理由付けはそれのみで、タイムマシンも必要としない。新井白石に会って、模型飛行機をあげようとする話と、秀吉の聚楽第で茶会準備にこき使われる話だが、歌会で池のカエルを黙らせる仕事が愉快。

(新潮文庫)

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読書

「三位一体の神話

大西巨人 作 

 

これだけ硬派な潤いのない文体で、なぜ迫真のミステリーたりえているのか?大西巨人は不思議な作家だ。とはいえ日本文学史上の巨星であってみれば、自分の非力な読書力がそう思わせているのかもしれない。情感に訴えるところまるでなく、ただただ論理的に細密に事実を繋ぎ合わせ、モザイク的に構成されるこの大西スタイルは、意外にも引き込まれてしまって快感なのである。

遅筆で有名な小説家Aがベッドの上で服毒死していた。実はどうしてもかなわない小説家Aの本物の才能を妬み、また作品内で自身の出自を暴露されることを恐れた小説家Bによる自殺に見せかけた完全犯罪であった。残された遺書の筆跡鑑定でも疑いはかからない。 小説家Aの死後、作品全集を編集する若き編集者Cは、発見された未発表原稿から遺書のトリックを解き明かし、犯人である小説家Bに迫るがついに第2の殺人の犠牲者となってしまう。 しかしこの第2の殺人のとき滞米を装った小説家Bのアリバイは、ある偶然から崩れていくのだった。

作品内ではたしかに創作に対する社会に開かれた作家の姿勢など、テーマを見つけて読むことも出来るが、自分はただミステリーとして充分おもしろかっただけで、それがこの文体で味わえたのだからこんな経験は他にないと思う。

 

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