漫画家まどの一哉ブログ
「ハインリヒ・ベル短篇集」
ハインリヒ・ベル 作
戦後ドイツ文学を代表するノーベル賞作家ベルの短篇集。
自身の体験をもとに戦中・戦後の人々を描く。とは言ってもいわゆる重々しい戦争文学とは違い、アイデア豊富でオー・ヘンリーのような短篇らしい短篇といった感触がある。基本的には安定して常識人が感動できる作風で、狂気や逸脱といった面白みはなかった。戦争の傷ましい描写はさすがに迫真性があり、その部分が引き締まっている。後期のユーモラスな作品がよかった。
「ローエングリーンの死」:救急患者として一人の少年が夜の病院に運び込まれた。彼は石炭を盗み出す目的で石炭輸送車に忍び込んで疾走する列車から落ちたのだった。注射でなんとか痛みはやわらいだが、家では幼い弟達が彼がごはんを持って帰るのを待っているのだ。
「ろうそくを聖母に」:戦後の混乱期。まだまだろうそくの需要は伸びるだろうと夫婦揃って製産販売に力を入れたが、あっという間に電気は回復してしまう。途方にくれた夫婦。夫はうまい買取り話を信じて郊外まで出かけたがみたが空振り。しかたなく一泊して小さな教会にたどりついた。そこには…。
「ムルケの沈黙収集」:放送局に勤める秀才青年ムルケ。マスコミ界の大先生の講演録音からある言葉の部分を別の言葉に置き換える仕事を任せられ、大先生に置き換え用の言葉を30回近く録音してもらう。そこでムルケのゆかいな大先生へのいやがらせが始まる。見えたこと聴こえたことのみを順番に描写してあって、シーンの切り替えもサクサクと進み、まるでモノクロ時代のテレビドラマを見ているような錯覚に陥る小説。
「死神とのインタビュー」ノサック 作
戦後ドイツ文学。平易で読みやすいが幼稚でも通俗的でもない、美文ではないが文章を追う快感がある。訳文なので断定できないが名文なのかもしれない。
死神が普通の職業人のように暮らしていたり、作者が自分でこしらえた登場人物に迫害を受けたり、虚実ないまぜとなった幻想味があっておもしろい。
「ドロテーア」:手持ちの時計を高く買い取ってもらうつもりで出向いた家。あいにく主人は留守だったが留守番していた女性はかつて自分が衝撃を受けた絵に描かれていた女性である。ところが彼女は絵のモデルになったことはなく、逆にあなたは戦争中に助けてくれた若い兵士の兄なのではないかと問いただす。自分にそんな弟などいない。それでもなぜかいくつかの符号が一致しているという理由のない不思議さ。種明かしはない。
「滅亡」:敗北に向かって突き進むドイツ。ハンブルグ空襲で焼け出された体験をつづったドキュメンタリー小説。空襲当日ちょうど郊外の一軒家を別に借りて田舎生活を始めていた作者夫婦。トラックに便乗して廃墟となったハンブルグへ帰ってきた瞬間、なぜか「さあやっと本当の生が始まるぞ」といった高揚感に襲われる。彼の妻も逃すことのできない最後の大きなチャンスがおとずれている気がするという。この現実と矛盾する感情はまったく個人的なものなのか。人間は謎だ。
「自由について」 金子光晴 著
実はほとんど触れたことがない金子光晴。それでも窮屈な戦前・戦後の日本社会を自由に生きた日本人の見本みたいなイメージは持っていた。確かにそうだ。
その意味で著者独自のユニークな人生観・社会観を期待したが、このエッセイ集は案外まともだし、これだけ政治社会的な発言を多くした人とは思っていなかった。
戦前に労働者運動に関係するようなことがなかったので、目を付けられなかったのか、敗戦必死の予想と戦争非協力を銃後でつらぬいているのは爽快で、そこが正統な政治批判とは違った魅力になっている。古い日本社会のただ中にいて、その悪弊に染まらないところが痛快である。とは言っても芸術家の床屋政談という風情といえばそんな感じだ。
戦争に突き進んで大敗した日本社会を見抜く目は鋭くて、たしかに間違ってはいないのだが、個人的には別のものを期待していたので、やはりこの老境随想集は脇において自由詩人としての真骨頂は他にあるだろうと予測する。
「三角帽子」
ペドロ・アントニオ・デ・アラルコン 作
