漫画家まどの一哉ブログ
「八月の光」フォークナー 作
主人公の一人とされている若い妊婦が素直でポジティブな明るい性格で、彼女が中心となって展開するのかと期待したが、残念ながらあまり登場しない。やはり主人公である孤児院出身の黒人の血が流れる白人の男が、生まれてから犯罪者となって死ぬまでに物語の大半が割かれており、愛を知らない人生で実に殺伐としたものだ。
そしてもう一人の主人公である教会をクビになった牧師。教会をクビになっても自分が牧師であることは捨て去ることができない。この神との責務を絶対に果たそうとするカルヴァン主義者の精神性はよく分からない。そういえばこの牧師と親しい工場労働者の青年も、土曜日も誰とも遊ぶことなく一人工場で自分に課したノルマを働く非常に内気で真面目な男で、牧師とは似たような人格だ。これが根っからのプロテスタントというものか。
長編小説ではよくあるが、新しい人物が登場するたびにその生い立ちから現在に至るまでを丁寧に追いかけて一章分くらい使う。話に深みが出て当然面白くなるが、ときどき子供の頃はもういいから、今のことを話せよと思ってしまう。多くの人間が登場するが、実に多様な顔ぶれで、貧しい自分の人生経験から彼らの内面を理解することはちょっと覚束ない。フォークナーの中ではこの作品が一番わかりやすく、他のものは多少難解なところがあるらしいが、なるほど王道を行くような人間ドラマで、エンターテイメントとしても遠慮するところがない。
「時間の非実在性」ジョン・エリス・マクタガード 著
永井 均 訳・注解と論評
1908年に発表された時間論の古典的論文。本文自体はごく短いもので、それに対する訳者の丁寧な解説と論評の方にボリュームがある。文庫本一冊の内容はほぼ同じことを繰り返しきめ細かく掘り下げているのだが、正直理解できたかというと怪しい。
A系列という過去・現在・未来のつながりと、B系列という出来事の前後関係。この2種類の時間のあり方が入り組んで現れてくることは、そんなに違和感なく追っていくことができる。
問題は「端的な現在」といわれるもので、意識の内発的な現れとしてそれしかありえない、そうとしかありようのない現在という感覚。未来の想起も過去の記憶も、すべて現在の意識でしかないこの現在と、A系列(過去・現在・未来)との矛盾と言われると、何が矛盾なのか納得できない。
ただ、もし「端的な現在」が記憶や予測を持たなければ、時間という感覚はないかもしれない。それが時間の非実在性を証明するかどうかはわからないが…。
「類推の山」 R・ドーマル 作
昔持っていた白水社の小説のシュールレアリスムシリーズで面白く読んだ記憶があるので、また文庫で読んでみた。
たとえ話の類であったはずのエベレストより高い類推の山。その山の実在を信じて冒険へ旅立つ主人公たち。山は空間の歪みによって普段とらえられない洋上にあり、先にたどり着いた人々が麓に村を作って暮らしていた。村の一員となった主人公たちはいよいよ年月をかけた登山へ出発する。未完。
出発前の未だ計画を練っている段階での、現実の中に不思議な山の話が割り込んでくるあたりが面白い。シュールレアリスムの醍醐味がある。これが島にたどり着いて、閉ざされた特殊な世界に限定されてしまうと、ふつうの幻想冒険文学になってしまって人畜無害感を感じてしまう。悪い意味で安心してしまうのだ。その意味では未完でちょうどよかったかもしれない。
誠実で楽しい文章。付録の覚書は登山に関する名エッセイ。
「魔の山」トーマス・マン 作
世界名作文学。主人公の青年が山地のサナトリウム(結核療養所)で過ごすうちに、次第に成長してゆく様を描く教養小説。ということだが、この教養小説という分野があるとすれば、自分は青年というものを特別愛さないのであまり興味を持てない。
