漫画家まどの一哉ブログ
「老いるということ」 黒井千次 著
古今東西の文学に描かれた「老い」をとりあげて考えたエッセイ集。ラジオ番組で毎回放送された内容に加筆したもの。
はじめに出てくる古代ローマの哲人キケローの「老いについて」は自分も読んでみたが、ここで説かれる老年の落ち着いて満ち足りた境地はあたりまえ過ぎておもしろくなかった。失われた若さに応じて欲を捨て、諦念に至るのを良しとされても、これでは大味すぎるハナシで、われわれ凡俗の身はもう少し具体的な様々の惑いがあるのが実際だ。
「ドライビング・ミス・デイジー」や「八月の鯨」なども自分は未鑑賞の作品だが、人生の紆余曲折を乗り越えた後の穏やかで幸福な老年だ。ある程度の生活費に余裕があって認知症にならない状態であれば、到達は可能かもしれない。
いちばん興味を持ったのが、耕治人の晩年の3部作「天井から降る哀しい音」「そうかもしれない」「どんなご縁で」で、長年作者を支えてくれた老妻の認知症が進んでいく暮らしを描いたもの。有名な作品らしいが自分は知らなかった。
芥川や太宰は若くして老いの物語を書いたが、彼らにとって老年とは確定した人生の最終結果であり到達点であった。また「楢山節考」に登場する老女おりんも、老年の最終形態を既に決定していて、山に捨てられることを望む。比べて耕治人が描いた現在の老年は、終わりの見えない現在進行形というかたちをとっており、この長く続く老いの生き様がやはりもっとも実感として納得できる。以上内容のまま。
「人間不平等起原論」 ルソー 著
さあ今から18世紀の社会思想史を研究するぞというわけでもないし、この世界の名著にコメントできる能力もないわけだが、ルソーやヴォルテールなどこの時代の尖った人達の雰囲気を楽しみたい気持ちがあって、昔買った本を読んでみた次第。
やはりその頃未開の民族が続々と発見され報告されていたのか、そして彼らの生活が昔から変わることなく、不平等が膨らまないままに幸福に営まれていること。この事実がルソーをして、ヨーロッパの現代文明を必然的な進化と考えさせなかった。これは戦争中水木しげるが体験した南の島での現地人との楽園生活とも通じると思う。平和で競争がなく平等で変わらない村の暮らし。
ルソー曰く鉄と小麦に恵まれていたヨーロッパにおいて、他に先んじて文明が発達するのはやむを得なかったとしても、はたしてこの進歩は人間を幸福にしているのか?これは水木さんも再三マンガに描いているテーマだ。
その結論はさておくとしても、ここに敵対するはライプニッツに代表されるキリスト教的オプティミズムであり、我々のどんな社会も結局は神が望んだことであり、結果的には全てが善であるのだ云々。だいたいルソーは被害妄想の人でペシミスティックなおもしろさがあるから、これらの意見とは相容れないでしょう。とは言ってもライプニッツだって愉快な奴かもしれないし、どのみち自分は研究なんて出来る性格ではないから、このあたりはせいぜい道楽気分で楽しみたいものだ。
読書
「脳内麻薬」 中野信子 著
サブタイトルは「人間を支配する快楽物質ドーパミンの正体」。一般的にも有名になったドーパミンだが、生温く考えていてはいけないスゴイやつのようだ。人生に喜びを与え目的に向かって突き動かすとともに、逃れられない依存・中毒をも引き起こす。われわれはどうやらこの報酬系の脳内物質にあやつられて生きているらしい。動物にとってドーパミンが脳内に放出されて感じる快感はなにものにも勝るようで、実験ではマウスは食欲よりも性欲よりも、ドーパミンのご褒美を選んだのだから。
以前仕事で薬物対策のマンガを描いたとき、覚醒剤は脳を変えてしまうので自分の力ではどうにもならないと資料から読んだのだが、なるほど性欲や食欲にも打ち勝つほどの快楽ならば、自身ではどうにもできないわけだ。
ところで昔、「快楽物質エンドルフィン」という本があったが、エンドルフィンも鎮痛作用のある脳内麻薬様物質オピオイドの一種で、ランナーズハイの要因であるらしい。そうだったのか。