「三角帽子」:ファリャのバレエ音楽としても有名な19世紀のコメディ。粉屋(水車小屋)の美人女将に恋した市長。こいつがふだんから豪華な三角帽子を被り、鼬と呼ばれる手下の邏卒を従えて街を練り歩いている。なんとか計画を立て水車小屋夫婦を欺き、美人女将を手に入れようとするが…。
我が儘でアホなエライさんとすばしっこい追従者、服装を取替えて人物が入れ替わったり、市長が女房に頭が上がらなかったり、コメディとしての古典的な設定や展開はあるが、それでも陳腐にならずおもしろい。単なるキャラクターとしての役割以上に人物の言動がリアルなのでニヤニヤしてしまう。さすがによくできている。
「モーロ人とキリスト教徒」:イスラムの民モーロ人が残した財宝の在り処を記した羊皮紙。この文書の解読のため羊皮紙を手渡された人間が次々と裏切ってそれを自分のものとし、最後にお尋ね者が手にして発見者のじいさんのところへやってくる。
だんだんと貧乏でワイルドな暮らしをしている人間に羊皮紙が渡っていくのがおもしろかった。貧しいモーロ人の夫にこき使われながらも信頼を寄せている女房が傷ましい。
「南十字星共和国」ワレリイ・ブリューソフ 作
20世紀初頭ロシア象徴主義運動の指導者ブリューソフの短編集。
幻想文学といえばそうだが、幻想的なイメージ溢れるというほどの味わいはない。耽美で詩的な言葉に酔いしれるわけでもなく、不可解で理不尽な出来事に翻弄されたりもしない。トリッキーなショートストーリーに近いところもある。
夢や鏡をテーマにした数篇は、よくある設定にもうひとひねり加えて面白く作ってあるが、作者の現実主義者の側面が悪夢的な味わいを削いでいる気がする。
表題作「南十字星共和国」は架空の共和国で撞着狂という感染症が流行り、人々は思いと真逆の行動をとるようになって国家が破滅して行く物語。「姉妹」は妻を含めて三姉妹全員と性愛関係を深めるようになった男が逃げようとして逃げ切れず、舞い戻ってきて悪夢に襲われる話。「最後の殉教者たち」は革命政府に抵抗して集まった宗教者達が殺される中でも互いに身体を求めあっている話。
いずれも面白いがなぜか一直線の構成でひねりがなく、事態がだんだんエスカレートしていって、まだまだエスカレートしますという展開。直球一本勝負のような小説だ。
「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」
ジュノ・ディアス 作
オスカーはぶくぶくと太った女の子にまるでモテないオタク青年だ。SFドラマやアニメに対する蘊蓄はふんだんにあり自分でも小説を書いている。現実の女性に対するアタックはことごとく撃沈の結果となるありさまで、それでもドミニカの男かとバカにされるくらい、周囲はマチズモに支配されている。そんなオスカーの悪戦苦闘と悲しい結末を中心に、彼の母親やその親などが生きた独裁政権下の恐ろしい社会も描かれる。
私はオタク趣味がないので、SFやアニメのキャラクターやエピソードをふんだんに盛りつけられても特別な感慨はない。対するマッチョ層とオタクとの分かりやすい対比も両極端すぎて他人事といった気がする。それでも主人公オスカーのオタクっぷりのリアルさと語り口のうまさで、面白く読める。
作品を紹介する側からはこのオタク文化の面が専ら強調されているが、それ以外の姉や母親など女達を描いた部分が秀逸だ。
とくに母親の捨て子としての生い立ちから、華麗な肉体を武器として生き抜いていく青年時代。そしてギャングとの悲壮な恋愛など、マイノリティながらも自尊心を失わず毅然として戦い生きていく。そんな母親から全否定されながらも、同じく堂々と我が道を行く姉。いずれもオタク青年オスカーとは対照的な存在だが、こんな強い女達をよく書いたなと思うほど書けている。オタク文化をふんだんに盛り込んだことを標榜しなくても、この女達を描いたことだけで名作だと思う。
「死神の友達」 ペドロ・アントニオ・デ・アラルコン 作
「死神の友達」:本来貴族の胤裔であるはずの主人公青年。悪意の犠牲となって靴職人として世を過ごしているところ、死神が友人として現れその魔力に寄って貴族社会への復活を成し遂げる。長年想いを馳せていた女性とも結婚を果たす。そこまでは納得ずくの楽しいエンターテイメントだが、後半主人公は死神とともに空飛ぶ車に乗って高速度で地球を周回。彼の死の秘密が明かされるとともに、世界は最後の審判を迎える。19世紀小説とは思えない破天荒な展開。
