漫画家まどの一哉ブログ
「ロレンス幻視譚集」 D.H.ロレンス 作
「チャタレー夫人の恋人」(未読)で有名なロレンスの幻想短編集。
サービス精神旺盛な作風で読みやすく痛快。登場人物も実に大衆的だ。作品によっては詩的な言葉は使っているが過度に観念的であったりはしない。
「人生の夢」:水晶屈で昼寝してたら知らない間に時間が流れ、気がつけば遠い未来世界にというSF作品。この未来社会がオーガニックでピースフルなのだが、全員眠っているかのように穏やか過ぎて、なんとも不気味。
「喜びの幽霊」:さるお屋敷に亡妻の監視を恐れて生きている大佐が寄宿していて、その家のばあさんは心霊主義に凝り固まっている。世帯主の息子夫婦のダンナの方も品行方正だが精神的には金縛りに合っているような状態。そこへ泊まり込んだ主人公が大佐の悩みを解決してくれるといったお話。この主人公がけっこうさっぱりした男なので話がおもしろくなっている。セリフも誰にでも分かる内容で上品な通俗小説といった趣だ。
「島を愛した男」:なんとか小金を貯めて念願の島のオーナーとなり、農場を作り牛も飼い人手も雇って、都会を離れた自然と親しむ生活を実現した。ところが使用人はちっとも彼に懐かず裏切りや災難が続く。島を替えたが、こんどは住み込みの女と結婚するハメになってしまう。理想を失った男は、女を捨てて雪降る北の離島での孤独な暮らしを選んだ。リアリズムに負けて、だんだんと人間嫌いになっていく様が凄まじい。
「タイガーズ・ワイフ」 テア・オブレヒト 作
内戦の様相が深まり、いよいよ国家分裂へと向かうユーゴスラビア。とうとう首都へも空爆が始まる頃、若き医師ナタリアはボランティアで子供達に予防接種活動を行う。まだまだ近代医学よりも迷信を重んじる人々。村に病気や災いが起きるのは、供養してやれない遺骨がブドウ畑に埋まったままだからと信じ、病気の子どもまで駆り出して村総出で畑を掘り返しているのだ。
このナタリアの周りで起きる出来事と、同じく医師である彼女の祖父のエピソードが行きつ戻りつして物語が進む。
祖父が少年時に体験した、動物園から逃げ出して山里に住み着くようになったトラと、虐待されたろうあの少女の不思議な交流。そして青年医師時代に出会った、死者を導く役割をする不死身の男。この男は埋葬された棺桶の中からよみがえり、足に錘をつけて水中に投げ込んでも死なない。時間を越えて生きている。
老若2人の医師が、戦争で激変する社会と、根強く生き延びる伝統的で不条理な世界を同時に体験して生きて行く。土臭くて夢幻的な幻想文学の一級品。
「オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家」ゾラ傑作短編集
エミール・ゾラ 作
世界名作文学全集に必ず入っているゾラ。そのせいか古風なイメージを持っていたが、まったく違って時代性を感じさせないものだった。しかもぞんぶんにエンターテイメント性があって、オーソドックスながらもワクワクとした。観念的だったり耽美的だったりせず、社会派で通俗的な読みやすさがあるが、下品なところは全くないという自分好みの作風。
「ナンタス」では、主人公のナンタスがとある令嬢の子どもをあえて認知する役割をひきうけ、そこから大いに出世する物語。その話のムダのなさ、クライマックスに至る急展開など、手塚治虫作品のようにサクサクと進む。功成り名を遂げたナンタスが令嬢の前に跪き、実はあなたを愛していると大泣きするシーンなどは、まさに60年代の手塚の絵が思い浮かんだ。
「スルディス婦人」は自身も画家でありながら、才能ある画家の夫を世に売り出すため献身する女性の話。夫は天才的な作風を持つが、生活は淫らでだらしがなく、一度評判を取っただけでなかなか仕事をしない。そんなダンナを咎めることなく、納期に追われてしだいに夫の作品に自ら手を入れるようになる。そしてとうとう夫のゴースト画家になってしまうが、あくまで夫の出世が自身の画家としての成功なのだ。この屈折した夫婦。こんな女をよく書けるもんだよ。
さりげない日常などとは正反対の、ひとつひとつ斬新な着想と技巧によって構成された短編集。諧謔味はあるが風刺というものではなく、人生に対する哀感を含んだ奥深いユーモア。解説によるとウモリズモというジャンル名になるのだそうだが、このレベルでそれぞれ違ったアイディアのものを250編近く書いたというから驚く。私でもタイトルだけは知っている映画「カオス・シチリア物語」「旅路」などの原作でもある。