本書では薬物ばかりでなく依存症全般に付いてひとつづつ解説してあるが、ドーパミンは他人から承認されることなどの社会的報酬に対しても放出されるらしいから、人生は依存の罠でいっぱいだよ。
「日本人のための世界史入門」 小谷野敦 著
通史としての世界史をあっという間にギリシャから現代まで駆け抜ける入門書。地中海から中国、新大陸までをまんべんなく振り返ると、えてしてメリハリのない教科書的なものになりがちだが、ふんだんに雑学を雑えて退屈しない仕掛けになっている。
素人にとって歴史の楽しみは、やはりドラマを観るように英雄の足跡を追いかけるところから始まる。ところが学問として歴史をやるとなるとそうではなく、キリスト教史や労働運動史・民衆史など非常に細かい話になってしまう。もちろん生産力や生産手段の発達など下部構造なんたらかんたらの話などもあるだろうが、それを理解することだけが歴史を深く理解したというのでは、人間の多様な営みを見失ってしまうかもしれない。
つまり歴史に通底する深い意味が必ずあるかというと、案外そんなことはなくて、歴史とは様々な偶然の連なりであるらしい。たとえば皇帝と王の違いも、はっきりとしたものがあるわけではなくあいまいである。ルネッサンスとはなにかと言われると、おおざっぱに人間主義復活と言えるというだけのことだ。ムリに意味付けすることはないのだ。歴史とはたまたまそうなったというだけのことで、たまたまその時の支配者の性格のせいで、こんな事件が起きたと考えても間違いではない。ブルジョアジーの興隆や労働者階級の発達が、生活や文化に変化をもたらしたにしても、具体的にはそれと矛盾することなく人間の雑多なその場その場のふるまいが、多彩な歴史を繋げてきたのだはないか。
その意味で素人の歴史好きもべつに間違いではないのだ。
「宇宙はなぜこのような宇宙なのか」人間原理と宇宙論
青木薫 著
たまには素人向けの科学読み物を読んでスッキリするのが自分の趣味。どんな分野でもそうだが、専門書は歯が立たないのでこれくらいがよろし。副題にある人間原理というのは、宇宙が人間の存在を目的として創られたと考える宗教的な立場で、現在の一般科学からは最も嫌われる思考法。この人間原理が目的論とは違った意味で近ごろは見直されているというので、興味深く読んだ。
「宇宙はなぜこのような宇宙なのか」という問いかけは、早い話あれこれの物理定数は、なぜそのような数値なのかという問いとイコールであるらしい。そもそもその数値にいろいろなコインシデンス(偶然の一致)があって不思議な気がするのが、この疑問のスタートだったのだ。この問題を人間原理で考えると、宇宙は人間に認識されるために出来ている。あるいは認識する目的を持って認識できる存在としての人間を作り出した。と考えてしまう。なぜ宇宙は人間が生まれるのにちょうど良い環境を作り出しているのか。
ところがこれは観測選択効果とよばれるものの見方で、観測者である人間に都合の良い立場からの発想にすぎない。宇宙がたったひとつであるならば、そう考えるのもムリからぬ話だ。自分はかつて多宇宙に関する読み物をおもしろく読んで、うすうす気付いていたのだが、やはり宇宙は我々が属する宇宙以外にも無数にあるらしい。それならば、我々が認識する主体として存在している、あるいはあれこれの物理定数を持っているのも、たまたまなだけであって、そうではない宇宙もたくさんあるのだ。したがって観測選択効果に惑わされることなく、我々が特別な存在ではないこと。「宇宙はなぜこのような宇宙なのか」も、たまたまそうであるというだけのことだと解るのである。むにゃむにゃ。
読書
「道草」 夏目漱石 作