ましてこの主人公は頭は悪くないが、いたって凡庸な男で、加えて無類のおしゃべりであり、黙っていればいいのにというような時に無駄に観念的で追従的な言葉遊びを披露する輩だ。どうにも好感が持てない。
この青年が療養施設でいろんな人間に出会うが、精神的な深みのない人間なので恋のくだりなども全く面白くない。やや面白いのは人文主義者で自由と民主主義に絶対の信頼を置くヒューマニストのイタリア人文筆家で、彼が青年に滔々と教え諭す理念は読み応えはある。
またそのライバルとなる暴力革命によるキリスト教社会主義を礼賛するイエズス会教徒の男は明らかにダークサイドに魂を売っていて、よくぞこんな人物を造形したなと感心する。
しかし総じて納得がいかないのは、小説の中で直接思想信条を語りまくる書き方だ。革命期の社会を舞台にして大きなドラマが動き、その中でいろんな階層の登場人物がそれぞれの立場を表明するならわかる。そうやってより物語も濃密になるから。
ところがこの作品の場合、療養所や散歩道の途中などで座ったままいきなり社会思想の論戦が開始されるので、読者である我々がなぜその話を聞かなければならないか必然がない。これならなんでもアリではないか。
その他、雪山スキーで遭難しかけたり、心霊実験で霊魂を呼び出したり、多少エピソードも盛り付けてあるが、なんでもアリのちぐはぐ感を抱いた。作者は執筆に長い時間をかけ過ぎたと思う。
「クロイツェル・ソナタ/悪魔」トルストイ 作
「クロイツェル・ソナタ」:長距離列車の中で道連れとなった男の打ち明け話を聞くという設定。この男は妻を殺してしまい、情状が認められて無罪となったが、絶望的な思いで旅をしているのだった。ほぼ全編この男の一人語りだが、実際の殺人に至るまでの経過が語られるのは後半からで、それまでは延々この男の恋愛や性愛・結婚に対する否定的見解が語られるのみというあんまりな構成だ。
事件が語られ始めてからは面白く、殺人時と殺人後の心理までしっかりと追っているところはさすがに大したものだ。
「悪魔」:経営に苦しむ若い農場主が、自分を全面的に信頼してくれる健気な妻があるにもかかわらず、農園で働くある女の肉体が忘れられず、理性では太刀打ちできない性欲に苦しんで、あげくに破滅に至るという話。
ストーリーはなんのひねりもないのだが、女のことは思い切って晴れ晴れとした気持ちでいたはずなのに、いざその女を見るとフラフラと衝動に身を任せてしまう恐ろしさ。その辺りは実にリアルだが、これは読む方の倫理観もある。
「精神と自然」ヘルマン・ワイル 著
数学家ワイルの講演録数編。
存在や時間など形而上的な関心はあってもいわゆる哲学書には辟易している自分。しかし数学からアプローチしていれば何かしら発見するところがあるのでは?という思いで読んだ。もっとも数学にはからきし弱いワタクシとしては数式の部分は飛ばして読むのだけれど、講演録であるため数式もほどほどで話も分かりやすかった。これくらいの数式なら誰かに教えて貰えばわかるかもしれない。
実はよく知らない大学者ワイルが活躍したのは、量子力学が花開き実存主義が先端であった時代。ハイデガーやフッサール、フィヒテなどの観念論が紹介されるが、どう読んでも深化しているというより堂々巡りにしか思えない。ところがこれを幾何学のアナロジーとして座標を使って図示されるとやはり何かしら明晰になったような気がする。懐かしの光円錐を使えば時間に対する把握もちょっとだけ日常から離れて俯瞰できる感じがした。
「田紳有楽」 藤枝静男 作
かなり以前に読んで強い印象があったものを再読。
庭の池の底に潜む茶碗や丼鉢が自在に空を飛び、また地下水脈を移動する。はたまた人間へと化身して女を口説き落とす。ぐい呑は金魚と交合して子供を作る。ここまでやりたい放題の小説はちょっとないぞ。読み返してみたがやはりたいへん楽しい。中でも丼鉢が偽坊主とともにかつてチベット近辺を放浪し、日本のスパイにもらわれていく逸話が壮大で夢がある。
