漫画家まどの一哉ブログ
「戦後フランス思想」
伊藤直 著
(中公新書)
サルトル・カミュ・ボーヴォワール・メルロ=ポンティ・バタイユなど冷戦の時代をリードしたフランス思想家5人の足跡をふりかえる。
実存は本質に先立つサルトルの哲学を紹介されるとなんとも懐かしい気がするが、自分などはよくわかってないにもかかわらず実存主義が好きで、実存という自由であいまいな人間味のある概念に親しみを持つ。
ただサルトルと論争を巻き起こしたカミュの不条理の哲学、不可避である死を決定づけられながらも、抗いながら生きるありかたにも大いに共感を持つ。
ところが自分はカミュの文章が性に合わないらしく、短いものでも挫折したものがいくつかある。ひきかえサルトルの小説作品は絶品と言えるほどのみずみずしさと面白さ。アンガージュマン(政治的社会参加)は結構だが、小説だけ書いていてもらっても充分かまわない。おそらくしだいにマルクス主義を擁護・接近するのも、どことなく希望的な甘さがあって、小説の面白さと繋がっている気がする。
メルロ=ポンティは若い頃「眼と精神」だけ読んだがさっぱり理解できなかった。ここで「知覚の現象学」を解説されるとまったく感心するばかりだ。そしてボーヴォワールこそが今現在も最も必要とされる現役の思想であろう。私の手に余るバタイユも小説は破壊的に面白い。
著者が紹介書・案内書というこの著作は平易で読みやすく、しかも退屈しない筆致でスラスラと読んでしまった。
「鷲か太陽か?」
オクタビオ・パス 作
(岩波文庫・野谷文昭 訳)
韻律の支配を逃れて解き放たれたシュルレアリスム散文詩と短編。
そもそも詩魂のない自分だが散文詩は好きで、散文詩か音楽的韻律に基づいた古典的な詩が馴染みやすい。ところがシュルレアリスム散文詩となると言葉の意味の齟齬につまづいてしまってなかなか素直には読み進めなかった。もちろんオクタビオ・パスの作風に限ってのことだが…。
自分の中のもうひとつの自分に言及する作品がくりかえし見られる。文庫解説によると本来自分の中にいるはずの他者、自我と他者に分裂する以前の本源的存在を取り戻す意味があるらしい。この他者は客観的な社会的存在としての自分という簡単な意味とは違うのだろうか。あるいは自我確立以前の幼児の頃の自分だろうか。
そんなふうに分析するのも野暮なもので「音節的韻律法の体系に対する反逆」自体はまったくかまわない。作者の繰り出すイメージのつながりをどう楽しむか?二度三度読み返す必要がありそうだ。
「塵に訊け」
ジョン・ファンテ 作
(未知谷・栗原俊英 訳)
ロサンゼルスの安ホテルでひたすら小説家を目指す主人公。カフェで働くメキシコ移民の女性に惚れ込み、成就せぬ恋に悩みながらしだいに作品を積み上げてゆく。
今まで読んだ未知谷のファンテシリーズは「ロサンゼルスへの道」「犬と負け犬」の2冊だが、この作品も相変わらず饒舌で痛快で破滅的で面白いことこの上ない。情景や内面の描写に多くを割くことはなく、あってもわかりやすく簡単で、行動と会話で話がどんどん進むところは漫画を読んでいるような感覚だ。
主人公アルトゥーロは貧乏暮らしのくせにたまに金が入ると、いきなり富豪になったような感覚で散財してしまう。釣り銭は受け取らないし、2重3重に料金を多く払って気にしていない。この堅実性のかけらもない性格がさらに話を暴走させる。彼がなぜ教養もないメキシコ娘のカミラに惚れ込んでしまうのかはっきりしないが、彼女よりも突然やってきた大きな傷を負った女ヴェラのほうがずっと魅力的だった。
「なぜって神がどうしようもなくいやらしい詐欺師だから、どこまでも浅ましい卑劣漢だから、あの女をあんな目にあわせた張本人だから。天国からおりてこい、おい神よ、おりてこい、ロサンゼルスの町全体が見てる前でお前の顔をハンマーで叩いてやる、ぜったいに許さないぞ、このあわれでみじめないたずら者め。ーーー」ヴェラの運命と神への怒りはやがて作品へと結実する。
「(霊媒の話より)題未定」
安部公房初期短編集
(新潮文庫)
19歳の処女作を始め、デビュー作「壁ーS・カルマ氏の犯罪」前後の未発表作を集めて作家の原型を探る。
もとより安部公房であるから伝統的な日本文学的情感はないとしても、その描写はまだまだ魅力までには至っていない気がした。安部文学の愛好者であればその端緒と文体が育まれていく経緯を楽しめるかもしれないが、そうではない私には面白さ以前の生硬さを感じて閉口した。