作者の自伝的小説。幼い頃養父であったが今はすっかり縁が切れている男がふと訪ねてくる。親類のあいだでもかかわらないほうがよいとされる強欲な人物なのだが、主人公は断りきれずに家にあげてしまう。案の定金の無心なのだ。これも主人公ははっきりと断りきれないまま数円の現金を渡すことになる。この関係がずるずると続く。そんな夫の煮え切らない態度を妻が快く思わないのは仕方がない。夫婦はつねに相手のはっきりしない本音をさぐりながら不満をつのらせていて、理解し合うということがない。やがて妻の父親や、かつての養母までも彼の懐をあてにしてやってくるようになる。
書かれていることはこれだけで、人生によくあることの内でもかなり憂鬱な出来事だ。内心を赤裸々に描いた自然主義文学の名作ではあるのだろうが、よくこんな鬱陶しいことをコツコツと書いたなと思う。とにかく他人にとってとても面白いと思える題材ではない。生活の実際的なことにとんと意識の働かない文学者の日々の悩みを描いたのだ。ただこれを無闇に芸術家の魂の問題として納得することは自分にはできなかった。
そもそもすべて主人公に度胸がない故に起きてくる問題であって、最初に腹をくくって嫌なやつにははっきり断ればよい。また、妻には何をしてほしいか、待っているのではなく常に気持ちをオープンに自分から接していれば、夫婦間ももうすこし快活なものになるだろう。ひとえに主人公に覚悟というものがなく、問題に正面から向き合うことから逃げているのがいけない。芸術家だからどうだというほどの問題ではない。私小説の世界には伝統的に破格のダメなやつがいて自分は大好きだが、漱石はちょっと風情が違っていて、ダメ人間というわけではないが、こんな鬱陶しいことを偏執的に細かく書いてしまえるほどにめんどくさい神経の持ち主なのだ。
「イワン・デニーソヴィチの一日」
ソルジェニーツィン 作
もっと悲惨で過酷な囚人の労働現場を予想していたら、なんとも楽しい生活の報告だった。捕虜=スパイという罪名でラーゲリへ送られた主人公はじめ、スターリン時代の虜囚はみな理不尽な理由で収容されているわけだが、たとえば高杉一郎「極光のかげに」のようなものを想像しているとまるで違う、いたって明るい生活の記録だ。
それは主人公がインテリではなく平凡な農民であるからだろう。そもそもラーゲリでの扱いがさほど非人道的なものではなく、屋外での労働が極寒であることは間違いなくとも、死なない程度ではあるし、朝から日暮れまでであるし、レンガ積みの労働現場での創意工夫、人材の適材適所、すみやかに丁寧に仕上げた仕事の喜び(囚人として強制されている労働とは言え、やる気を出して取組めばそれは喜びに変わる)など現代日本のブラックな現場と比べてもたぶんマシなほうではないだろうか。
班行動を基本とした団体生活は、われわれ日本人にとって慣れ親しんだもので、寮生活でなくとも学校現場で幼い頃から鍛え上げられている。全く違和感がない。人徳ある班長のもと力を合わせて班メンバーの利益になるように食堂や仕事場で立ち回る主人公の誠意もよくわかるというものだ。いかにして食事を多く獲得するか、看守の目を盗んで個人用の道具を持ち運ぶか、タバコを手に入れるか、頭は常にフル回転である。
そして就寝にあたって主人公は、「ああ今日もいい一日だった」と幸福をかみしめるのである。
「牡猫ムルの人生観」
E・T・A ホフマン 作
我が敬愛するホフマンの最長編小説。主人公の牡猫ムルは「長靴を履いた猫」を心の師と仰ぐ秀才猫である。オルガン技師であり奇術師でもあるアーブラハム師匠のもとで平和に暮らしているが、生来の知的好奇心と持って生まれた明晰なる頭脳を駆使して、師匠の書棚にある人文書を次々と読破し、自分でも数篇の詩作をモノするほどの英才だ。近所の学究猫グループに入るやたちまち頭角を現し、毎夜屋根の上での交流・合唱にも余念がない。また魅力的な牝猫ミースミースをめぐる恋の駆け引き。憎っくき恋敵との決闘。夭折した親友の葬儀など、その一生が目まぐるしく繰り広げられる。そして友人の尨犬ポントーがムルに書斎とは別の実生活での生き抜く知恵を教えてくれる。この尨犬ポントーたしかに俗物なのだが、ではムルはどうかというと、やはり平凡な知識人(猫)としての枠から出ない凡庸な人物(猫)なのだ。