「背の高い女」:街で追いかけてくる背の高い不気味な老婆。こいつが現れると身近に不幸が起きる。この女は現実に存在しているのか?それともオバケなのか?取っ組み合いの格闘をするところなど、やはり現実の女なのだが超人的な能力を持ち、死ぬまでたたってくるという恐ろしい短編。
やっぱ幻想文学は楽しいね。アラルコンもわくわくだ。現実離れした荒唐無稽な話なのに、人間社会のリアリティもあってダレない。そしてニヒリズムでないまでもペシミズムははずせないスパイスですな。
読書
「ロスト・シティ・レディオ」
ダニエル・アラルコン 作
内戦が続く中南米のとある共和国。
戦争で行方不明になった多くの人々。「ロスト・シティ・レディオ」はそんな人々からの捜索願を受け、紹介し、感動の再会までを演出する人気ラジオ番組だ。主人公ノーマはその声の魅力で国中の人々を引きつける女性パーソナリティである。
植物学者の夫レイは研究名目でジャングルに隣接する地方の村に定期的に滞在していたが、反政府勢力「IL」との関係を疑われ、収容所『月』に囚われの身となる。
内戦終了後10年。夫の行方を探し求める彼女の元へ、行方不明者のリストを持った一人の少年がやってきた。リストには夫の別名があり、やがて彼女が知ることになる彼の真実とは?
行方不明の夫との幸福だった日々の思い出が、失われたものとして繰り返し描かれる。この彼女の切なさ。当局の捜査を逃れながらも、潜伏する協力者との接触を強いられる夫。その暗く緊迫した日常。そして村では青年達を筆頭に多くの人間が行方不明となっていく。残された母親や老人達の寂しさと悲しさ。誰の心も安らいでいない。内戦状態であることで作品全体がつらく張りつめたまま押さえられた色調で綴られていく。
出来事を時系列から解き放ち、10年の歳月が行きつ戻りつしながら進行するので、ていねいに読まなければ前後を見失いそうになる。しかし緊迫した状況の中、ミステリアスな仕掛けが少しずつ解き明かされていくのは興奮した。
「友は野末に」 色川武大 作
最後の無頼派といわれた著者の九つの短編と対談集。思い出話や昔話だが、こんなこと小説にならないだろうといった、なんてないことをうまく料理して読ませてしまう。すごく面白いわけではないが通俗小説の風味のようなものがある。
ただ子供のころから学校をサボって、思春期には立派な博打打ちとなっていた人だけに思い出話といっても普通の人間とはちょっと違う。風来坊のような青春だが、肩で風を切って歩いていたような風情ではなく、おびえながら仕方なく人と交わって寂しさをごまかしながら生きている様子だ。そんなすぐにでも折れそうなさ彷徨う心が感じられて馴染みやすい。名作「狂人日記」に繋がるものがある。
巻末の色川夫人のインタビューが、ナルコレプシー症でもあった作者の波乱含みの日常を明らかにしていてわくわくとする。
読書
「一九八四年」 ジョージ・オーウェル 作
全体主義的未来の悪夢をきわめて正確に描いた傑作。私生活のすべてを党に管理・支配され、表面上の服従はおろか内心の自由まで徹底的に剥奪される洗脳プログラム。これがディストピアのお伽噺ではなく、今現在のわれわれの社会に即実行されそうなリアリティを持っているのが恐ろしい。
ザミャーチンの「われら」にほんのりあった芸術性は感じないが、その分全体主義社会に対する理解と認識が半端なものではなく、寓意や風刺というレベルを超えた迫真の背筋が凍る怖さがある。雰囲気優先で書いたようなあいまいなところがない。こんな大きな社会的テーマを徹底して計算された組立てで、あざとさもなく面白いストーリーに仕上げてあるのが信じられない。
途中反政府勢力のバイブルとして書かれた秘密文書がかなり長くそのまま記述されるが、エンターテイメントとしてはいささか苦痛なこの論文を乗り越えて読み進むと、ストーリーは絶望的なラストへ向かって急展開する。本編が終わった後に付録として、物語内で使用されていた言語体系「ニュースピーク」の言語学的分析があるが、ここまで架空の言葉に対して厳密に分析してその設定を楽しむのは、やはり小説と言う言葉を楽しむ分野ならではの仕業で、漫画家ではこうはいかない。