「(霊媒の話より)題未定」:この巻頭表題作が過度に観念的でなく、設定も面白くてよかった。サーカス暮らしを抜け出して安定を得ようと辿り着いたのが、霊媒師のふりをして住み込むというなんとも後ろめたい存在。生活の問題を離れないのが親しみやすかった。
「虚妄」:夫を捨てて別の男性の元へ…。またその相手も顧みずに語り手である自分のもとへ…。簡単に相手を変えてなにも考えていないかに見える女性の周りで、あれやこれやと膨大な憶測を積み重ねていく男の葛藤。彼らの心情に寄り添うことは全くできないが、考え過ぎることの不毛と徒労を感じる。
「キンドル氏とねこ」:未完の小品だが、巻末のこの作品のみが軽妙で読みやすく楽しい。観念的な言葉を弄ぶところは全くなく誰でも読める。多数の読者を獲得できるものへ幅が広がってきた感じだ。
「19世紀イタリア怪奇幻想短篇集」
(光文社古典新訳文庫・橋本勝雄 編・訳)
あまり盛んでなかった19世紀のイタリア幻想文学。知られなかった作品に光を当て、その魅力を探り出す。
全9作品中、アッリーゴ・ボイト「黒のビショップ」だけはどこかのアンソロジーで読んだ記憶があるが、他は珍しい感触を得た。どこのどの時代でもそうだが、典型的な怪奇幻想とは外れたものが面白い。
「黒のビショップ」アッリーゴ・ボイト:どう教育しても所詮知能が低く、乱暴者で動物に等しいとされていた黒人たち。その中で珍しく優秀さを認められ重用されたトム。とあるホテルロビーで、チェスのチャンピオンであるアメリカ白人アンダーセンとチェスの死闘をくりひろげることになるが悲劇的な結果が待っていた。怪奇ではないが捨てがたい名作。
「クリスマスの夜」カミッロ・ボイト:ジョルジュは亡くした恋人エミリアの面影が残るお針子の跡を追いかけるが、ほんとうに彼女はエミリアに似ているのだろうか?そしてその人格はエミリアに比べると…?美しいロマンスのまま終わらない珍しい話。これも幻想文学かも。
「夢遊病の一症例」ルイージ・カプアーナ:ある屋敷で起きた大量殺人事件をめぐるミステリー。ところが主人の夢遊病下に書き残されたメモに、知らないはずの犯罪の一部始終が…。これぞ理性的視点で書かれた幻想味なき幻想文学の醍醐味。
「独裁者の学校」
エーリヒ・ケストナー 作
(岩波文庫・酒寄進一 訳)
次々と用意される大統領の影武者。真実を隠蔽して引き継がれる独裁政権の滑稽を描いた傑作戯曲。
知らなかったが児童文学作家として有名なケストナーは劇作家としても数々の仕事をしていて、短いながらも着想が面白く予想がつかない。ヒトラーとナチズムを風刺しているのだが、直接的なパロディではないので薄っぺらなものではないし、政権逆転して民主化されるはずが裏切りにより変質してしまう展開も手がこんでいる。
大統領の替え玉はみんな一般市民であり番号で呼ばれている。ラジオ放送を利用してあたかも大統領の演説と歓喜する群衆が存在するよう演出されている。また、録音されたものを使っているので反対の叫びも放送時には国民に届かないなど、発想が豊かで楽しい。笑えるコメディではないのだが親しみやすいところは、児童文学作家の持ち味かもしれない。
「同調者」
モラヴィア 作
(光文社古典新訳文庫・関口英子 訳)
少年時より動物虐待や武器・銃器への執着など異常な衝動を覚えていた主人公。殺人経験を経て成人し、以降はごく普通の一般人として生きることを目指すが‥。スパイ小説でもあるスリリングな長編。
銃に憧れる主人公少年の異常で残酷な性癖。そして少年愛を捨てられない元修道僧の男との出会いと殺人。この長い長いプロローグの破滅的な面白さ。どうなることかと期待して第一部へ進むと、成人した主人公は公務員として働きながらひたすら平凡で罪のない一般人として生きることを目指しており、なるほどそれだからタイトルが「同調者」なのかと納得する。
こうなってはプロローグでの興奮はどこへやら。がっくりするほどつまらない。ところが流石に作者はこちらが飽きそうになったところでちゃんと事件を用意してくれるのだ。主人公の職業はファシスト政権の諜報員であり、密かに暗殺活動の手配が命じられる。話は凡庸で馬鹿な妻とのハネムーンとともに進行する。