「自力で」:死ぬ方はラクだが残された者の葬儀全般の手間や費用を考えると、おいそれと自宅で死ぬわけにもいかない。そこで主人公が考えたのが、わざわざ墓地まで出向いて縁者の眠る墓の前で自殺するというものだった。
「笑う男」:寝ているあいだ無意識に笑っていると精神を病む妻から難詰されるのだが、本人は夢を見た記憶もなくまったく納得できない。苦難の日常から解放されるため夢の中で楽しい思いをしているのだろうと自分を慰めていた。ある日とうとう見た夢を覚えていたが、その内容のくだらなさときたら!人間がいやになる可笑しさ。
「第三の魔弾」 レオ・ペルッツ 作
新大陸を蹂躙しようとするスペイン人コルテス。祖国を追われる身となったドイツ人伯爵グルムバッハ達は、少数ながらもインディオに味方し、インディオの財宝がローマへ渡るのを阻止するべく活躍する。ところがまんまと手にした一丁の銃には三つの呪いがかけられていた。
幻想歴史小説というジャンルの冒険小説。主人公グルムバッハは戦禍によって潰れた顔の半分を帽子を深くかぶって隠している隻眼屈強の男。敵役には卑劣な軟派美男子メンドーサ侯爵。天然の美貌を誇る野生の美少女ダリラなどエンターテイメントのキャラクター設定も怠りなく冒険は展開する。
主人公グルムバッハは悪魔と契約を結んでいる。そして縛り首となった人物によって呪いをかけられた銃。その一発目、二発目。はたして三発目は?
リアルな戦闘の物語の中に夢幻的な展開が混ざり込んいるという面白さ。
これが純粋な幻想小説として、呪いの銃弾のみを扱った短編であっても充分面白いものとなったであろう。幻想味は全体の3割くらいだが違和感なく楽しめた。
「内地へよろしく」 久生十蘭 作
1944年作品。太平洋戦争中、主人公は報道班従軍画家の青年。赤道を越えて南洋の島々に赴き、物資滞る中でも明るく誠実に生きる人々に出会う。タイトルから全編戦地での話かと思いきや、主人公は早々と内地へ帰ってきて、物語の大半はお見合い騒動を中心としたドタバタコメディである。内地外地ともに登場人物が個性的で、皆善人。人情味溢れる庶民ばかりだ。
そんな内容でありながら、久生十蘭の文章がさすがに密度が高くて面白く、緊張感があって味わいたっぷり。なかでも銚子(外川)の鰹漁師の不良爺さん連のしゃべる方言が気持ちよくってしかたがない。また主人公はじめ昔風の江戸っ子訛りで、こんな口調は今東京でも聞けないだろうが、まことに楽しい。
お見合い騒動も終わって主人公達は連れ立って、またもや南方の戦地へ赴くのだが、以前と違って戦況は熾烈なものとなり、呑気な常夏の暮らしはもはやありえず、島に生きる日本人達は国のために命を投げ出す覚悟で健気に毎日を送るといった描写に終始しているのは、時節がらしかたのないものであろう。
「薔薇とハナムグリ」 モラヴィア 作
シュルレアリスム・風刺短編集という副題。たしかにちょっと不思議なエピソードばかりで、それを読者が納得できないまま謎を謎のままで終わってしまうあたり、シュルレアリスムとよばれてもいいかもしれない。
ただ自分は本来のシュルレアリスムとはこういった作為的な技術を使ったものではなく、作者が意図しないところで幻想的な展開になってしまっているものと考えているので、これをシュールと言うのは少し違うと思う。
表題作などあきらかに動物を使った風刺・寓意小説で、とくにシュールと考えずに楽しめば良い。
パパーロとよばれる投資対象商品で失敗する一家の話は、パパーロなる物がなんなのかまったく解説されない。またお金持ちの夫人達がファッションとして背中に平然とワニを背負っていたりして、これらは意図されたシュール。
薔薇の蜜を好むハナムグリ達の中で、一匹だけキャベツを好むというマイノリティの孤独。来世でいけすとよばれるユートピアに行けると信じられていた蛸の社会。これらは典型的なわかりやすい寓意小説。
古くからある結婚式場で、参加者が次々と天井高く吊り上げられ、どこかへ消えてしまう不思議。島に住む怪物の見る夢のままに暮らしを左右されてしまう島の人々。こういったものは幻想的でよかった。
「彼らは廃馬を撃つ」ホレス・マッコイ 作
1920年代のハリウッド。ダンスマラソンなるものがあって、男女のペアで夜を日に継いで倒れるまで踊り続け、最後に残ったものが賞金を手にするというイベント。実際人気を博していたそうだが、その面白さが想像できない。踊り手もフラフラだろうし、そんなに長時間見ていられるものかな?