弥勒や妙見などの菩薩たちも登場して億万年の時の流れに思いを馳せ、明るい諸行無常・万物流転のようなことを語り合うが、本気でこの作品のテーマとして考えることもあるまい。これは創作上の洒落みたいなものだ。何せ百年二百年の時を超えて生きるやきもの(陶磁器)達の時間感覚だから。
「空気頭」のような奇書ではなく、安心して読める創作童話のような感触。
「カインの末裔/クララの出家」 有島武郎 作
「カインの末裔」:かなり以前に読んで強い印象があったものを再読。
北海道の厳しくも美しい情景描写が実に味わい深く、こういう文章が自分の数少ない現代文学体験ではなかなか得られない。1917年、ちょうど100年前の作品であるが全く色褪せない、時代性を超越した名作だ。
主人公は暴力的な大男で、しょっちゅう怒っていて悪戦苦闘しているが世の中と相い入れるところがなく軋轢が増すばかりでいよいよ破滅へと向かっていく。いわゆる言葉を操る人間が出てこないから人物が内省をしない。知的解釈をしている人間を描くところがなく、悪人だけを丁寧に描いて人間の有様を思い知らされる。
作者はエリートとも言える裕福な階層なのに、よくこんな野蛮で暴力的な人間を描けたものだ。有島は「自然と格闘して支配することに暗く、人間社会と融和していく術に疎い_この主人公は自分のことを書いたもの」だそうだが、それゆえのこの説得力なのか。ならば我らもカインの末裔である。
「白夜/おかしな人間の夢」ドストエフスキー 作
「白夜」:他の作品でも感じたが、ドストエフスキーというのはリアリズムではない。往来でいきなりあった二人が話し始めるのだが、自身の自意識の内容を文学的表現を駆使して1ページくらいにわたって滔々と語る。すると相手もまた同じように1ページ分くらい喋る。リアリズムでいうと普通こんな会話ってないよね。まるで舞台劇を見ているようなわざとらしい表現なのだが、この作品の場合内容が主人公の単なる自意識過剰ではないし、面白いので楽しく読める。悲劇だけど清々しいラスト。
「おかしな人間の夢」:夢の中で魂は宇宙空間を飛び、もう一つの地球へ到着。そこでは自然・宇宙と一体となった邪心のない人々が暮らすユートピアだった。ところが悲しいかなやがて彼らも嘘を知り、科学を知り、我々と同じ苦悩を知るのだった。
宇宙との一体感を理想とする宗教的境地は人類の理想としてよく語られるところ。面白いのはユートピアが南国であり、水木しげる的楽園であるところ。やはり冬を越さなければならない土地では楽園はムリだ。
「桶物語・書物戦争」 スウィフト 作
父親から遺言とともに上着を譲り受けた三兄弟。遺言書に曰くこの上着は長く大切に守り、いささかなりとも手を加えることがあってはならない。当初厳格に父親の言いつけを守り、かの上着を着込んで社会に勇躍しようとしていた兄弟たちであるが、めまぐるしく変わる世の流行を無視していては、とても社交界に分け入って行くことはできず、なんのかんのと理由をつけてモールや襟章など次々と手を加え、上着はあらぬ姿となってしまった。
やがて長男は出世、頭角を現し人々の長となってありえないルールを強要。次男は頑なに本来の父親の言いつけを守ることに帰り、三男は新しい教えの実行者となってナンセンスな修行に励む。
これらはすべて当時18世紀初頭の英国宗教に対する風刺であり、上着こそは新約聖書そのもの。長男はローマ旧教、次男はイギリス国教、三男は清教徒の役割である。本文を読んだだけでは現代の我々にはそんなことはわからないし、解説されたところでなるほどと膝を打って快哉を叫ぶわけでもないが、文章自体がこれでもかというほどの愉快な嫌味の連続で面白くて仕方がない。今日いうところの小説とはだいぶ趣が違うが、スウィフトという人が天性の風刺家であるばかりでなく発想豊かな人であることがわかる。