反ファシズム学者や同性愛婦人など様々な人物が登場するが、肝心の主人公は至って冷静な平均人である。最初の異常な人格設定はどうなったのだろう。また彼は妻のような凡人にも過酷で劇的な人生体験があることに思い至らない。そしてうわべだけ凡人の生活を続けていても、ほんとうの恋情は妻以外の女性に対して容赦無く燃え上がり平凡な生活など破壊してしまいそうになる。
それでも彼の人生は平穏なまま進行し、ファシズム政権の敗北と共に政府側の役人だった人生も終わるのである。伏線を全て回収する形でオチをつけてあるのがやや無理矢理な気がするが、ドラマとしては面白かった。
「キャラメル工場から」
佐多稲子 作
(ちくま文庫)
戦前から戦後、長き昭和の時代を休みなく描き続けた短編の名手、佐多稲子の佳作16編。
あいだに戦争を挟む激動の時代であることもさりながら、少女時代からの労働、早婚、離婚、労働運動、戦地体験など、激変する人生が多彩な作品たちを生み出している。実体験をもとに忠実に書き起こされたものでも、けしてルポルタージュではなく小説としての名品の味わいがある。あくまで社会の中の自分や人間たちを見ている社会派小説。とくに女性ならではの労働・子育て・創作活動・社会運動の現場がありありと描かれて興味深い。
「女作者」:一世を風靡した女性作家は上海で一人変わらずに派手な生活を続けている。そのプライド高き生き様を見る。田村俊子がモデル。
「虚偽」:戦争反対ながらも作家による戦地ルポに参加し、結局戦争協力者になってしまう自己欺瞞を省みる。
「かげ」:料亭できびきびと働き常連客にも好評な女性。30歳になるも良縁を断る。彼女がかかえる影の正体とは…。
「疵あと」:労働運動時代に知り合っていた女性。夫を亡くしたあと子供達を育てるため故郷銀座を離れ、信州上田で暮らしていたが、彼女はかつて警察から性的拷問を受けていた。
他にも戦時体制になだれ込んでいく市井の人々、特にカフェや旅館で働く女性たちの怒りや悲しみをとらえた秀作が胸を打つ。
「海に住む少女」
シュペルヴィエル 作
(光文社古典新訳文庫・永田千奈 訳)
孤独と悲しみに彩られた大人のためのメルヘン。
詩人の書いた短編小説。とはいっても彫琢された美文ではなく童話のようなやさしさ溢れる文体。社会や人生に対するアイロニーはなく、人間の悪意や寂しさがそのままに描かれる。空想的設定は自由すぎて短編小説の約束も意に介さない、まさにこれも散文詩なのかもしれない。
「飼葉桶を囲む牛とロバ」:幼児イエスに寄り添うマリアとヨセフ。そして見守る牛とロバ。ロバはやや自惚れた自信家だが、牛はほんとうに純朴な優しい自己犠牲的な性格。イエスを驚かせまいとひたすら身を引きながら、それでもかぎりを尽くしてイエスを守る。牛のあまりに悲しい生き方に涙。
「ラニ」:断食に耐え抜き部族長となったにもかかわらず、顔にひどい火傷を負ってしまった男ラニ。恋人や村人に避けられながらふしぎな力を身につけ、孤独と悪意の只中で生きる人間となる。これも復讐のようなものか。
「足跡と沼」:小間物の行商人は農場主の案内で納屋に商品を広げて商売を始めるが、不機嫌な農場主によって殺されてしまった。犯罪の証拠は農場主によってひとつひとつ隠滅され、誰にも見られていないはずなのに警察に捕まってしまう。いったい誰が犯罪を見ていたのか?これこそが詩だ。
「フォンタマーラ」
シローネ 作
(光文社古典新訳文庫・齋藤ゆかり 訳)
じわじわとファシズムへ進むイタリア。貧しい山村フォンタマーラの住人たちは資本家にまんまと水利権を奪われ、自作の作物を高く買わされ、法律も改ざんされて抵抗もできない。果たして残された手段は?
ものを知らないとは恐ろしいことで、素朴なままの村人は白紙委任状にこぞって署名してしまう。町からやってくる人間の喋ることはわからない。紙に書いてあることでまた新たに税金を取られるのでなければよしと考える。
結果、畑に必要な用水のほとんどを資本家の土地へ奪われるわけだが、用水を四分の三ずつ分け合うと言う理屈に納得してしまう。計算もできないようではとてもじゃないが資本家に太刀打ちできない。
知らない間に進んでいくファシズムと一体となった資本家の横暴。追い詰められていく村人の様子は、どの国の人間にとっても他人事でなく、事態に納得しながら読める。常に抵抗の先頭に立ってきた主人公格の男べラルドが、いざという時に私的人生の幸福のみに邁進して、挙句の果てに絶望するドラマの面白さ。あからさまな風刺小説ではなくカリカチュアでもない。しっかりした社会派文学の佳作だ。