またダービーレースも行われ、なんと踊りながらトラックをクルクル周回するのだが、ステップを踏みながら走るのはどんなぐあいなのか?
主人公のペア2人はいつの日かハリウッド映画界で栄光を手にすることを夢見て生きてきたのだが、女の方は既に人生に絶望しており、毎日を鬱鬱と生きる人間。出る言葉は全否定と悪態であり、周りの人間に対する愛想も笑顔もない。この女の存在がこの小説を特異なものにしている。女が希望どおり相方に殺してもらって人生を終えたところから話は始まり、そこへ戻る仕掛け。
全編ほぼダンスのシーンでめったに外へも出ないし、パルプマガジンの作品にしてはまったく解放感がない。苦行のようなハナシだ。
「タルチュフ」 モリエール 作
一家の主とその母親だけが、偽善者タルチュフにうかうかと騙されており、それ以外の家族や縁者はみな冷静にタルチュフの企みを見抜いている。といった極端な設定がなんの経緯も語られずにいきなり登場するのが妙だ。しかし観客にはひじょうに分かりやすい状態で話が展開するので、まあ喜劇にはこの簡単さが必要なのかもしれない。
最後にうまくいくはずだったタルチュフの悪だくみが、賢明な国王陛下の判断によって未然に防がれ、一家は逃亡離散を免れるというところも、自分達を守ってくれる強い権力が大好きな大衆劇の基本か。水戸黄門や大岡越前のようなもの。
当主の妻は、まんまとタルチュフの望みどおりにタルチュフを愛していると一芝居うって、じつは当主はテーブルの下で隠れて聴いている。そんなハラハラドキドキの定番、基本中の基本もちゃんと入ってる。これが喜劇だ。
「聖なる酔っぱらいの伝説」
ヨーゼフ・ロート 作
訳文ではあるけど、ロートの文体はさっぱりしていて、テンポもよく軽快な感じだ。
「四月、ある愛の物語」:主人公の男はアンナという女性となんとなく同棲しながら、郵便局長の家にいる窓辺の少女に惚れ込んでしまい、アンナは平然とそのことを告げられる。
「ファルメライヤー駅長」:田舎の駅長は現在平和な家庭を築いているにもかかわらず、列車事故で助けたロシアの伯爵夫人に心を奪われ、家族を顧みることなく半生を伯爵夫人の後を追うことに費やす。いずれの話もなんとも自分に正直で、うしろめたさのかけらもないことに驚いてしまう。
「皇帝の胸像」:解体された旧オーストリア帝国の事情を知らないで読むわけだが、作中主人公の老いた伯爵は愛国心の名のもとに野蛮化する民族主義を嘆いている。皇帝の栄誉はおくとしても、各民族の自立に疑問符をなげかけるユダヤ人作家の視点は、現在汲むべきところ大いにあり。
「聖なる酔っぱらいの伝説」:寓意小説。住居を持たず河川敷で暮らしていた男に神の恵みか、次々と不思議な偶然がお金をもたらしてくれる。ただしミサのある日に教会で小さな聖女テレーズさまにお返ししなくてはならない約束。最後はちょっと涙するおはなし。手塚治虫でも喜んで描きそうだが、デフォルメしてしまうだろう。