さてアーブラハム師匠の愛弟子である宮廷楽師クライスラーは、それこそ真の創造性を持った芸術家であり、侯爵家に出入りするもその狂気の一面が人々と相容れないところである。侯爵令嬢ヘートベガはクライスラーの激しい性格に触れるや、精神の平衡を失ってしまって激情と沈鬱をくり返すありさま。友人の美少女ユーリアが寄添っているが、彼女の母親顧問官夫人ベンツォンはクライスラーを遠ざけるため、彼を修道院へ幽閉しようと画策する。これらの人々の間で鍵となるのが不思議な人物アーブラハム師匠なのだ。
というわけで、この小説は猫界の話と人間界の話が交替に出てくる、波瀾万丈、収拾のつかない迷走性を持った物語。訳文ながらホフマンの語り口の上手さにはほんとうに快感がある。
「アダムとイヴ/至福郷」 ブルガーコフ 作
大好きなブルガーコフだが、戯曲を読むのは小説とはまた違って、どうしてもやや大味な感を受ける。内面に深く切り込むような作品でなく、社会の外貌を描くアイロニカルな作風だし、相変わらずとぼけた笑いもあって、いささかコント芝居のような印象を勝手に描いてしまう。ブルガーコフの友人ザミャーチンやチェコのチャペックの例をみても、社会主義黎明期は科学技術の画期でもあったのか、初期SFの設定がおもしろい。
「アダムとイヴ」:敵国の毒ガス攻撃によって一瞬にして壊滅したレニングラード。エフロシーモフ博士の開発したカメラから発する光線を浴びた数人の人々だけが生き残った。残された共産党員代表として統率を図ろうとするアダム。だが唯一の女性イヴの恋心はアダムからエフロシーモフへと移り変わっていく。そんな中、残された者の期待をのせて飛び立った仲間の飛行機が戻ってきたが…。
「至福郷」:天才技術者レイン曰く、時間は虚構で過去も未来も存在しない。この理論を実践するカタチで生み出された時間飛翔機。イワン雷帝を過去から呼び出し、自身は他の人間とともに2222年へとタイムスリップしてしまう。ところがその中に病的窃盗狂のミロフラーフスキーが混じっていた。はたして未来のソビエト至福郷の世界とは?
映画
「パルプ・フィクション」 1994年 アメリカ
監督 クエンティン・タランティーノ
出演 ジョン・トラボルタ、サミュエル・L・ジャクソン、ブルース・ウィリス
ヤクザやマフィアが出てくる映画をあんまり観ていないので、突然銃殺シーンなど出てくるとそれだけでドキドキしてしまう。アウトロー(または刑事)の二人組がたわいのない冗談を交わしながら、緊迫したシーンに臨むのはエンターテイメントの常道であろう。これが人物に必要以上に性格付けしてあるとわざとらしくて見るに耐えないものとなるが、ジョン・トラボルタとサミュエル・L・ジャクソンのコンビは存在が納得できる範囲で良かった。実録ヤクザ映画ならもっとそれもんのアウトローが登場するだろうが、フィクションの場合人物のリアリティがむずかしい。漫画で言えばつげ忠男作品にはリアルなチンピラも出てくるが、いかにも個性を味付けされたキャラクターも出てくる。これが許せる範囲かどうかは、人それぞれエンターテイメントの楽しみ方によって変わってくる気がする。いかにも映画のために作られた人物でも、描き方によって単なるストーリー進行のための道具で終わらない魅力が出てくるのか、リアリズムでなくてもそうなる場合があって、この作品は成功していると思う。
ボクサー役のブルース・ウィリスが、SM嗜好の男達に偶然捕まってしまい、日本刀を持って切り抜けるなど、ふざけたネタ満載だがコントにならないところが不思議だ。味わいというとちょっと違うが、奇妙な空気感があって、大げさに言えば鑑賞してしまう。すべてのドタバタネタが許せる。
ところで以前反薬物依存キャンペーンの漫画を描いたときちょっと勉強したので、薬物に溺れるシーンは怖かった。